第一章:芽生え4
人々の熱気に溢れている市場は、あちらこちらで呼び込みの声が活気よく上がり、大路には大勢の人が行きかっている。
『すごいでしょう。ここが、西市よ。長安には、東西に二つの大きな市があるの。今私達のいる西市はその名の通り、西方の店が多いのよ。ほら、見て。あれが、胡食よ。一つ買ってあげるわ。』
そう言って麗杏が隣と見ると、さきほどまで横を歩いていた小柄の少年の姿が見当たらない。
慌てて辺りを見渡すと、十間ほど離れた人波の中から小さな手が左右に揺れているのを見つけた。
『まってぇ、麗杏。すみません、通してください。麗杏〜。』
千太は、体をじたばたと振りながら、新しい友の名を呼んだ。
しかし、千太の小さな体は、彼の意志とは反対にどんどん麗杏と逆の方向へ押し流されていく。
半ば泣きそうになった時、突然千太の体が宙に浮いた。
『千太?お前、こんなところで何やってんだよ。』
力強い腕が、千太の襟首を掴んでいる。顔を上げると、金色に輝く髪が目に飛び込んできた。
『ぇドワード?』
『なんだ、その微妙な発音は。もしかしてまた迷子?』
エドワードは、千太の首根っこを捕まえたまま、人ごみを抜けだした。
『いいえ。今日は、友達に長安を案内していただいていたのですが、見失ってしまって。ちょっと、もう下ろして下さい。』
千太はぶら下げられたまま、じたばたともがいた。
『おお、悪い。でも、お前。それを迷子っていうんじゃあ。』
『ほっといてくださいよ。でも、麗杏てば、どこに行ったんだろう。』
千太は、少しむくれて、その場にしゃがみこんだ。
『麗杏?もしかしてお前の友達って、李 麗杏?』
『知ってるんですか?姓は、知りませんけれど、字は麗杏です。年は、エドワードと同じくらいで、美人な子です。』
『ちょっと、つり目な?』
『ええ、ちょっとつり目な。』
二人の知る人物が、一致した時であった。
『失礼ね。二人して、人が気にしていることを。』
いつの間にか二人の後ろに問題の人物、麗杏は頬を引きつらせて立っていた。
『ぎゃっ、れれ麗杏!』
どもる所まで合わせて、二人の声が重なった。
『二人とも、知り合いだったのね。エドワード様は、またこんな所で油を売っていたのですね。』
『いいじゃないか。別に、お前に迷惑はかけてないんだから。』
エドワードは、この前の麗杏の告げ口を根に持っており、少々言葉が冷たい。
『まったく、だんな様が聞いたら、あきれますよ。いつまで経っても、子供っぽいんですから。ああ、千太。こちらが、わたしのお世話になっているジェドウィック家の三男のエドワード様です。エドワード様、こちらが三日前お友達になった千太です。もうお互いご存知のようですが。』
麗杏は、仕事のようにてきぱきと紹介をした。
『へえ、千太。お前、年上が好みだったんだ。うぶなフリしてやるこたぁ、やってんだ。』
エドワードが、にやにやしながら、千太を突いた。
『え?何のことですか?年上好み?』
千太は、エドワードの言葉の意味がよく分からず、首をかしげた。
『ちょっと、エドワード様。千太に妙なことを吹き込まないでくださいよ。それに千太は、弟のようなものです。』
麗杏は、千太の小さな耳をふさぐ様に手をかざした。
『ああ、そうか。それならば、千太は、俺の弟だな。』
エドワードは、千太の腕をぐいっと掴んで引き寄せた。
『わたしの弟です。』
麗杏は、訂正すると、千太を自分の側に引き寄せた。
『俺のだ。』
『わたしのです。』
『ぐるぐるぎゅ〜』
エドワードと麗杏の攻防戦はしばらく続いたが、二人の可愛らしい弟のお腹の音によって、終わりを告げた。
真っ赤になった千太を見て、エドワードはカラカラと笑い、麗杏も手で震える口元を隠した。
『わはは。はは、悪い。はは。』
すっかり膨れっ面になった千太の小さな頭をぽんぽんと叩きながら、エドワードは謝ろうとしたが、吹き出してしまってどうも上手くいかない。
『ふふ。ごめんね、千太。もうお昼の時間よね。何かを買いにいきましょう。エドワード様が、千太の食べたい物をなんでも買ってくださるわ。』
千太の手をとると、麗杏は、流し目でエドワードを見上げた。
『おい、俺そんなこと言ったか?』
『何をおっしゃいますか。お兄様なら、当然でしょう。』
麗杏が、つんと顔を反らす。
『麗杏、お前主人に向かっていい態度じゃねえか。』
『なんとでも、おっしゃいませ。エドワード様については、旦那様に一任されているようなものですから。』
これは、事実である。麗杏は、エドワードの素行に一抹の不安を感じたフィリップから彼のお目付け役を命じられている。
『エドワード、あれは何ですか?』
そう言って、千太が指差した先には、今でいう餃子のような形をしたものが、並べられていた。
『胡食だ。小麦粉料理をこちらでは、そう呼ぶようだ。』
『胡?エドワードの国の食べ物ですか?』
『いや、違う。俺の国はもっと西方にある。あれは、ペルシア人つまり胡人達の料理だ。あれが、食べたいのか?』
『はい。良い香りがします。』
『買ってきてやるよ。』
千太の目は、立ち上る湯気の向こうに釘付けになっている。
『結局、買ってあげるんですね。』
麗杏がにやにやしている。
『麗杏、お前の分は買ってやらん。』
エドワードは、そう言い放つと、湯気の立つ方へ走っていった。
『おかえり、千太。楽しかったかい?』
空海は、書物から目を離すと、千太を見た。興奮で頬を染めている所からして、随分と楽しんだようだ。
『ええ。麗杏に西市に連れていってもらいました。すごい人でしたよ。そう、それでわたくしったら、また迷子になりかけましてね。また、エドワードに助けてもらったんです。』
『エドワード?』
『この前、迷子になった時、ここまで連れてきてくれた人です。』
『ああ、また会ったのかい?』空海は、眉をひそめた。
『え?ええ。偶然ですけど。』
千太は、兄の顔つきが変わったのに気が付き、少し困惑ぎみに言った。
そんな千太を見て、空海はため息をついた。
『千太。本当に十分気をつけておくれよ。いつもいつもわたしが、そばにいるわけではないのだから。』
『はい。心配をかけてごめんなさい。今度からちゃんと気をつけますから、空海兄さんは、勉強に集中してください。』
やっと、兄の意図が分かった千太は、うなだれながら答えた。
負担になることは、分かっていたのに付いて来たのだ。
これ以上、心配をかけては、いけない。
寝台の上に身を投げ出した千太は、天井を見上げた。
こみ上げてくる感情が、何なのか千太には、分からない。
髪を結っていた紅の糸と取ると、艶やかな黒髪が、寝台に広がった。
窓から差し込む月の光が、暗い部屋の中に千太の顔を浮かび上がらせた。
今は、誰も見ていない。
―わたくしは、わたくしに戻ろう―
―普通に友達になりたいのに―
―心の臓が、痛くて痛くてたまらない―
―わたくしは、本当に唐にいるのだろうか―
―ここにいるのは、わたくしであってわたくしではないのかもしれないな―
―空海兄さんの傍にいたい一心で唐まで付いてきてしまった―
―わたくしの人生は、兄さんの傍にいられるだけで幸せだと思っていたのに―
その考えこそが、子供の傲慢に過ぎなかったことにこの時、まだ「少女」は気が付いていない。
月の下に白い顔をさらすのは、紛れもなく少女であった。
「彼女」の本当の名は、千華。
唐土に芽吹いた小さな蕾は、まだ自分が大輪になるべく生まれてきた運命を知らない。
一応、千太の性別を明かしましたが、まだまだ男装を続けると思います。次回、やっとヒーローが登場します。