第一撃 曰く、守護の法印
梵鐘の音が、大気を撓ませ、天高くのぼって行った。
同調した心が、蒼穹へ攫われる。
耳にするのは、六年ぶりだ。
過去を取り戻させるような音に、しみじみ聞き入る。
かつて当たり前で、言いかえればどうでもいいものだったのに、胸が疼いた。
とは言え、光景は懐かしい中にもどこか、遠い。
落ちてく砂時計の砂を見るみたいに、確かに動いてるけど、ガラス向こうに隔たれた光景を見てる気分だ。
僕は、露店のボロ椅子に腰掛け、鳥飯を頬張る。
隣では、息継ぎの間も惜しみ、鳥飯をかき込む月子。
見るからに一生懸命。
みっともないというより、非常に愛らしい。
雛鳥を見る親鳥の気分で、微笑む僕。
さすが、育ち盛り。月子の無心な食べっぷりは見ていて気持ちいい。
当然のごとく、僕のほうが先に食べ終わる。
お茶を飲もうと、湯呑みを掴んだ僕の手を、誰かが上から掴んだ。
顔を上げれば、北斗の半眼。
「…で?そろそろ説明しろよ」
「何をです?」
見れば、月子と同じ年頃なのに、北斗の箸は動いてない。
育ち盛り、しかも男子となると、がっつくのが普通だろうに。
つい、顔が曇る。
「それより、おなかに何か入れたほうがいいですよ。鳥飯、美味しいですし。生姜が効いてて爽やかな食感」
「んなのどうでもいいんだよ」
一語一語やけっぱちに区切って、北斗は頬を引きつらせた。
「先に話せ。せっかく命からがら逃げ出した東州に、大きな顔して戻った理由をな!」
そう、僕たちは今、東州にいる。
ちなみに、東州は、飛鳥井・高千穂・朝野の三藩に分かれる。
ここは、高千穂。しかも、州府近くだ。
姉が書いた手紙の文句を思い出す僕。
東州はあてにならない。
別に、東州の人々の不実を詰ったわけじゃない。
単なる事実をだけ述べてる気配があった。
なにより、姉が、東州王個人を信じてないわけがない。
断言できる。
だが。
彼を頼ることは、できなかった。
なにせ、いまさら言うまでもないが、東州王は、…王、だ。
公益のために尽くす存在。
彼の個としての心が何を叫ぼうと、王たる以上、時にそれは圧殺される。
姉はそれを知っていた。
ゆえに。
東州王が苦しまずにすむように、彼には何も願わなかった。
それが、『あてにならない』という言葉になったのだ。
あてにするな、という僕に対する命令に言い換えたほうが、姉の本音に近いかもしれない。
そして、おそらく。
…東州王は、すべて察している。
表向き王として冷酷に動く反面、一人の男として、どれほど彼は苦しんでいることか。
ばかりでなく。
(僕を、妬んでるんだろうなぁ…)
こういった配役になったのは、自分勝手に生きてる僕が世俗のしがらみと無縁だから、というだけの理由に過ぎない。
けどたぶん、逆の立場なら、僕も相手を恨んだろう。
逆恨みと十分承知で。
北斗たちも、ある程度それを察している。
彼らは聡い。
だから、僕を責めてるんだ。
これ以上、東州王の無用の苦しみを生み出すな、と。
僕だって、苦しめたいわけじゃないけど、…どうしても、ここへ戻ってこなければならない理由があったんだ。
どう説明すべきかと思いつつ、ふと月子を見やる僕。
北斗がこうまで怒るのなら、とんぼ返りする羽目になった月子の反応はどうかと言うと。
「ごちそうさまでした」
周囲の喧騒はそよ風とばかりに、満足の吐息をついた月子は、箸を置いて、両手を合わせる。
呑気だ。
いっそ感心するほど。
どう返事をすべきかと考えあぐねてる僕を尻目に、呑気な月子を見た北斗は、餅を喉に詰まらせたみたいな顔になる。
手を離してもらった僕は、ゆっくりお茶を啜った。
とたん、北斗の視線が戻って僕を貫いた。
全部の元凶はコイツだと叫んでる。東州の夏の暑さも僕のせいにされてそうだ。
「清貴、アンタ、月子様に悪影響与えてるだけじゃなくて、分かってて危険に晒そうってんじゃないだろうな…っ」
「悪影響ですか?ありえませんよ。僕は、月子の前ではいい子ですよ」
「二十三の男が自分のこといい子とか言うな気持ち悪ぃ!」
「実際、月子と再会した当日より後は、北斗を蹴ってないでしょう?」
「どういう基準…っ、いや。――――悪影響だよ、アンタに再会するまでは月子様きっちりしてて、ここまで抜けてなかったんだ…!」
話半分に聞き流し、僕は月子にお茶を淹れてやる。
「熱いから気をつけてくださいね」
忠告しなければ、昔から僕が差し出すものには極端に無防備な月子は、きっと火傷する。
「ありがとう」
こっくり頷き、月子は目の前に置かれた湯呑みを突付いた。
温度を確認。熱かったようだ。
そばに引き寄せ、吹いて冷やす。
月子を横目に、北斗は感情抑えた乾いた声で僕に宣言。
「とにかく、東州に入った以上、オレ様たちは、ここで別れる。多田羅様に成り行きを報告しなきゃならない」
月子が顔を上げた。怯む北斗。
北斗には、裏切るって意識があるんだろう。
構わず、月子は人懐っこく微笑った。
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「そんな、もったいないっ! …その、申し訳、ないッス」
北斗は、結局、駒だ。
悔しげに俯いたのは、自分の力では動かせない分厚い壁にぶつかったからだろう。
トンッ。
それまで黙ってた蘇芳が、湯呑みを卓子の上に置く。
蝉の鳴き声がうるさい中にも、蘇芳の視線は霜が降りそうなほど怜悧だ。
端正な姿勢で座し、汗の一つもかいていない。
黙り込んだ北斗に代わって、口を開く蘇芳。
「月子様にとって危険な東州に立ち寄る理由を、自分たちに話さないのは、敵対することが分かっているからか?」
思わぬ言葉に、僕はあっけらかん。
「え? …ああ、違いますよ。東州に来る方が面白いと思っただけです」
北斗が椅子を蹴って身を乗り出した。
「――――アンタなあっ!」
「北斗」
窘める蘇芳。
北斗は荒い息を吐きながら椅子を直す。
周囲の視線を気に止めつつも、怒りを消しきれてない。
蘇芳は責めるでもなく、感情と無縁の声で僕に言う。
「悪趣味な冗談で、まっすぐな人間をからかうな」
「半分は本気です」
「ことさらひけらかすことはあるまい? 一応、東州の状況を話しておこう。東州王はすべてをご存知だが、宰相の意向に従う方針を示された。月子様が東州の地を踏む限りはお命を狙うご所存だ」
蘇芳は、冷静さの奥で、痛ましげな視線を、月子に向けた。
月子は、ちゃんと話を聞いているのか、と揺さぶりたくなるほどおっとりした表情を浮かべている。が、双眸には沈着な覚悟のひかりを灯していた。
首を捻る僕。
色々と疑問は多いのだ。
実のところ、姉からの手紙の内容ともども、質問はぜんぶ後回しに、僕はここまでやってきた。件の黒羽たちとの追いかけっこで、疑問を口にする余裕がなかったとも言える。
そろそろ、少し確認をはじめてもいい頃合だろう。
僕は慎重に口を開く。
「それにしても、なぜ今なのです? 宰相は、月子の存在を知っていたんですよね。十六年も経ってから、月子を狙って動き始めるのは遅いでしょう」
蘇芳の答えは澱みない。
「月子様は、守護の法印で守られていた。御歳十六となられるまで、月子様はそれで守られることを約束されていた」
僕は姉の手紙を思い出した。誰の手の者か、得体の知れない黒羽の風丸も、その言葉を口にした。
曰く、守護の法印。
風丸は、高千穂に入るなり、姿を消している。気配は感じるから、近くにいるんだろう。暗闇の住人たる黒羽は、太陽の下を歩くと肩身が狭いというから、風丸もそうなのかもしれない。
「それは、なんですか?」
「…ふむ。そうか、貴様が知らんのも無理はないな」
喧騒の中、しずかに言葉を紡ぐ蘇芳。
「守護の法印とは、物理的、及び呪的災いを一切無効化する、夢物語めいた術式だ」
僕は目を瞬かせる。初耳だ。
「つまり、守護において万能の力を発揮する術、ということですか?」
難なく頷く蘇芳。
「いかにも。だが、あれは施術者の寿命を削る。しかも、紡ぎ人しか知らない秘中の秘」
「紡ぎ人?」
思わぬ言葉ばかり続くものだ。僕は面食らう。
「権力闘争と無縁でありたがる紡ぎ人の誰が、そうまでして月子を守ったのです?」
紡ぎ人とは、夢蔵の力を引き出し、現に形成さしめ、紡ぐ力を持つ者たち。
即ち、神の力の使い手である。
ところが、人々は夢蔵を畏れ、神を畏れ、禁忌と遠ざける。
よって、その力を操る術を持つ人間は、得体が知れない。
このため、紡ぎ人は常に迫害され、山野に息を潜めてきた。
そんな相手が、よりによって迫害者の親玉の、国守の娘を守るために命を削る?
あり得ない。
それでも、月子は十六年、無事だった。
なら、確かに、あり得ないことは起こったのだ。
月子は、俯いて湯飲みに口をつけた。
蘇芳は、ちら、と彼女を一瞥。目を伏せる。
僕の疑問は聴こえなかったかのように、別のことを口にした。
「過去より、今後のことだが、いいのか?宰相殿を敵に回して」
「月子と離れる方が怖いですよ」
言及をあきらめた僕は、その話に乗った。
ふと渋面になる蘇芳。
「承知だが――――春菜姫のことがあるからな」
突如、蘇芳の出した名に、僕は横面を叩かれた気分になる。
「如月氏の妻、春菜様は、貴様の元婚約者だ。ところが八年前、東州に訪れた宰相殿は、春菜様を見初め、貴様から奪った」
とたん、僕の心が少し沈む。
激しい恋の鞘当があったわけじゃないけれど、まだわずかに心が疼く。
姉が豊麗な月輪ならば、春菜は、春風に揺れる小さな野花だった。
ただし、可憐な外見に反し、したたかで聡く、世渡り上手。
十二で婚約して三年、続いたのはままごとめいた関係。
それでも、初恋だった。
いつだったか、春菜にねだられて、告げたことがある。
「好きですよ」
嘘ではない。ところが、彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「お前なんかどうでもいいって言われた気分」
僕の言葉に彼女が欲するひたむきさがなかったのは、事実だ。
恋に狂った一途さが。
春菜は、心が十あるとすれば、十まるごとを望んだ。七や八では〇と同様だった。
春菜が男に求めるものは、地位と名誉、そして金だった。
ところが、貪欲な彼女は、男の命懸けの愛も求めてた。
白状すれば、僕は命懸けじゃなかった。
僕が全身全霊賭せる相手は、姉と姪と甥の三人だけだったのだ。
横恋慕に等しい宰相の求婚があったとき、だから僕と春菜は、優等生に受け入れた。
僕らの食い違いは、致命的なものだったから。
如月は、冷徹厳格に見え、彼女の無茶な要求に喜んで応じきった。
春菜が死ねと言えば、死んだろう。
一国の枢機をつかさどるほどの男が。
満たされた春菜の目前に、栄達の門が用意された。潜れば、確実な幸福が待っている。
彼女に踏み留まる理由はなく、僕に引き止める意思はなかった。




