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第十二代景行大王の近江への忍び旅の話。
二
開祖神武大王の頃から三百五十年余を経た頃合い、第十二代景行大王の御世である。弥生時代の末であり、古墳時代の始まりでもあるという二つの時代の過渡期に当たる。
帝の在位二十七年(推定西暦一四二年)、四十九の頃である。倭政権の直接支配が及んでいた地域は近畿五国と近江、三野、尾張、伊勢、播磨であった。伊勢と近江、播磨、丹波は近畿に入らない。伊賀国はまだ存在すらしていない。
坂東(現在の関東)の北側以北と沖縄を除いてほぼ倭に属してはいたが、土蜘蛛という反抗分子があちこちに存在し、完全に民を支配している形とはほど遠い状況だった。地方には倭政権から国の造を派遣し、あるいはその土地の有力者を造に任命する形で国として日の本全体を纏め始めた時期である。
…造とは国主(帝の代理人、のちになって徴税官)の地位である。造と首、直はほぼ同じような意味の官職であった。こういう官職を姓と呼ぶ。それ以外に連と臣という姓もある。臣は皇族の有力者の姓であり、連はそれ以外の有力者に与えられた姓である。…
直接支配地域以外の地方の国は交易によって利益があるから倭に従っているだけで、その繋がりは緩やかで、いつ逆らってもおかしくはない。中国(中国地方)はほぼ倭政権化にあるが、実情はあまり良く分かっていない。同じく四国と淡海(淡路島)はヤマトの一部となっているが、イザナギの命の住んでいた神域とされ、殆んど分かっていない。
西国(九州)は倭の最初の地であり、最も進んだ地域であったが、都から遠く韓国が近いために、独立心の強い地域であった。交易の要となる西国を押さえることは倭政権にとって極めて重要な課題なのである。
日の本はざっとこのような状況であった。
都は現在の奈良県桜井市三輪山北西麓付近で、皇居は纏向の日代の宮と呼ばれる。
街の中を二本の川が通り、下って倭川(のちの大和川)という大河に合流する。いずれの川も街の給排水に利用され、また舟で下って海にまで行くことも出来る。そのうち初瀬川は日代の宮のすぐ南を通り、四囲を巡らす濠に繋がっている。
倭川の流路は現在とは大きく様相を異にする。途中河内国に入る辺りで切り立った断崖に挟まれた峡谷(亀の瀬峡谷)を通り、急に北に向きを変えて河内湖に注ぐ。峡谷や川の流れ自体はそうでもないが、断崖はあちこち地滑りを起こす危険地帯である。当時は河内の西側高台(大阪城のある所)の延長上にある砂州が、そのまま北の摂津国茨城辺りで繋がっていて、ここに海への入口があった。この砂州の東側一帯に巨大な河内湖が存在したのである。淀川と倭川が共に河内湖に注いでいた。現在では河内湖は存在しないし、流路も北ではなく西に向かい、河口は堺市付近に変わっている。
この時代住居といえば高台に造った屋根が円錐形で内側が隅丸方形(もしくは矩形)の竪穴式住居が殆んどである。にも拘らずここ纏向では竪穴式住居が少なく、殆んどが高床式の建物である。礎石を使わず地面に直接柱を突き刺した掘立柱建物という形式で、漆喰の白壁に立て掛け式の戸まで付いている。朝になったら一斉に取り外して脇に重ねて立て掛けておき、夕方になったらまたはめ込む戸である。後世の雨戸に似ている。明かりの欲しい戸や窓には薄い麻布を張った窓が付いている場合もある。
…この竪穴式住居とか掘立柱建物とかいう呼び方は考古学上、あるいは建築史学上の名前であって、当時は伏屋根の家とか切り妻屋根の家などと呼んだのかもしれない。…
纏向の街並みは日代の宮を中心として四方に整然と家と道が並び、南北にやや長い楕円の形をしている。日代の宮の周りは堀で、その外側にぐるっと一周出来る広い道路がある。宮の南側には正門の朱雀門がある。朱雀門だけは宏壮な四脚門である。その南側に、敷石を連ねた広幅の長い道が南北に走り、道の両側に皇族達の住まいが並ぶ。
そのほか日代の宮には北に玄武門、東に青龍門、西に白虎門が在り、玄武門を除いて三つの門には大きな吊り橋が架かっている。水神玄武の門だけは舟の出入り口である。それぞれ支那国から来た教えをもとに守り神を各門に配したものである。
日代の宮の敷地は一町(百九メートル)四方ほどで、他の所より一間(六尺)ほど高く盛土され、濠の内側は幅二尺、高さ二間の土塁で囲まれている。橋を登るように渡り朱雀門を潜ると杖刀人(衛兵)の詰め所や庭池と桃の大樹などを両脇に見て、正面に帝の住む正殿が見える。その他敷地内には膳処や厠、船着き場、物見櫓、妃達の寝所などが立ち並ぶ。当然のことだが、四つの門内には許可無しには入れないことになっている。
当時の都はおおよそこのような外観だったと思われる。
…古代では衛兵や常備軍などを指して杖刀人と総称したが、これは取りも直さず杖を持ったり、刀を持ったりする者という意味である。槍も杖に含まれる。
これまでの発掘で広さは推定で南北に二キロメートル、東西に一・五キロメートルとされる。二メートルの高床で、高さ十二メートル、南北二十メートル、東西十二メートルクラスの、当時としては極めて大型の建物もいくつか発見されていて、帝の住居か神宮、あるいは大極殿のような政事を行う建物かもしれない。ちなみに皇族の人が住む住居のことを宮と言った。どんなにあばら家であれ、旅先で造った伏屋根のちっぽけな仮住まいであっても宮である。そして大概旅先で造った宮は、のちの時代に神社と変わっている。…
二月中頃、しばらく西ばかり見ていたことで、東がおろそかになったと考えた帝、三野を巡幸すべく従者を五人連れただけで、舟で摂津へ向かう。正確には偵察であって巡幸ではない、周りにそれと知られないようにしての旅であった。それというのも三野国の不穏な噂が聞こえてきたからである。
前述した畿内と近江、三野、尾張は倭の中心地帯であり、皇族達の封地が点在する。なるだけ安心出来る者達で周りを固めたかったのであろう。
…摂津は大阪府の一部で近江は滋賀県、三野とはのちの表記の美濃、現在の岐阜県である、そして尾張は愛知県の西側半分に当たる。当時の国とは地方というくらいの意味で、邑や村がいくつか集まった単位を国としたものである。邑とは大まかに言うと百戸を超えるやや大きな村を指している。…
皇族達は年に何度か帝に挨拶に来るのが慣わしであった。ところが西三野の本巣国の造、大根王は昨年正月以来まだ一度も出仕が無い、どうしたのか探りを入れに来たのである。
西三野垂井には当時としては珍しい製鉄が出来る豪族伊福連が住んでいる。正式な名前は伊福多多美彦連といい、朝鮮半島でこの時代に全盛を誇っている百済からの移民で、帝が特別に優遇しているものである。この人物についてはいずれ触れることになるが、今はその時ではない。
国がようやく纏まりかけてきたこの時期に、内部から離反する者が出る事は、国の存続を危うくする。帝は常に細心の注意を以って国中に目を光らせていた。あちこちに人をやって日の本中の情報を入手し、同時に帝と倭国の宣伝を行なわせる。四角い顔でがっしりした体つきの割に、極めて臆病で繊細な帝で、色々なことに注意が行渡る人であった。
帝、そして従者の五人はいずれも似たような質素な格好をしている。丸めて団子を載せたような支那風の髷を作り、頭髪全体をすっぽり黒布の冠で覆っている。単衣の肌着の上に膝上まである水干を着て野褌を穿き、鹿皮の深靴を履いている。手足は紐ですぼめて動きやすくなっている。一見して商人風の形である。
ここで古代の人の姿形について多少記しておきたい。古代人は日本独特の角髪という髪型をしていると思われがちである。髪を中央部で分けて、左右に編んで束ねて耳の後ろでふっくらと紐で縛った髪型である。しかしこれは貴人の公式時の姿であって、普段は楽でいい流行りの丸髷が主流と思われる。
現在の着物のように襟を前で合わせる形を方領といい、高襟を首の所に巻いてとめる形を盤領という。水干とは盤領のやや丈の長い普段着で、支那国風の長袍から変形したものである。直垂、水干、狩衣の順に丈が長くなり、のちの武将の装束となる直垂だけが方領である。三種とも麻布製の普段着で、公式の際は丈が足首まである長袍という支那国風の盤領で絹製の服を着る。
男用のハカマを褌と書き、女性用のハカマを袴と書くそうだ。男用の褌が短い下着となって簡素化したものが短褌、今で言うと半ズボンである。男の場合のみ股間の邪魔物を保護するために下着を付けた。江戸時代のフンドシは短褌ではなく下帯である。平安時代初期までは女性も常に袴を穿いていた。深靴とは足に合わせて削った板を、筒状にした鹿皮に底板として入れた簡素な履物である。
ちなみに一般庶民の服装はぐっと粗末で、のちの浴衣に似た方領の単衣を内側に着て外側は肩衣(袖なし羽織あるいはちゃんちゃんこ)を羽織って上に褌を穿いていたらしい。蓆を被っただけの貫頭衣は一般的でない。この誤解については後段に譲る。
…『服装の歴史、一』理論社/村上信彦著を参考…
従者の頭立つ者は八尺之入彦命といい、帝の叔父に当たる。先代の頃から執事を務め、帝の良き師でもあったが、既に六十過ぎの白髪、白髭の、皺だらけの痩せた好々爺となり、八尺の大叔父と呼ばれている。代々皇居の執事は皇族のごく近しい家柄のものがなる慣わしである。八尺の大叔父は先代垂仁大王の弟である。
年の割に元気で、帝の変わりに政務を執行することも多々ある。ずっとのちの話だが、大叔父の末の娘が八尺入姫命といい、早世した第一大后に変わり、帝の第二大后となっている。
あとの四人は舎人の護衛官であり、その頭を長左といい、外交官も務めている。二十八という若さに似ず切れ者で、相手を良い気持ちにさせながら帝の意向を伝える使者としてうってつけの男であった。中肉中背で武芸に優れ、背筋が伸び、姿の美しい男である。
…舎人と采女は律令の頃に盛んに使われる言葉であるが、使役税として各地の氏族から徴収した使用人のことである。おそらく崇神朝の頃から帝に従った証として、使用人を人質として出す習慣があったと思われる。氏族とは姓を持つ者のことである。平民からも使用人を雇う場合があり、仕丁や女丁と呼ばれる。特に台所など水回りの用事を扱う女丁を水仕という。…
畿内を流れる倭川(大和川)を舟で下り、河内湖に出て淀川を遡り近江へ向かう。淀川は途中三筋に分かれ、北から桂、宇治、木津と川の名を改める。その中央の宇治川が、今はまだ人気も疎らな山城(京都)を緩やかに迂回し、琵琶の湖に至る。
舟を操る家臣が船尾で艪を放し、頭を低くしてしゃがんだ。舟はゆるゆると瀬田の橋を潜り抜けて琵琶湖に入った。
余談だが琵琶湖の付け根、琵琶の鶴首の地形にある瀬田の橋(唐橋)ほど古い歴史を持った橋は無い事だろう。細長い日の本の中央部に、東西に分断する如く居坐る琵琶湖、その行き来を可能とする大事な橋である。この時代に初めて造られてより、幾度となく架け替えられては軍兵や旅人の通り道となった。
草木の青が眩しい昼下がり、帝の長い鯰髭がさらさらと風に揺られてそよいでいる。この時代はまだ緑と言う色の表現がなく、青とか苔色(黄緑)と言った。
「八尺の大叔父よ、淀の川といい、この琵琶の湖は静かよのう、この舟のお陰で吾は歩かずともよいゆえ、疲れんでええわい、のぉ?」
「はは、さようで御座いますな。この分ですと暗くなる前に日枝の館で湯に浸かれますな」
「温泉か、楽しみじゃのぉ」
帝は湯のぬくもりを思い出したのか、自然と口元がほころび目尻が下がる。
…琵琶湖の南西部の湖岸に坂本という地域がある。その大津市坂本の四キロメートルほど北にある温泉、比叡山山麓の雄琴温泉である。当時は足湯が一般的である。
平安時代に今雄氏の館の側にある温泉で、土地の者が足湯に入っていると、この館から心地よい琴の調べが聞こえてきた。うっとりして聴いていると、眠ってしまって湯ぶねに落ちて溺れそうになる者がおったとかなんとか。そこから付いた名が雄琴温泉。…
舟はゆっくりと坂本を過ぎ、西側の浜沿いに進む。
「おお、綺麗じゃのぉ、日枝山にも桜が咲いたの。湯に浸かりながら花を見るのも一興じゃのぉ。こんなことなら姫達も連れてくれば良かったかのぉ」
「左様ですな、奥方様もさぞ、お慶びであったでしょうに・・」
と、大叔父が相槌を打つ。
「大后か」と、帝は苦虫を齧ったような顔をする。
「あれは駄目じゃ、あれが来ると口うるさくてかなわん」
「陛下、たまには若郎女様だけでなく、奥方様にも寵愛を賜れ。このところ大后の御機嫌が宜しく御座いませんようですぞ。八つ当たりされるこちらの身にもなって下され」
「分かった、分かった。大叔父は歳のせいか口うるさくなったぞ」
「なんの(左様なことは・・)」
と、大叔父は座ったまま顔の前で手を合わせて九拝した。言葉尻は如何にも不満そうである。当代の大妃は播磨稲日大郎姫と呼ぶお方である。
この九拝という挨拶は、上半身を前に傾け、額のあたりで軽く両手を合わせる支那式の挨拶である。大叔父のしたような軽いものから、膝立ちして深々とお辞儀するやり方まで九通りある。春秋戦国時代に興った儒教の思想に基づいて定められた礼式であって、日の本にもいくらかは伝わっている。
若郎女とは大后の妹の伊那毘若郎女である。閨門の扱いはとかくややこしいもので、別け隔てがあると思わぬ国の乱れにも繋がる。
山には薄桃色に匂い立つ山桜がちらほらと咲き始めている。飛鳥、奈良朝のみ隋唐の影響で梅見の方が流行っていたが、日の本の花といえばやはり桜である。
宿所とする麓の日枝社(日吉大社)に着いて西を望む帝、まだ仏教が渡来していない頃の日枝山(比叡山)である。この社は帝の妃達も時々足湯をしに来るのだが、その際の定宿である。
崇神大王創建の日枝社はのちに日吉大社と呼ばれ、山頂(牛尾山)に在る巨岩信仰から興る社である。戦国時代に至り、羽柴秀吉が明智光秀を討ち取ったことで天下人への大きな一歩を踏み出し、大層大事にされた社である。猿とあだ名された秀吉の幼名は日吉丸で、しかもこの社の神の使いが猿だと言われている。いつの頃からか社の御神体が鳴鏑、すなわち青銅製の鏑矢とされ、戦に縁のある社となった。
荷を下ろし、日枝社から北に歩いて湯治場に向かう一行。
湯治場は身分のあるなしにかかわらず誰でも平等である。それゆえか人が集まりやすい。格好の情報収集場所であった。
奈良時代まで湯に浸かるという記録が無いそうであるが、太古から禊という習慣はあった。薄衣を着たまま滝や川、海の水を背に浴びるものである。もともと禊とは体を清める(洗う)習慣であるから、水よりは湯の方がいいに決まっている。人が温泉の湯に浸かる習慣が無かったとは思えない。もちろん下着を着たままで入る混浴である。
…尤も風呂とは奈良時代からの言葉であり、唐から伝わった蒸し風呂のことである。…
「いや驚いたね、わいは腰抜かしてしもうただよ、本とにまぁ、姉妹であんなええ女子、生まれてこのかた見たことねぇだわ、あれぞまさしく日の本一の美人だな」
「へぇ? そりゃぁどこの女だな?」
「何でもはぁ、本巣の殿様の娘っ子だっちゅう事や、二人ともまだ子供だが、末が楽しみだちゅう話だがや」
帝の僅か数間離れた岩陰で、旅のあきんど達が話をしながら湯に浸かっている。この場合のあきんどとは市などに物々交換をしにやって来た者を差す。帝もいささか興味をそそられた。情報伝達の乏しい時代である、男なら誰だって眉目よい女子を見たいに決まっている。ましてや日の本一だと言うのだ、大勢の美しい姫に囲まれて過ごしている帝である、聞き捨てならない。
そもそも美しい女という輩はそれだけで人騒がせだ。その女がちょっと出歩くだけで世間の噂の種になる。帝はこの幼い姉妹を一目お目にかかりたいと思った、そして娘らをわが手元に置きたいと欲した。
帝は在位中に大后(正室)を二人、妃(側室)を分かっているだけで八人置いていたという。子の数は明確ではないが二十一人以上八十人以下いたと言われている。嫡流を絶やせないので子は多いほど良い、そして妃の数は国政に大いに関係がある。彼女達はその殆どがもとは采女である。ごく稀に女丁から妃になる者もいた。各地の有力者は皆采女を差し出していた事だろう。また逆に勢力を大きくしようと帝の権威を利用する者もいたに違いない。従って一夫多妻とならざるを得ず、のちの時代になって妻が何人、妃が何人という具合にその数の上限や下限を定められるようになる。また皇族の妻(正妻)の地位は帝が決める、帝の許しもなく勝手に妃を妻とすることは出来ない。帝の専権事項なのである。
「これ叔父御、今の話を聞いたか、見目よき乙女が西三野の本巣におるというぞ。どのような乙女か見たいものだのぉ。詳しく話を聞いてまいれ」
「・・・」無言のまま、八尺の大叔父は露骨に嫌な顔をする。
「叔父御、何じゃその顔は?」
「いえ、別に、ただ・・」
「汝は何か思い違いをしておるぞ、吾に何年仕えておるのじゃ?」
「え?」と驚く、八尺の大叔父が一瞬思いを巡らし、
「ああ、ははは、合点がゆきました。行って参ります」
帝の意図に気付いてほっとしたのか、短褌ひとつの八尺の大叔父は、半ば泳ぐように湯を掻き分けてあきんど達の方に近寄っていく。ここは若くて男前の長左を使うより、好々爺の八尺の大叔父の方が適任と、帝は思った。
頭の上の手拭いを湯で湿し火照った顔を拭う帝ではあったが、浮かんだ考えとは裏腹に、どうしようもなく顔がにやけてしまう。気持ちを隠せない性質なのか、表情が分かりやすい人であった。
他の家臣らは素知らぬ顔をして、遠巻きに帝を囲むように湯に浸かっている。