第一撃 場所も季節も間違って狂い咲く花
ボォンッ。
川上から、小さな爆発音。思わず振り向く僕。動きに合わせ、白い息が宙を踊った。
壮年の男、ガズが、氷に覆われた大河に横目を向ける。僕の隣で前を向いたまま、
「雪解けだ。そろそろ夏だな」
さっきのは、遠くで、氷が溶け落ちた音だ。
近いうち、水が押し寄せ、川は急ぐように流れ出す。
氷は水晶みたいな流れと戯れながら、海へと旅に出るだろう。
「北の夏は短い。時折、夏と呼ばれる季節は幻だったんじゃないかって、思ってしまいます」
僕は雪焼けしたガズに目を戻した。
浅黒い肌に、深いしわが刻まれてる。
ガズは、北境辺土の原住民であるソマ人だ。顔立ちも体格も僕と違う。
足元の影の大きさなんか、子供と大人の差があった。彫りの深い厳粛な面は、常に祈りの言葉を唱えてるみたいだ。
「お前の旅立ちまであと十日だ。それまでに氷が溶けてりゃ、嫌でも夏を体験できる」
北の夏は、早足にやってきて、逃げるように去る。
去年を思い出し、頷く僕。
鷹めいた眼光をひからせ、ガズは髭の奥、低くこもった声で言った。
「この六年で、すっかり土地の人間だな、キヨタカ」
「まだまだこの辺りの光景は、見飽きません」
「しかし、ここもお前には旅の途中の、休憩所にすぎん」
手厳しい指摘。僕は頭を掻く。
見抜かれたとおり、放浪に騒ぐ虫が気流に乗れば最後、僕はもう地に足がつかない。
「今度は、鳥の賢者の伝承を追うんだったな」
「赤い目の梟を連れた予言者で、西海へ旅立った…随分昔に繁栄した文明の生き残りと古老に聞きました。どんな足跡を残しているのか、楽しみです」
「くだらん。過去や未来がなんだという。たましいが語る言葉を無視してなにを知ると言うのか」
荒い鼻息を吹くガズ。
シュロス樹の森を横切ってくと、樹上性蘚類が衣か毛皮みたいに木々を覆ってた。
足元を、ユキリスが大急ぎで駆け抜けてく。
「ヒガリ国の連中は、そこが分かっとらん。いや、国持ちの連中は皆そうだ。自ら目隠しをして、真実から迷子になっとる。望んで、しているか?」
「必要だったんでしょう。この土地が手付かずのままなのが、今となっては不思議です」
「住みにくいからだろう。ふん、まあいい。ヒガリはどういう国だったか…頭は国守って呼ばれてたっけな?」
ガズにかかれば、一国の主も盗賊の首領同然だ。徹底して見下してる。
大地を人間程度が支配できるはずないってのが、ガズの言い分。
僕はもう何度目になるか知れない説明を穏やかに繰り返す。今回も、また忘れ去られると承知で。
「ヒガリ国は、三州八藩に分割され、州王・藩主が治めます。彼らの頂点に立つのが国守ですが、彼は象徴ですね。国守と崇められる血統が持つ力は政治力・軍事力でなく、別のものなので」
言えば、珍しくガズが反応。
「ガシャグの洞を閉じる力だな」
「ガシャグの洞?」
「お前たちが、蔵代と呼ぶアレだ。ヒガリはガシャグの洞が多い。ゆえに、紡ぎ人も。まったく、適当に積み上げた積木みたいに脆い国だ。一突きで全壊する。天地もろとも」
「脅さないでください。あそこには、姉と姪っ子・甥っ子がいるんですから」
「捨てたヤツが今更何を言う」
「彼らへの愛だけは誰にも負けません」
「伝えなければ意味がない。薄情者らしく、先に自分を心配しろ。旅に出るのはいいが、例の病は考慮しているのか?」
「なるようにしかなりませんよ」
「ふん…お前のあの病、な。クワラに入ったせいなんだろう?」
また、聴き慣れない言葉。僕は首を捻る。ああでも、一度は聞いたような…、
「クワラ…ああ、夢蔵ですか。そうですよ。あまつさえ、太刀を振るいました」
「聴くだけで鳥肌が立つ話だ。だが、キヨタカが受ける痛みは、もしかすると、救いを求める声じゃないか?」
「救い?誰がですか」
「おそらく、クワラに棲む、偉大なるたましい。いのちが頼る何か。それが」
「僕らは赤闇の呪いと呼んでいますよ。これは、禁忌を犯した罪人の証です」
雪面についた熊の足跡に、僕は銃剣を担ぎなおす。
「リュシャスのところへ行くんですよね?では、ここでお別れです」
分かれ道で立ち止まる僕に、処置なし、と言った態で、ガズは首を振った。
「まあいい。オレは明日から狩りだ。一ヶ月、戻らん。達者でな」
「はい、ガズ。お元気で」
「おう。…ん?」
踵を返しかけたガズ。が、とちゅう、しゃっくりをこらえるみたいな顔で僕に向き直った。
視線は、僕を素通り、慎ましい僕の家に向いてる。
ガズが腕を上げる。熊なみに立派な指が、僕の背後を指した。
「ありゃなんだ」
ガズに警戒はない。
あったのは、戸惑い。目にしたものが何か判断を絶したような。
沈毅な皮肉屋には珍しい。
歴戦の狩人たる彼を、迷わせるものってのは、なんだ?
首を傾げるついでに、振り向く僕。
――――刹那、時間が呼吸を止める。
結論から言おう。いたのは、少女だ。が。
畏怖に痺れ、僕は目を見張った。
陶器のようにすべらかな、ぴんと張り詰めた象牙の肌に、木々の枝を通った光の斑が落ちてる。濡れた黒い花のような瞳は、心の底まで染め抜きそうな青空を見上げてた。
非常識なうつくしさは、この世と絶対的に断絶してる。
大気が、彼女を中心に巡ってた。引きずり込まれそうな濃密な流れだ。
僕は、獣の王、もしくは神韻漂う大樹が放つ、無視できない磁場みたいなものを想った。
ガズが、冷や汗しぼるみたいに呟く。
「マガホロガミ、か?」
ソマ人の古い信仰の精霊の名。まさしく。僕もそう思った。
風もまっすぐ通らない森の中、精霊が迷い込んだのか、と。
ところが、だ。首から下を見た僕は面食らう。精霊どころか、着ているのは。
「ヒガリ国の着物…?」
帯に袴、脚絆、羽織の上に、羽毛服を引っ掛けてる。衣類だけ人間くさいのが、激しく違和感だ。同時に、取り返しつかないくらいの不安がこみ上げてくる。
どう見たって人間なのに、ヒトの領域を軽々超越してしまってるのが、たまらなく不吉だ。
場所も季節も間違って狂い咲く花に似てる。と。
彼女の視線が、ふらり、泳ぐ。瞳が僕らを映す。
とたん、半ば眠るようだった目が、まんまるになる。
僕を見て、散歩の途中、狼と鼻面つき合わせた野兎みたいに硬直。
…ん?
その反応に、眉根を寄せる僕。胸の奥、埃をかぶった思い出に、遠い面影が掠める。
見たことが、ある?まさか。
記憶に意識を凝らす僕。
その間にも、少女は気後れしたように後退。とたん。
よろけた。
と思ったら、踏ん張る。息詰まる均衡。
が、努力むなしく、体勢は崩れた。
見る間に、後頭部が後ろの大樹に激突。
跳ね返り、ふらつきながら、前へ数歩戻った少女の頭上に。
――――ドサドサドサッ!
雪が落ちた。叱りつけるみたいな勢い。たちまち、首まで埋まる。枝が抱いてた雪だ。
隣のガズは茫然自失。
厳しい北境辺土育ちの彼は、こんな自滅的間抜けさを目撃したのは生まれてはじめてに違いない。
フォローも忘れ、心で唸る僕。まさかそんな。どうして、彼女が。
また、相手のまんまるい目が僕を見た。次第に上目遣いになる。
はにかみ、そして、呟き。
「埋まった」
間抜け面寸前の笑顔。
とたん、僕の中で、過去と今を繋ぐ糸が、つながった。
たちまち、僕の胸から喉にこみ上げたのは。
「ぶははははははははは!はーっはっはっはっはっ!!」
爆笑の渦。
笑い死にしそうになりながら、雪達磨になった彼女に近付く。
突如、家の中から、本棚でも倒したみたいな足音がして、突風の勢いで戸が開かれた。
「清貴かっ?おっせーよ、どこ行ってたんだ…ってーか、なにそれー!」
はしっこい猫みたいに飛び出してきた奴が、即席雪達磨を指差す。
雪達磨は恥ずかしそうに笑った。
「ははは…っ。た、ただいま帰りました、北斗」
飛び出してきた少年に、僕は片手を挙げて挨拶。雪達磨に目を戻す。
「に、しても…落ちてきたのが雪だけでよかった。枝までぽっきり折れて落ちてきてたら、ヘタしたら串刺しですよ」
覗き込めばきれいな顔が、しゅん、となった。
「ごめんなさい」
彼女の頭から雪を払って、僕は、立ち尽くしたガズを振り向く。
「ガズ!紹介しますよ、この子が僕の姪っ子の、月子です。…月子、彼は狩人のガズです。とびきりの腕を持っているんですよ」
雪に埋もれたまま、頭だけ動かし、挨拶する月子。
ガズは、離れた位置で、大きく手を振った。そのまま、夢から覚めたみたいに頭を振りつつ、道の向こうへ去ってく。
肩に引っ掛けた銃剣を置いて、僕は本格的に月子を掘り出しにかかった。