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烏之雌雄  作者: 妄執
5/11

二日目 -ひゃっぽこ婆-


「さ、たぁんとお食べ!」


 姥さんがその土鍋の蓋を開けると、大量の湯気と共に卵が入って黄味がかったおかゆが姿を現した。青ネギが振りかけられ、その真ん中には昨日と同じようにカリカリの小梅が一粒乗せられている。白、緑、黄、その三色は鍋の中で美しい対照比を織り成し、まさに黄金であった。


「い、いただきます」


 正直なところ、先程から随分とお腹の減っていた私は、すぐにレンゲを取るとお粥に手を伸ばした。

 

 ズ……ズズ……

 ああ……塩味が効いている……

 カリッ……ズズズ……

 梅との相性もばっちりだ……

 ズズズ……ズ……シャク……シャクシャク……

 ネギの爽やかさも素晴らしい……

 ズズズズ…………

 ああ……おいぢ……


 ガリッ 


 「?!」


 幸福な時間から、急に崖の真下に突き落とされたような、生理的嫌悪をもたらす食感が口中に走り、せわしなく動いていた顎が一瞬で動きを止める。


 ……


 …………


 ………………ッォエッ


 これは……あれだ……卵の……殻の食感…… 


 私は吐き出しそうになるのをなんとか抑えて、湯飲みを手に取り、緑茶をドブドブ飲んで殻ごと口の中のものを全て胃に流し込む。湯飲みを置き、おそるおそる土鍋の中を底をそくうようにレンゲでかき回して見ると――

 

 鍋の底から 卵の殻の残骸ざんがいたちが 大量に浮き出てきた


「っ…………!!」


 その瞬間、ぶわっと全身が総毛立ち鳥肌が全身に走る。生理的嫌悪感が一瞬で限界まで達す。

  

 は? なんだこれは いやいやいやいやいや 理解できない なんだこれ 殻 殻 カラ から から から からからからからからからからからからから 間違って入っちゃったような量じゃない うわわわわわわ 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い


 私は叫び出しそうになるのをなんとか抑えて、冷静に、慎重に、レンゲを置いた。

 目の前にいるニコニコとした姥捨山はそんな私を不思議そうな顔をして見ている。


「おや? どうしたんだい? 口に合わなかったかい??」

「……は?」


 何を言っているんだこいつは……? 見て分からないのか……? 殴り倒してやろうか……?


「あの……卵の殻が……」


 不思議そうな顔から、口の端を歪めたニヤッとしたような笑いを浮かべた老婆は、それがどうしたといわんばかりだ。


「ああ、殻かい? なんだいそんなことかい! 好き嫌いしないでちゃんと食べなしゃい! そんなんじゃいつまでたっても元気になれんぞい!」

「はぁっ!!!?」


「まぁまぁ、落ち着きなされ」

 

 堪らず激怒しそうになると、ずっと無言で座って私達のことを観察していた御手洗医師が口を開いた。私はてっきり助け舟を出してくれるものかと思ったが、医師の口から出て言葉は私の想像の範疇はんちゅうを超える、信じられないものだった。


「いいですか……確かに、卵の殻というものを嫌う人もいますが、カルシウムが豊富でとっても体に良いのです。ですから、ここは好き嫌いを言わないで、姥捨山さんの好意に答えるためにも、あなたが我慢して全部食べてください」


「は……? …………は??」


 何を言っているんだコイツらは…………


 え?


 これは私がおかしいのか……?


 私の知っている、いや、記憶が無いなりにも、感覚的に覚えていることとしては、卵の殻なんて好き嫌い云々(うんぬん)の前に、普通は食べないはずだぞ……食べないよな…………?


 だが私の目の前にいる二人は、あくまで私が、まるで人参を嫌う子供のように駄々をこねているだけというような感じだ……多数決で正否が決まるのなら明らかに私が否だ……


 私なのか……?

 私がおかしいのか……?

 もしかしたら……私は事故とやらのせいで記憶だけじゃなく、常識、価値観という相対的不変の歯車をも掛け違えてしまったのか……?

 

 だけども、だとしても、私が間違っているにせよ、私の常識に齟齬そごがあるにせよ、これを食べることは絶対に無理だ……あの少量で吐き出しそうになったのに、こんなに沢山の殻を食べきれるワケが無い……


「すみません、無理です……絶対に吐き出してしまいます……」

「そんなこといわないでねぇ、なんならあたしが食べさせてあげるから食べてよぉ……」


 何を思ったのかこのばばあはレンゲを持って粥ではなく卵の殻を掬うと、私の口に向かって突っ込もうとしてくる。

 

 ……本格的に頭がおかしいんじゃないだろうか? 

 イヤだと言っているだろうが……ぶち殺されたいのか…………


「いえ……そういうことじゃありません……絶対に無理です……」


 私は両手を突き出してそのレンゲを避けながら嫌だという意思を示す。


「あんたそんなワガママばっかり言って! こんな老い先短いババアが頼んでるんだから、そういうときは無理してでも食べるもんだよ!」

「食えるカッ!!」

「食えやぁ!!」


 徐々に老婆の顔がきつくなってくる。

 目は釣り上がり顔のシワが中心によって潰れた梅干のように、口は威嚇する獣のように、顔全体がゆがんでだんだんと般若はんにゃ形相ぎょうそうに近づくように――


「やめてくださいっ……無理ですからっ……!」

「ほらっ、食うんじゃ!!」


 無理矢理私の口にレンゲを突っ込もうとする老婆の腕を掴んで揉みあっていると、老婆の割烹着から何やら、ボロボロの写真のようなものがヒラヒラと舞って、土鍋の中にポチャリと落ちた。


「あっ!!」

「うわっ!!」


 その瞬間老婆は何処から出したのか恐ろしい力で私の手を振り解くと、持っていたレンゲを投げ捨てまだ火傷するような熱さの土鍋の中に手を突っ込むと、その写真のようなものを掴んで取り出し胸に抱き寄せながら私に背を向けて床にうずくまった。


 もうワケの分からない私は、何か悪いことをしてしまったような気になって、どうして良いかわからずおどおどとしてしまう。


 私に背を向けた姥捨山の体はだんだんと震えてきて、なにやらブツブツと呻きのような声を上げ始めた。


「……ぃーー…………いぃぃーーーー……」


 全身をブルブルと震えさせながら何やらブツブツと言い出したこの老婆に、言いようの無い不安を感じる。


「いぃーーーー…………いぃぃぃぃーーーー…………」

「ひぃーーーー…………ひぃぃぃーーーーー…………」


「あ……あの……?」


「ひぃぃぃぃーーーーー!!!!!」


 いきなり立ち上がったかと思うと奇声きせい一閃いっせんして三角巾落としながら裸足で部屋を飛び出していった。

 そんな奇行に呆気にとられていると、老婆はおっとり刀で何か縄のようなものを手にたずさえ恐るべき勢いで走ってこちらに戻ってきたではないか! その形相はまさに般若そのものでとても人間のものとは思えず、私は瞬間的に鬼婆おにばばあがやってきたと思った――


 鬼婆は手に持ったその縄と縄の先にくくり付けた何かをヒュンヒュンと鎖鎌のように回して奇声と共に、あっけにとられて呆然としていた私にそれを叩きつけてきた。


「ひゃっぽこ!!」


べちぃーん

「うわっ!」


「ひゃっぽこぉ!!!!」

べちぃーーん 

「痛っ!」


 その行動形相奇声はとても言葉にできないほどの狂気染みた怖ろしいもので、目玉が飛び出さんほど見開かれた両目に限界までつり上がり切った口角、中の歯が全て見えるほど開ききった口、その口から意味不明な奇声を上げなまはげのように髪を振り乱している――


「ひゃっぽこ!! ひゃっぽこ!!!!」


べちぃーーーん べちぃーーーん


べちっという音と共に痛みと、生臭いざらぬるんっとした気持ち悪い感覚が私を襲う。


「痛っ! 痛っ……! ちょっと、やめてください……!」


 この老婆にもう理性や正常さといったものは残っていないのか、般若はんにゃのような形相ぎょうそうでワケの分からぬ奇声を発しながら、ただひたすらに私を甚振いたぶろうとしている。老婆の手にあるモノをよくみてみるとそれは、荒縄あらなわの先にこんにゃくを括り付けたものだった。それをヒュンヒュンと回して私に叩きつけているのだ。


 痛い……痛いし臭い……窒息させる意外でこんにゃくがこんな凶器になるとは思いもしなかった……


「ひゃっぽこぉおお!!!!」


べちぃーーーーーーん べちぃーーーーーん べちぃーーーーーん


「いっ……いい加減にしろっ…………っ!!」


 この理不尽過ぎる仕打ちの怒りやら不安やらで精神的に限界になってきた私は、反射的に目の前にいるこの気狂い婆の顔面に土鍋の中身をぶちまけてやろうと思った。

 土鍋に入っている粥はまだかなり熱い。こんなものをぶっ掛けられたら、皮膚がただれるだろうが知ったことか。どうせ老い先短いのだし、そもそも仕掛けてきたのはそちらからなのだ。


 思うが早いか私が土鍋の取っ手を掴むと、その瞬間横から伸びて来た野太い腕がガッチリとその私の腕を掴んだ。驚いてその腕の主人を見ると、御手洗医師が能面のような顔で私を見ていた。その顔と視線にひるんだ私は腕から力が、頭から怒りが抜けていった。


「おやめなさい……ほら、姥捨山さんも落ち着いて」

「ひゃぁーーー!! ひゃっぽこぉ!! ひゃっぽこおお!!!!」


 先生のそのやんわりとした静止に老婆は聞く耳をもたず、縄こんにゃくをびゅんびゅんと縦回転させ狙いをつけて私にぶつけようとしている。その様は縄こんにゃくの達人に相違そうい無く、もし縄こんにゃく道なんてものがあったのなら、この老婆は間違いないく師範代級の腕を持っている。もし縄こんにゃく道が無いのならこの老婆が開祖だ。


「落ち着かんかっ!!」

「ひゃっ……!」


 御手洗医師が老婆に放った一喝いっかつは、このアパート全体に響き渡るほどの怒号に近いような大声で、関係無いはずの私まで怯え身震いしたほどだ。


「あ……ああ……あひぃ~……!」

「ほら、戻りますよ姥さん。ちょっと失礼しますね」


 その一喝で放心状態になった気狂い婆は、先生に抱えられて部屋を出て行く。


 私は呆然とそれを見送るとバタンと床に大の字に倒れ、ジンジンと痛むこんにゃく臭い箇所をさすりながら「なんでこんなめに……」と昨日から続く様々な艱難かんなん辛苦しんくに自己をあわれんだ。


 ホントになんなんだ……なんなんなんなんなんなんなんなんだ…………!

 もうワケが分からない……何から考えればいいのか全くわからない……私が……私が全て間違えているのだろうか……?

 私の価値観が……常識だと感覚的に思っているものが……それは全てかけ違っていて……実は私だけが本当の狂人で……私が狂人だと思った姥捨山さんや……常識が無いと思っていた御手洗医師が……本当はこの世界における……真実まっとうな人間で……私だけが狂っているのかもしれない……狂った価値観を抱えて……勝手に苛立っているだけの狂人なのかもしれない…………?


「どうされました? 痛みますかな? それとも心労ですかな? それとも……何か思い出しましたかな……?」

「いえ……何も…………」

「左様ですか……」


 いつの間にか戻ってきた御手洗医師は、寝そべって悩みこんでいる私の横に立って不躾な視線で見下していた。その見下されている様に、なんだか嫌な気分になったので上半身を起こすと、先生もそれに伴って対面に腰を下ろした。


「一体、あの人はなんだったのですか……?」

「ああ……姥捨山さんですか……」


 先生は温くなった緑茶を一気に飲むと、ペットボトルを掴んでおかわりを注ぎながら口を開く。


「先に言っておきますが……姥捨山さんは、恐らくあなたが思っているであろうような方ではありませんよ……認知症とか精神の病の類とか、そういったものはわずらわれていない、至極健康で正常な方です。ですがそう言うと……さっきの気が違えてしまったような、急な豹変ひょうへんと、暴れだしたことの合点がてんがいかないと……あなたはそう思われる」


「それはそうでしょう……? あの異常行動を見ておかしくないと思うヤツがいるのですか……?」


「まぁまぁ落ち着かれなさい……勿論のことですが、姥さんが急に癇癪を起こしたのにはちゃんとした理由があるのですよ……姥さんは決してボケてしまったわけでも、ましてや気が違えてしまったわけでもないのです。あなたと姥さんが揉み合いになったとき、姥さんの懐から落ちた一枚の写真が粥の中に落ちてしまったでしょう?」


「……あのヤケにボロボロの奴のことですよね?」 


「そうです。あの写真は姥さんがとても大事にしている、亡くなったお孫さんのお写真……つまり遺影なのです……」


 遺影……死んだ人間の写真のことだ。

 なんだろうな、心に引っかかることがあるような、不謹慎な言い方をすれば、なんだかうきうきしてくるような、なんだか妙に心弾む響きを持っている。


「あなたとの揉みあいで、姥さんがある種命よりも大事にしていたその遺影を粥に落としてしまい、姥んの中で色々な精神的衝動が押し寄せて、一瞬理性を失ってあのような癇癪を起こしてしまったのでしょう……まぁ、狂気といえば狂気には違いありません……かの詩人ホラティウスも申しておりますとおり、怒りとは短い狂気である、と。ですが、私が思いますに狂人と常人の違いというものは、常に狂ってたまに正常な状態になるのが狂人で、常に正常でたまに狂ってしまうのが常人なのだと……私は思っております。ですから、姥捨山さんは常人なのですよ」


「はぁ……?」


 最後の方でなんだかよく分からない言い回しをされて、その意味するところがあまり理解できず、生半なまなかな返事がもれる。


「あなたもいけないのですよ? 折角姥さんが作ってくださった粥を、殻が嫌いだとか子供のように駄々を捏ねて食べようとしなかったのですから。姥さんは心からあなたの記憶が戻ることと、あなたの健康を思っていたので、あのように多少強引なことをしてしまったのですから」


「はい……」


 またその話か……とも思ったが、これは私の価値観が倫理観がずれているだけなのかもしれない、ということを先程思ったのであえて言い返しはしなかった。無論、全く納得はしていないし、自分が間違っていたとも思っていない。卵の殻なんて食べ物だと思ってはいないし「白身と黄身どっちが好きだい?」というのならまだしも「卵の殻は好きか嫌いか?」 なんていう話事態が馬鹿げていると私は未だに思っているのだから。


「まぁ、仕方ないですな。姥さんは今日は駄目そうなので、夕飯にこれをどうぞ。香宗我部こうそかべさんの奥様に握っていただきました」


 そういって先生は何処から取り出したのか、ラップに包まれたおにぎりを三つちゃぶ台の上に置いた。


「香宗我部さんというと、確か……103号室の三人家族の方ですか……」

「その通りです。多分、あなたの嫌いなものは入っていないと思いますので安心してお食べください」

「はい……その前に……風呂に入りたいです……こんにゃく臭くて堪らない……」

「左様ですか」


 そう言ってまた先生に手伝ってもらって風呂に入りさっぱりすると、おにぎりを食べて昨日貰った青い錠剤を飲んだ。先生の言うとおり、おにぎりの中身は普通の梅干で何か変なモノが入っていたりはしなかった。先生は私が薬を飲み終わって布団に横になったのを見届けると「では、また明日伺います」と言ってのそのそと帰っていった。


 部屋に一人となった私は、色々考えようと思ったのだが、薬の影響か頭がぼーっとしてきて、あまり深いことが考えられなくなる。だけれども、そんな状態でも今日ババアやヒゲ医師から受けた非道な仕打ちの数々、そのイライラが内からずもずもと湧き出でて私を酷くさいなむ。


 だがイライラとしていても、いや、そのイライラも手伝ってか、そんな時間もせぬ内にむやむやと眠くなってきて、試しに目蓋を閉じてみると自身でも気付かぬ内に眠りへと落ちていた。 


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