二日目 -201号室 姥捨山へろ小-
「起きてください。もうよい時間でございますよ。お加減よろしいですか?」
低い声と共に揺すられる体。その振動でむやむやとした眠りから目蓋を開くと、禿げ長髪一本縛り口髭大男が私の顔を覗き込んでいた。その一度見たら到底忘れられないような顔を見て、昨日の出来事を、自分の置かれた状況を急速に思い出し、私は陰鬱な心持ちで返事をしながら半身を起こした。
「…………えぇ、問題ありません」
「それはようございます。失礼ながらあなたが寝ている間に、血圧やら心拍数やら調べさせていただきましたよ。経過は記憶以外良好でございます」
「…………そうですか」
このヒゲの大男はまた勝手に人のことをあれこれと調べたのか……腹の立つことこの上ない……
そんな私の怒りなど気付いていないのか意に介していないのか、御手洗医師は眼光鋭い微笑を浮かべながら淡々と話を続ける。
「昨日お話ししました通り、本日よりこの裏野ハイツの住人達と会ってお話していただきます。ここの住人達は皆が皆、あなたと切っても切り離せないようなとても深い繋がりがありまして、皆もあなたが記憶を取り戻すことを渇望しているのです。ですから、彼ら彼女等と話すこと接することこそが、必ずやあなたの記憶を取り戻す糸口となると……私はこう考えております」
「分かりました……とりあえず顔を洗わせてください……」
どうせ嫌だと言った所で、私は他にやることが無いのだし記憶を取り戻せるアテもないのだ。ならばこの医師が言うとおり、わざわざ意識の無い私を病院から引き取って面倒を見るような物好きであり、勝手に人の家具やモノを捨て、勝手に扉を付け替えるような変人達と話してみることも一興なのかもしれない。
そもそもこいつ等は親切心からそういったことをしているのかもしれないが――
コイツ等との記憶を無くした、どちらにもよっていないある意味平坦な中立的な思考の私が第三者的な目線で見るに、コイツ等は異常だ。言ってしまえば頭がおかしいのではないかとすら思える。私の価値観が事故のせいでずれているのかもしれないが、とてもまともとは思えない。
そんなことを思いながら御手洗医師に手を借りて立ち上がり洗面と歯磨きを済ませると、また小汚い布団の上に戻った。
「人と会うというのに、布団の上に座ったままでは流石に失礼ですね。御手洗先生、何か机のようなものはありませんか?」
「机ですか? 確か、私の部屋に使っていないちゃぶ台がありましたな……ですが、皆それくらいのことで失礼だとかなんだとかは気にしませんぞ? そもそもあなたが病床にあるというのが分かっているのですから」
「他の皆様が気にしなくても私が気にするのです。ですから先生、お願いですからそのちゃぶ台を持ってきてはいただけませんか?」
私の言い分に納得したのか「分かりました」と頷いて先生は部屋から出て行った。それを見送ると布団を畳んで体当たりのように肩でそれを押し、隣の部屋に続く引き戸の前に布団を移した。それが終わる頃には、ちゃぶ台を軽々と片手で掴んだ先生が戻ってきたので「そこに置いてください」と指示を出して部屋の真ん中に設置すると二人でそこに腰を下ろした。
「さてさて……では本日はこの203号室のお隣のお隣になる201号室に住んでいる、姥捨山へろ小さんという方にお会いしていただきます」
先生は緑茶の入った二ℓペットボトルと湯飲みを三つ何処からか取り出すと、その容器の表面に浮いた汗を台拭きで拭きながら二つの湯飲みに注いで一つを私の方へ差し出した。私は「どうも」と言ってそれを受け取り少し飲んで唇を湿らせる。
「二つ隣ということは、今はお隣に誰も住んではいらっしゃらないので?」
私は考えも無しについ思ったことを口走ってしまい、言い終えてから何でこんなことを言ってしまったのかと自分で自分のことが少し恥ずかしくなった。普通に考えれば隣が空き室じゃなく誰か住んでいたとしても、学校や仕事や用事といった諸所の都合というものがあるだろう。だから今日会うと言う人が何号室の住人だろうが、本来なら不思議に思うところではないのだ。
「そうですなぁ……折角ですから、先にこの裏野ハイツに住んでいる住人達のことを、ざっと説明しておきましょう」
白衣のポケットから手帳と万年筆を出した先生は、その手帳の一頁を破ると私に見せるようにちゃぶ台の上に乗せて長方形を書きこむと、その長方形に縦線を二つと横線を一つ入れ、計六つに分かれた升目に部屋番号を書き込んだ。
「まずここが、あなたが今いる部屋203号室になります。勿論ですがここにお住まいなのはあなたです。次にあなたの部屋の右隣になる202号室ですが……ここは……あなたの記憶に非常に関係している場所になっていますので、他の住人達全員と面会した後に、全員立会いのもとで一番最後にあなたに足を運んでもらう……という形にさせていただくことにしました」
「……なるほど、分かりました」
「おや、案外あっさりしておられるのですね?」
「そうでもありませんが……結局行けるのですから早いか遅いかの違いしかないでしょう? そんなに食い下がることでも無いと思っただけですよ……」
表面上こう言ってはいるが、私の記憶に非常に関係していると言われ、しかも全員立会いの元というわけのわからぬ条件までついていて気になら無い訳が無い。だが、昨日もそうだったがこの目の前にいる大男は、きっとどれだけ教えてくれと請うた所で何一つ口を割ることはないだろう。私の記憶に関しても「私が思い出すのを待つ」の一点張りで、私が知りたい情報は何一つ教えてくれないのだし「絶対に喋らん」という頑なな医師の意思がその雰囲気空気表情から感じ取れるのだ。
そんな私の思考を、お互いがお互いの思考を感じ取ったのか、目の前の男は口ひげを弄りながらうんうんと軽く頷き話を続けた。
「なるほどなるほど……では続けさせて頂きますが、その隣201号室には先程紹介した姥捨山へろ小さんという七十代のご婦人がお一人で住んでおられます。続いては一階の101号室、これは私の部屋になります。その隣の102号室には鍛冶場育郎さんという四十代の男性がこれまたお一人で住んでおりまして、この方は部屋から出ることは殆どありません。最後にその隣の103号室に香宗我部さんご一家が住んでおられまして、三十代のご夫婦と今年三歳になる息子さんがいらっしゃいます。以上がこの裏野ハイツに住んでいる全住人の簡単な説明です」
全住人の説明を終えた先生はグビグビと湯飲みを呷り、空になった湯のみをタンッと置く。
「なんだか……皆さん特徴的な名字の方が多いですね……こう言ってはなんですが……特に姥捨山さんなんて酷いですね……」
先生の話だとここの住人全員が以前の私ととても深い関係があったという話だが、このような特徴的な名字や説明を受けてもなんの気持ちも感情も、勿論記憶も何も湧くことはなかった。
「まぁ、それは仕方ないでしょうな……名字や名前は替えたいからと言って中々替えられるものでも無いですからな……ですが、昨日の粥を作ってくれたのはその姥捨山さんなのですよ。姥さんはとても料理が上手な方でしてね……まぁ、そのへんは今から実際にお会いして話してみたほうが早いでしょう。では姥さんも待ちかねていることでしょうから、私は今からお呼びしてきます」
またペタペタと雪駄を鳴らして先生が出て行くと、私の腹がぐーと鳴った。
そういえばお腹が減ったな……昨日の粥から何も食べてないのだから当たり前か……
湯飲みの緑茶を飲んでその空腹を誤魔化していると、一人の老婆を連れた先生が戻ってきた。
その老婆は先程の説明にもあったとおり、七十代と言った見た目で、顔には無数の深いシワが刻まれ、頭には三角巾を着け体には服の上から割烹着を着ている。特徴的だったのはそのシワまみれの顔に付いている、しょぼしょぼとした開いてるんだか開いてないんだか分からないような両目だった。
だが私は連れられた老婆のことよりも、相変わらずノックも呼び鈴も鳴らさないこの男に苛立ちを覚えた。先生と老婆は「お邪魔します」も言わないどころか、私の「どうぞお入りください」という返事も聞かないで、勝って知ったるというふうに玄関を上がってちゃぶ台に座ったのだ。
こいつらは頭がおかしいのか……?
なんでこいつらは私に何の断りも無くずけずけと上がりこんでくるんだ……?
例え以前の私がどれほど親しくしていたかは知らないが、親しき仲にも礼儀ありだろうに……
普通に考えておかしくないか……?
そもそも本当にここは私の家なのか……?
ちゃぶ台を隔てた私の対面に無言で立った老婆は、座るや否やそのしょぼしょぼした両目をかっと見開き、私を睨みつけた。いきなりのことで何がなんだか分からなかったが、無言で私をじっと見つめるその老婆の異様さだけは理解できた。理解はできたが、何も解決できるわけではないので、ただその老婆を見返すことしか出来なかった。
「…………」
「…………」
嫌な汗が流れてくる……何もしていないはずなのに、その責めるような視線に何かやってしまったんじゃないかと思い始めてくる……
なんだ……なんなんだこのクソババアは……何か言ったらどうなんだ…………
ボケてるんじゃないのか……? 私よりこの婆さんのほうがよほど駄目なんじゃないか……?
何やってるんだヒゲ医者……お前が連れてきたんだから少しはこの場を取り持ったらどうなんだ…………?
分かるだろこの異様な光景……? 全身傷痕だらけの記憶喪失男をいきなりやってきた老婆が何も言わずに睨みつけているんだぞ……? おかしいだろう……?
「あ……あの……」
その視線にいい加減耐え切れなくなっておどおどと渇いた口を開くと、何かを感じ取ったのかその老婆の両目がシュッと細くなって「あらやだよぉ」と、老婆特有のしゃがれた高い声を発しながら破顔した。
「え……?」
「いやぁ~すまないねぇ~あたしゃ目が悪いもんでね、あんたが起きたって先生が言うから来てみたんだけど、こうやってあんたの顔を見るまであたしゃ半信半疑でね! ちょっとホントだって確認するまで時間がかかっちゃったのよぉ~すまないねぇ!」
ちょっとって時間じゃないだろうに……と胸中で思いながらも、人の良さそうな笑みを浮かべる老婆にほっと一安心する。
……が、よく見れば細まったその両目の奥は怪しい光を放っているような、とても笑っているようには思えないような、気を抜いてはいけないような圧が出ているような――
「あたしゃぁ姥捨山へろ小っていうんだけどねぇ、もうここに住んで二十年以上になるんだよ。あんたがここにきてからは随分と世話を焼いたもんじゃが……覚えていないかい?」
結構な特徴を持ったお婆さんだが、何か思い出せるような気配は微塵も無かった。
「申し訳ないです……何も……覚えていません……あの……以前の私は、一体どのような人間だったのですか……?」
「駄目よ~そりゃあんた自信が思い出さなきゃ駄目なんだよぉ。先生がそう言うんだから間違いないわぇ。あたしからは、あたし自身のことは言えるけど、あんたに関することは何にも言えないねぇ。ただ、これは先生からも聞いてると思うけど、あんたにはホントに世話になったんじゃよ~早く思い出して欲しいもんだねぇ」
思い切って聞いてみたが結果は空振りだった。このヒゲ医者の根回しが相当なものなのか、それともここの住人達の結束が固いのか、この老婆の様子を見るに結局誰からも聞きだせそうにないことは想像に難くない――
このクソババァめ……早く思い出したいのは私のほうだ……そもそもお前は第三者で当事者は私だぞ……このヒゲ医者もそうだが……早く治って早く良くなってなんて言うのは簡単だ……だがその台詞を言われるほうの気持ちを考えたことはあるのか…………?
「そうじゃ、すっかり忘れとったわ! あんた腹減ったじゃろう? また粥を作ったから持ってきてやるわぃ!」
姥さんはそう言うと私の返事も聞かず、すっと立ち上がって部屋を出て行き、暫くすると小振りな土鍋を盆に乗せて戻ってきた。