第二章:海輝
連日続く雨に長安の街は、静寂に包まれていた。
市場の露店もたたまわれ、人々は憂鬱な雨を見上げながら、ため息をついていた。
そんな静まり返った長安で、一軒だけ賑やかな屋敷があった。
『海輝様。海輝様。どこにいらっしゃるのですか?出てきなさい。』
広い廊下を大柄な男が、これまた大きな声を上げて歩いている。
官吏の着物をきっちりと着込み、堂々と歩く姿にどこか風格がある様は、男が役人の中でも高位な人間であることを示している。
『海輝様。出てきなさい。』
そう言いながら、天井の高い部屋に入った時であった。
頭上に影が差したと思うと、いきなり上から大量の水が降ってきた。
『あははは。』
まだ声変わりしていない、少年の高い笑い声が、広い部屋中に響いた。
水をびっしょりかぶった男が、キッと天井を見上げると、鍼と鍼の間に桶を持った少年を見つけた。
くるりと一回転すると、地面に着地した少年は、悪びれせずに口を開いた。
『なんだ、風来。こんな水も避けられないで、どうやって王宮に蔓延る《はびこる》悪意から逃れるつもりだ。』
一目で分かる高級な着物を身に着けた少年は、足を大またに開いて腕を組むと、大柄な男を見上げた。
年は、十三、四くらいであろうか、腰まである漆黒の髪をひとつに結んでいる。
利発そうな眉の下には、透明な青い瞳がいたずらっぽい笑みを含んで揺れている。
『それは、間違いにございます。この風来、この水からも悪意からも逃げる気はとんとありませぬ。ぶつかるが、性分ですゆえ。』
風来と呼ばれた男は、びっしょり濡れた髪を絞ると、慇懃に頭を下げた。
『ふん。』
少年は、鼻を鳴らしたが、口元は緩んでいる。
海輝は、このやけに生真面目な男が、嫌いではなかった。
幼い頃は、海輝の境遇ゆえ、邪な考えを持って近づいてくる者は後を絶たなかったが、父親が海輝を跡取りにしないと公言した後で残ったのは、この風来だけであった。
誠実に尽くしてくれている。
しかし、その風来も、いつかは自分を捨てるかもしれない。
海輝が、またそんな考えも持っていることは、事実であった。
『さあ、海輝様。もう鬼ごっこは、十分でしょう。お勉強をいたしましょう。』
風来は、海輝の肩に手をかけた。
『なあ、風来。わたしが、学ぶことに意味はあるのか?』
海輝は、胸元から手ぬぐいを出すと、風来に渡しながら、呟いた。
風来は、微笑むと手ぬぐいを受け取った。
海輝は、その苦しい立場はもちろん、激しい気性ゆえ、人に疎まれることも多かったが、こんな風に人を気遣う優しさを持っていることも風来は知っていた。
『ありがとうございます。知識は、新たな見解を与えてくれます。勉学に勤しんだ者だけに分かる世界をいうものもあります。』
風来は、海輝の言葉の本当の意味を理解していたが、あえて回答は、まったく違うものを選んだ。
海輝の質問の真に意味するところ。
海輝の姓は、張という。
張家といえば、長安で知らぬ者はいないだろうといわれるほどの名家である。
はっきりいってしまえば、王家の傍系一族である。
商家としても有名な張家は、財力、血筋ともに他の貴族と一線を置いている。
海輝はその張家の現当主である金凌の長子である。
しかし、海輝が、張家を継ぐことはない。
その理由は、少年の容姿にあった。
碧眼である。
海輝の母親は、胡人つまりペルシア人の商人の娘であった。
王家の傍系一族に異国の血が、混じることなどあってはいけないというのが、張家一族の総意であった。
しかし、直系の血を引く海輝を放りだすにもいかず、かといって本家の敷居を跨がせるわけにもいかないので、長安の東の外れにある屋敷に住まわせていた。
『そうか。』
風来の回答の後、しばらく黙っていた海輝が、口を開いた。
『ささ。共に学びましょう。』
ほっとしながら風来が、そう言って、隣を見た時であった。
さっきまで肩に手を置いていたはずの海輝の姿が見当たらない。
嫌な予感がして、辺りを見回した風来の眼に入ったのは、窓の縁に乗った海輝であった。
『ならば、わたしには必要ない。』
それだけ言い残すと海輝は、漆黒の長髪をしならせ、窓の外に姿を消した。
『海輝様!お待ちくださ〜い!』
風来の叫び声が、屋敷を揺らしながら、むなしく響いた。
そんな風来の言葉をかき消すかのように、雨足は一層強くなった。
やっと、ヒーローのが登場です。子供っぽいですが、徐々に成長していきますので、よろしくお願いします。ちなみに、登場人物の名前は日本語読みで統一します。張家は、架空の家柄です。