21‐6
貧民街へと戻ってきたエモールだったが、彼の表情は暗かった。
「エモール、しっかりしてくれよ。ろくに食事も取っていないじゃないか」
仲間たちに心配される間も、エモールは一言も話さない。
困り果てた仲間たちは顔を見合わせた。
「……しばらくしたらここを出ていく」
唐突にエモールが言葉を発するが、その内容に仲間たちは驚愕する。
「何を言い出すかと思えば……ティルジュのことはどうするんだ?」
「そうだそうだ。あんなに恋い慕っていたじゃないか」
仲間たちが反論するが、エモールは首を横に振った。
「もう、いいんだ……所詮貧民出の男。初めから彼女に釣り合うはずもなかったんだ」
「エモール!」
「それにここにいればみんなにも被害が及ぶだろう。私はここにいるべきではない」
「エモール、そんなことを言うもんじゃあない。貧民街の者たちはいつだって助け合って生きてきた。君一人が出ていく必要はないんだ」
エモールは再び口を閉ざす。
結論が出ないまま、時間だけが過ぎていく。
そんな中、仲間の1人が口を開いた。
「ティルジュに会いに行こう」
皆が驚いてそちらを見やる。
「一時でも君とティルジュは同じ時間を過ごした。なら、彼女だって何か思うところがあるはずさ。でもティルジュの気持ちはティルジュにしか分からない。ここで話していたって何も解決しない。なら直接会って聞いてみよう」
その言葉にエモールは顔を上げた。
「言いたいことは分かった。でも一体どうやって彼女に会うというんだ? もうあの庭には……」
彼の言葉を遮るように、その仲間は自分の胸をどんとたたいた。
「何のための仲間だと思ってるんだい?」
仲間たちがそろって笑顔を見せる。
しばらく呆然としていたエモールだったが、やがてふっと笑んだ。その瞳に涙が浮かぶ。
「ありがとう」
『エモールは決意します。ティルジュに会って彼女の気持ちが自分と同じなのか。そしてもし同じならその時は、と。仲間たちと様々な意見を出し合い作戦を練ると、彼はついに再びスティルパック家の敷地へと足を踏み入れたのでした』
その夜、スティルパック家の至る所から突然煙が沸き出し、敷地内は混乱に陥っていた。
人々は火事だと大騒ぎし、火元の確認と消化のために駆け回っている。
混乱に乗じてエモールはティルジュの部屋へと駆ける。
扉を開けると、それまでおろおろとしていた彼女が目を丸くしてこちらを見つめた。
「エモー……ル?」
直後、2人は同時に駆け寄り、お互いを強く抱きしめた。
「エモール! ああ、本当にエモールなのね!」
「ティルジュ……また君に会えるなんて、これは夢だろうか?」
「わたくしも……貴方が捕らわれてからというもの、幾度貴方が苦しむ夢を見たでしょう……」
やがて2人は身を離すと、笑顔を見せ合った。
しかしティルジュはさっと顔を曇らせた。
「今の状況は貴方が?」
「君がいる家に火をつけるなんてとんでもない。これはただの発煙筒だ。どうか心配しないでほしい」
それを聞いて彼女はほっと胸をなで下ろす。
「今日は君の気持ちを聞きに来たんだ」
エモールの言葉にティルジュは小首を傾げた。
「ティルジュ。私は君を愛している。君のことを考えると心が切なくなり、そして大きく震えるんだ。そして同時に怖くなる。実は君は私のことを何とも思っていないのではないのかと」
エモールはそれまでの笑顔から一変して真面目な顔になる。
「もしも、もしも君が私を愛してくれているというのなら、共にここから抜け出そう。そしてどこか遠くへ行こう。永遠に君を守り続けると太陽神に誓うから」
ティルジュは驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「わたくしも……わたくしも愛しています、エモール。毎夜貴方が来てくれることをどれほど心待ちにしていたことか。それが叶わなくなったとき、どれほどわたくしの心が潰れてしまいそうになったことか。だから、これからはずっと一緒にいましょう、エモール」
2人の気持ちが同じだと分かり、エモールはその瞳に涙を浮かべた。
「ああ、ティルジュ! これまで生きてきてこれほどまで嬉しいことはない! これほどまで熱い思いが込み上げたことはない!」
再度力強く抱擁を交わす2人。しかし――
「わざわざこの場に戻ってくるとは、愚かな男だ」
聞き覚えのある厳かな声がその場に響く。
複数の衛兵を連れたダルモアが部屋へと入ってくる。それを見たエモールは、とっさにティルジュを背後に隠した。
「ティルジュ。私の可愛い娘よ。お前は私の言うことを素直に聞いて、結婚すれば良い。そうすれば我がスティルパック家への信頼はより強固なものとなり、今まで以上に裕福な暮らしが送れるだろう」
「お父様、わたくしは裕福な暮らしなど望んでおりません! ただ、愛しい人の側にいられればそれで良いのです!」
必死な言葉を発する娘に対し、ダルモアは冷たい眼差しを向けた。
「お前が望んでおらずとも、私がそれを望んでいるのだよ」
「貴様、自分の娘をも金のために利用しようというのか!?」
今度は怒りを発する青年に向けて、冷たい笑みを見せた。
「それがどうした? これは私の所有物で、このためだけに金をかけてきたのだ。私がどう扱おうと私の自由だろう?」
「そんな……」
絶望した表情で親しんでいた父を見つめるティルジュの瞳に涙が浮かぶ。
「おのれ、外道め!」
エモールはついに腰にさげていた剣を抜き、ダルモアへと向けた。
「この数相手にやれるとでも?」
余裕を崩さないダルモアだったが、その背後から声が響く。
「俺たちを忘れてもらっちゃ困るな!」
突如、待機していた数人の衛兵たちがその場に崩れ落ちた。
そこに立っていたのは、剣を携えたエモールの仲間たち。
衛兵たちが油断している隙をついて、次々と切り捨てていく彼らはやがて、扉の外へ向けてばっと手を広げた。
「さあエモール! ティルジュと共に自由を行く鳥となり、輝き放つ星となれ!」
その言葉にエモールは大きくうなずくと、背後にいたティルジュの手を取った。
ティルジュもまた覚悟を決めたようにうなずくと、2人は共に駆け出した。
「おのれ、逃がすな! 追え! 追えー!」
『仲間たちの手助けを受けたエモールとティルジュは駆け続けました。国を出て、野を駆け、どこまでも。そして――』
「それからそれから? 2人はどうなったの?」
幼女の声が木製の家に響く。
彼女は目をキラキラさせ、続きをせがむが、側にある椅子に腰かける老婆はにこやかに微笑むだけだった。
「ふふ、どうなったでしょうね? さあさあ、もう寝る時間ですよ」
幼女はむっと頬を膨らませるが、すぐにあくびをする。
「おやすみなさい、お婆様」
「はい、おやすみなさい」
自分の部屋へと向かう孫娘の背を見つめる老婆の表情は、それはそれは穏やかで優しいものだった。
直後、家の扉がノックされた。
老婆は椅子から立ち上がると、扉を開き、相手を迎え入れた。
「おかえりなさい、エモール」
「ただいま、ティルジュ」
そこにはいつかのように笑う老人が立っていたのだった。
* * *
ふっと辺りが暗くなる。
次に強い明かりが劇場内を照らし出すと、そこには芝居に出演していた人々が一列に並んでいた。
笑顔で舞台に立っている役者たちに、割れんばかりの盛大な拍手が送られる。
「はうう……良かった……2人は幸せになれたんですね……」
すっかり話にのめり込んでいたオルディナは、目をうるませながら拍手をしていた。
その隣では、意外にも話に見入っていたセルファが真顔で拍手をしていた。
「しかし、ラウダの技量には驚かされるな。まるで別人のようだった」
同じように拍手を送るネヴィアに、イブネスが静かに同意を示す。
そんな中、腰かけたアクティーは足を組み、無言で壇上を見つめている。
一瞬ノーウィンは声をかけるべきか悩むが、止めておくことにした。どこかただならぬ雰囲気を感じ取ったからだ。
後方では腕を組んだガレシアが壁にもたれかかっている。
「貴族と貧民、ね……」
その独り言は拍手の音にかき消されるのだった。