一日目 -目が覚めると-
サイコホラーな内容となっております。
おばけや霊の類は一切でてきませんが、頭のおかしな人間が多々でてきますので、ご注意ください。
私を覗き込む、感情の無い能面のような顔、顔、顔、顔、顔、顔、知らない顔が計六っつ。
驚きで心臓が止まりそうになる
え……? 誰……?
何……? どういうこと……?
その疑問も分からぬうちに、ふと意識が遠くなり、ゆっくり視界が黒くなる――
これは……そうだ……おちる……おちていく……
その間際、能面たちの顔に、動揺が走ったような気がした――
精神壊れかけ
記憶意識は散り散りに
雲散霧消したかと思いせしも
一厘ばかりの欠片残れり
消えず残るは僥倖か
僅かなりとて残るるならば何れはまた戻らんや
また以ってして目が醒める
いったい誰か烏の雌雄を知らん――
カーカーカーカーカーカー カーカーカーカーカーカー
ああ……やかましいな……
もう少し寝かせてくれ……
なんだか疲れてるんだ……起きたくないんだ……
カーカーカーカーカーカーカーカーカーカーカーカーカー
まだ寝ていたいと言っているじゃないか……なんて聞き分けの悪いカラス共なんだろうか……
止まないカラスの鳴き声で無理矢理に目を覚まさせられた。
無理矢理に起こされて大変に気分が悪い。
身体も頭も重いし、寝返りを打とうと思っても、凝り固まったように身体がうまく動かない。
「ふっふふふ……ふっふふっ……」
くぐもった発作のような笑いが漏れる。カラスは頭が良いと聞いたことがあるが、それは大嘘だ。私にこんな不愉快な思いをさせて、長生きできるとでも思っているのだろうか? もし私が猟師だったならば、起き抜けに撃ち殺しているところだぞ……なんて間抜けな生き物なんだ……
カーカーカーカーカーカーカーカーカーカーカー
……待てど暮らせどこのカラス共は静になりそうにない……
仕方ない……起きよう……イヤイヤに体を起こそうとすると、全身の関節と筋に痛みが走る。その予期せぬ痛みに起こそうとした体をまた布団に戻しかけたが、痛みなんぞに負けるかという、ある種の意地と気合でその弱気を抑えて上半身を起こした。
「痛た…………」
きっと変な体勢で寝ていたのだろう……寝ているときに足がつるようなものだろう……
「ん……?」
ふと、自分が使っていた布団を見て、なんだこの汚い布団は? と不快感を覚える。
それは、所々解れて点々とした黒ずみと黄ばみが広がる、まるでごみ捨て場から拾って来たような小汚い布団であった。
「きたな…………ん?」
ふと、違和感に気付いた。
何かおかしい……何かがおかしいが……何がおかしいのだろう…………?
そう思って違和感の正体を見つけるべく、部屋の上下前後左右をぐるっと見まわす。
上……ポツポツと染みのついた、ベニヤ板丸出しのような、古く、痛んだ天井。
下……とてもフローリングなんて洒落た表現をできないような、塗装が剥げ汚れと傷が目立つ板張りの床。
前……閉まった引き戸。風呂場とかに繋がっているのだろうか?
後……黒いカーテンの閉められた窓。遮光カーテンでは無いのか日の光が透過して部屋に入ってきている。その上には一目見て古い型だと分かるエアコンが取り付けられ、パキパキと音を立てながら稼動している。
左……薄そうな壁と閉まった引き戸。もう一つ部屋があるのだろうか?
右……安っぽいガスコンロが一つ付いた小さなキッチンがある。けれども、冷蔵庫や調理器具は一切見当たらない。そのキッチンの右横には玄関があった。
一通り部屋を見終えると、違和感の正体が分かった。
それは、自分でも予想だにしなかった、むしろ予想よりも遥かに怖ろしい正体。
「何処だここ……?」
ここは、この部屋は、全く見覚えの無い部屋だったのだ。
ベニヤ板丸出しの痛んだ天井も、傷ばかりの痛んだ床も、何もモノが置いてい無いキッチンも、玄関も、引き戸もその中も、布団もエアコンも、全てに覚えが無いのだ。
その事に気付くと、じわじわと内から湧き出てきた得体の知れない恐怖感が、皮膜のように全身を覆いだして……嫌な汗が流れてくる……鼓動が早くなる……
落ち着け……なんてことはない……落ち着いてよく思い出すんだ……
どうやら、ここは何処かの古いアパートの一室で、私はそこの部屋の真ん中に敷いた小汚い布団の上で寝ていたのだ――
……なんで?
…………なんでこんなとこで?
………………なんでこんなとこで寝ていたんだ?
…………思い出せない…………
エアコンのパキパキという音だけが響く部屋で、どれほど頭を働かせても何も思い出せない。
恐怖と不安、それらを感じならが徐々に荒くなる呼吸を、動悸する心臓を抑えるため胸を押さえて俯いた瞬間、何か黒い細長いものがバサッと顔にかかった――
「うわっ………!」
反射的にその黒い物体を掴んで引っ張ると、ぶちぶちっとした感覚と共に鈍い痛みが頭に走る――
「あっ……づぅぅぅぅ……!」
なんだこれは……?
その黒いものを握りこんだ両手に目をうつすと、そこには黒い髪の毛が数十本握られていた。どうやら、顔にかかった黒い束は、自分自身の髪の毛だったようだ……
なんだ……な髪の毛じゃないか……我ながらバカなことをした……
「ははははは……ばかだなぁ……」
不安を誤魔化すために笑いながら、握り締めた髪の毛を見ていると、また、何か違和感を覚える。
あれ……?
妙だな……?
私の髪の毛は……こんな不必要に……自分でも自分の髪の毛だと気付かないほどに……長かっただろうか……?
握り締めた髪の毛を見つめ、じわじわと流れる嫌な汗を感じていると、今度はその握った拳に、なんというか……こう……あるべきものがないような……感覚がおかしいような妙な……覚えの無い感覚がして……
手を開くと、握り締めていた髪の毛達がハラハラと布団の上に落ちていく。
それを見届けながら、まだ手の平に残っていた髪の毛を「ふぅ」と息で吹き落とし、手の平をまじまじと見る。
普通だ……特に変なところはない……あ……生命線が短い……
両手とも特に変わったところは無かった。
なんだ……勘違いか……
そう思って何気無く、くるっと両手をひっくり返して手の甲を見ると、あるはずのものが無かった――
「!?」
私の両手の指先には、爪が一枚も付いて無かった。
あまりの衝撃に息をすることすら忘れて、指先をひたすらに凝視する。
それも、剥ぎ取られたんじゃないのかと思えるほど根元からキレイさっぱり無くなって、爪があるはずの場所には、黒ずんだ桃のような色をした、皺の寄った乾いた傷痕があるだけだった。
「なんで……?」
呼吸がどんどん荒くなる。状況が全く理解できない。なんで爪が無いんだ? それも全部。私の爪は一体何処に消えてしまったんだ? 爪は着脱可能なモノだっただろうか? いや、そんなワケない――
取り留めの無い現実逃避にも似た思考で、爪の無くなった両手をジッと見つめていると、ヤケに茶黒く汚れている腕が視界の端に入ってくる。それがまた妙に気になった私はそちらに目線を移すと、爪と同等かそれ以上の精神的衝撃を受けた。
私の両腕に付着している汚れだと思ったものは、汚れではなかった――
それは、無数の傷跡だったのだ。茶色くなった火傷痕、どす黒い痣、皺に見える切り傷の痕が、無数に散らばって、糾える縄が如く絡み合っているではないか。
布団を捲って確認してみると、両脚も同じように無数の傷跡まみれで、それに追い討ちをかけるように、足の指の爪も十本全てが根元からキレイさっぱりと無くなっていた。
あまりにも衝撃的なことが起こり過ぎて、いよいよ自分でも何がなんだか分からなくなってくる。
他にもおかしなところはないかと、身体をまさぐろうとした所で、私は自分が着ている衣服にも見覚えが無いことに気付いた。
改めてその着ている服を見ると、それは青い色をした、ヒラヒラとした薄っぺらい一枚の布で出来た浴衣のような服で、右側の腰の辺りで紐が結ばれてはだけないようになっているそれは、よく見てみれば病院で患者が来ているような服だった。
得体の知れない恐怖やら緊張で、ぶるぶると震える爪の無い強張った指を使って、なんとかその衣の紐を解くと、上半身をはだけさせて体を確認する。
胸、腹、腰、にも腕や脚と同じように酷い傷痕が無数に散乱している。わき腹の左右に一つずつある火傷痕などは特に酷く、何か太い焼けた鉄の棒を押し付けたように、そこの部分だけ肌がどろどろに溶けて醜く変形しながら赤黒く変色していた。
「なんで……なんで……こんな傷が……?」
状況が全く理解できていないのに、何一つ自分の中で飲み込めていないのに、容赦なく次々と襲ってくる現実に対応できない。ただただ頭の中で阿呆のように「なんで?」と繰り返すことしか出来ない。だんだんと現実感が無くなってきて、上半身をはだけさせた、傷だらけの、やけにほっそりとした手足を見ながら呆然とするしかなかった。
どうしてこんな傷だらけなんだ……なんで…………
目が覚めたら見知らぬアパートの一室に寝かされていて……
爪が全部無くて……体中傷だらけで…………
思いだせ……何があったのか思い出すんだ……どうして私はここにいて……どうして傷だらけなのか………
「あ……」
体に出来た傷以上の、とてつもなく嫌なことに気付いてしまいそうになった私は、あわててその考えを振り払うように、ゆっくりと自分の顔に両手を伸ばして、一つ一つ確認するように ぺたぺた ぺたぺたと触る。
ぺたぺた
ぼうぼうに伸びた不精髭が口から顎の線を覆っていて、モサモサとしている。かなりの間髭剃りをしていなかったことが分かる。
その髭に覆われた顎間接から顎先にかけての線は、しゅっとしているというよりは、丸みが全く無く、骨が浮き出てゴツゴツと尖っているようで、頬も頬骨が浮かんでいるほど痩せこけている。
ぺたぺた
唇はガサガサしているが、ちゃんとついている。
ぺたぺた
鼻もちゃんと付いている。
「あれ……?」
ぺたぺた
両目も二つともちゃんと見えているし眉毛もある。
「あれあれ……?」
ぺたぺた ぺたぺた
両耳も無事だ。どこも欠けていないしちゃんと聞こえる。
よかった……顔は大丈夫なようだ……
もしかしたら……鼻とか唇とかも付いてないんじゃないかと嫌な予想をしてしまったが……ちゃんと付いてるじゃないか……
ぺたぺた ぺたぺた
だけど、泣きそうになる
ぺたぺた ぺたぺた
額、目、鼻、口、頬、顎、眉、髭、髪、ちゃんと全部ある、一つの欠損も無く全部ついている。付いているのに、呼吸が荒くなる、顔が歪む、見開かれた目から涙が零れてくる。自分の顔を触りながら涙が止まらない。
ペタペタぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた
力が入って皺が寄っている広めな額、見開かれ涙をぼろぼろとこぼしている目、呼吸が荒く広がった鼻の穴、みっともない声を出しながら開いている口、邪魔な前髪を振り乱し涙を流しながら狂ったように自分の顔を触り続ける。
「あれあれあれ…………???」
ぺたぺたぺたぺた ぺた ぺ た ぺ
そうして、その手を止めると、口からぽつりと言葉が漏れた。
「……この顔、誰?」
私は、触り続けていた、この顔に、自分自身の顔であるはずのものに、全く覚えが無かった。
「…………」
その自分の顔の感覚に覚えがないという事実に、布団の上で半身を起こして前を向いたまま呆然としていると、目の前にある引き戸に気が付いて、はっとする。
そうだ……あの引き戸だ! あの中はきっと風呂場が洗面所が……鏡があるはずだ!
そうだよな……? 多分あるよね……? 多分ここはアパートでしょ……? 洗面所くらい付いてるよね……?
カガミ……鏡鏡鏡! 鏡よ鏡よ鏡様……! そりゃそうだ……考えてみれば当たり前じゃないか……自分の顔かどうかなんて触っただけで判るわけないじゃないか……
我ながらバカバカしくて笑えてくる……傷痕に動揺しすぎて冷静さを失っていた……早く鏡を跼みて鑑みなければ……! 早くこの不安を取り除かなければ……!
思うや否や立ち上がろうとするが、うまく足が動かず、中途半端に立ち上がりかけた姿勢のまま、ドスンと大きな音を立てて前のめりに倒れる。その拍子に敷布団から浮き出た大量の埃達が宙を舞い、カーテンから透過する陽光に照らされキラキラと輝やきを放っている。
その舞い散る薄汚い輝きが、今の私には目の前を照らす希望の光に見えて、あの引き戸が希望に繋がっているように思えて、うまく動かない足で立つことを諦め、腹這いでずりずり前進しながら一心不乱に引き戸を目指した。
輝きの海を抜けて、引き戸に手をかけガラッと勢いよく戸を開けると、そこには予想通り鏡付きの洗面台があった。私はその洗面台に両手をかけてそれを支えにしてなんとか立ち上がり、鏡を見た――
顎先まである長い前髪から、落ち窪んだ切れ長のぱっちりとした両目、その眼窩より暗い光を放つ、もさもさの無精髭を生やした、痩せ細った生気の無いやつれ顔の男。
その二十代にも三十代にも見える男が、私の目の前に立って、呆然と私を見つめていた。
「……」
「…………」
「………………」
「あは…………」
「はっははは……あっはっはっはっはっはっ!!」
掠れた声を上げながら大笑いする私と連動するように鏡に映っている貧相な男も笑っている。
あの埃の輝きは私の道を照らす栄光の光でも灯火でもなかった。
私を絶望へと誘う標だったのだ。
一通り笑い終わった後、私はもう一度、顔が触れるくらいに深く近く鏡を覗き込み、そこに写っている怪しげな男をジッとまじまじと見つめ、ぽつり口を開いた。
「……誰だこいつ?」
ここが何処だか分からない……
何故ここで寝ていたのかも……
何故身体中が傷だらけなのかも……
そして、今、鏡の前に立って確信した。
私は、私が誰だか分からない。
自分の名前も、ここにいる理由も、何故全身傷だらけなのかも分からない。
私には、記憶が無いのだ。
私は、私が、私自身が誰なのか、自分自身が何のか全く分からないのだ。