一日目 -101号室 御手洗馳夫-
私は、自分自身のことが分からない、所謂記憶喪失なのだと言う事を改めて認識すると、洗面台を掴んで自分を支えていた両手から、身体全体から力が抜け落ちて、大きな音を立てて真後ろに倒れこんだ。板張りの床へ強かに頭をぶつけたが、衝撃と鈍痛、視界が揺れるだけで何も記憶は戻らない。痛いだけで何の変化も起きない。
「…………」
洗面所と居間の敷居の間で大の字になったまま、ぼうっと染みの付いた薄汚い天井を眺めていた。
私が記憶喪失……どういうことだ……?
信じられない……どうして、こんなことになってしまったんだ……?
目が覚めたら小汚い布団に寝かされていて……全身傷だらけで……爪は無いし足もうまく動かない……
醜い火傷の痕に無数の切り傷と黒く変色した痣だらけで……挙句の果てに記憶まで無いなんて……
あまりにも現実味が無さ過ぎる……さては……これは夢かな……? 夢じゃないのかな……?
そんな甘い考えを、現実逃避な思考を、即座に自身で否定する。
いや……ありえない……そうだ……
夢じゃないかと思うときほど……夢であって欲しいだけの現実なんだ……
つまり……これは……悪夢のような現実で……目覚める方法は無い……何故ならもう目覚めているのだから……夢を見ることはできても……この現実から覚めることは無いのだ……
受け入れがたい現実を、ぼんやりとした思考で受け止めると、途端に心の奥底から耐え難い衝動が湧き出てくる。その衝動は如何ともし難く、寂しい切ない苦しい辛い痛い悲しい怖い助けて嫌だ何で何故という気持ちが綯い交ぜになって、瞬く間に私の精神と脳を覆いつくす。
私は大の字で寝そべったまま、とても人間とは思えぬほどの叫びを上げると、手足をじたばたと激しく動かして泣き叫んだ。その甲高い金切り声のような叫び声が、全く自分のモノとは思えなくて余計にその衝動を加速させる――
「がっ!!」
更に大きな声で泣き叫んでいると、何かで舌を切った。
その痛みと口に広がる血の味、泣き叫んだことによることで多少の冷静さを取り戻した私は、ゴロンとうつ伏せに転がって怪我を確認するべく、口を開けてべぇと舌を出した。
すると、思いの外深く切ったらしく、溢れた血が舌を滴って下にポタポタと落ちる。
何で切ったんだ……?
舌を噛んだわけじゃない……ならなんで口の中で舌が切れたんだ……? おかしいじゃないか……?
切れた舌で口の中をつついて見ると、怪我の原因が分かった――
それはとても実に簡単なことで、奥歯が砕けていたのだ。
下顎上顎の左右合わせ計四本の奥歯がへし折られたかのように、根元の少し上辺りで砕け折れているのだ。今泣き叫んだ拍子に砕けたわけじゃない、気づかなかっただけで、多分、起きた時から砕けていたのだろう。
なぁーんだ……そりゃ舌も切るわな……
こんな砕け方してるんだもの……
大丈夫大丈夫……次から気をつければいいんだよ……
わはは……はははははは……当たり前だ……あっはっはっはっ……………は………………
「んぎぃいいいいいいいいああああああああ!!!!!!!」
だから何で奥歯が砕けてるんだよ!? なんで爪がないんだよ?! なんで全身傷だらけなんだよ!! なんで記憶がないんだよ!! ここは何処で!! 私は誰なのか!!!! 怪我した記憶もここにいる記憶も理由も何も一切合財思い出せない!!!
あなや……
あなやぁ!!
あなやああああ!!!!!!
湧き出でる癇癪を、激化する激情の激流を撃退すべく、手が白くなるほど拳をきつく握り締めて、頭を激しく床に打ちつけて発散する。だが痛いだけで何も発散できない何も思い出せない。つまりは痛いだけの痛み損、まさに痛みの全損…………
「ふぐぅぅぅ……!!! ぎぃぃぃぃいいい!!!?」
気狂いのように激しく呻いていると、何の啓示か、ふと、その玄関の扉が目に入った。
「あ……」
そうだ……外だ……外に出てみれば何か分かるかも知れない……
その気持ちが激しい感情の捌け口となって、私は藁をも縋る気持ちで玄関に希望を託し、また必死で這いずりながら玄関へと向かう。
脱げかけた薄ぺらい服のせいで、さらけ出した腹部の地肌が板張りの床に触れ滑りが悪く、うまく摺り腹移動ができない。私はその途中にあった敷布団を腹の下に敷くと、その布団ごと体を滑らせる。
外に……! 外に外に外に外に外に……! 外にでればきっと全てわかる……! 全てから解放される!
ようやくの思いで玄関の框までたどり着いた。
だが、やっとの思いでたどり着いた玄関前で、私は、その異様さに気付き動きが止まってしまった。
まず目に付いたのは、この玄関には靴が一足も置かれていないということ。
もし、私が記憶を無くす前にこの部屋で生活していたというのなら、私が外でも内でも常に裸足で生活するどこぞの現住民族のような人間で無い限り、靴が一足も置かれていないなんてことは無いはずだ。それだけでも奇妙なのだが、本当におかしな所は、玄関の扉にあった。
この玄関扉の握り玉には、内鍵がついてい無いのだ。
内側からつまみを回して鍵を開け閉めできるアレが無い。無いどころか、むしろ何故か、この玄関扉は、こちらに、内側に鍵穴が付いているのだ。内側に鍵穴が着いている玄関なんて、記憶が無いとは言え明らかにおかしいと分かる。これはおかしすぎる。
つまり、この部屋は、内側から鍵を開け閉めすることが出来ないのだ。 外側がどうなっているか分からないからなんともいえないが、もしかしたらこの玄関扉は、通常の扉とは逆さまに取り付けられているんじゃないのか?
外側から鍵の開け閉めができて、内側からは鍵が無ければ開閉出来ない、なんて構造になっているのではないか?
「………………」
あの握り玉を回しても……鍵がかかっていてこの部屋から出られないのかもしれない……
もしかしたら……私はこの部屋に閉じ込められているのかもしれない……
そう思うと、ぞっとした冷たい感覚が内側からどんどんと湧き出して、精神的に凍死してしまいそうな程冷え込む。
暫くの間、框の上で、握り玉を掴もうと腕を伸ばしては、「もし鍵が掛かっていたら……」という恐怖感から、腕を引っ込めるを繰り返していると、目の前の扉の外側から「ガチャリ」と鍵を開けるような音が聞こえると同時に、握り玉がゆっくりと回り、玄関の扉がゆっくりと開かれた――
「え……」
低速再生のように開かれる扉を、ポカンとしながら見つめていると、完全に開かれた扉の外に、 二メートルはあろうかという長身に白衣を纏った大男が立っていた。
熊のようながっしりとした体格に白衣を纏い、その下に白いワイシャツと、そのワイシャツの裾を入れた黒い長ズボンに雪駄を履き、左手に革製の手提げ鞄を持っている。
「…………」
その大男は何も言わず玄関前に立ったまま、動揺して動けないでいる腹這の私を、感情の無い能面のような表情でじっと見つめている。
私も何がなにやらで自然見上げ返す形になって、お互い無言で見つめあう。
歳は五十代くらいだろうか、後頭部を残して禿げ上がった頭に、伸びばした残りの髪を後ろで一本に束ね、高い鷲鼻に立派な口ひげを蓄え、その出っ張った眉骨から覗く爬虫類のような三白眼からは、底冷えするような冷たい視線を放っている。
「…………」
「…………」
え……誰だ……?
なんで勝手に入ってきたんだ……?
ここは私の家じゃ無いのか……?
何が何だかわからない……状況が全然理解できない……誰この人……?
もしかして……私は本当に……ここに閉じ込めらて……監禁されているのか……?
そういえば……こいつが入ってくるとき……外側から鍵を開けたような音がしたような…………?
「あ……あの……」
「お目覚めになられましたか! 皆待ちかねていたのですぞ! いやぁ良かった!」
「え……?」
陽気さに面食らう。その発せられた言葉に心底嬉しいという気持ちが滲んでいることが分かる。
どうやら目の前の男は心底喜んでいるように見えた。だというのに、何故だか私は、言い知れぬ不安を感じた。本能的なものなのかよくわからないが、なんだかこの男は恐ろしい、そう思った……
「あ……あなたは……私のことを知っているのですか……?」
「何を仰っているんです? しかも布団をこんな所まで引き摺ってまあ……立ち話もなんでございますから、中でゆっくりとお話ししましょう……ちょっと失礼しますよ」
「あっ」
男は私の返事も聞かずに扉を閉めてずんずんとこの部屋に入ると、私の体にその野太い腕を伸ばして軽々と持ち上げ、コロンと仰向けにひっくり返し敷布団の上に寝かせ、その敷布団を引き摺りながら、先程起きた時に布団があった位置へと移動させた。
私は何がなにやらでされるがまま、何の抵抗もせず布団の上で静にしていた。
そもそも抵抗しようにも、今の腕力では絶対この大男に敵わない。力量差を埋めるだけの武器もない、ようは抵抗するだけ無駄なのだということ、頭が勝手に分析してその結論を出していたからだ。
私ごと布団を移動させ終えた男は、パンパンと埃を払うように手を叩くと、ゆっくりと私の横に座った。
「さてと……では、一つずつ、確認をしていきましょう。私が誰か分かりますよね?」
男は私の目をじっと見つめながら、ゆっくりと話し始めた。やけに陽気というか、親密的な関係の人間相手に話しているような感じがする。しかも疑問系ではなく私が自分のことをしっていると断定している。
白衣を着ていることから、医者か研究者かという単純な二択が頭の中で出てきたが、それはあくまで予想であって私の記憶ではない。目の前にいる恐ろしげな偉丈夫が誰かは分からないが、何かしら私のことを知っていそうなので、下手な探りや誤魔化しはやめて正直に答えることにする。
「……わかりません」
「あれまぁ……そうかなぁとは思ってはいましたが……本当にそうなるとは……それは困りましたねぇ……本当に分からないのですか? 本当の本当に分からないのですか? 下手なウソを付くと為になりませんよ? ウソがばれた時にもっと厄介なことになってしまいますよ?」
男は遠慮の無い視線で私の顔を上から下から覗き込むと、じっと絡めつくような視線で私の目を見る。
その何か脅すような物言いが気になったが、私は自分の記憶のことのほうがもっと気になったので正直に答える。
「……はい、本当に分からないのです……ここが何処なのかも自分が誰なのかも……何も……何も思い出せないのです……」
「左様ですか……確かに……ウソを付いているわけではないようですね……これは困ったなぁ……どうしたものか……ちょっとこれをゆっくり飲んでおまち下さい」
男の目を正面から見返して答えると、男は私がウソを付いていないと分かったのか、心底困ったような顔をして、鞄から取り出したペットボトルを私に差し出すと、腕を組むと下を向いて何やらぶつぶつと考え込み始めた。
「……どうも」と言って受け取りラベルを見てみるとそれには「経口補水液」と書かれている。喉が渇いていた私はキャップを空けて言われたとおりにゆっくりと飲んだ。
冷やされておらず、ぬるくてあましょっぱい味だったが、震えるくらいおいしく感じる――
その感動にも似た味を全身で味わっていると、男が何やら考え終わったのか、おもむろに口を開き話し始めた。
「……私は御手洗馳夫と申しまして、医者をやっております。平たく言えば、あなたの主治医のようなものですな」




