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甘い香りに鼻をくすぐられ、目を覚ました。が、降り注ぐ日差しの強さに負けて、すぐにまた目を閉じる。
顔を腕で覆い日差しを避けると、次に見えたのはどこまでも澄んだ青い空。
不意に心地良い風が通り抜け、甘い香りが漂ってきた。
食べ物の匂いではない。どちらかといえば香水に近いような香り。
ゆっくりと身を起こし、今度は辺りを見渡す。
どうやら自分は緩やかな斜面で寝ていたようだ。
あちこちに生えた短めの草が風に合わせて踊っている。
ゆっくりと立ち上がって軽く衣服をはたくと、ひとまず斜面を登ってみることにした。
慎重に、そっと1歩を踏み出す。1歩、また1歩。
坂を上り切ると、今度は平らでまっすぐな一本道が続いていた。その脇にはラベンダーが咲き乱れている。
甘い香りはこれかとも思ったが、違う。もっと向こうからだ。
そう思って先を見やると、少し離れた所に森が見える。
深くは考えないまま、さらに歩き出した。
黙々と歩き続け、立ち止まることなく森に入る。
木々の間をずんずんと歩いていくと、やがて広間へと出た。
そこには、一面の花畑が広がっていた。
赤、白、黄。数え切れないほどの花が咲き誇り、ここだけまるで別世界のようだ。
そして、その真ん中には妖精がいた。
軽くカールした長く美しい桃色の髪。
サファイアのように青くきらめく瞳。
ふわりと風に揺れる真っ白なワンピース。
だがよく見ると羽はないし、耳がとがっているわけでもない。
人間の女の子、そのものだ。
そうか。甘い香りはここからしていたのか、と頭の片隅で理解する。
くるりと振り返った少女が、こちらに手を差し伸べた。
白く透き通った肌が陽光を受け、輝いて見える。
優しい笑顔。その手に触れようと手を伸ばす――
* * *
目を覚ますと、そこに見えるのは青い空ではなく、少し汚れた天井。
ラウダはゆっくりと身を起こす。その動作に合わせ、すっと長めの金髪が前へと流れ落ちてくる。
しばらくぼんやりと何もない空一点を見つめていたが、やがてゆっくりと辺りを見回した。
周囲に見えるのは美しい自然、ではなくいつもの見慣れた部屋。当然少女などいるはずもない、少年1人が住む家の中。
「また……あの夢……」
ふうと一つため息をつくと、髪をかき上げ、壁にかかった時計を見つめる。
短針は10を長針は12を指していた。
大きく伸びをすると、窓際に寄り、さっとカーテンを開けた。
赤レンガの美しい街並みが目に映り、耳にはいつもと同じにぎやかな声が聞こえてくる。
今日も良い天気だ。
朝食を食べるためにベッドから起き上がると、ミシミシと床を慣らしつつキッチンへと向かう。
この家に住んで十数年たつが、そろそろ修繕を考えるべきだろうか。いやでもこれはこれでなじんでいるし、大体男1人暮らしなのだからそんなこと気にしなくても――
などと、あくび交じりに考えながら歩くその途中で、机の上に置いてある紙切れに気がついた。そしてそこに何か書かれていることにも。
未だに眠そうな目をその紙切れに通す。
深緑の瞳が大きく見開かれた。
たった1行。
走り書きではあったが、彼の目を覚ますには十分な威力を持つメモ。
もちろん書いたのは彼本人である。
「わ、忘れてたっ!」
そう叫ぶや否や、衣装ケースを引っかき回し始めた。
来ていたシャツを脱ぎ捨て、取り出した服を着る。簡単な作業だがこういう時に限ってうまく袖が通らず、ズボンがはけない。
何とか着替えを済ませると、最後に青いロングコートを羽織り、ご飯も食べずに家を飛び出していった。
その勢いでひらりひらりと床に落ちたメモ。そこには“9時に噴水前”と書かれていた。
* * *
全力疾走に長めの金髪がなびく。
行き先はメモに書かれていた噴水前。
距離的には10分もかからないのだが、華の街と呼ばれるこの街は常に多くの人が行き交っている。
そのため全力疾走はやむなく急停止させられてしまった。
にぎやかな赤レンガ通りで「すみません」を連呼しながら人波をかき分ける。
途中「何よもう」という露骨な文句や舌打ちが聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。
早くしないと殺される。
この街で待ち合わせ場所と聞かれれば皆口をそろえて「ここ」と言うほどの名所。
造形的で立派な噴水――凡人には決して理解できないような天才的な芸術――の周りには多くの恋人や家族が集っている。
その正面に、赤いキャスケット帽をかぶった少年――らしき人物の後ろ姿。ラウダには見慣れた幼なじみの姿だ。
他の人間には目もくれず、一直線にそちらへ向かうと、自分の存在を気付かせるため手を振りながら駆け寄る。と同時に赤い帽子が勢いよく振り返り、鋭いチョップを放った。
走者は急に止まれない。繰り出された手刀を避ける暇などなく、額にしかと受けることになった。
「痛っ――」
「遅いっ!!」
ひもを引いたクラッカーのように飛び出た怒声。
額を両手で押さえかがむ少年の前に、腕を組み仁王立ちする姿は、待たされていた苛立ちのせいか大きく見えた。
遅刻1時間。無理もない。
赤い帽子は短めの黒髪をなびかせながら、ラウダの額に向けて人差し指を突きつけた。
「一体女の子をどれだけ待たせれば気が済むの! 待ち合わせ時間から1時間オーバーだよ? い・ち・じ・か・ん!」
口調や容姿から少年のように見えるが、体つきや仕草をよくよく見ればその人物が少女であることが分かる。
大きく息を吐き出すと、彼女は腰に手を当て、頬を膨らませた。
首からさげている青い石のペンダントがその動きに合わせて大きく揺れる。
「ご、ごめん。ホントに悪いと思ってる。反省してる」
両手の間からちらちらと様子をうかがいながら謝る姿は実に情けない。
赤い帽子はため息と共にうなだれた。
「全く……しょうがないなぁ」
直後、素早く顔を上げる。爛々とした目をしながら。
「じゃあ、リズレアのクレープおごってくれたら許してもいいかな」
鼻歌でも歌い出しそうな調子で有名な洋菓子店の名を口にされたラウダは勢いよく立ち上がった。
「ええっ! あそこのクレープは高いよ!」
すると再びふくれっ面。
「ボクがどれだけ待ってたか――」
ゆっくりと凄みを効かせながら言うのを、途中でラウダが手で制した。
これはもう観念するしかない。
何かを言ったところで、言い返されて敵わないのは、長年の付き合いでよく知っている。
「……それじゃあ帰りに、ね」
ため息交じりで小さくそう言った。
必要以上のお金は持ってきていない。後で1度家に帰って財布を取りに行かなければ。
「決まりっ! 約束だからね、ラウダ!」
待ってましたと言わんばかりに小さくガッツポーズ。ぱあっと明るく輝く表情。
そういう所を見るとやはり女の子なのだが。
「分かったよ、ローヴ……次は遅刻しないようにするよ」
遅刻しないようにするという言葉には自分自身への戒めの意味も含んでいるのだが、幼なじみをやっていて何度この言葉を聞いたことか。
「とりあえずその髪どうにかしたら?」
ローヴは呆れつつそう言うと、少年の金髪を指差した。
家から慌てて飛び出したうえここまで全力疾走したため、髪はバサバサ。自由な方向へと跳ねていた。
「あ。慌ててたからすっかり忘れてたよ」
そう言うなりコートのポケットから何かを取り出す。
肩より少し長い髪を慣れた手つきで後ろに流し、先程取り出したものを左耳の上辺りにつけた。
赤い星型のヘアピン。
何か動作を行うごとに後ろ髪が前にかかるのをローヴが気にして、ラウダにあげたものだ。
「うんうん。よく似合ってるよ」
満足気にそう言うローヴだが、ラウダはどこか納得行かない表情である。
「ローヴにもらったものだからと思ってつけてるんだけど、やっぱり変じゃない?」
とは言え、かれこれもう3年くらい使っているのだが。
実のところ、ローヴが手持ちで使っていない物をあげただけだったのが、元々ラウダ自身が整った顔立ちで、さらりと長い髪の持ち主であるのが災いして、不思議と女の子のように見えてしまうのだ。
もちろん当の本人は気付いているのだが、何故かヘアピンをした方がしっくりくるため日常的につけている。
そしてそんな姿をローヴは内心面白可笑しく見ている。
「そんなことないない! まずは花屋でしょ? ほら行くよ!」
それだけ言うと、ローヴはさっさと歩いて行ってしまった。先程までの不機嫌はどこへやら。
困ったように小さく笑んで、ラウダもその後を追った。