6の1
磯砂討伐軍が動き始める。
六
景行三二年秋、快晴の朝。はぐれ雲が親雲を探し求める如く、上空をすうっと過ぎて行く。待ちわびた偏西風の到来である。
積み上げられた蓬の前には、今日こそはと固唾を呑んで合図を待つ第一部隊の兵卒が、皆右手に火の付いた松明を頭上に掲げている。西北の風を受けて炎が揺らめき、煤を撒き散らす。半円形の陣地中央に残された大木の切株、その脇にすっくと立て掛けられた旗竿の先を皆がじっと見つめている。
紫紺の三角旗は紛れもなく前方の磯砂の栖家に向かってはためき始めた。
兵卒は皆頭皮をもう一枚頭に貼り付けたような皮の帽子を被り、肩と胸を覆う皮の前掛けを付けている。中には褌を覆う皮の前掛けを付けた者もいて、後世の鎧の原型を思わせる。矢傷や刃物の傷を軽減するための物である。
そこにひと際身なりのいい若者が現れた。大きな目をギョロつかせた六尺に届く体躯の大男、丹波国の造である。いざ行かんと進み出て、切株の上に立ちあがった。
「頃は好し」
と呟き、脇に立つ旗手を一瞥し、そろりと剱を抜くと、
「かかれー!」
と、天高く掲げた。同時に旗手は旗竿を持ち上げて大きく振り廻し、力の限りはためかせた。さらに螺手が第二、第三部隊まで届けとばかりに貝を吹き鳴らす。
「ワァーッ」
という歓声と共に、一斉に蓬に火を付け始めた。
森はざわめき、鳥達が一斉に羽ばたき、逃げて行く。
法螺貝の音にむくっと起き上がった磯砂は、
「何だ、何があったか?」
と呟いた。起き上った拍子に寝藁が飛び散り、毛むくじゃらのもろ肌が現れた。
傍らで寝ていた妃が気付いて、
「主様、どうかなすったのですか?」
と、欠伸をしながら寝返りをうった。白い柔肌を顕わにし、散らばった寝藁を両手で抱くように集めている。
「んん、倭のやつらが攻めてきたのかもしれん、ふふ」
「主様、大丈夫なのですか?」
と、横になったまま、妃は他人事のように尋ねた。
「おおかた煙で燻すつもりであろう、ははは、馬鹿な奴らよ。煙で逃げるは獣だけじゃ、わしら磯砂は屁でもないわさ、はっはっは」
と、豪語した。
安心したのか眠たいだけか、妃は寝返りをうってまた藁に潜ってしまった。
既にひと月も前から囲まれていることを知っている磯砂は、造の軍が何を企んでいるのかは薄々承知している訳で、その対策も幾つか施していた。
二十日ほど前の事、皆を集めて広間で磯砂が語った。
――要は家の隙間を無くせば煙は上に抜けるだけで何ともない。出入りする時だけ煙の対策を取れば事は済む。いずれ奴らは変化がなくて痺れを切らして村に近づく、罠に嵌って死を見るだけじゃ、はっはっは
と笑った。
尚も続けて、
――仮にもここは比治山の聖なる頂き、磯砂山のお膝元じゃ、煙で燻すぐらいは出来ても、火をかけるなどという山神様を冒涜するような行為に及ぶことはあるまい。左様な事をすればわが身に跳ね返って来るだけじゃ
そう言って皆を安心させたのである。
(しかし・・)
と、磯砂は服を着ながら、天窓から見える空に揺れる梢を見つめ、
(万一ということもあるな。われらは丹後族の末裔じゃ、絶やす訳にはいかんぞ)
そう考えて、磯砂はそのまま回廊に出て脇にある洗水石(手水鉢)で顔を洗い、上を向けて据えてある蔓の切り口から水を含んでは天窓を見つめ、ガラガラうがいをし、ペット吐き出した。顔を布で拭いながらギザギザの竹櫛で剥きだした歯をごしごししごいては、また水を含みうがいをした。
水は樹木に巻き付いている蔓の切り口から洗水石に滴る仕掛けである。従って木の上でも水に不自由はない。
布で口を拭い、また何となく空を見上げると、
(妙な雲だな、大きな塊からひと筋糸を引いたように尾を伸ばしている・・)
ふと薄暗い空と雲が気になって、
「たれか、ある」
と、大声で呼ばわりながら見上げている。
ささっと、十五くらいの小者がやって来て控え、
「お呼びで?」と応えた。
「んん、物見を呼んでくれ、吾は広間に居る。それから巫女を呼べ」
「はは」
と言って、小者は立ち去った。
広間に入って磯砂が円座にどかっと腰を下ろした。手際が良く、すぐに水仕が膳を運んで磯砂の前に並べ始めた。
「おお、御苦労じゃ、どれどれ、今日はなんだな・・」
猪肉の燻製に木の実の団子、それにアケビの汁などが並んでいる。磯砂のうがいの音が水仕に対する朝食の用意をせよと言う合図であった。
堅い肉に齧り付き、もぐもぐしていると、
「お呼びで御座いましょうか?」
と、巫女が入ってきた。
「おお来たか、朝早くから済まんな、これへ来て座れ」
「はい、主様」
年老いた老婆であった。半ば白くなった長い髪を後ろに垂らし、袖の長い水干を着て、腕を筒袖にして隠している。
ツツツと歩いて一礼して座ると、
「何か御座いましたか?」
「んん、そのな・・もう飯は食ったのか?」
「はい、まだ暗いうちに頂きました。歳で御座いますから、朝が早いもので・・」
「んん、それは重畳・・吾はこれからじゃて、食べながら話すぞ。いやな、今日、倭の奴らが燻り攻めを仕掛けてきおったことは知っておろう」
「はい、先ほど法螺の音が聞こえましたから、あるいはと・・」
「それでな、顔を洗いながらつい何気なく空を見ていると、妙な形の雲が流れて来てな、気になったので汝を呼んだのじゃ」
と、齧りかけの肉で上空を指差した。
「はあ、してその雲の形とはいかなる・・」
「それがじゃ、大きな岩のような塊の雲から、ひと筋だけ長く糸を引いたような形じゃ、まだあるかのぉ・・」
と、肉を口に放り込んで磯砂が天を見上げると、巫女もつられて上を向く。一本の白い筋がまだ尾を引いて残っていた。
「なるほど、確かに糸ですな・・」
「どうじゃ、何かの暗示なのか?」
「さ、左様、確かこの形は昔長者様から聞いたことがありますが・・遥か遠くの山が怒った時、石を降らせ、大地が裂けたと伝わっております。世は大混乱に陥り、お日い様がお隠れになり、数多の人が死にました。その後しばらくの間このような糸雲が続いたと伝わっておりまする」
「んん、してそれはどういう暗示じゃ?」
「山の怒りかもしれませぬ。不吉で御座います、十分に心して下され」
「なに、山の怒り、不吉じゃと・・・うーむ、相分かった、下がってよいぞ」
磯砂は茫然と考えながら肉を齧った。巫女が不安げな貌をしながら静々と下がっていく。
そこへ入れ替わりにすとんと板敷に降りてきた男がいた、高さ三間もある天窓から下りてきたのである。髪は首の後ろで紐で結んで束ねただけで、髷を作らず背に垂らしている。黒っぽい草色の上下を着て、動きやすいように上下ともに半袖で、裾をすぼめている。靴は履いていない。普通と違うのは顔の下半分に水で湿した覆面をして、目には樹液を浸して沁みないように保護しているところだ。
前述したが磯砂村の家は皆木の上にあるから、天気のいい日は天井を全開にして明かりを入れるため、空が丸見えなのである。
「遅くなりました、お頭」
これは、お早う御座いますと言うくらいのほんの挨拶である。最前線の物見から戻ってきたのである、まだ磯砂の朝食が終わってもいないのだから、決して遅くはない。
「おお、木末か、状況はどうだ?」
「はい、案に違わず草を燃やして煙を出しておりますが、攻めてくる様子はありませぬ」
「やはりそうか、ふっふ、倭の奴原には臆病者の多いことよ、はっはっは。ところで熊曾健を打ち負かしたというガキが参陣していると聞くが、どこにおる?」
「さあて、北側の第一陣には指揮する者は造をはじめとする見知った顔ばかりで。おそらく南側の第二陣で待ち構えているものと存じますが・・」
「左様か、残念じゃのぉ、おったなら吾が直々に、真っ先に餌食にしたかったが、まあ良いわ。別の機会もあることだろうて。しからばひとつ弓でも食らわしてこいや、造の奴がどういう顔をするか見ものじゃて・・・ああ、待て」
磯砂はしばし躊躇い、手を上げて木末を止めた。
「それからな木末、巫女の申すには良からぬ兆しが出ていると申した。まさかとは思うが、山に火を付けるかもしれぬでな、しっかりと見定めよ」
「はは、畏まりました。では・・」
木末はするすると天柱を登り天窓から出て行った、実にすばしこい。この男ムササビの木末といい、磯砂村の偵察部隊の隊長である。
煙を家に入れられないから、ぴったり密閉して、屋根裏から出入りしているのである。巫女や寝所の妃は同じ家の中にいるので出入りの必要がない。
磯砂は既に造が火を使うと感じていた。山が怒るという卦が出た以上、それ以外には考えられなかった。大それた罰当たりな事をするとは思ったが、ここで全滅する訳にはいかない、なんとしても突破してやると、うっすらと閃いた秘策に思いを巡らせていた。
「これ、参れ」
と、また小者を呼んだ。
これまでは占いなどは毛ほども相手にしていない磯砂だったが、あの和奈左村襲撃の苦い失敗以来、人の意見も聞き入れ、占いなども駆使して、先のことをよく考えて行動するようになっていた。
梢から梢へと飛び移りながら、木末は前線へとまさにムササビの如く移動している。
その時、
「おい、木末、どこへ行く?」
と、呼ぶ声がした。
「むむっ」
と気付き、梢にしがみ付いて木末が急停止すると、木が大きく前後に揺れ動いた。声の主の姿はどこにも見えない。
「その声は小女郎じゃな。お頭の命令で造の奴原を懲らしめに行くところじゃ、おぬしらも来んか?」
「弓か、よかろう面白い、傷めつけてやろうか、おほほほ」
と、こだまのような反響音で笑う小女郎であった。声はすれどもどこにいるのか分からない。磯砂衆の中でもごく限られた者達のみに通じる特殊な会話であった。
今でいうテレパシーに近く、人の耳には聞こえない周波数帯で言葉を発する能力である。もともと海で生業をしてきた丹後族には、海の生き物達に学ぶ習性が多々あった。この会話法も海豚から学んだ知恵である。木末が前線から素早く戻って来たのも、この会話で呼び寄せられたからであった。
「よし、そうとあらば、小女郎は真ん中の造を頼む、わしの隊は左右に分かれて撃ち込むでな」
「心得た」
言うが早いか、遠くの方でひゅうと梢が揺れた。この女はましらの小女郎といい、猿使いの三人姉妹である。気配は一人に感じたが、実は三人が常に同時に動き、会話する三つ子の姉妹なのである。
木末はというと普段は見張りや食料調達などをするムササビという数十人の部隊がいて、その部隊を率いる隊長である。両者とも木登りが得意で、この森中を自由に飛び回っているのである。煙は高い樹木の梢付近ではさほど効果もなく、小女郎の使う二十匹の猿達も皆梢に避難させているのであった。
磯砂村の森は白獨した煙に包まれていく。しかし、それは高さ六間から下側と、村の外廻り一帯についていえることであった。樹上に造った村では煙が微かに通り抜けてきてはいるが、木々の枝々で分厚く覆った障壁に阻まれて、上に抜けるか村の下を通り抜けるかのどちらかであった。
これでは燻り出されるのは鳥や獣だけで、村の民は殆んど影響がなかった。村全体の木々の壁と、家一軒ごとに松脂などで目貼りするという二重の対策によって、煙は家の中には全く入って来なかったのである。
そうとも知らずに第一部隊では、床几に座った丹波国の造が、満悦顔で小枝の鞭で肩を叩きながら、煙の立ち籠めてゆく森を見つめていた。
既に一刻が過ぎ、欠伸の一つも出ようという時、ひと鞭叩き立ちあがった造が、
「ええい、戦況はどうなっとるのかのぉ。これ、青葉、何とか申せ」
と、側近の青葉翁を問い質す。
「ははは、若は気が短い、細作が戻って参りません。まだ一刻しか経っておりませぬゆえ、今しばらくお待ちを・・」
「左様か。いやしくじったのぉ、こちらの隊は戦況が分からぬゆえ、おもしろぉないのぉ・・」
背中側、比治の峠からは実りの秋の山を満喫する鳥達のさえずりも聞こえるというのどかさである。前面には風に煽られた煙が立ち籠めているとはいえ、初めこそ逃げ出す鳥の羽ばたきを見たが、その後は反応がなくて何も分からない。
彦坐王の頃から、三代に渡って仕えている若狭出身の老臣青葉翁は既に七十近い地生えの民である。磯砂と同じ丹後族の子孫であるから、こういう戦いには気が乗らないに違いないが、早くこの地に平穏が訪れることを願って、造が止めるのも聞かず、老骨に鞭打ってついて来たのである。
その時、ピュッと音がして造の足下に矢が突き立った。驚いた造は尻餅を突いてしまい、
「こ、これ、何事じゃ・・」
と言うそばから、矢が雨のように飛び交い始めた。慌てて造は頭を手で防ぎながら五間ほど前の鹿砦の陰に転げ込んだ。青葉翁も旗持ち達に引き摺られて回避する。
「これ、一体どうして矢が降ってくるのじゃ? よもや山神様がお怒りになったのではあるまいな?」
と、造は震えて柵にへばり付きながら、周りの者に怒鳴った。
「王、山神様ではありませぬ、木の梢から矢を射かけてくるので御座います」
と、旗手が言った。
「何じゃと、煙で燻したのではなかったのか?」
「風が有りまするゆえ、手前の方ではあの高さまでは煙も登りませぬ」
「ええい、小癪な、ならばこちらも弓で応戦せよ」
「若、それは無理で御座るよ」と、青葉翁。
「何故じゃ、青葉?」
「あ奴らは木の天辺から撃ってくるのですぞ、二町は御座る、われらの弓では風があったとしても、あそこまで飛ばせる者がおろうとは思えませぬ」
小女郎らは梢から風に逆らって射るから、逆に浮力を得てより飛距離が出る。そのお陰で二町という桁はずれな距離を射ることが出来たのであった。
「左様か・・・何という事じゃ、これでは倒せんではないか」
造は悔しくて拳で地べたを叩いた。そこへすとんと鹿砦に矢が突き刺さり、ひっと首をすぼめて驚く造であった。
狼煙の立ち昇るのを見、法螺貝の音を聞いてから早一刻を過ぎた。ここ第二部隊では空を無数の鳥が飛び去るのと、ちらほら現れては空堀に落ちる獣達を見るだけで、一向に人が出てくる様子がない。
鹿砦の陰でじっと森を見つめ続けるタケルは、
「三太夫、出てこんな、どうしたのだろう?」
「そうですな、もう逃げて来てもよさそうなのですが・・村にある罠にかかった者の悲鳴すら聞こえませんし、こりゃ何か手違いでもあったのですかな?」
「まさか地面に穴でも掘って逃げたのではないだろうな?」
「どうですかな・・第三部隊が後詰めをしていますから、逃げ場はまずなさそうですがな。いずれにしても待つしか御座らんでしょう」
「そうだな・・・」
タケルは今度の作戦にはどうもやましい気持が拭い切れないでいる。煙で追い出し、穴に落として弓や槍などを使って皆殺しにするというものである。人も獣も皆殺しである。磯砂達にも女子供は居る、極めて残酷な作戦であり、タケルは胸が痛んだ。
一向に敵が現れないことに妙な安堵感はあるものの、こうしてじっと静けさの中で森を見つめるうちに、何か得体の知れない怖さもひしひしと感じてくるのであった。
このことはタケルに限らず、弓を構えてじっと待っている兵五百の全員が感じているのではなかろうか。戦という極限状態に入る直前の心境がなせることかもしれないし、あるいはまた何かとんでもないことが出来しそうな予感の現れかもしれない。