三日目 -乳-
何を言っているんだこいつらは?!
いかれてるんじゃないのかっ!?
そもそもだ、だったらまずはその事故と母性と記憶喪失との関係性を因果関係を説明してくれ!
本気で考えてそんな結論に至るなんて、夫婦揃ってどんな思考回路してるんだ!?
「ちょっと旦那さん、離して下さい……っ! あなたはそれで良いんですかっ?!」
「それで……あなたの記憶が戻るのなら、構いません……っ!」
「そんなことで戻るわけないでしょっ?!」
「やってみなければ分かりませんからっ!」
私の反抗に段々と苛立ってきている旦那さんが声を荒げる。
「やるにしてもなんでそんな成功率の低そうな賭けをやろうとするのです! もっと医学的な方法とか無いのですか?!」
「医学なら御手洗先生に任せていますから! 今回のことも御手洗先生に許可を貰っていますよ!」
「あのハゲ医者ぁっ……! 私はその治療を拒否します! 不当な治療ですよそれは!」
「我がままばかり言って……! 一体私の妻の何が不満なのです?! 私が言うのもなんですが、相当な器量良しですよ! あなたには勿体無いくらいだ!」
「ええそうですねぇ! ですから顔の問題じゃありませんから! 内容のことを言っているのです!」
「だからまずはやってみろって……言ってんだっ!!」
「ぐふっ……!」
腹に一発見舞われ呼吸が詰まった。
頭に血が上り瞬時に殺してやろうと思ったが、今の力の無い私の腕力ではこのいかれた男相手に勝てるわけがなかった。包丁か武器が何かあれば間違いなくこの男を刺していたが、武器無いので抵抗をやめると、ずりずりと奥さんの元まで引き摺られる。
「安心してください、全部手付かずの新品ですから……私の子たちのお古をあなたに使うのは……絶対に、嫌ですからね…………フフフ……」
生気のない顔に陰鬱な微笑を浮かべながらぞっとするような暗い声で、デンデン太鼓を手に持ってデンデンデンデンと鳴らしながら、引きづられて目の前まで連れてこられた私を向かえる奥さん。
私は奥さんの前に無理矢理座らされると、いかれた旦那さんに後ろから羽交い絞めにされ身動きを封じられる。
「さぁ……まずは……ご飯にしましょうか……お腹が空いてしまうと何もできませんものね……」
そう言うと奥さんは慣れた手付きで、哺乳瓶を取って粉ミルクを瓶の中に入れるとそのまま蓋を閉め、私の口にぐいぐいとあてがった。
「はぁいご飯でちゅよぉぉー飲んでくだちゃいねぇ…………」
「ぅぉぶっ……! ちょっちょっと、飲めるわけ無いじゃないですか……っ! これただの粉ですよっ……!」
無論、溶かされていない粉ミルクは哺乳瓶の中を砂のようにサラサラと舞っているだけで、乳首からは何もでてくるわけがない。
「じゃぁこれを咥えていてくだちゃいねぇ……お腹いっぱいになっりまちたから、次はこれで遊びまちょうねぇ……」
奥さんはそれを気にするどころか、私の口に哺乳瓶を突っ込むと風呂敷の中から次に使うものを探し始め、先程鳴らしていたデンデン太鼓を私に向けた。持たせようとするも私の両腕は旦那さんにガッチリと羽交い絞めにされているため持つことが出来ない。それを見た奥さんは「まぁいいか」というような顔をして、デンデン太鼓の持ち手のほうを哺乳瓶と横並びになるように、容赦無く私の口に突っ込んだ。
「ぅぉえっ!!」
「あらあら……いけないこでちゅねぇ……」
私が堪らずに哺乳瓶とデンデン太鼓を口から吐き出すと、奥さんはその吐き出して床に落ちた哺乳瓶とでんでん太鼓を掴んで再び私の口の中にぐいぐいと押し込む。
「ヴぉぇっ……! うぉぇっっ!!」
「あらあら……」
何回も口に突っ込まれたモノたちを吐き出してしまう私に見兼ねたのか、奥さんが「アナタ手伝って」と旦那さんに目配せをした。そうすると私を拘束していた旦那さんの腕の力が緩んだので、私は全力でその拘束を振り解いて再びでんでん太鼓を口に突っ込もうとしていた奥さんの手を叩き払う。
「いい加減にしてくださいっ……! こんなワケ分からずなことをして記憶が戻るわけがないでしょう! 大体母性がどうとか言ってましたが全然母性なんか感じませんよ! 普通こんなこと赤ちゃんにしないでしょう?!」
奥さんに一喝して、涎が塗れた口元を手の甲でさっと拭って目を向けると、唇や歯茎が切れたのか結構な量の血がべっとりと付着していた。
手の甲から再び奥さんに視線を戻すと、私は、その奥さんの異様な様に一瞬で鳥肌が立つ。
私の目をまっすぐに捉えたその両目は、目玉が飛び出るんじゃないかと思えるほど極限まで目蓋が開かれ、口は半開きで、脳天に千枚通しでもぶっ刺されたような表情をして、小刻みに横に首を横に揺らしているのだ。
「ふ……ふふ……ふふふ………ふふふふふふふふ」
表情を変えぬまま半開きだった口の口角だけ吊り上げてふふふと笑いだす。
腰を抜かしかけるくらいの奥さんの異様さに、私は何も出来ないでその顔を眺めることしか出来なかった。
「ふふふ……あははは…………あああ……」
「はぁーあ…………………………当たり前じゃない!!!!!!!!!!!!!!」
ベヂッーーーン!
「ぶっ!?」
急に大声を上げたかと思うと、手に持っていたデンデン太鼓の腹の部分で頬を強かにぶたれた。
「なんであんたなんかを私が愛してやらないといけないのよっ!!!! わがままばっかり言うんじゃないわよ甘ったれが!!!!」
奥さんは狂乱しながらデンデン太鼓を投げ捨てると、来ていた白いシルク生地のブラウスに両手を掛け、ぶちぶちと引き千切り始めた。ボタンが弾け飛びシルクが引き裂かれると、その中に着けていたブラジャーをも両手で千切り裂いて胸から引きずり出し後ろに投げ捨てると、そのたわわな胸を露にしながら狂気の目を向けて、私の顔にその胸をぐぃぐぃと押し付ける。
「どうせこれが欲しいんでしょう!? ええ!! この真性の変態クソ野郎が!!!! 色々理由をつけておっぱいが欲しいんでしょ?! そうよ! あなたは結局のところ母性に飢えているのよ!! いいわ、吸いなさいよ!! 吸って全部思い出して後悔するといいわ!! あんたがそうなっちゃったのは親に愛されなかったからよ!! あんたは粉ミルクどころか脱脂粉乳で育てられたんでしょ!? そうよ!! まともに生まれ育ったならあんたみたいな人間が生まれるわけがないわ!! ほら早く吸いなさい!! 吸って母性を感じなさいよ!!!! 思い出しなさいよ!!!!!!!」
全くの予期せぬ行動と恐怖が私の精神を包んで恐怖に内包されたような感覚になる。
上を向いても下を向いても左を向いても右を向いても恐怖しなかない。
この空間にはこの部屋にはまともな事柄なぞ、まともな人なぞ誰一人としていやしない。
目の前にいる狂乱した女は、控えめに言っても美人な部類で、その美人の胸があらわになって、しかも自分の顔に押し付けられているのなら、普通は嬉しいとか興奮を感じるはずだ、だが、私は、この胸にも、この女にも、後ろの男にも、狂気しか感じない。
いくら乳を押し付けられたところで、この女からは母性どころか異常性しか感じない――
ただただ恐ろしい……
あまりにも常軌を逸した事柄が多すぎて、もうワケが分からない、記憶を思い出す所かここ二三日の記憶も全部飛んでいってしまいそうで、涙が出てきそうで、叫ばずにはいられなかった、誰かに助けを請わずにはいられなかった。
「ああぁぁ…………先生ーーー!! 御手洗先生ーーー!!!! もう無理です!! 限界です!!!!」
叫んだと同時に部屋の扉がガチャッと開き、ヒゲハゲ長髪一本縛り白衣大男が姿を現した――御手洗医師その人だ。
私は、今まで信用のならなかったこの非常識なヒゲ医師のことが、この時ばかりは光眩く救いの主に見えた。
「おいっ、お前、早く隠さないかっ……!」
「うはぁいあぁぃぁあぃああい!!!!」
「おいっ……!」
今まで黙っていた旦那さんが入ってきた先生を見て、慌てて奥さんを取り押さえて露になっていた乳房を隠した。
先生は気を使っているのか、奥さんのほうをみないように視線をそらしながら口を開く。
「香宗我部さん、お気持ちはわかりますがやりすぎです。後は私に任せてお部屋に戻ってください。坊ちゃんは姥捨山さんに預けていますし、散らかっている荷物のほうも私が片付けて後で持って行きますから安心してください」
「すみません、お願いします先生……ですが、それはもういらないです……まとめて捨てて置いてください……」
「左様ですか……」
「ぎぅぃぃぃぃぃいいいいやぁぁあぁぁあああ!!!!」
今だ狂乱し暴れている奥さんは、旦那さんに抱っこの要領で抱えられて部屋を退出した。
後には私と先生、そして散らかった乳児用品ばかりが残されていた。先生はどかっと腰を下ろすと、私の目を観察するようにじっと見つめ、暫くしてから口を開いた。
「お疲れのようですね」
「見て分かりませんか…………?」
「ですから、お気をつけ下さいと忠告したでしょうに」
先生はため息を付きながらポケットから缶コーヒーを取り出して、口を開けグビっと呷る。
「いやいや、だって……どう考えてもおかしいですよ……あの奥さんだけじゃない、旦那さんも……異常ですよ……とても正気じゃない……」
私はそこではたと、先程あのイカれた亭主が言っていたことを思い出し、先生に対して怒りが湧いた。
「そうだ……! あのイカれた亭主はあなたからこんな馬鹿げたことをやる許可を貰ったといっていましたが、本当なのですか!?」
「……ええ、本当ですよ? 私はあなたの主治医なのですから、他人が提示するあなたの治療法に許可を出す権利があります。何か問題がありますか?」
なんの悪びれた様子も見せず、缶コーヒーに口をつけているこの男に怒り以上の、瞬間最大風速で言えば殺意ともなる感情が湧く。
「何故です!? 聞いた段階でおかしいって分かるでしょう?! あんな馬鹿げたことをして記憶が戻るわけないじゃないですか!? 見てくださいこの口を! どうしてこんな傷が出来たかわかりますか!? 羽交い絞めにされて哺乳瓶やらデンデン太鼓やらを無理矢理突っ込まれたからですよ!! 何処の世界にデンデン太鼓を突っ込まれて口を怪我をする人間がいるというのですか!!」
私の怒声を受けた先生は、缶コーヒーを飲みきるとダンッとちゃぶ台に叩きつけるように置いて、その空になったスチール製の容器を握り潰した。
え……なんでだ……この男……明らかに怒っている……怒気を孕んでいる……?
「いいですか……あなたに言っておきますが、いくら今の医療が発達しているとはいえ、未だ精神医学、脳医学には未知数な所が多い……特に記憶に関しては既知な所のほうが少ないくらいです。ですが、そんな中でも私達は無い知恵を振り絞って、あなたの記憶を取り戻させることに尽力し全力を尽くしているのです……今回のことは、途中で香宗我部さんご夫婦が暴走してしまったとはいえ、母性を以って脳の記憶部位に訴えるという方法は、私はそんなに悪い提案ではなかったと思いますがね」
「ですが……」
「そもそも……記憶の無いあなたが、どうして人のことを異常か正常か判断できるというのです? あなたにはそれを判断できる記憶が残っているのですか? 少なくともあのご夫婦は本気で、心の底からあなたの記憶が戻ることを望んでおられたのですよ? ですから、あのような普通なら決してしないような、恥辱とも取れるようなことまでして、あなたの記憶を戻そうとした……その善意を、あのご夫婦の凄惨な決意を、欠片も感じられずただ狂っているといって一蹴するようなあなたは、果たして正常な人間だと呼べるのでしょうか?」
「…………」
ずっと私が思っていた、怖ろしいもしもを突きつけられ二の句が告げなくなる。
「昨日の姥さんといい、今日の香宗我部さんといい、結局の所、あなたがワガママを言って好意を無碍にしなければ、こんなことにはならなかったのではないですか? いいですか? 治療というモノには往々にして痛みがつき物です。なのにあなたは結果だけを望み、その道中にある痛みという過程を拒んだ……それでいて結果が出なかった、担当したこいつはやぶ医者で狂ってる……などと……あまりにも横暴、暴論が過ぎるとは思いませんか?」
「………………」
何も言い返すことが出来なかった。
この世界で狂っているのは自分だけで……姥さんや香宗我部家は正常なのかもしれない……
そう思うと、何も言葉がでないのだ。
未知よりも、記憶が無いことよりも、「違」ということのほうが、よほど怖ろしいのだ。
「自分が違っているかもしれない」「自分だけが違うのかもしれない」これこそが、これを認識してしまうことこそが、真の恐怖というものなのではないだろうか……? 少なくとも私はそうだ……
「まぁ、今日も色々あって疲れたでしょう……今日はもう、起きていたところで何も思い出せないでしょう……これでも食べてさっさと眠ったらいかがです?」
「…………はい」
そういってビニール袋を机に置くと先生はさっさと帰ってしまった。
あのヒゲ医者……かなり怒っていたな……おかしいな……私は怒ってもいいはずだろう……? あんな仕打ちを受けて……正当に怒った私が……何故逆に怒られ……責められなきゃいけないんだ……?
ストレス、不安、恐怖、色々な感情が綯い交ぜになって、逆に何も考えられなくなる、脳では考えていないはずなのに、不安の自動再生が脳内で始まりだして、精神が不の渦に飲まれる。そうして、結局何も考えられぬ中、不安や畏れ恐怖怒りといった何の生産性の無い不の感情だけが私の全てを締めるのだ。
「…………あ」
そういえば、とあのヒゲ医師から貰った薬があることを思い出す。確か、不安を和らげてくれるとか言っていたはずだ。私はその青い錠剤を二錠取り出すと口に含んで緑茶で流し込み、布団を敷いてすぐに横になった。
暫く横になっていると薬が効いてきて頭がボーッとする。
言われた量の倍飲んだせいか、視界がぐるぐると回ってきた。
同時に、意識も遠のいていくように感じられる。
ああ……どうしよう……私は本当に狂っているのかもしれない……私だけがおかしいのかもしれない……ああ……それはイヤだな……とてもイヤだな……