第一章:芽生え2
物語は、唐で展開しますが、設定・登場人物共に空海以外は、全て空想のものです。西方の人々の名前も分かりやすく現代っぽい名前にしてしまいました。詳しい方は、気になるかと思いますが、ファンタジーとして書いているので、ご勘弁ください。唐代に使われていた表現などは、徐々に勉強しながら使用します。不勉強で申し訳ありません。時々、手直しを加えると思いますが、気にせず読んでください。
『わあ。空海兄さん、陸が見えてきましたよ。あれが唐でございますね。』
千太は器用に着物の袖の穴を縫っていた手を止めると、うれしそうに声を上げた。
一ヶ月ぶりに現れた陸地に周りなどろくに見なかった人々も船から身を乗り出したり、涙を流して陸を拝んだりしている。
『ああ、とうとうだな。』
航海中、ほとんど無表情だった空海の顔が、わずかに緩んだ。
*
この後、千太と空海の兄弟を乗せた船は、唐の福州に上陸することとなる。
福州に上陸した一行を待ち受けていたのは、長い足止めであった。
倭国からの正式な国書が共に出奔した船に乗っていってしまったために福州の長官に怪しまれてたのである。
結局、空海の機転によりなんとかその場を切り抜けた一行は、杭州・洛陽を経由して、ようやく唐にたどり着くこととなった。
福州では、空海が入国嘆願書を見事に代筆し、危機を脱したのだが、ここですでに日本で三筆の一人と数えられる空海の非凡の才角が現れていた。
美しい漢文と滑らかな唐語を自由自在に操る兄は、千太の目にも鮮やかに映り、兄への尊敬の念はますます深まっていくことになった。
さて、長安の都である。時の長安は、シルクロードを通って伝わってきた西域文化と唐の文化が交わり新たな国際文化が花開く大都市である。
碁盤の目のように整理された大路歩けば、碧眼の西国の人々とぶつかることもあった。
宗教も多く伝わっており、ネストリウス派のキリスト教は景教として唐朝に保護されるなど異教徒に寛容な唐に人々が流れ込んでくるのは、自然の流れといえよう。
*
『わたしはちょっと出かけてくるから、今日はおとなしくしていなさい。』
空海は、荷物を置くと、筆と書物を片手に部屋を出て行った。
長安に着いて二日目、王宮への挨拶が済み、空海と千太はとりあえず、あてがわれた宿坊に落ち着いた。
荷を解くなり書物を取り出した兄を見て千太が予感した通り、空海はさっさと部屋を出て行った。
多分、王宮の書庫に行くんだなと千太は思った。兄の知識を求める姿勢には、本当に頭が下がる思いである。
しかし、書物に求める知識だけが、世の知識ではないはずである。
『あの西国の人々をもっと見たい。ちょっとだけなら、ばれやしないだろう。』
千太の脳裏に見たこともない形をした鮮やかな着物を身に着けた人々が浮かび上がった。
はやる気持ちを抑えきれず、千太は夕焼け色に染まった長安の街に飛び出した。
*
『あら、可愛らしい坊ちゃんだね。迷子かい?』
夕日が沈み、街が薄暗がりに包まれる頃、女が看板を片手に外に出ると、店と店の間に見かけたことのない少年を見つけた。
女の名前はソフィといい、夜の繁華街で居酒屋を営んでいる女主人であった。
年は三十半ば位で、十五の時に唐に連れて来られて以来、色街で妓生として働いていたが、年と取ってきたのでそろそろ潮時かと思っていたところ、馴染みの客が資金を出してくれるというので、去年この居酒屋を開いた。
唐語の巧みな西国美人が営む居酒屋は、小さいながらも結構繁盛していた。
『わたくし、その、み、道にネ。まよってネ。彩月って宿ヲ探してて。』
案の上迷子になった少年、千太は兄に船上で習った拙い《つたない》唐語でなんとか用件を伝えた。
『あはは。異国から来たんだね。まだ、長安に慣れてないようだね。ええと、彩月かい。ちょっと、遠いな。あたしが連れて行ったやりたいところだけど、どうしたもんかね。』
自身も異国から来たソフィは、少年の心細い気持ちが良く分かった。
どうにかしてやりたいけれど、もう半時もすれば、馴染みの客達がやってきてしまう。
ソフィはこの迷子を連れていってくれる知り合いがいないか周りをきょろきょろと見回した。
そんな時、後ろから異文化の都長安でもなかなか珍しい発音の言葉が響いた。
『今晩は、ソフィ。』
初めて聞いた西国の言葉は千太の知っている言葉とはまったく違うもので驚いて振り返ると、背の高い細身の青年が立っていた。
年は兄の空海よりも若く、千太とそう変わりはないように見える。
驚いたのは、その青年の髪が金色に輝いていたのである。ソフィの青い瞳でさえ、驚いたのに、青年の頭はまるで伝説に出てくる獣神のように光輝を放っていた。
『本日も麗しいソフィ、会えて感激だよ。どうしたの?その子誰?』
口を開けたまま突っ立っている千太を見下ろすと、青年は今度は流暢な唐語で喋り始めた。
『エドワード?珍しいね、おつかいかい?いや、ちょっとそこでうずくまっているのを見つけてね。異国から来たみたいで、迷子だよ。彩月の宿泊客みたいなんだが、連れていってやりたいんだけどもう店を開かないといけないから困ってたんだよ。』
ソフィは近づいてきた青年を目を細めて確認した。
ソフィは別段目が悪いわけではなかったが、まだ灯りの点される前の歓楽街は宵闇に包まれており、唐にいる金髪の人物を幾人も知っている彼女は、そうしなければ相手の顔を確認することが出来なかったからであった。
『なんだ迷子か。俺はてっきり、ソフィの隠し子かと思っちゃったよ。はは。彩月なら、俺が連れて行ったやるよ。ちょうど楊じいのところにも用があるしね。』
エドワードと呼ばれた青年は、若者らしい軽い口を叩くと、肩をすくめた。
『まったく失礼な子だね。でも、あんたなら年も近いし、丁度いいね。』ソフィは豊かな亜麻色の髪を払いのけると、鼻を鳴らした。
『おい、坊主。名前はなんていうんだい?』エドワードは、千太と目線を合わせると話しかけた。
『千太。』
磨かれた勾玉のような瞳にいきなり覘きこまれた千太は、少し驚いて目を逸らしてぶっきらぼうに答えた。
いいや、違う。これは、さっき露店で見た瑠璃の器の色に近い。
『なんだ、千太。せっかく可愛らしい顔してるのに愛想のないやつだな。』
エドワードは、面白くなさそうに呟いた。
『さあさあ、お二人さん。もう大人の時間になっちまうよ。千太も心配されているだろうから、早く連れていっておあげ。』
最初の客が、やってきたのに気が付いたソフィは手を叩くと、二人の肩を追い立てるように押した。
*
一つまた一つと店に灯りが灯っていく中、二つの影が長安の大路を東へと向かう。
『あのう。』ソフィと分かれて以来守られていた長い沈黙を破ったのは千太であった。
小さな声で背の高いエドワード見上げて話しかけた。
『なんだ?』
『さっきはごめんなさい。わたくし、倭国から来たのですが、今日長安に来たばかりでその・・。』
そこまで言って、口ごもると千太は、ちらりとエドワードの金髪を見やった。
『俺みたいな西国の人間を見るのが初めてで驚いたってか?』
『ええ。西国の方々は皆あなたのような姿をしてらっしゃるのですか?』
『いや、黒い髪の者もいるぞ。なんだ、怖いか?』
『いいえ、美しいと思って。こうしてまともに目を合わせることさえ、気恥ずかしいのです。神とはあなた方のように美しいのでしょうか?』
『なんだ、お前。随分と唐語が上手いな。それともお世辞だけか?』
エドワードは、真剣な眼差しを向ける少年の言葉に頬を赤らめた。
『?ありがとうございます。』
千太は「お世辞」という単語が聞き取れなかったのか、首をかしげながら、少々トンチンカンなお礼を言った。
『ところで、千太のいう神とはなんだ?仏様のことか?』
『いいえ。八百万の神々のことです。』
『やおよろず?何だ、それは?』
『倭国に仏教が伝わる前より信仰されている土着の神様です。彼らは動物の姿をとっていたりして、自然の川や山そのものだともいえます。』
『ふ〜ん。僧衣を着ているが、お前の神は仏だけなのではないか?』
『いいえ。わたくしは尊敬できる神を一人に絞れるほど、器用な人間ではありません。この通り頭も剃っておりませんし、わたくしは出家しているわけではございません。一緒に唐に来た兄は立派な僧侶ですが、わたくしなどが僧になっても何の悟りも真理も掴めないでしょう。』
千太は先ほどから不思議な気分だった。最初こそ驚いたが、慣れてくるとエドワードの前では唐語がいつもより上手く喋れ、思ったことをどんどん言えているような気がした。
年が近いせいだろうか。
倭国では、いつも山に遊びに行ったしまうものだから、気味悪がられ、同じ年頃の友達などいなかった。
『不思議なやつだな。男のくせにやけにおしゃべりだし。』
『あなたこそ、ソフィさんの前では饒舌だったじゃありませんか?』
千太は、歓楽街で会った時のエドワードを思い浮かべた。
『悪かったな。軽くて。お前も男ならちょっとたぁ、美人を前にした時の話し方っての覚えておいたほうがいいぜ。そんなカチコチの話し方じゃ尼さんだって眠くなっちまうぞ。』
『しかし、ソフィさんは最後、立腹なさっていらしたような?』
『うるせー。』エドワードが千太を小突いた時だった。
『千!』
切羽詰ったような男の声が、響いた。
千太を千と呼ぶ人物は唐の国には一人しかいない。千太が、後ろを振り向くと、兄の空海が走ってくる姿が見えた。
『空海兄さん!』
千太は、ほっとして叫ぶと兄に向かって一目散に走っていった。
『おとなしくしていろと言ったのに。どんなに心配したと思っているんだ。』
空海は、兄の腹に顔を押し付けて泣く千太を抱きとめると怒鳴った。千太の方は泣きながら、ごめんなさいごめんなさいと繰り返すばかりだ。
*
『あの〜無事再会できたみたいだし、俺も寄るとこあるんで、そろそろ行きますね。』
しばし再会を見守っていたエドワードは、ためらいがちに口を開いた。
その声に気が付いた空海は、はっとしてエドワードを見た。
『ああ、あなたが。弟を助けてくれてありがとうございます。』空海は丁寧にお礼をいうと頭を下げた。
『いや、そんな大したことじゃないですよ。俺もこっちに用事があったから一緒に来ただけで、あなたの弟さんの話も面白かったですし、お礼だったら、宣揚の南にある火美の女主人に言ってください。』
そう言うと、エドワードは空海の腕の中にいる千太をチラリと見た。
『「千」かぁ。そうして泣き顔を見ると、本当におなごのようだな。また、機会があったらどこかで会おう。』
エドワードはそう言い残すと、踵を返して足早に去っていった。
きっと、エドワードがその言葉を言った後、兄弟の顔を見たら何か妙に思ったかもしれない。
しかし、エドワードの頭は次の目的地である烈天のことで頭がいっぱいになっており、そんなことに気が付きもしなかった。
さて、残された二人は一瞬あっけにとられた後、顔を見合わせた。
『あぶなかったね。千太。』
空海はゆっくり息を吐き出すように呟いた。
『大丈夫ですよ、空海兄さん。ここは倭国ではないし、ばれても誰も気にしませんよ。』
千太は、兄より幾分落ち着いていて、事も無げに答えた。
のん気な弟の白い横顔を見て、空海は小さくため息をついた。
己を知りすぎているのも問題だが、己を知らずに過ぎるのもまた問題である。
自分はともかく弟だけは、責任を持って国に帰してやりたいと思っている空海にとって、千太の悠然さは在唐中しばしば憂鬱の原因になることになった。
色のあるファンタジーにするつもりなんですが、まだまだ道のりがありそうです。
もし、よければもう一つの連載「水の如し」も読んでみて下さい。そちらは、女子高生のポップな恋愛物にする予定です。あくまでも、予定ですが・・・。