第六撃 神の求婚だよ
辰巳は背後に手を突いた。
「それで?どうする、取りに行くか」
時雨のことだ。頷く僕。
「はい、今夜にでも」
「なら、泊まってけ」
「いいんですか」
「清貴一人なら追い出すが、子供が一緒だったろ。しかも、てめえがあんな目向ける相手って事は…身内だな。ああ、皆まで言うな。聞いちまったら、今、家を取り囲んでる気配が黙ってねえだろ」
「ああ、斎門ですね。なるほど、だから聞かれないように小声で教えてくれたわけですか」
今頃気付くな、と辰巳は疲れた声で主張。続けて、独り言みたいに呟く。
「おれは、てめえはとっくにくたばっちまってると思ってたぜ」
「同感です。どういうわけか、生きてますよ」
「身体に赤い花が咲いて、七年も生き延びられるとはな」
そう、七年だ。生き延びた。赤闇の呪いにかかっても。
小さく笑ったそのとき。
「赤い花?」
しずかな第三者の声に、僕らは弾かれたように振り向いた。
障子の向こう側に、立ち尽くしてたのは。
「月子」
被衣を脱いだ少女だ。
障子が開いたことに、僕も辰巳も気付かなかった。
辰巳は、僕が呟いた名に、聞いたこと取り消したいって顔で息を吐く。
廊下から覗き込んでた美里が、片手を拝むみたいに立てて、謝罪してた。月子も謝る。
「勝手に入ってごめん。でも心配だったから」
「…ええ、分かってます」
そこのところは、子供を不安にさせる僕が不甲斐ないだけであって、月子のせいじゃない。
「赤い花って?」
誤魔化しを許してくれない月子の問いに、僕は無言。
とたん、きれいな月子の顔に、険が走った。
同時に、室内の空気が鉛みたいに重くなる。
辰巳と美里が息を呑んだ。水中みたいに、身体が重く、息苦しくなった。
僕は臍を噛む。失敗した。
月子を、怒らせた。
月子の、表情も口調も態度も変わらない。ただ、瞳の奥の色、が。
容赦なく、苛烈。
月子は視線を、辰巳に向けた。
同じ言葉を繰り返す。
「赤い花って?」
「…清貴が、話していないことを話すわけには、いかん」
月子は、耳がないみたいに首を傾げた。
「答えて」
「…っ」
辰巳は月子にがばと向き直った。動けたのは、そこまでだ。よろけるように、片手をつく。おそらく、猛獣に前足で押さえつけられた気分のはずだ。
咄嗟に、二人の間に飛び込む僕。
命令に慣れた支配者の顔で、月子は僕を見下ろす。腫れたように感じる喉から、僕は震える息を吐いた。
「言いたく、ありません」
月子は、何かに耐える顔。我慢する目で、僕を見た。目が合う。刹那。
月子の中で、理性の戒めが振り切れる。
「ごめん、教えて。知りたい。清貴の星に影みたいにまとわりつく死の気配と、無縁じゃないかもしれないし…心配、なんだ」
堪える顔で、それでも月子は追及を止めない。
言いたくない。知られたくない。ただ、その意地以上に、僕は。
月子に、かなしい顔をさせたくなかった。
…降参だ。
観念して、肩を落とした。重い口を開く。
「――――赤闇の呪い、です。七年前の灰垣塚の戦役で…僕は感染しました」
自然と、顔が歪む。
しっかり言葉にすると、余計、心の底まで汚く腐った気分になった。
赤闇の呪いは神の呪い。
いくら僕でも、堂々と告げられることではない。
知られたくなかった。
情けないことは承知だが、泣きたい。
よく人でなしと言われる僕だって、傷つけば泣きたくなるし、苦しければ立ち止まってしまいたくなる。
だけど月子のほうが、僕より痛そうな顔してるから、責められない。
月子が手を伸ばす。僕の頬に、触れた。
呪いが、あるのに。忌避もなく。
「ありがとう、教えてくれて」
月子が僕を苦しめた当人なのに、その温もりに癒される。
矛盾を当然みたいな気持ちで受け入れ、細い息を吐いた僕は、安堵に震える。
やさしい月子の目が、不意に怒りの火種を宿した。
「でも…赤闇だって?他の兵士でそうなったのは聞かない。清貴だけ、選ばれたんだ」
「夢蔵にまで踏み込んだのは、僕だけだからじゃないですか?」
「蔵代でも感染例はあるよ。確実に、清貴は選ばれたんだ。神に。…それって」
座り込んだ僕の顔を上向け、覗き込み、少し怒ったように言う。
「神の求婚だよ」
「…すみません、どこをどうすればそういう結論に」
突拍子もない。
と、思うのに、月子は、空はなぜ青いのか、と聞かれたみたいな顔で、首を傾げる。
「もしかして、知らないの?赤闇の呪いって、毒に触れたって一部では忌まれるけど、実際、神の求婚なんだ」
「そうなの?」
食いついたのは、美里だ。
既に旧友みたいな気さくさで月子は頷く。
「うん。どこから話せばいいのか…。そうだな…この国に住むなら、この国の神がどういう存在か、皆知ってるよね」
それは、改めて口に出すまでもなく当然の質問だった。
皆、頷く。今更考えるまでもない、といった表情で。
神は、夢路の奥に住まうモノ。夢路――――即ち、異界。
かの存在に、意思はない。ただ、在る。
植物のように、無言で成長し、無言で朽ちるような、そんな存在。植物と違うのは、肉体と呼べるものを持たず、総じて、荒らぶる気性を兼ね備えているということ。
放置すれば、甚大の被害を地上にもたらす。
人々が、神を畏怖し、崇め、敬う理由は、丁重にもてなすことで、むしろ、荒らぶる神の気性を鎮めようとしてのことだ。
確かに、その神々が棲まう夢蔵を持つヒガリ国は、いつだったかガズが言ったように、一見ひどく脆い国だ。しかしだからこそ他国は豊かなこの国に迂闊な手出しはできず、危険と隣り合わせだからこそ、国民と支配者の結束は強い。
月子は、考え考え、口を開く。
「蔵代に充溢してる蔵虫だけど――――七年前、灰垣塚に溢れ出た炎の毛皮を持った獣たちだね、あれは、夢蔵の神の排泄物なんだ」
「けど蔵虫は、神って姿には程遠いし、垢って言うには有害すぎるわ」
美里の素朴な言葉に、頷く月子。
「神に肉体はないからね。排泄物って言っても、精神的なものだよ。同時に、神そのもの。その蔵虫が多いほど、神は疲弊してるんじゃないかって、古き人々は推測してた。蔵虫はある種の歪みで、退治すればするほど、神は苦しみの鎖から解放される」
「疲れるの? 神が?」
美里が頓狂な声を上げる。僕も驚いた。初耳だ。
周囲の驚きにこそ驚いた様子で、少し尻込みする月子。おずおずと、
「書物にはそうある。神が助けを求めて、救ってくれそうな相手につける印――――それが、赤闇の呪い。呪いって呼ばれるのは、命懸けでコトに挑むことになるから。でも神は、嫌いだからその印を相手に刻むんじゃない。その逆だよ。だから、求婚。実際に婚礼が行われるわけじゃないけどね。赤闇の呪いを刻まれたことは、武の誉れともいえる。もしかして、巷では違った伝承でもある?」
助けを、求めている?
聞いたことのない説だ。州府に、そんな書物があるとは知らなかった。
しかしそれが真実なら、なぜ、赤闇の呪いは疎まれ蔑まれるようになったのか。
思うなり、すぐさま答えは出た。
あれほど見た目がおぞましく、苦痛しか生まないのなら、不吉と断じられるほうが自然だ。
(ま、当然の成り行きでしょうね、その方が)
なんとはなしに、身を乗り出す僕。つい、確認しないではいられない。
「罰、ではないんですか? 夢蔵に踏み入ったことへの」
月子の、とんでもない言葉に、僕は惑乱していた。
あの激痛が、救いを求める声だというのか?
おいそれとは信じられない。惑う僕に、月子は断言。
「罰? 罰なら、呪いなんてまどろっこしい真似はしないよ。夢蔵の神は、苛烈だ。その場で、殺してる」
他の誰かが言った言葉なら、僕は信じなかった。でも、言ったのは、他ならぬ月子だ。
僕は、月子の言葉を疑う方法を知らない。
僕だけじゃない。月子の言葉を跳ね除けられる相手を、僕は知らない。
それだけ、月子の言葉はこころに響く。
「赤闇の呪いは、解けるよ」
僕は目を見張った。月子は力強く頷く。
「蔵虫を殺せばいい。でも、蔵虫ならなんでもいいわけじゃないと思う。おそらく、七年前の戦役に縁がある蔵虫じゃないかな。心当たりはない?」
あった。僕は息を呑む。無意識に、唇が動いた。
「――――双頭の、狼…」
脳裏に、白い炎の毛皮が過ぎる。そのとき。
「…おかー、さん?」
眠たげな声が響いた。美里の顔つきが、突如変わる。母親の顔だ。
「あ、目が覚めた?」
「んー」
屈んだ彼女の胸元に甘え、小さな姿が現れた。子供だ。五歳くらいか。
濁りなく澄んだ大きな目が、室内にいる僕と月子を映す。
目を見張り、その子は、ぱっと美里の影に隠れた。
そこから興味津々で僕らを覗き込む。
僕は三日徹夜したみたいな疲れた顔になった辰巳を横目にした。
「可愛いですね。息子さんですか?娘さんですか?」
「息子だ」
「ごめんなさい。おとーさん。おきゃくさま?」
しっかりしている。
辰巳が何か言う前に、美里が砂糖でできたみたいな声を出す。
「お客様よ。ほら、ご挨拶」
僕は子供好きだが、この出会いで、意外な事実も知った。
月子もかなり子供に甘い。しかも、あしらいが堂に入ったものだ。
思えば、月子は『お姉ちゃん』である。二つ下には、陣って弟がいる。
陣の面倒も、よく見ていた。周囲は、姉と弟を引き離そうとまではしなかった。
そう言えば、陣はどこまで事情を知っているんだろう?
痛ましい気持ちになる。
辰巳の息子は、すぐ月子に懐いた。子守をしてくれて助かると美里は笑う。
家の奥には、二人目の子供が眠っており、一歳になったばかりの娘は小さな拳をぎゅうと握り締めて、世の苦痛一切と無縁の無垢な寝顔を見せてくれた。
汚れきった僕も浄化された気分になる。
月子は兄妹のどちらも、嫌がるどころか喜んで面倒をみた。
そんな状態だから、
「ちょっと出てきますね」
夕飯の後、僕がそう言いだしても深く追求されずにすんだ。
簡単にいかなかったのは、辰巳だ。
「行くのか」
「はい」
「いくら遅くなってもちゃんと帰ってこいよ」
「分かりました」
「てめえの返事はどうしてこう、信用できねえんだろうな」
「まあ、ウソツキの前科は星の数ほどですから」
「胸を張るな。褒めてねえ。…そうだな、すくなくとも、ちゃんと玄関から入って、ただいまって言え。このくらいはできるだろ?と言うか、子供でもできることだから、やれ」
僕に対する信頼は、子供の半分もない。




