第二章:海輝2
西市のはずれにある小さな家具屋の扉が、カラカランと音を立てて開いた。
『なんだ、お前。また、来たのか。』
そう言いつつもエドワードは、愉快そうににやりと笑った。
『お前こそ、暇だな。こんな所で油を売っていては、またフィリップ様の雷が落ちるんじゃないか。』
少年は、大またで店の奥までずかずか入ってきた。
『「こんな所」で悪かったな。まったく二人共。いい若い者が、勉学も仕事もせずにブラブラしとるのは、感心せんぞ。』
店の二階から、しゃがれた怒鳴り声が、響いた。
二人の若者は、肩をすくめると、忍び笑いを含んだ目配せを交わした。
『夕刻になってから来るのは、珍しいな。』
『書庫に行ったら、絡まれたんだ。そのまま帰るのも気分が悪いからな。』
少年は、店の奥にある本棚に手を伸ばすと、古ぼけた本を一冊取り出した。
ほとんど使われていない本棚は、埃だらけで、手に取った本も当然真っ白に見えるほど埃を被っており、少年は、わずかに眉を寄せると、埃を払った。
『またか。暇な奴らだな。お前もつまらなそうな顔をしているから、絡まれるんだ。跡取り候補から外れたからといっても、直系の長男であることには、変わりないのだから、分家の者が、やっかむのも仕方ないぞ。』
そう言いながら、エドワードは、腰掛の上に積み上げてあった籠を移動させて、場所を空けてやった。
根っこからの末っ子体質なエドワードだが、この少年になぜか世話を焼いてやりたくなる。
彼をそうさせる理由が、複雑な境遇に同情しているのか、自分と同じように異国を感じさせる容貌をしているせいかは、よく分からなかったが。
『この顔は、元々だ。それに好きでこんな立場に生まれたわけじゃない。』
既に忠告という名の説教に飽き飽きしているのか、少年は、エドワードから視線を外すと、本を開いた。
そんな少年の様子を見て、エドワードは、何を言っても無駄と悟った。
『とにかく、怪我をしてないようだから、良かったよ。』
俯いて文字を追っていた少年は、エドワードの言葉にふと思い出したように顔を上げた。
『いや、殴られそうになったんだけどな。妙な奴が、しゃしゃり出てきた。』
『妙な奴?』
海輝は、ああと頷くと話し始めた。
王宮に併設してある書庫に行った海輝は、張家の分家の少年達と遭遇してしまった。
一味の頭であるの大商家の息子である恵明は、海輝の姿を見止めると、でっぷりと肥えた腹を揺すりながら、意地悪く笑った。
『見てみろ。高貴なる王宮書庫に胡生の子が、入り込んでいるぞ。おい、誰か出口を教えてやれ。』
恵明の言葉に周りの少年達もせせ笑った。
海輝は、恵明のはちきれんばかりに膨らんだ頬に一発お見舞いしてやりたいのを堪えながら、唇を強く噛んだ後、落ち着き払った声で答えた。
『母は、商人の娘だが、胡生ではない。』
海輝の冷めた言い方が、気に入らなかった恵明は、鼻を鳴らした。
その仕草が、豚のそれによく似ていたので、海輝は、わずかに口元を緩めた。
『ああ、そうか。こちらの思い違いか。しかし、金凌様も異国の魔物にそそのかされるとは、どうも頼りないな。それに心が、広すぎる。魔物の子をご自分の子として、育てるとは。金凌様の子でない可能性も充分あるというのに。』
これには、海輝の堪忍袋の緒も切れた。
腹に熱いものが溜まり、全身の毛が逆立つような気がした。
怒髪冠を衝くといった感じか。
海輝は、開いていた本を閉じると、恵明達に向き直った。
『そういえば、最近、お父君が、白香楼を出入りしていると聞いたが、白香楼といえば、胡生で有名な店だったな。魔物魔物とおっしゃるが、お父君もその魔物達に入れ込んでいるようにお見受けする。』
恵明の顔から笑みが消え、白い肌に朱が差した。
返す言葉が、見当たらなかった恵明は、激情にまかせて腕を振り上げた。
『言わしておけば、この!』
海輝は、咄嗟に腹をかばった。
恵明も馬鹿ではない。
顔など人目に触れるところに暴行を加えて、当主の金凌の目に留まると、まずいのも分かっている。
書庫に他に人がいないのもこれ幸いと少年達は、海輝を取り囲んだ。
大柄な恵明を含め少年達の中の幾人かは、海輝よりもずっと体も大きく、力も強い。
既に何度も経験済みの痛みを想像しながら、海輝は、ゆっくりと少年達から後ずさった。
その時だった。
『空海兄さん。どこですか?お弁当をお持ちしました。』
少女のような可愛らしい声と共に小柄な少年が、本棚の後ろから現れた。
大きな包みを抱えた少年は、海輝達を見ると、きょとんとした顔をした。
大勢に囲まれた海輝と腕を振りかざした恵明を見比べた少年は、状況を理解したようで、あからさまに困った顔をした。
『えっと、寄って集って一人をいじめるのは、やめた方がいいと思います。』
少
年は、どこか異国の訛りのある発音で、躊躇いがちに言った。
その立場と容姿のせいで王宮で有名な海輝を知らないのも、異国から来たばかりからかもしれない。
『なんだ。お前は。関係ないのに口を出すな。』
海輝を囲んでいた一人が、鬱陶しげに少年に言った。
少年は、少し戸惑ったように一歩後ろに後ずさったが、やがて思い切ったように顔を上げた。
『関係なくありません。御仏の目の届かない所で起きるいさかいは、私達自身が、解決しなくちゃいけない。事情は、分かりませんが、あなた方だけで解決できるとは思えませんし、そういう場合は、わたくしも口を出す権利が、あります。』
そこまで言うと、少年は、すうと息を吸った。
途端、甲高い叫び声が、響いた。
そんな小さな体のどこから出るのかと思うほど大きな叫び声に驚いた人々が、集まってきて、書庫を覗き込んだ。
恵明は、小さく舌打ちをすると、仲間を引き連れて、書庫を出て行った。
そんな恵明達を満足げに見送った少年は、くるりと海輝の方を向くと、にっこり微笑んだ。
『殴られそうになったら、恥ずかしがらず、大声出した方がいいよ。痛い方が、嫌でしょう。』
嫌悪感や好奇心、よくて同情しか含まれていないはずの黒い瞳に温かく柔らかな感情が、はっきりと映っていることに海輝は、戸惑いを感じた。
『人が集まってきてしまったから行くね。あなたも早く逃げてしまった方が、いいかも。』
少年は、悪戯っぽく笑うと、大きな包みを抱えなおして、足早に書庫を出て行った。
『そりゃ、面白いこと言う奴だな。王宮にも見所がある奴がいるみたいで、安心したぜ。』
話を聞き終わったエドワードは、薄い唇の端を上げて、にやりと笑った。
『ただの阿呆だ。恵明に睨まれたら、自分が、厄介なことになるはずなのに。』
海輝は、呆れたように言うと、本に視線を戻した。
冷たい物言いを咎めようとしたエドワードは、少年の顔を見て、押し黙った。
本を前にしながら遠くを見ているような海輝の目は、いつもより優しく見えた。
『友達になれるといいな。』
エドワードは、自然と呟いていた。
『何か言ったか?』
不思議そうに顔を上げた海輝にエドワードは、軽く首を振った。