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帝の何気ない指令により小碓が大碓のもとに。
四
稲作の文化では、それまでの狩猟採集文化よりもずっと難しいことがある。それは季節を正確に捉えることである。梅雨時の田植えも終わり、雑草取りも終わって盛夏を迎える。今年の収穫を左右する直前の時期に、神を祭り豊作を祈願する。このあと数週で、収穫を左右する発芽の時が来る。稲はたったの一刻(二時間)の間に花が咲き終わる。花が咲くとおしべが弾け飛ぶ自家受粉という方法で受粉する。穂先から咲き始め、五日間ぐらいで全部が咲き終わる。その短い間に受粉しないと実が結ばない。
この時期の風や雨の状況が直接収穫量を左右する。この時期の巫女(シャーマン)の働きが重要となる。時期を間違えてはならないのである。暦や占卜、薬草術に通じた巫女達にはその土地々々に独自の正確な暦があった。
現在は田植えの時期が大幅に早まっているが、決して良いことではない。ただ、時期が早まったのは、受粉後の台風なら幾らかは助かるが、受粉前に台風が来てしまうと全滅も有りうる。それくらい微妙な時期だからかもしれない。
初秋、豊作祈願の祭りも終えて一段落した頃、日代の宮の膳処に、纏向に住む親族達が夕餉の集いにやって来ていた。封地に出向いているときを除き、纏向に住む皇族達は、大概夕方の食事を共にする事になっていた。皆薄手の袖の短い狩衣に袴姿、紐で手足の裾をすぼめている。公式の場でもないから、帝と大妃、妃達以外は絹の衣など着ていない、麻である。女性の場合は首の後ろで髪を結び、後ろに垂らす。男は饅頭髷を布で縛った髪型。小碓は女性と同じ髪形で、ごく幼い子供らは鬼髷に結っている。
広い板敷の部屋に、最上席で菅畳に座って高坏の酒器を手に取る帝。その下座に二列ずつ向かい合うように居並ぶ皇族達。四、五十人も居るだろうか、什器の膳に盛られた漆器を手に取り、静々と食べ物を箸で口に運んでいる。膳夫の水仕達が四、五人、配膳役として周りに控えるように座っている。
…箸は六世紀末に聖徳太子がもたらしたとされるが、甚だ疑問である。支那国では太古の昔から箸はあった。普及の度合いは異なるだろうが、伝わっていないとは思えない。…
普段より静かに感じるのは、帝の顔色に反応しているのであろうか。それともこのところ微かに巷で聞こえてくる噂のせいであろうか、皆が帝の顔色を覗っているようだ。
食事中、帝は頻りに右手の空いた席を見る。帝の席を除けば最上席である。
それとなく周囲に目を配り、皆の御機嫌を覗う帝。右を向いてやや口元をほころばせたのは、二番目の席で食している大后に対する愛想であろう。大后も微笑み返す。
いつもとは違う雰囲気に幾分不機嫌そうな帝、左最上席の小碓に、手招きをする。小碓は座を低くしたまま帝に近づき、座り直す。
帝は、自ら小碓に体を寄せて、小声で尋ねた。
「どういう訳で汝の兄は、夕餉の膳に顔を出さんのじゃ? 何か知っておるか?」
「いえ、一向に存じませんが・・・」
と、小碓は合わせるように小声で答えた。
「左様か、困った息子殿じゃ・・・」
と、帝は左手の人差し指が気になるのか、親指で弾くような仕草をしている。そろそろ爪を噛みたい心境になってきているようだ。
また前のめりになって小声で話す帝。
「吾は怒っとらんから気にせんでよいと、お前行って来て、善きように計らっておくれ」
「はい、分かりました、陛下」
と言って、小碓はまた自分の席に戻っていく。
小碓はごく軽く引き受けてしまった。初めはどうして一緒に住んでいる大妃に言わないのか良く分からなかったが、単に大碓を夕餉に連れてくればよいのだなと解釈した。
この時の小碓には、この帝の下知がのちにどういう運命を自分にもたらすかなど、知る由もない。
八尺の大叔父にも諌められ、帝の勘気も治まったと安心してはいた大碓である。すっかり熱も冷めたというのに、大碓は纏向の自邸に籠り、帝と顔を合わす勇気がなかった。恥ずかしい事をしてしまったと後悔しているのである。皆にどのような目で見られるのか怖かった。大碓側が皆に口止めしていたとしても、帝や八尺の大叔父、仕丁らも大碓のしたことを知っているのである。噂が流れることは必定であろう。
西三野垂井に封地を持つ大碓と、近江日野に封地のある小碓とは二卵性の双子である。大碓は大柄で体も顔も四角ばった、帝に似た容姿であるが、小碓は体の線が細く、切れ長の大きな目をしていて丸顔で、童顔だった。二人とも親譲りなのか臆病で、繊細である。しかし大碓はどちらかというと触らぬ神に祟りなしと考える性質だが、小碓は怖さや危険度がどれくらいなのかを見極め、避け得なければ震えながらも立ち向かうという性質だった。
臆病ゆえに大碓は先の先まで考えてしまいがちだが、小碓はそこまで気が回らず、一か八かという大らかさがある。ここに少しだけ小碓の方に心の余裕を感じるが、無鉄砲ともいえる。親の反動なのか共に潔癖症で、あまり小細工はしたがらない、理に適わないことが嫌いだった。その点は似ているのに、何故か気が合わない二人であった。
翌日の昼ごろ、向かいの兄の屋敷に向かった小碓、大路に面した四脚門を潜り、左手に見える馬小屋で働く仕丁に訪いを告げると、仕丁は遠くの方を指差した。見ると広い敷地の中央にある池の袂で大碓が佇んでいた。一礼して小碓は歩きだした。
四囲を高さ六尺の板塀で囲み、大路に面して四脚門があり、反対側にも裏門の木戸がある。北側に千木や鰹木のある萱葺きの切り妻屋根、高床で平入りの母屋である。その西側に洗い場や井戸があり、西の壁に沿って膳処(厨房)、仕丁小屋が並び、南側には馬小屋や鳥小屋、厠が並ぶ。中央の庭には日代の宮から接ぎ木した桃の木と池があって、円形に盛りあがった(アーチ状の)石橋が架かっている。
皇族の屋敷はだいたい同じ造りであったが、纏向では殊のほか桃の木を植える屋敷が多い。どの家も千木が高々と天に向かい、日代の宮の朱雀門ほどではないが、大きな鳥居のような四脚門がある。大路を歩いている者から見ると、さぞかし壮観なことであろう。
兄は庭の池の傍らに佇んで、瓢に入った餌を池の鯉にやっている。
小碓が近づき、
「兄上、御機嫌はいかがで御座いますか?」と、軽く九拝する。
「おお、小碓か、何をしに参った?」
と、大碓は些か不愛想である。
「はい、実は陛下が兄上の事を心配しておられます、ついぞ夕餉の食膳に見えぬと申しまして。一体どうしたのですか? 陛下と何かありましたか?」
小碓はつい気軽に口走ってしまった。人の心の動きなど、まだ感じ取れるほど成長していない小碓である。
「うっ・・へ、陛下が、陛下が吾を心配していると?」
と、気の小さい大碓は警戒した。
「汝は陛下から何か聞いているのか?」
「いえ、別に。ただあまり顔を見せないので、少し怒っているようでした」
「何? そ、そうか・・・」
気もそぞろな大碓は、空になった瓢を頻りに揺すっている。
「気にせんでいいから顔を見せるようにとの事です。ですからいいですか兄上、今日の夕餉には、きっといらっしゃって、顔を見せて下さいよ」
「あ、ああ分かった・・・そうしよう」と、気のない返事。
安心して自邸に戻っていく小碓ではあったが、何か兄が心ここに在らずの感じがして気になった。そこで家臣の三太夫にそれとなく見張らせた。すぐ隣の屋敷なので、高い所から見渡せるのだ。
高さ六丈(十八メートル)を超える檪の木が小碓の屋敷の庭に生えていて、その木を手入れしているように見せかけて三太夫は見張っていた。すると夕刻になってあわただしく動き回る人達、そして大碓が仕丁二人を連れ、旅姿で裏木戸を開けて出ていくのが見えた。
驚いて木を降りる三太夫、そこへちょうど夕餉を終えて小碓が帰ってきた。
「なに、兄上が旅に出ただと? あれほど約束したというのに、夕餉に現れないからどうしたかと思ったら。兄上は一体何を企んでいるのだ? 旅という事は垂井だな、それ以外行ける所はない」
「いかが致しましょうか、わいが付けて行って、調べましょうか?」
「んん、いや、吾も行く事にしよう、何があったか調べねばならん・・この分では今から急いで連れ戻しに行ったところで兄は従わないだろう。事情を把握した上で陛下に報告することにしよう」
小碓は執事の物部蔵人に、明日から垂井まで兄を連れに行くことを告げ、旅支度をしてその日は休んだ。
翌日早朝、小碓と三太夫は近くの船着き場に向かう、外はまだ夜が明けきっていない。一般の者が利用する船着き場である。今と違って電気の無い時代では、東の空が白む頃には仕事が始まり、一番暑くなる西日の頃には既に仕事を終えて一日の汗を拭い、日が暮れてきた頃には夕餉を食べ終えている。暗くなるずっと前に、寝る支度までするのが当たり前の時代である。
小碓はなにゆえ兄が出仕しないか気になって仕方がない。腰に水の入った瓢を下げ、背には朱鞘の刀を結わえつけている。背には刀がぶつからないように工夫した背負子を担ぎ、干し肉や薬草などの入った麻袋を括り付けている。
夕暮れ頃、垂井についた小碓と三太夫は金山神社の裏手にある洞穴を宿とした。大碓の屋敷と金山神社との距離はゆっくり歩いても半刻とかからない、目と鼻の先に在る。
翌日、兄の館の北にある裏山に入り、樹に登って遠くから様子を窺うと、何か緊張感の漂う物々しい雰囲気。屋敷の周りを巡回する者が二組、門で槍を持った者が二人、そして中で槍の訓練をしている者が大勢いるのが見える。竹槍ではない、さすがに伊福連を家来筋に持つ大碓だけに、みな鋼の刃先を付けた槍である。
「これはすごい数だ、いったい兄上は何をしようとしているのだ?」
「主、これは帝を恐れとるのやろな、纏向から逃げて守りを固めとるくらいじゃからな」
「そのようだな。ともかく何があってこんな事になったか探らねばならぬ、二人で手分けして調べよう」
小碓達はひとまず金山神社に隠しておいた荷物を取りに戻り、ここを落ち合う場所と決め、手分けして旅姿のままあちこちに聞き込みを始めた。
東山道の不破には古くから関所があったと考えられるが、何のために在ったものか? のちの時代では関所は軍勢の通行を許さない、あるいは遅らせるための役割が主だったが、この時代もそうだったのであろうか?
不破の地は街道の交差点に当たる、しかも極めて草深く、空っ風が吹きさらし、寂しげな所で、追い剥ぎが横行する地形である。その為に関所を造ることで追い剥ぎから民を守り、その代わりに通行保障として何某かの長目を受け取る。検察機関の役割も兼ねたであろう。そんなことから関所が造られたものではなかろうか。
不破の関がすぐ西にあるため、垂井は宿場街に相応しい場所である。尤もこの時代は宿に泊まるという習慣はないし、貨幣が流通していない。
ただし、人の往来が他より多いため垂井には市が立つ、物々交換するために都合のよい場所であった。食べ物や衣類に限らず刀剣や農具などもあった。馬や奴隷売りもいた。
あちこちで商売が始まる。
「おう、その馬は何となら取りけぇるんだ、おらんとこの瓜、籠にひと山ではいけねぇけ?」
「あほぬかせ、馬と瓜とでは比べもんになるかいな」
市の中を馬曳いて売りに出ている馬子が呼び止められて、あまりの安さにすげなく断るが、相手の瓜屋の親爺の横に座っている女を見て驚いた。
「そのなんだ、そこの、あんたの側にいる娘っ子、その娘っ子だったら取り替えてやってもええわ」
「馬鹿こぐでねぇだ、この娘は売りもんでねぇ、おらの娘だがな」
と、親爺はいやな貌をする。
「これ、こっち隠れてろ、ほんとに、油断も隙もねぇもんだ」
娘が親父の影に隠れて、馬子を睨んだ。
「そんじゃあなんだ、この鍬と小刀でどうだな? ついでに瓜も付けるで?」
「刀か・・・鋼だな、まぁそんならええか、取っ替えてやるわい・・・それにしても、おまはんの娘、ええ女だなぁ、偉い別嬪だがな、残念だなぁ」
「はは、そうかね、ほならこれとこれをっと、どっこいしょ」
親父は鍬と小刀を渡し、瓜が山と入った籠の蔓を持ちあげ、馬子の前に置き、蔓と手綱を交換した。
「この馬っこはなんちゅう名だね?」
「青とでも何でも呼んでりゃええわな、おとなしい馬だから・・・ところでおまはん、ここらへんで時々めっぽう綺麗な娘さんが歩いとると聞いたことあるが知っとるかいな、何でも姉妹だっちゅう事やけど」
「ああ、垂井の殿さんの嫁さんだがや。二人とも別嬪だってのに、その二人ともが嫁さんだって話だな。一眼見たら目が潰れると言われとるだ」
「へぇ、何で目が潰れるんだ?」
「殿さんが家来をいつも護衛に付けとるでな、じっと見たりする奴がいると刀で斬られるって話だ。まぁそいつは嘘だが、それくれぇ殿さんが入れ揚げとるってことだなぁ」
「へぇ、そいつぁ一遍見てみたいもんだな、父っつぁん」
これを小脇で耳にした三太夫が瓜を齧りながら割り込んできた。
「おい、お父っつぁん、いまの話の娘ってのは誰の事だな? 垂井の殿様に姉妹の嫁はんなんぞ居らんやろ?」
「ええ? いやぁ、四月の初めごろだったか、本巣の殿さんから嫁いで来ただよ、そりゃぁもう偉い別嬪でなぁ、垂井の殿さんはしょっちゅう纏向からやって来ては乳繰り合っとるちゅう話だ。偉く仲が良くてのぉ、何でもはぁ二人とももうおめでたではねぇか、ちゅうことだな」
「へぇ、ほんまかい、おめでた? 本巣の殿様の娘ねぇ、ふーん、羨ましいこっちゃで。有りがとよ」
礼を言って瓜の芯をぽいと投げると、三太夫は急に市を抜けて東に向かう。瓜屋の親爺も商いあってか、可愛い娘と馬を連れてそそくさと歩き出す。瓜を買った馬子は、今度はまた別の所で交渉を始めている。忙しいことだ。
ちなみに遺跡から瓜は縄文の頃には存在している。この瓜が本巣国の真桑瓜と同種だったかどうかは分からない。真桑瓜は三世紀の応神大王の頃に韓国から伝わったとされる。
一方、琵琶湖方面に向かった小碓も、同じように潮干狩りに来る姉妹の事を耳にする。本巣の大根王の娘が大碓に嫁いで来たとか。
その後本巣に向かった三太夫が重大な情報を掴んでいた。娘二人は帝の所に行くはずだった、それを大碓が横取りして替え玉を帝に贈ったというのである。
数日後、金山神社で落ち合った小碓と三太夫は思案に暮れる。神社の裏手の小山にある洞穴で、篝火を左右に置いて、石に腰掛けて向かい合っている。間に石を囲んだ囲炉裏のようなものがあるが、火は付いてない。地面から二尺ぐらいの高さにある篝火からは炎とは別に盛んに煙も出ていた、蓬を焼べて蚊遣りにしているのである。
「それにしても兄上は何という大それたことをなさったものだ、一体どうしたら・・・」
「既に娘らは身籠っていると聞きましたで。最早娘らを帝に差し出す訳にはいきませんな」
「どうしようか、三太夫、陛下に報告に戻ろうか?」
「いや、それでは二度手間ですがな、なんとか説得して大碓命を帝のもとへ連れてゆかんと。しかし、あの様子ではただでは済みますまい・・・こうしましょ」
三太夫はそう言うと焚火の燃えさしを掴み、地べたになにやら書き始めた。屋敷の見取り図のようである。小碓は三太夫の言う事に一々頷いて聞いていた。いつの間にこんなに情報を掴んだのだと、小碓は三太夫の働きに、すっかり感心してしまう。