桜花爛漫咲くわ桜 そえるは笑顔 されど奏でる歌は人知れず
サクラが綺麗だったので書きました。
あの美しさに救われる者はきっといる筈です。
ですが一人占めはいけないと思います。ただボンヤリ見上げてただけでひそひそ話しされるのは気分が悪いです!
私は桜だ。
だがこれは別に名乗っている訳ではない。
私を生みだし育ててくれた者たちが呼ぶ名に過ぎない。
そもそも、私がこうして思考を巡らせるようになったのは私を…私たちを生みだし育ててくれた「人」と自分たちで名乗る種族が最初の私を生み出して以来、古い私から次の新しい私そして次の新しい私と私を増やし育てまた増やす。
それを何年も何十年も繰り返すうちに私が私と繋がって、我等となって初めて一人の人の様に考える事が出来るまでに至った。
だが私は人の様な手を持たない。故に誰かと枝が触れても手を取り合う事は出来ない。
だが私は人の様に脚をもたない。故に死にゆく私や友の元に駆けつける事は出来ない。
だが私は人の様に口を持たない。故に冬の寒さの中励ます事も春の温かさの中談笑する事も叶わない。
だが私は人の様に目を持たない。 耳を持たない。 鼻を持たない。 それ故知れる事も少ない。
それゆえ我らは―――――何時も静かだ。
騒がしい事があるとすればそれは何時だって我らをの間を吹き抜ける風との語らいに過ぎない。
だがそんな我らも人との触れ合いの中で騒がしいくも温かい喧騒に包まれる事がある。
それは我らの恋の季節、花咲く頃のホンノ一時、その時だけは比田が集まり無礼講と言ってはござを敷き、酒と料理を並べ、家族を友を仲間を呼んで、ワイワイガヤガヤ騒いで飲んで喋って歌い、食って眠って覚めてまた歌い、今度は踊って終に疲れて帰っていく。
毎年目をさますと日の光に冬の間堅くなった体をほぐし、同く堅く閉じた花を咲かせる為に蓄えていた力を使って花を開かせ動物を呼び、最後は人々の宴会で締めくくる。
毎年毎年変わらぬ宴、変わらぬ集まりをする者もいる。
新しく迎えられて歓迎される者もいる。
宴をしなくても愛したモノと我らを見上げる若人もいる。
赤ん坊を胸に抱き「スゴイでしょ」と「きれいだろ」と夫婦そろって語りかける者もいる。
冬を乗り越えられなかった古き友を、仲間を偲んで見に来る老人もいる。
見に来る者は我ら桜という花を見るの同時に、その胸の内にサクラという思い出を作りに、そしてその思い出を思い出しに我らを見上げる。
その足で向かい、その手で触り、その口で語り合うのだ。
誇らしい事だ。 素晴らしい事だ。 楽しい事だし夢の様な一時だ。
故に短くそして儚い。咲くまで堅い花々も咲けば風雨で叩き落とされ散らされる。
我らは目を持たぬが故に春を見誤り季節を知らず咲き乱れる事もある。
夏になれば人が去り葉や幹に巣くう虫がつく。
ふてぶてしく育ってゆくのをわが身が食われる痛みに苛まれながら感じなければならぬ私もいる。
病魔に蝕まれ看とられる事無く死にゆく私もいる。
冬になれば力尽き忘れられる私がいる。
されど我らは夢を見る。 そうだ我らには夢がある。
あくる日の春を、あくる日の宴を、生を謳歌する春の歌を聞き、目を覚まし彩るという夢がある。
そうだ!今日という日和を見る夢を見る。 ああ、夢を叶える忍耐がある!
されど夢は儚く短い、だから我らは強くある。 だから我らは冬すら超えて夏の虫にも病魔にも負けぬ!
さあ今日という夢を見よう。 ああ、夢という今を生きよう。
散りゆく事が定めだとしてまた咲かせればいいのだから!
感想は無くて良いです。 春の日和に桜を見上げてくれたならそれで。