序章 自由に、追いつめられる
序章
欲してはならない。
それが、彼の血に穿たれた楔である。
障子を開けた。群青の空が現れる。そこは高欄だった。
彼は足を止め、銀箔を散らしたような星空に目を細める。
とたん、夜空が撓んだ。一拍置いて、大槌で殴るような大音声が、頭上に雪崩落ちた。
制御の取れない騒がしいその声は、鼓膜が痛むくらい饒舌な、運命の囁き。
目がくらむ。意識を閉ざす。音が止んだ。
高欄に手をつく。身体を支え、肩で荒い息を繰り返した。
無意識に、左手が右腕を掴む。肉に指が食い込むほど。
古傷が疼く。毒に痺れて。
残るのは、牙の痕。
最近、生き物のように蘇生し、呼吸のたびに広がり始めた。
正確には、一ヶ月前から。東州王の妻が身罷って後。
膝が落ちた。血が腕を、細い蛇のように伝う。
呼吸が整うのも待たず、彼は爪を立てて床板をめくった。残り少ない理性に追い立てられる。裸の床に、書簡を置いた。上から床板を、丁寧に戻す。
幼い頃、誤って外したものだが、未だ誰も気付かない。これからも、気付くまい。
彼が口を閉ざす限り。
これが、彼が今できる精一杯。
果実が腐るように、彼の肉体は変質しようとしていた。心もろとも。
肩で息をしながら、両目を閉ざす。と。
前触れもない。
突如、閉じた眼裏、果てない光景が吹きぬける風のように広がった。
はろばろと立ち現れる原生平野。分厚い雪化粧。夜空に、激しく舞う天輝。
足が竦んだ。息が詰まる。
どこまでも思いきり駆けていけ、と誘う、豪壮な自然の息吹に。
これは、もうひとつの血脈が見ている光景。待ち人は今、北境辺土か。
彼と違い、待ち人はどこまでも躊躇なく飛んでいく。
北境辺土。
六年前、最強の刀術士が姿を消した場所。この空の下、ただ一人頼るべき者。
彼は震えた。
雄大な光景の中、どこへ行けばいいのか判らない自由に、追いつめられる。
尻込みし、逃げるように瞳を開けた。
瞳に、映った光景は。
見慣れた高欄。
そのことに、泣きたいほど安堵する。
同時に、胸の内を焼くのは焦燥。
早く来てくれ。
望む端から思い出したように打ち消して、彼は歯を食い縛る。
欲してはならない。なにひとつ。
禁忌に心を痛むほど縛しながら、彼は呟きを絞った。
「…花陽」
縋るように、ひとつの名を。