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日の本の生い立ちを告げる序章。イザナギの命、イザナミの命、天照大御神、神武天皇と、神々の神話は果たしてどこまでが真実なのか?
第一章、 景行大王と大碓、小碓
一
――古より曰く、日の本という島の、国の起こりは神武大王より始まる。それより前は神代の時代なり。あさましき民と申す者在りしが、其を治める者なし。天に召します万の神々、下界を御照覧なりしが、点々と島散るばかり也。
「どうも纏まりがなくていかん、何とか纏め上げて国と成さん」
託宣受けしイザナギの命とイザナミの命、天の浮橋に出で立ち、兄妹力を合わせて天沼矛を海に突き刺し、かき回す。引き上げし沼矛から塩の雫がいとど落ち、積もり積もって島と成す。二柱の神が繰り返し沼矛をかき回しては引き上げる、やがて大きな島、小さな島、様々な島が出来上がった、これが日の本也。――
時が過ぎ、兄妹神には数多の神が生まれになった。その中で火之迦具土命をイザナミの命が出産する際に、その業火に体が焼け爛れ死んでお仕舞いになられた。怒ったイザナギの命は火之迦具土命を十拳剱で斬り殺した。やがて兄妹神は住む世界を異とし、妹のイザナミの命は黄泉の国の神となる。死者の国なり。イザナギの命は黄泉の国にイザナミの命を迎えに行くが、変わり果てたイザナミの命に恐れをなして逃げ帰る。
やがて淡海(淡路島)の多賀の地に舞い戻ったイザナギの命には三柱の神様が誕生した。天照大御神、月読命、スサノオの命の三柱である。天照大御神は高天原、月読命は夜(闇)、スサノオの命は海を治めよ、と父イザナギの命が命じた。
…古代人の考える死後の世界、黄泉の国とは言わば異次元の世界である。地獄と黄泉の国とは別ものである。強いて言えば地獄とは黄泉の国にある永遠に抜け出る事の叶わない牢獄であろう。黄泉の国へは地上の果て、つまり岬から渡ると考えられている。従って岬は特に神聖な地とされ、御先や御崎と称された。地名に崎の字がある土地は押し並べて黄泉の国への出入り口としての意味があり、極めて神聖な地なのである。
命という名乗りは古代の神や貴人に対する尊敬語である。…
長女の天照大御神の時代となった。天照大御神はスサノオの命を高天原から追放し、汝は下界を治めよと命じるが、この経緯は後段に譲る。スサノオの命が出雲と呼ばれる国に下向なされてから、様々な神々がお生まれになった。当時大汝命と呼ばれていた大国主神という方、この方こそ葦原中国(日の本のこと)の礎を築かれた神であり、現在の出雲大社で祭られている大黒様の事である。
下界を御覧になった天照大御神は人間や動物達の住む大汝命の治める国が気に入ってしまい、わが子孫を下界の国の主にしようと思われ、
「わが子供達に、この国を与える事にした」
と神託を下され、三種の神器を授け、爾爾芸命を遣わされた。
大汝命は不満だった。儀父スサノオの命を高天原から追放し、今度はわれらが造りし地上界まで召し上げるという。しかし、あまりに尊い高天原の神には逆らえず、結局従った。
地上界を天照大御神の子孫が、そして高天原を大汝命改め大国主神が治めるということで落ち着いた。
三種の神器とは八咫鏡、八尺瓊勾玉、そして天叢雲剱のことである。鏡は太陽の光を照らし出すことから天照大御神、勾玉は三日月の形をしているので月読命、剱はその荒々しさから武の神スサノオの命を表す。
…勾玉は決して大きさが八尺もある訳ではない。古代では八は広いとか多いとかを表す接頭語であった。…
こうして天津日子番能爾爾芸命が西国(九州)の久志布流多気(福岡県糸島市付近の山)に舞い降りた、筑紫国の日向(西日の当る所)で高千穂という土地である。爾爾芸命こそ、わが天朝様(天子様)の始祖となる神である。
天照大御神曰く、
「この鏡こそ、ひたすらわたくしの魂だと思って、わたくし自身を崇め祭るように、心身を清めて大切にお祭りしなさい」
三種の神器は国を治める者の証と看做された。三種の神器を祭って天照大御神を崇め奉っている場所こそ神宮である。後日源平の合戦で壇ノ浦から平家の者達が入水した時まで三種の神器は存在していた。この時跡取りとなるべき天子様と共に、三種の神器の一部は海中に没したとされる。沈んだはずの天叢雲剱が、現在熱田神宮に保管されているとはどういう事であろうか?
氷河期に北海道や本州は氷の道で大陸と繋がっていた。シベリアや満州方面の北方民族がナウマン象や鹿などの大型の獲物を追ううちに、この日本列島に移動してきたことが発掘調査で知られている。ちなみにアメリカ大陸の先住民もこの系列とされ、アラスカに今でもその人達の祖先イヌイットが住んでいる。
氷が解け、大陸と離れてしまって、そのまま住みついてしまった者達、それが日の本の民草の祖先である。また船で日の本に渡ってきた者達も多かった。多くは支那や韓の国から、また南方の島々からもやって来たことであろう。漁をしていて、たまたま嵐にあって流れついてしまった者もいたに違いない。
やがて日の本は五つの渡来系の民で構成されるようになる。出雲族、海族、倭族、丹後族、隼人族の五つである。それ以外に毛人族という者達が北関東以北に存在したが、これは出雲族の古い分かれと言われる。
天照大御神の子孫こそが倭族である。そして倭族の造りし国の形こそ倭政権と呼ばれる。
古くは出雲族が日の本の全土に渡って住んでいたが、出雲族には王とか帝という存在がなく、宗教で結びつく横並びの民族集合体であったといわれる。
この天孫降臨、国譲りの話は実は倭族が出雲族を追いやって、倭族が支配階級となったことを暗示している。古事記にはカムヤマトイワレビコ(神武大王)が日向の地より中国、四国、瀬戸内を通って葦原中国の都をどこにするか旅に出る話、神武東征が描かれている。この話は極めて天孫降臨の話と類似していて盗作ではないかとさえ言われ、古くから伝説化していて、今では神武大王の存在すら疑われている。
しかし、この神武東征こそ現実の話であり、それを神代の話にまで昇華したものが天孫降臨の神話ではないかとも思える。
このことはいつの日か歴史が解き明かしてくれることであろう。
創生期を表す帝の名前に、
「はつくにしらすすめらみこと(始馭天下之天皇)」
と、のちになって称される帝が、初代神武大王と十代崇神大王の二人がいる。どうして二人も創始者が存在するのかと疑問を投げかける学説もあるが、共に国の統治に大きく貢献したからであろう。
神武大王は国家たるべき意識を高め、都を定めて蛮族を最果てに追いやった。
崇神大王はさらに四道将軍を任命して、定まっていない地域に軍勢を派遣して纏めさせた。しかるに、未だにかなり不完全であった。
言の葉はあったが、語すなわち文字が普及していない時代であり、伝承や遺跡でしか昔のことが分からない時代ではある。しかし、創成期の大王達は確かに実在したと思えてならない。
昔支那国に徐福という者がいた。その頃(紀元前二二〇年頃)の支那は始皇帝が歴史上初めて全土を統一に導き、万里の長城や始皇帝の直道の建設も一段落した頃である。
しかし四十という当時では既に老境に入っていた始皇帝は、自分の死後のことが気になって仕方がない。
各地を巡幸してその威を広めていた時のことである。山東の琅邪台という所で美しい海岸の景色を見つめていると、徐福という者が訪ねてきて、
「海を越え、東の果てに蓬来山の聳える幻の島が御座います。昔からその山には仙人が住んでおって、万病を直すという不老不死の霊薬を作ると言われております」
と進言した。徐福は神仙術(道教の基)の達人で、様々な魔術を始皇帝の前で披露した。水を口に含んだと思ったらプーっと火を噴き出したり、海の向こうに現れた蜃気楼を蓬莱であるとして披露したりした。
突然現れた島には始皇帝の一行は、腰を抜かさんばかりに驚いたという。蜃気楼という気象現象を当時は誰も知らなかったからである。蓬莱とは支那国に伝わる神の三山の一つであるが、蓬莱山の麓、あるいはその島をも蓬莱という。祝福された地の意味がある。
始皇帝はすっかり徐福に心酔し、船団を組んで仙人を探させることにした。徐福を隊長として、実に三千人の若い男女と多数の職人達を伴って渡航したのである。
…この徐福の話は支那国の史実として明確に記されている出来事であるが、船出後のことは詳しい史実がない。…
ここで倭の起源に関する歴史書の教えを記しておきたい。
古事記では古代の年号記述が著しく曖昧で、正確な西暦の年代が解明されていない。記紀は共に七世紀の天武朝以降に編纂されたものであるから、文字も持たない時代の歴史については口伝を頼りに記すしかなかった。
そこで日本書紀では建国年次を定める方法として、支那国の『易緯』という書物に記される辛酉革命説という思想を鄭玄と言う人が解説した言葉を応用したことが解っている。
――易緯に云う、辛酉を革命となし、甲子を革令となす、と。鄭玄曰く、天道は遠からず、三五にして返る。六甲を一元となし、四六、二六交相乗じ、七元また三変す。
三七相乗じて、廿一元を一蔀となす。合して千三百廿年なり、と。――
六甲(六十年)を単元として二十一元、すなわち千二百六十年を一蔀とし、一元を合わせて千三百二十年とする。この説に基づいて推古九年(六〇一年)の一蔀遡った年を神武即位年と設定された。紀元前六六〇年がそれに当たる。
つまり日本書紀の編者は年代が分からないまでも、きっと世の栄枯盛衰は重要な循環(サイクル)をもって繰り返されるという易の考えに従って倭の起源を定めたのである。
不思議なことにこの千二百六十年というサイクルは、重要と思える節が多々ある。
推古九年とは厩戸王子(聖徳太子)が斑鳩に宮を興した年であり、治世の開始の年となった。その後の天皇家の繁栄は皆の知るところである。そのさらに千二百六十年後(一八六一年)とは、平安時代末の保元の乱以来の長い武家の時代から、大政が天皇に奉還された頃に当たる。
…『列島の古代史 ⑦信仰と世界観』岩波書店を参考。…
第十五代応神大王の前の七十年間は倭の混乱期に当たることが魏志の倭人伝に記されている。すなわち応神大王即位年が西暦二七〇年であることは確かである。
…ちなみに魏志倭人伝に掲載されている三国志は、年齢や年代についてはほぼ正しく記載されているが、そのほかの数字は何故かほとんどが十倍して記載される、という不思議な書物である。人数や距離、戸数などが皆誇張されているのである。…
乱暴な計算ではあるが、この混乱期、卑弥呼の時代七十年間を踏まえて一代当たりざっと三十年の在位期間として、初代から十四代目までを概算すると神武即位は紀元前二二〇年頃となる。紀元前六六〇年を起源とすることは、十四人の天皇が平均六十年間在位していた計算になる。およそあり得ない数字である。平安時代の頃などは平均在位十五年にも満たないのである。
本書では一応の目安として十代崇神大王から十四代仲哀大王までの期間を妥当と思える範囲で概算して年代を推定し、古事記をベースとしてストーリーを構成している。
また彦や毘古、日子、そして日売、比売、毘売という表記は煩わしいので全て彦、姫と表記したことを了承頂きたい。
なお天皇という称号は飛鳥時代に日本という国号と共に定まったものである。それまでは大王または王と称していた。皇族の有力者も王と称している。皇后は奥方様もしくは大后と敬称で呼ぶ。
西暦六〇〇年、推古朝に第一回遣隋使として派遣された小野妹子が、
「日出処天子・・」で始まる国書を隋の皇帝煬帝に提出し、対等な国交を求めた。
煬帝は大いに怒ったという。
――天子とはこの世に吾ただ一人存在のみ
ともあれこの時から国号は日本となった。それまでは倭あるいは倭政権であり、他国からは倭国と呼ばれていた。
日の本という名乗りは、日本列島という島全体を表す言葉であり国号とは異なる。