三日目 -103号室 香宗我部一家-
カーカーカー カーカーカー カーカーカー
いつぞやと同じく烏の煩わしい鳴き声でパチリと目が覚めると、目の前には能面のような顔をした御手洗医師が私に向かって、その野太い両腕を突き出そうとしているところだった。
その光景にびっくりして、思わず息が詰まる。
「っ! なっ、なんですか……?」
私はそう言うのが精一杯だった。
目の前の大男――御手洗医師は、何食わぬ顔で伸ばしかけた両腕をゆっくりと引く。
「…………おはようございます。いえ、なに、そんなに驚かれるほどのことでもございません。本日もよくお眠りになっていらっしゃったので、その間に診察を済ませてしまおうと思っただけのことでございますよ」
「そ……そうですか……びっくりするので、今度からはやめてください……」
「そうですなぁ……まぁ、あなたが起きかけている時はやめましょう」
とても診察をしようとしているような雰囲気には思えなかったし、そもそも「首に両腕を伸ばす診察とはなんだ?」と思ったが、そう言われては無碍に否定することもできない私は、こう答えることしかできなかった。
また昨日のように洗面と歯磨きを済ませると、布団を畳んで部屋の隅に移動させ、ちゃぶ台を置いて二人で腰を下ろす。
「さて……では本日あなたがお会いになる住人の方を、昨日より少し踏み込んでご説明いたしましょう。これを食べながらお聞きください」
そう言ってラップに包まれた三角形のお握りを三つほどちゃぶ台の上に置くと、湯飲みを取り出して冷たい緑茶を注いでくれる。私はお腹が減っていたので、先生が話し始める前にラップを開けお握りを口いっぱいに頬張った。不躾かとも思ったがそれはこの男も同じだし、別に良いかなと思ったのだ。
「で、昨日も申し上げた通り、本日お会いしていただきますのは、103号室の住人の香宗我部さんご一家です。30代の若いご夫婦と三歳になる男の子が一人の三人家族です。そのお握りを握ってくれたのも香宗我部夫人なのですよ」
「……ふぅん……さいですか…………」
もぎゅもぎゅ……
梅おにぎりか……美味しいなぁ……
もぎゅ……もぎゅ……
奥歯がないというのは本当に不便だ……食べにくい……
ゴクゴク……もぎゅもぎゅ……グビグビ……
うまく咀嚼できない部分は緑茶で流し込みながら、先生の説明を右から左へ瞬く間に三個のお握りを平らげる。
「注意のために、先に言っておきますが……奥さんの方は、とある事情によって精神的にとても不安定な状態にあるのです……ですから。昨日の姥さんの二の舞にならぬよう十分にお気をつけて接してください」
「なんだか穏やかじゃ無いですね……なら奥さんと会う必要は無いのではありませんか?」
「いえいえ、そういうわけにはまいりません。お気持ちはわかりますがね、香宗我部夫人があなたの記憶の蓋を開けるきっかけにならないとも言い切れませんでしょう? 私としましてもあなたの記憶が戻る可能性があるのならば、なんでもやっておきたいのです。それに、夫人もあなたの記憶が戻るのを心待ちにしているのです。ですから、受け入れていただくほか仕方ありません」
「そうですか……」
どの道私に拒否権は無いのだ、好きにするといい。ここ二日ほど目の前の大男と過ごして分かったが、このヒゲ医者は私に選択の余地を与えない。与えているように見せても、その実、示された場所にある答え、それ以外を選ぶことは許されないのだ。
「では、今から香宗我部一家を連れてまいりますので、茶でも飲んでお待ちください」
茶を飲んで多少の緊張を感じていると、ガチャリと扉が開き総勢四名が断りも挨拶も無くずけずけと入室して、ちゃぶ台を挟んだ私の対面に三人が横並びで腰を下ろし正座をした。
三人並びの真ん中、三十代半ばに見える七三分けの頭に顔色の悪い男が、色の無い表情で何も言わずジーーーーーーーーーーーーーーーーっと私を見つめている。
その男の右隣に二十代にも見える髪の長い、目鼻立の整った白いブラウスをきた女性。有り体に言えば美人の部類に入るのであろうが、どうにもその顔や身体から発される不気味で陰鬱な雰囲気、空気がその美しさをかき消して、ある種の異様さを醸し出している。その女も俯き気味に上目遣いでじーーーーーーーーーっと私を見ている。
その男の左隣には、坊ちゃん刈りの小さな男の子が座り、この子もまたクリクリとしたお目目を開いてじーーーーーーっと私を見ている。口は閉じ、表情無く、感情も無く、目だけをぱっちりと開いて私を見つめる様は到底子供が取る行動には見えない。
三人とも無言で、色の無い表情で、死んだような目をぎょろっとさせながら、じーっと私を見ている。
見ている
見ている
見ている
またか……と思った。
御手洗医師も姥捨山もこの香宗我部一家も、私と出会った際には必ず色の無い表情をしてじーっと無言で、何かを確かめるように私のことを見つめてくるのだ。
私にはその視線が嫌で嫌で仕方ない。不気味で気味が悪くて嫌になる。
それはそうだろう、向こうからすればそうではないのかもしれないが、初めて会った人間に対して挨拶もせず、無言でじーっと見つめるようなヤツがいたらソイツは頭のおかしな不審者ではないか。狂人だと思われたっておかしくないような行為ではないか。けれども、そう思っているのは価値観というものが変異してしまった私だけなのかもしれないと思うと、何も言えず、ただ静に向こうが口を開くまで、私から何か確認するのを終えるまで静に待つことしかできないのだ。
香宗我部一家は暫くの間私を無言で見つめると、そのうちに旦那さんが何事も無かったかのように、今入ってきましたと言わんばかりの、何事もなかったかのような感じで口を開いた。
「どうも。初めましてというわけではないのですが……あなたは本当に記憶が無いようなので改めて自己紹介させていただきます。ボクは香宗我部光三と申します。こちからは妻のまみ、そしてこれが息子の正、家族三人で一階の103号室に住んでおります」
旦那さんの紹介に合わせるように、生気の無い奥さんが軽-く、本当に気付かないくらい僅かに頷いた。息子さんはなんの反応もせずに未だ、じーーっと私を見つめている。
「どうも、私は……あ」
「私は……」と言いかけて次の言葉が出てこなかった。本来なら自分の名を名乗るところなのだろうが、私には記憶が無いのだ。自分の名もわからなければ、自分が何者なのかすら分からない。この家族を見たところで何も思い出せそうな気配すらない。だから私は「私は……」に続く言葉が何も思い浮かばず、押し黙るしかなかった。そうする意外できなかった。
「本当に忘れてしまっているようですね……」
「はい……早く思い出したいとは思っているのですが、どうともし難く……」
どうしてこいつらはまず疑いから入るのだろうか……?
私が記憶喪失のフリをしているように見えるのだろうか……?
もしそうだとするのならば、何かそうしなければいけない理由が私にあるのだろうか……?
私がそう答えたきり、シンとこの場が静まった。ご主人は何か考え込んでいる様子で、奥さんは不気味に俯いて何も言わず、その長い前髪が顔を覆い表情を窺うことができない。ヒゲ医者も腕を組んで目を閉じ沈黙している。そんな重い静寂が漂うこの空間を思いがけず破ったのは、この五人の中で最年少である三歳児のぼっちゃんだった。
「どうしてわすれたの?」
「え?」
声質自体は子供特有の高さを持っているが、されど到底子供とは思えないような響きを持ち、無邪気さの欠片もない陰に入った声で私に問い掛ける。
ガラス玉のように澄み切った怖ろしさを感じる瞳で無表情に私の目をじっと見つめている姿は、質問というよりは、まるで詰問のように感じられた。
だけれども……そう言われても困ってしまう……そんなの私の方が知りたいくらいだ……やはり子供ってのはバカだな……思ったことをすぐ口に出す……少しは考えてものを言えよ……
「ぜんぶわすれちゃったの?」
「ああ、そうだよ。何で忘れちゃったんだろうね?」
脳足りんな質問が癪に触りはしたが、無視するわけにもいかないので、つとめて優しく答えてやる。
「おねえちゃんのこともわすれちゃったの?」
「え………?」
「ねえ、どうなの?」
おねえちゃん……? 誰……? 誰のことだ……? そもそも……お姉ちゃんだったとして……どのお姉ちゃんなんだ……?
私に実の姉がいたとか……? それともこの子の姉のことか……? それとも全く関係無いヤツのことを指しているのか……?
そうだ……このガキなら何か口を滑らせてくれるかも……
「ねぇボク……お姉ちゃんってうのは……どのお姉ちゃんのことなんだい……?」
「………………」
本当に私が何も覚えていないと察したのか、坊やはそれっきり俯いて口を閉ざしてしまった。また陰険な静寂が訪れるかとも思ったが、坊やが黙るのと入れ替えるように今まで一言も発さなかった奥さんがボソボソと口を開いた。
「正、ちょっとあなたは外で遊んでいなさい。お父さんとお母さんは、今からこの人と三人で話したいことがあるから……先生、お願いします」
「……分かりました。ほら、いこうか坊や」
坊やは無言のまま頷くと、先生に連れられ外に行ってしまった。部屋には私、香宗我部旦那、奥さんの三人が残される。それは別に良いのだが、奥さんが坊やに言った「この人と三人で話したい」という台詞に緊張を覚える。人払いまでして一体今から何をする気なのだ?と、不安な気持ちになる。そわそわする。
暫くすると奥さんが私のほうをむいて、ぽつりぽつりと喋り出した。
「私と主人はお互いに話し合って……あなたの記憶を戻す方法を考えました……今から、それをあなたにやってみようと思うのですが……よろしいですね?」
「お願いします」
「は……はい……」
奥さんの鬼気迫るような、幽鬼のような雰囲気に呑まれ、そう返事をしてしまう。姥さんの件もあるし、先生からも奥さんには注意して接してくださいと忠告されたばかりだ。断ったら何をされるか分かったものではない……
「では……まず、どれを使いましょうか?」
そう言うと奥さんは、入室していたときに持っていた唐草模様の風呂敷の包みを解く。
……中には、これでもかというくらい、所狭しと詰め込まれた、おしゃぶり、ガラガラ、哺乳瓶、粉ミルクといった、様々な幼児用品がどさっと出てきた。
さーっと顔が青くなっていくのが自分でも分かった。これから何をされるのかはよく分からない、だけども、だけどもだ、私の記憶が、こんなモノを使って本気で戻ると思っているのだとしたら……異常だ……やっぱりこいつらはおかしい…………尋常ではない…………
「えっ……? あの……これを……一体何に使うおつもりなので……?」
「決まっているじゃありませんか……おしゃぶりなら口に咥えさせて、ガラガラなら手に持たせて、哺乳瓶ならミルクを飲ませてあげる。それ以外の使い道がありますか……? ふふっ……おかしな人ですね……さ、こちらに来て下さい」
そういって自分の膝をポンポンと叩く奥さん。
まさか、この二人、本気で私に赤ちゃんプレイをさせようとしているのか……?
嫌な汗がじわじわと出てくる、このイカれた奥さんもそうだが、その奥さんのイカれた行動を肯定するように黙って見つめている旦那も輪をかけておぞましい。
この二人は、自分達が今からしようとしている行為が、いかにおかしいのか分かっていないのか……?
そんな赤ちゃんプレイで私の記憶が戻ると、本気で思っているのか……?
旦那は良いのか? 本人達は治療のつもりだろうが、奥さんが他所の男に赤ちゃんプレイをするのを見せ付けられるわけなんだぞ……? この夫婦は何か特殊な性癖でも持っているのか……?
「いえ、無理です……! そもそも、なんでそんなことをしようなどと思われたのですかっ?」
「ああ、そうでした、足が不自由なのでしたね……アナタ、手伝って上げてください……」
「分かった」
「ちょっ……ちょっと、本気ですか?!」
「失礼しますね」
旦那さんが立ち上がって、隣の洋室に貼って逃げようとする私の体をガシっと掴んだ。奥さんはその間も話を続けている。
「私と主人は二人で話し合いました……どうすればあなたの記憶が戻るのかと……長いこと話続け、考え続け、要約一つの結論に至ったのです……それは、あなたがソウなってしまったのは、きっと、両親に愛情を与えられなかったからだと……愛情を知らずに育ったからあなたはソウなってしまったのではないかと……ですから、今から私が仮初の親としてあなたに母性、母の愛というものを教えてあげます。与えます。そうしたらきっとあなたは全てを思い出すんじゃないかと思って……」