24‐1
真っ暗闇の中、にこやかに微笑む少女がこちらを向いている。
ああ、いつもの夢だなと頭のどこかでぼんやりと考えながら、彼女に手を伸ばす。
しかしふといつもと違うことに気が付き、その手が止まった。
「ラウダ……」
その笑みがとても悲しそうなのだ。
「思い出して……大切なこと……」
それだけ言うと、少女の姿が揺らめく。
今にも消えてしまいそうな様子に慌てて、再度手を伸ばすが、遅かった。
少年は1人、そこに取り残されるのだった。
* * *
高く真っ白な天井。
少し視線をずらすと、大きなシャンデリアがきらびやかな輝きを放っているのが見える。
しばらくぼんやりとしていた意識が、感覚が徐々に戻ってくる。
――戻ってくる?
ラウダはゆっくりと体を起こそうとしたが、途中で右側に重いものが乗っていることに気づいた。
赤い帽子に黒髪の少女。椅子に腰かけた彼女は布団に突っ伏して眠っている。
「…………」
それを見た後、今度は自分の両手を見つめた。
「…………」
「……目が覚めたか」
不意に声をかけられ、ゆっくりとそちらを見やると、腕を組み壁に体をもたせかけるイブネスがいた。
そこに大きめの扉をガチャリと開き、オルディナが入ってきた。
「お兄さん、戻りまし」
“た”と言うよりも先に、オルディナが素早くラウダのことを二度見する。
「ラウダさん!?」
慌ててこちらに駆け寄ってくる彼女に続いて入ってきたのは、両手それぞれに紙袋を抱えたノーウィン、そしてセルファだ。どうやら買い物に出かけていたらしい。
「良かった……」
こちらに歩み寄ってきたセルファはつぶやくようにそう言うと、安堵の息をついた。
テーブルに紙袋を置くと、ノーウィンもまたこちらへと歩み寄ってきた。
「3日間も目を覚まさないからみんな心配してたんだぞ。ローヴなんかずっと付きっ切りで」
そう言って小さく微笑みかける。
その時ちょうど、ローヴがううんと声を漏らしながらゆっくりと頭を起こした。
未だに眠そうな目をこすっていたが、ラウダが起きているのを見るなり頭がしゃっきりしたらしい。がばっと身を起こした。
「ラウダ!」
皆が嬉しそうにするが、当の本人は手のひらを見つめたまま動かない。
「ラウダさん? どこか具合の悪いところが?」
心配そうにオルディナがそう声をかけるが、反応はない。
「ラウダ……?」
顔をのぞき込むようにしてローヴが彼の名前を呼ぶと、小さな声で何かをつぶやいた。
「え?」
うまく聞き取れず、首を傾げていると、今度は聞き取れる声量で言った。
「どうして僕は生きてるんだ」
その場の空気が凍りついた。
* * *
その丘には爽やかな風が吹いていた。
丘に一本だけ生えた大樹の幹には、明らかに人の手で刻まれた線が2本。それをそっと手で触れる彼女は思いをはせるように目を閉じている。
『ねえ、ガレシア。僕もいつかガレシアみたいに世界を見られるかな?』
希望に満ちた茜色の瞳。
茶髪の少年の言葉に、彼女はもちろんと答えた。
そのときはまだ知らなかった。自分と彼の間にある大きな違いに。
不意に人の気配を感じ、彼女は素早くそちらをにらみつける。
「やっぱここか」
深緑のコートを身にまとった茶髪の男がそこに立っていた。
悠々とこちらに歩み寄ってくる様に苛立ちを覚え、彼女はふいっと顔をそらした。
「懐かしいな、それ。2人で背比べして自分の方が高いからって、お前得意気にしてたよな」
彼女が触れていた線を、男は懐かしそうに見つめる。
それも気に食わなかったのだろう。彼女はすっくと立ち上がると、男の横を通り、戻ろうとする。
「なあ、ガレシア」
すれ違いざまに名前を呼ばれ、ガレシアは足を止めた。
「俺は確かに約束を破った。けど、それだけか?」
「…………」
お互いに顔を合わせることのないまま、彼は言葉を続ける。
「親父さんに何を言われた?」
「……っ」
ガレシアが言葉に詰まった。
父に言われたあの時の言葉が脳内に響く。
『ガレシア、諦めろ。俺たちとアイツじゃ世界が違うんだ』
「……ああ、言われたさ。旅人と貴族は一緒にいられないものだってね」
それだけ言うと、ガレシアは足早にその場を立ち去ろうとする。
「親父さんはもういない。それを頑なに守る必要があるのか?」
その言葉を聞いて初めてガレシアは相手の顔を見た。
「父さんを侮辱することは許さないよ、アクティー」
鋭い視線を避けることなく、アクティーはまっすぐに相手を見つめる。
「侮辱してるわけじゃねえよ。俺たちはもうガキじゃねえ。いつまでも親の言うことを聞く必要は……って、おい!」
話の途中であるにもかかわらず、ガレシアは身をひるがえし、屋敷の中へと戻っていった。
どうやらすっかり気分を害したようだ。
アクティーは大きくため息をつき、やれやれと首を振る。
やがて大樹の方へと振り返り、そちらに歩み寄ると、先ほどまでガレシアが触れていた線に触れた。
頑ななのは自分の方なのか。こだわりすぎなのか。だが、それでも――
アクティーが寂しそうに2本の線を見つめていると、1人の女性が姿を現した。
「婦長か……」
そちらを見ずとも、腰にさげた鍵束の音で分かる。
黒いロングスカートを身にまとう彼女は、しわの多い骨ばった両手を前で組み、凛とした表情と切れ長の瞳をこちらに向け、声をかけてきた。
「坊ちゃん、旦那様がお呼びです」
「……坊ちゃんは止めてくれ。もうそんな歳じゃない」
アクティーがため息交じりでそう言うものの、彼女は首を横に振る。
「いくつになろうとも、私からすればあなたは坊ちゃんのままですよ」
参ったように頭をかくアクティーに一礼すると、彼女は再び鍵束の音を鳴らしながらその場を立ち去った。
家政婦長。この屋敷に勤める全ての使用人を統括する女性である。
アクティーは呼びにくいので“婦長”と呼んでいるが、それは彼のみに許された呼び名であり、厳格な彼女を恐れる使用人たちは畏怖を込めて“ミセス”と呼ぶ。
屋敷を見回る彼女が立てる鍵束の音は恐怖の象徴とされ、アクティーも子供の頃はよく身を震わせたものだ。
そんな彼女が勤める屋敷を見上げると、アクティーは苦々しい表情を浮かべた。
「もうここへは戻ってこないつもりだったんだがな……」
文句を言っても始まらない。一刻も早く父の元へ向かわなくては。
彼もまた、実家であるジェスト邸へと引き返すのであった。