7‐3
赤い標をたどる。その間も警戒は怠らない。
先頭を行くセルファは一歩一歩地面を踏みしめる。強く。
その些細な行動。彼女にとっては周囲に張り巡らされた網から情報を収集するようなものである。
大地は自分を味方してくれる。いつだって。
でもそのことを相棒である彼に話したことはないし、話すつもりもなかった。
“恩返し”という名の都合の良い言い訳。“相棒”という名の都合の良い立場。
何をしてでも、生きて、導かなければならない。
何を、利用して、でも。
それがただ一つの使命。存在意義なのだから。
誰かいる。
踏みしめた地面がそう告げた。
はっとなって左手に握りしめたダガーをその方向へと突き出した。
同時にひっ、と声にならないおびえた音が聞こえた。
「そこに誰かいるんだな?」
はっきりとした語調で、後方にいたノーウィンが声をかけた。
だが武器は下げない。
相手が何者か確認できるまでは警戒を怠ってはならない。これも“あの男”が教えてくれたことだ。
しばらく間を置いてから
「人、ですか……?」
少女らしきソプラノの声が返ってきた。しかし姿が見えない。
ノーウィンとセルファは互いに顔を見合わせると、声のした方、近くの木の陰に回り込んだ。
そこには、先程の声からも察せられるように、小動物のように震え、おびえた様子の少女が木にもたれかかるようにしていた。
歳はセルファと同じか下くらいだろう。栗色のショートヘアーに藍色の瞳。水色のカーディガンを羽織っている。
情報通りだ。
ノーウィンはそこで初めて武器を下ろし、少女の前にしゃがみ込んだ。
「君はリース村の娘だね?」
そう問うと相変わらずおどおどとしながらも小さくうなずいた。
「俺たちはご両親に依頼されて、君を探しに来たんだ」
男の言葉を聞いた途端、少女の顔はぱあっと明るくなった。
「良かった……私、魔物に追われて逃げている途中に足をくじいて――」
そこまで言うと、再度少女の顔色が青ざめた。
戦えない者が魔物に追われる。立ち止まれば殺される。だから走るしかない。
その恐怖は今のノーウィンやセルファには分からないが、さぞ恐ろしかったのだろう。
「ハウリングに追われて怖かったんだな……でももう大丈夫だ。俺たちが村まで送り届けて」
「ちが……ちが……」
ノーウィンの言葉を遮って、ぶるぶると震え出す少女。何かを訴えようとしているようだが言葉になっていない。
見たところ血が出ている様子はないが、血の気の引いた表情にただならぬものを感じとった2人は顔を見合わせる。
「大丈夫。大丈夫だから、何があったか順番に話してくれないか?」
ノーウィンは少女の肩にそっと手を置き、目をじっと見つめた。
視点の定まらない少女の目はやがて落ち着きを取り戻したのか、見上げるようにノーウィンの目を見つめた。
「私……薬草を取りに来たんです……なのに、森に入った途端ハウリングに追い回されて……」
ノーウィンは小さくうなずき、続きを促した。
「ハウリングはこの時期、子供を産んで、守るために森の奥に集まるんです……そのはずなのに……森中にいて……」
少女は小さく深呼吸してからゆっくりと続きを話し出した。
「私、足をくじいて、怖くなって、ここに隠れていたんです……そうしたら、ハウリングが集団で森の奥の方へと駆け出して行って、その後に……」
少女の唇が震え出す。
続きを聞こうにもこれではどうしようもない。
セルファが後ろを振り返った。
血の跡はまだ続いている。
ノーウィンもそのことを察したのか、少女の方へと向き直り、悩む。
このまま先へと進むとして、少女をここに置いていくべきかどうか。
もしまた、ハウリングが襲ってきたら彼女は足をくじいているため逃げられない。
ではこの先へと連れて行くべきか。
足をくじいているため、少女のことは必然的にノーウィンが背負うことになる。
そうなると先日のゴブリン戦時のように戦闘は他人任せになってしまう。
しかも今回はセルファしかいない。もしまたハウリングが集団で襲ってきたら――どうなるかは目に見えている。
しばし考え込んだ後、ノーウィンは震える少女に声をかけた。
「俺たちはこの先……森の奥へと進もうと思う。君のことは俺が背負うから一緒に来てほしい」
少女は驚いた顔でノーウィンを見つめる。しかし、彼の決断は揺るがない。
同じ危険性があるのなら、目に見えるところにいてほしい。それが、彼が考えた末の結論だった。
おびえながらも、少女は信頼してくれたようだ。小さくうなずいた。
そのやりとりを見ながら、セルファは呆れたような顔をした。2人には見えないように。
* * *
再度先頭をセルファが歩き、血の跡をたどる。
後方ではノーウィンが少女を背負い、後を追う。
念のため槍は手に携えている。
その間も少女が震えているのが背中越しに伝わってきた。ぎゅっと力強くノーウィンの服をつかむ。
よほど怖い思いをしたのだろう。あれこれ問いかけても困らせるだけだと思ったノーウィンは、何も言わず、ただ黙々と歩いた。
だがその怖い思いがどれだけ大きなものか、2人はすぐに知ることになる。
「なんだ……これ……」
たどり着いた森の奥で、最初に声を発したのはノーウィンだった。
血があちこちに飛び散り、複数の池を作っていた。
引きずられた跡。剥き出しの臓物。首のない肢体。引きちぎられた手足。貫かれた顔。黒く焦げつき炭と化した骨。
血の臭いに混じって焦げた臭いがする。
悲惨。想像以上。いや想像すらしていなかった光景がそこには広がっていた。
ハウリングの死骸の山である。
何も言えぬまま、顔をしかめる。
さすがのセルファも冷静さを失ったのか、黙したまま構えていたダガーを下ろした。
魔物同士が争った跡などではない。これは、一方的に追い込まれ、虐殺された痕である。
「……が……」
背負われた少女が、その悲惨な光景に耐えきれずノーウィンの背に顔を埋めて、何事かを発した。
「え?」
「……あいつが……やったんだ……」
がたがたと震えながら、しかし少女はやっとの思いで、その単語を告げた。
「ドラゴンが」
セルファがゆっくりと後ろを振り返った。
ぽかんと口を開いたまま。視点が定まらないまま。
相棒でさえ見たこともないような表情で。
見つめられたノーウィンも背負った少女が何を言ったのか分からなかった。
いや、分かってはいる。
だが脳内でその単語を処理できなかったのだ。
ドラゴン?
何を言っているのだ、この少女は?
ドラゴン。
その巨体は堅く丈夫な鱗に覆われ、巨大な翼で大空を舞う。
足には巨大な爪を持ち、大きな口からは炎を吐く。その威力は町一つなど簡単に吹き飛ばす。
それ故、人々はそれを恐れ、近づく事すらしなかった。いるとすれば物好きな冒険者くらいか。しかし彼らもそのまま戻ることはなかった。
でも。
その話は。
遠い遠い昔の話。
大人が子供にするような、子供だましのお話。
この世界に、ドラゴンなど、存在するはずがなかった。
彼らはもう、滅んでしまったのだから。
「私……足をくじいて、木陰に隠れていたら……急にハウリングたちが森の奥に逃げ出して……それで……それで……その後を大きな生物が追いかけていったんです……」
少女は、おびえて言えなかった言葉を少しずつ、しかし語調を強めて話し出した。
「それは……昔おばあちゃんに聞いたドラゴンだったんです……! 大きな翼に大きな口に大きな爪を持っていて……! それで、それで、私……!」
興奮を抑えきれず、一気に話し出したがためにそこまで話してむせた。だが言葉は止まらない。
「私見たんです! それが……ドラゴンが村の方に飛んで行ったのを!!!」
震えている?
この私が?
馬鹿言わないで。どんなことがあったって導くことが私の使命。
そう、どんなことがあったって。
でも、もし、遥か昔に生きていた畏怖すべき存在が、もし、今、守るべき者がいる地へ向かっていたとしたら?
「最悪だ……」
それでも“貴女”は、私に戦えと言うのでしょうね。




