四日目 -102号室 鍛冶場元労-
今日も今日とて朝が来た
烏鳴く何も変わらぬ朝が来た
思い出せぬ朝が来た
果たして今は朝なのだろうか
私が目覚めて早四日
思えば今が朝か昼かも分からない
この部屋には時計が無いから
日の高さを見て判断するほかしかたない
今が何年何月何日なのか分からない
この部屋には暦が無いから
暑いから夏だという判断するほかしかない
そして私は私が誰かも分からない
何故なら記憶が無いのだから
傷の理由も分からない
ここが何処かかも分からない
己が正気を信じられない
己が正常かすら分からない
己は誰で一体なにで一体全体なんなのか
私はそれが分からない
私のことを知ってるモノらは教えてくれない
頭のおかしなヤツばかり
けれどもそのおかしなヤツらの言い分も
少しはわかってしまうのだ
ああ ああ そりゃ そりゃ もっともだ
それはそうだなむべなるかな
「ご機嫌いかがですか?」
「……麗しくはありませんね」
昨日薬を二錠飲んだのがいけなかったのか、未だに頭が軽くグラグラして少しぼーっとするような気もする。これが薬のせいなのか、度重なるストレスのせいなのかは分からない。
この部屋で目覚めてから四日が経ち、私はなんとか自身で立ち上がったり歩いたりすることができるようになった。今日はこのヒゲ医者が来る前に一人で洗面、着替え、布団の片付け等の身支度を済ませ、昨夜食べなかったビニール袋の中に入っていたお握りを食べた後、ちゃぶ台を出してそこに座りながらこの男を待ち構えていたのだ。
私はなんとなく、この男が入ってきたとき、全ての身支度を一人で済ませていた私を見たら驚くかなと多少の期待をしていたが、ガチャッといつものように勝手に入ってきたこの男は、そんな私を見ても特に驚いたような反応は無く、私の対面に座ると今の言葉を口にしたのだ。
「大分快復されてきたようで何よりでございます……あなたの元気が無ければこちらもやり甲斐というモノが無いですからな……分かっているとは思いますが……本日はあなたがお会いする最後の住人は、102号室の鍛冶場元労さんという方でございます」
「……それはどのような方なのですか?」
昨日から部屋に置かれっぱなしで温くなっていたペットボトルの緑茶を湯飲みに注いで先生に渡す。
「そうですなぁ……鍛冶場さんは四十代の男性で、ここには一人で暮らしをしております。殆ど家から出ることの無い方でして、部屋から出るのは年に二回ほどです」
「年に二回しか部屋からでないのですか……? その方はご飯とか生活用品とかどうやって暮らしているのです……?」
「それは簡単です。私たちが食べ物や生活用品を鍛冶場さんに届けているからですよ」
「え……? なんでそんなことをなさるのです……?」
さも当然というように答えるこの男が私は信じられなかった。
だって……赤の他人のために家族でも無いような男に、食べ物や生活用品を差し入れて面倒を見る必要が何処にあるというのだ……
「まぁ、あなたがそう思うのも無理はないでしょうなぁ。確かに、鍛冶場さんと私や他の住人は血の繋がりとかそういったものはございません。ですが、前にも申しましたとおり、私たちはあなたという人間を通して繋がっている、いわば家族のようなものなのです。その繋がりは、血縁なんぞよりずっとずっと重い深いものなのですよ…………血よりも重たいモノが私たちの中に流れておりますれば……」
「は……? 私を……通して……ですか……?」
急に自分が関係しているといわれてわけが分からない。ここの住人全員が私に世話になっったとは言われていたが、血縁よりも重い家族のような繋がりがあるなんて初めて聞いた。
「ええそうです……概念的な表現になりますが、そもそも鍛冶場さんがいなければこの裏野ハイツが結成されることもなかった……ですから、鍛冶場さんは他の住人達との接点を作ったある意味創始者のような、鍛冶場さんのおかげで我々はここへ集うことができた、ある意味皆の恩人でもあるのですよ……それに、鍛冶場さんは引きこもりというわけではなく、この裏野ハイツにおける重要な仕事担っており、そのため家からでないのです。ですから、我々はそんな鍛冶場さんのために食べ物や生活必需品を届けると……おわかりになりましたか?」
「は……はぁ……?」
正直ちんぷんかんぷんだった。なんでこの男はこういう迂遠な言い回しをするのだろうか? 本当に人に伝える気があるのか?
ようは鍛冶場という四十代独身の男は、裏野ハイツで重要な仕事を任されていて部屋から出れない。だから他の住人が食べ物等を差し入れる、というわけか……?
「まぁ、理解できないのも仕方ありません。どのみち……あなたが全てを思い出せばお分かりになることですから……思い出しても分からなかったときは、ちゃんと私が説明して差し上げますから……では鍛冶場さんを呼んで参りますからお待ちくださいね……」
先程の先生が言ったことばをうんうんと唸りながら考えていると、ガチャと玄関の扉が開いた。「ああ、きたか」と思って湯のみ片手に軽く緊張しながら、先生の後ろに連れられた最後の住人、鍛冶場という人物に目を向けたときに、その格好の異様さに私は驚き動揺して持っていた湯飲みを落としかけてしまう。
先生の後ろに連れられた鍛冶場という人物は、夏だというのに長袖に長ズボンを履き、両手に白いゴム手袋のようなものを着け、顔には目と口の部分だけ穴の空いた目出し帽を被っていたのだ。
なんだこいつは……火傷か…………? 火傷痕を隠しているのか……?
なんとなくそう思っていると、そんな私の動揺を知ってか知らずか、そいつは言葉も無く私の対面に座った。先生はいつもの如く私たちの間に腰を下ろす。
「さ、こちらが102号室の住人であり、あなたがお会いする最後の一人である、鍛冶場元労さんです。とある理由でこのような格好をされていますが、とても頼りになる方ですよ」
「ど……どうも……」
「…………」
そいつは何も答えずに、例に倣って無言で私を見つめていた。ただ他と違うのは、目出し帽のせいで表情が全く分からないことだ。目はこちらを向いているが、何を考えているんだか全くわからないのだ。
「…………何か……思い出したか……?」
「……え?」
「思い出したか…………?」
唐突に喋り出した鍛冶場という人間の声は、暗い、低い、淀んだ、まるでドブネズミのような、聞いているだけで不快になるような声だった。
しかも、口を開いたかと思ったらまた「思い出したか?」だ……
こいつらは馬鹿なのではないだろうか……?
思い出したら思い出したと言うに決まっているだろう……?
「……そうか………なら、これなら思い出すか……?」
「は……?」
そう言うと鍛冶場は被っていた目出し帽に手をかけ、ゆっくりと剥ぎ取った。
あらわになった鍛冶場の顔は、殆どの部位が焼け爛れ、鼻や口や目といった部位が、なんとかギリギリ分かるような、申し訳程度に付いているだけのとても直視できぬような醜い地球外生命体のような有様だった。
「この顔を見ても思いださねぇか…………?」
だが私は、その顔を見て気持ち悪いというよりも嫌悪感を感じるというよりも、なんとなく愉悦のような妙に心が弾むような気持ちになってしまって、何故だか久しぶりに愉快な気持ちになってしまって、無意識の内にニヤけそうになってしまった表情を悟られぬように慌てて引き締める。
「げっ……げっげっげっげっげ…………」
そんな私の顔を眺めていた鍛冶場は、その宇宙人のような顔をこれまた醜く歪ませて、不愉快な声をあげながら笑い出した。私は自分の内から込み上げた気持ちがバレたのではないかと思って、内心気が気ではなかった。
「どうして笑われるのです……かっ?!」
鍛冶場は一瞬の内に身を乗り出してガッと私の胸倉を掴むと、自分の顔の目の前まで私を引き寄せた。爛れて黒くなった化け物のような顔が目の前にある。近くで見るとなお一層酷い。なんて醜い顔なんだ、なんて愉快な顔なんだ……私は堪らず緩んでしまいそうになる顔を唇を噛んで抑える。
「楽しそうだなぁ……ええ、おい……?」
「ど……どういうこでしょう…………?」
「お前……笑ってるぞ……?」
「…………そんなこと……あるわけないじゃないですか……」
必死で目線を横に逸らしながら鍛冶場の顔を見ないよう心掛け、その言葉を否定する。
見たらきっと笑ってしまう……こんな顔を近くで見たらきっと頬が緩んでしまう……
なんでだろう……なんでこんな気持ちを抱くんだろう…………
自分の傷痕を見たときはあんなに衝撃を受けたのに…………他人の傷痕はなんて……なんて……愉快に……甘美に見えるんだろう…………
「おい……笑ってもいいんだぞ……? 楽しいんだろ愉快だろ? お前がそういうヤツだって事はみんなわかってんだよ……さぁ……我慢するな……俺を見ろ……俺を見て笑え……なんならもっと見せてやろうか……? 顔だけじゃねえ……俺は全身がこうなんだよ……」
「な、何言ってるんです……笑えるわけがないじゃないですか……」
顔にかかるヤツの生臭い息を、込み上げてくる笑いを、もっと見せてやるという魅惑な誘惑に必死で堪えているとバシャッと顔に温い液体がぶちかけれた。折角愉快な気持ちであったのに文字通り水をさされた私は、その一瞬でカッと反射的に体が動いてしまうほどの、頭がグラグラするほど怒りが湧きあがり目の前の男の胸倉を掴み返して正面を向くと――
そこにあったのは 顔 だ
鍛冶場の醜く焼け爛れた 顔
それがなんと 私の目の前にあるのだ
そういえば、昨日だか一昨日に御手洗が言っていたな
怒りとは短い狂気であると
確かに私は この時 怒りという狂気に飲まれ
必死で笑いを堪えようとしていた 理性が消えてしまったのだ
「あは……あはっ! あーはっはっはっはっはっはっはっはっは!!!!!!」
「ひぃーーひひひひ!! あはっ!! あっはっはっはっはっは!!!!!!!」
私は笑った。声を上げて笑った。心の底から笑った。笑いすぎて涙が出てくるほど、顔の筋肉が引き攣って痛くなるほど笑った。鍛冶場も笑った。私たちは互いに狂ったように笑いあった。
なんて愉快なんだ……ここで目が覚めてから……こんなに愉快なのは始めてだ……
ああ……楽しい……鍛冶場とはなんて愉快な男なんだ……
この狂人だらけの裏野ハイツの中でこいつだけはマトモなんじゃないか…………?
暫くの間声を上げて互いに笑いあっていると、静に座っていた御手洗医師がのそっと立ち上がって、私たちの間に割って入った。
「さぁ、鍛冶場さん、そろそろよろしいでしょう?」
「……分かりました……後は先生にお任せします……」
鍛冶場はすっと笑いを止めて真顔になると、目出し帽を掴んでゆっくりと被り部屋を出て行った。取り残された私は大笑いしたせいか、全く何も思い出せそうに無いが心の中はとても晴れやかだった。今まで受けてきたストレスがどっかに飛んでいってしまったようだ。
先生は出て行く鍛冶場を見届けると、私の対面に腰を下ろしてじっと私の目をみる。その視線を受けて、私は自分が大きな失態を犯してしまっていたことに気付き、愉快だった気持ちが即座に消え、変わりに「やってしまった」という後悔が押し寄せてきた。
人の傷痕を見て大笑いするなんてまともじゃない…………例え心ではそう思ったとしても表に出さないのが常人のはずだ……なのに私は…………やはり私はいかれているのだろうか……? あそこで笑いを抑えられなかった私はやはり狂っているのだろうか…………?
「どうです? 何か思い出せましたか?」
「いえ……すいません、急に笑い出したりしてしまって……怒りとかストレスとか……そういう感情が重なってわけがわからなくなってしまったのです…………」
あくまで私はおかしくないという予防線を張る。感情が昂ぶってしまったせいなのだと、あれは私の本性ではないのだと。だが先生はそんなことどうでもいいというふうに「そうですか……」と言ったきり黙ってしまった。
アーアーアーアー……ア・アーア・アー……アーアーアーア・アーーー……
私もばつが悪くなって黙っていると何やら音が聞こえてくる――
アーアーアーアー……ア・アーア・アー……アーアーアーア・アーーー……
その音はどんどんどんどん大きくなって、はっきり聞こえてくる…………
怒号のような嗚咽のような叫びが横から下から至るとこから聞こえてくる……
何かを強く叩くドンドンという音……皿が割れるようなバリンという音……怒号のような怒鳴り声……獣のような唸り声……呪い殺さんとしているような呻き声……悲痛を通り越した凄惨な泣き声……それらの凄絶な音がこのアパートの中から、そこかしこしら聞こえてくるではないか――
「なっ……なんですかこれはっ……?!」
堪らず叫んだ。
何故だか私は、この響き渡る怨嗟の音全てが、私自身に向けられているような気がして、おぞましくて、怖ろしくて、冷や汗が流れ全身総毛立ち動悸が激しく震えが止まらない。今すぐにでもここから逃げ出したい――
救いを求めて目の前の御手洗医師を見ると、机に置いた拳をきつく握り、顔を歪め歯を食いしばっている。その表情は鬼気迫り今にも爆発してしまいそうな一個の爆弾のようで、私は何も言えずに息を呑んだ。
先生はカッと目を見開くと、その瞬間ちゃぶ台をばんっ!と勢いよく横に吹っ飛ばした。ちゃぶ台は上に乗っていた湯飲みを撒き散らしながら高速縦回転して洗面所の引き戸を巻き込みながら洗面台へと激突する。
その怖ろしい異常な行動に動揺し、硬直して動けない私の前にゆっくりと先生が歩み寄る。座っている私の前に立つと中腰になって目線を合わせながら私の両肩を掴む。その目は殺意が溢れているように見えて、顔は表情が無く必死でその誰かに向けた殺意を抑えているようにも見えた。
「いいですか……良く聞いてください……私たちは皆大切なモノを失っているのです……私は妻を、姥捨山さんはお孫さんと息子さん夫婦を、香宗我部さんは娘さんを、鍛冶場さんはご両親を皮膚を失っているのです……私たちはその非常な現実に、その辛さに喪失感に耐え切れず、心が壊れて狂ってしまうところでした……ですが、そんな壊れそうな私たちの心を繋ぎとめてくれたのは……あなたなのですよ……あなたが居てくれたから、私たちはなんとか正気を保てていたのです……」
「……皆ということは……わ、私も何か失っていたのですか……?」
「なにを言っているのですか……あなたは私たちの誰よりも大きなものを失っているではありませんか……」
「そ……それは、一体なんなのでしょう……?」
「記憶、でございますよ……記憶がなければ、過去に何をしようと何をされようと何を犯そうと全て関係無くなる……記憶がなければ別人……赤の他人だ……記憶というのはですな……何よりもどんなものよりも大切なモノなのでござきますよ……自分の全てなのですから……」
私の肩を掴んだ先生の両腕にさらに力が入る。骨が砕けそうなな力に痛みで顔が歪む。
「ですが……だというのに……あなたは全てを忘れてしまった……それじゃあ駄目なんですよ……あなたが忘れてしまっている状態じゃあ駄目なんです……だから早く思い出してください……でないと、もう堪えられない……ですから……早く思い出してください…………」
そんなことを言われても困ってしまう……
私だって忘れたくて忘れているわけでは無いし思い出せるなら思い出したい…………
ん……? なんだろう…………妙に引っかかるような……
言い終えると先生はよろよろと立ち上がって、ふらつきながら玄関に歩を進める。私は先生の後姿を呆然と見つめることしか出来なった。先生は玄関を出る間際、振り返って私の顔を見る。
「あと二日……」
「……え?」
「明日であなたが何も思い出せなかったら……いえ……明日思い出せても、思い出せなくても、二日後にあなたを202号室にご案内しますよ……皆で……ね……」
意味深なことを言い残すと先生は出て行ってしまった。