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已むを得ずに戦いとなる小碓と大碓、さてその成り行きは?
朝暗いうちに起きだした二人は、顔を洗い、焚火で焙った干し肉を齧りながら段取りを確認し合う。そして、日差しが輝き始めた頃になって大碓の館に向かう。幾分気が昂ぶって髪の毛が逆立つのを感じる小碓、
「さ、三太夫、妙なことになって・・」声が震えてならない。
「落ち着きなはれ。そんなに震えていては、どうもなりまへんで」
と言いながら、三太夫は小碓の両肩を後ろから急に叩きおろした。小碓がびくっとして驚いたが、そのお陰で震えが幾分治まった。
「どうだす、よくなったやろが?」
「ふ、震えている訳ではないぞ、緊張しとるだけだ、ははは」
と、小碓は虚勢を張った。その姿に、「くくっ」と、笑う三太夫である。
二人は、三太夫が稽古着として考案した麻で作った草色の上下を着こんでいる。現在の柔道着に似た方領の上着と踝まで隠れる褌である。麻以外に樹木の蔓から取った木綿という堅い繊維をふんだんに織り込んである。分厚くて刃が中々通らないのだ。手足が動きやすいように裾の所が木綿の紐でしっかり結わえている。
…木綿とは、字は同じだが木綿ではない。この時代、まだもめんは存在してない。…
背には二人ともあつらえたように、朱鞘に入った鉄剣を木綿の紐で縛って吊るしている。三野の鍛冶屋に作らせた鋼の刀を自邸に育つ櫟の木の枝で作った鞘に納めたものである。鉄の道具は当時極めて貴重であった。三太夫も小碓も肩まで垂れる長い髪を首の後ろでまとめ、黒い麻紐で縛っただけの髪型に、額に木綿の鉢巻きを締めている。
…古代は男も女もあまり髪を切るという習慣がなかったようだ。…
屋敷の見張りに気付かれないようにあちこち仕掛けをして、ようやく昼ごろになって大碓の屋敷の門前にやって来た。こっそり道なきところを抜けてきたので、まだ誰も気付いてはいない。ひたひたと門に近づき、三太夫が小碓を見て目配せをし、小碓も頷く。
小碓だけ一歩門口に近づくと、
「兄上、兄上は居るか!」
と、大音声で呼びかけた。
二人の門番が吹き飛ばされた如くに後ろに倒れて、尻餅をついてしまう。
小碓はこの一声で腹が据わった。中で稽古をしている者達がバラバラっと集まってくる。慌てて主を呼びに行く者も居る。外を見回りしていた者も集まってきた。
「な、何奴じゃ?」
と、小碓らを取り囲んで、中の一人が喚いた。
「弟の小碓だ、汝は吾を知らんのか? なにゆえ得物を持って取り囲むのか? 吾は帝の命を受けて、兄上を迎えにやって来たのだ。吾に刃を向けるのは、帝に向けるも同じ事ぞ。武装を解かぬと謀反と看做すが、それでもよいか?」
小碓のあまりの剣幕に、囲みを解いて震える者が出る。が、大概の者は何を小癪なと、槍を手に、目じりを吊り上げてジリリ、ジリリと寄ってきた。
やがて人を掻き分けて大碓が現れる。
「おお、兄上、これは一体どういうことです? なぜ武装しているのか? 謀反を起こすつもりか?」
「小碓よ、そう喚くな。吾が陛下の前に行けば、殺されるに決まっている。汝も既に知っておろう、吾は陛下が所望した大根王の姉妹をわがものとした、陛下を騙したのだ。陛下が気付かずに余生を全うしてくれるのを待つつもりだった。けど知られた以上、吾もまだ死にたくはない、このままここで陛下の死を待つ」
「左様な事が許されてか? 素直に謝って処分を受けよ、兄上」
「それは出来ん、許せ小碓よ。者共掛かれ」
と言って、手を振り上げた。主のひと声で、槍を振るって、
ワァーッ
と掛かってくるところ。このままではやられてしまう、槍と刀では長いほうが有利に決まっている。突如、小碓と三太夫が、
「喝っ!」と、声を合わせて一喝した。
皆ぶるると怯んでたじろいだ。その一瞬の間に小碓と三太夫は目配せし合って、さっと姿勢を低くして飛び退き、手薄な処を蹴散らして、走り出した。
脱兎の如く一町ほど走り抜け、屋敷の周りにある竹藪の側まで一気に駆けて行った。濠がなく、屋敷の塀と竹藪が接近していて、そこだけ道が狭くなっている。屋敷で使う材木や竹の杣山の脇道である。逃がしてはならんと、得物を持って追手が迫る。
槍などという物は一方向から突いてくるだけならさほど怖くない。大勢に囲まれて振り回されたり、一斉に突かれたりするのが怖いのだ。
まんまと図に当たって、道が狭くて槍を突けるのは二人がやっとだった。小碓一人で近づく敵二人を相手するだけでよかった。おまけに竹藪の中に入って回り込もうにも、十間ほどの区間で竹が互いに交差して隙間なく塞がる柵のようになっている。三太夫の考案であった。追手は丸で狭い路地に閉じ込められた如くの陣形になっている。
ひらりと向き直る小碓と三太夫、打ち合わせ通りの配置に付いて身構えた。
三太夫は小碓からやや斜め後方の竹藪の中から一尺ぐらいの竹の棒を、掴んでは近づく敵めがけて次から次と放り投げる。三太夫は小碓の側に、柵の無い一間ほどの隙間をわざと作って陣取ったのである。
ヒュルル、ヒュルル
と、音を上げて、飛び交う投げ槍。
あらかじめ作って隠し置いた飛び道具で、径一寸ほどの篠竹をスパッと斜めに切り落として作ったものである。丸でのちの世で言う手裏剣に似ている。若い竹のせいか、湿り気が多く、見た目より重く投げやすい。胸を突き刺さされたり、足をやられたり、小碓の眼の前でバタバタと相手は倒れていく。
三太夫の攻撃を躱して迫った敵が、小碓に向かって槍を突き出す。ひらりと避けた小碓は、槍先を上からスパッと斬り落としざま、斜め下から斬り上げた。
「ギャッ」という悲鳴と共に返り血がどばっと小碓に降りかかる。
小碓はこの時始めて人を斬り、寸時茫然となる。返り血を浴びて体の震えが止まらない。人の死とはこんなにもあっけなくやってくるものかと、つくづく怖くなった。
「主、危ない、しっかりしなされ」
と、三太夫が大声を上げ、小碓に迫る敵に投げ槍を放る。
はっとして気付いた小碓が、今度は狂ったように怒鳴りながら刀を振り回し始めた。やらねばこっちがやられてしまうと咄嗟に気付いたのである。時おりわざと逃げる振りをして後ろに大きく引くと、くるっと返しては斬りまくった。
細い道に死骸が溢れる、相手は既に半分倒れていた。残った五、六人の者達は小碓達を逃がす訳にはいかないとは思うものの、投げやりの餌食にはなりたくない。仕方なくやや下がって竹の柵の後ろに低く構え、隠れるようにして様子を覗っている。真っ赤に染まった小碓は息を荒げて目をらんらんとさせて構えている。
やがて彼らの後方で弓を番える新手が五、六人現れた。そのうち二人が三太夫を倒すべく柵の無いところから、藪の中に一歩入って弓を構えた時だった。足下でカサカサとなったと思ったら、太く撓った竹がバサバサと飛んできて脳天を直撃した。罠が仕掛けてあったのだ。
「野郎、小癪なまねを、かかれ」
と、号令が掛かり何人かが藪に突っ込んでいく。すかさずヒュルルと鳴って、三太夫の投げ槍の餌食となった。これを見て最早これまでと、隠れていた者らは恐れ慄いて、目闇滅法逃げ出した。
「おのれ、待てー」
と言って、小碓が追おうとすると、
「主、やめなはれ、追ってはならん」と、三太夫が止める。
小碓は、追うのをやめて三太夫を見つめ、肩を揺すりながら息をしている。
「降りかかる火の粉は倒さねばならんが、逃げる者まで斬っては怨みを買う」
小碓は三太夫に諭され、頷いて、その場にぺたんと崩れるように座ってしまった。辺りは血の海、死骸と傷ついて喘いでいる者ばかりとなった。小碓側の圧倒的な勝利、三十人から居た軍勢を二人で倒してしまった。尤も小碓が斬ったのはほんの四、五人で、殆んどは三太夫の投げ槍や罠で仕留めたものである。
肩で息をしながら惨たる光景に目をやると、今さらながら怖くなる小碓であった。そして、戦いというものは始める前の情報収集とそれに対応する的確な備えが、とても大事であることを学んだ。
三太夫が小碓の傍らに来て、惨状を検分する。
「主、人を斬るということは辛いことですな・・」
と言って、小碓をまじまじと見つめる。
「されど主、返り血をそんなに浴びるようでは、まだまだ腕が未熟で御座るぞ」
むっ、として小碓が振り返る。
「ええい、三太夫、吾にこのような役目をさせおって、よくもほざいたな」
「仕方御座らん事じゃ、主の投げ槍の腕では、われら二人ともやられておりますぞ」
タケルは返す言葉もなく三太夫を睨んだまま押し黙った。
「ささ、そろそろ屋敷へ戻らんと。大碓命を説得するのは今じゃ。逃げられては互いにのちのち良くないことになるで」
三太夫に促されて、ようやく立ち上がって歩き出す小碓であった。
大碓の屋敷に戻ると、血にまみれた小碓の姿を見て、皆震えあがり、最早抵抗する者はいなかった。家の者は皆屋敷の高床の軒下に座って観念していた。
茫然として小碓を見つめる兄の大碓、
「な、汝はなんという・・・」
味方の全滅に衝撃を受け、血の気がひいていくのを感じた。
「兄上、もう観念なされ、槍を捨てなされ、そして吾と共に陛下に謝りに参りましょう。さすれば陛下もそれほど悪いようにはなさるまい」
放心状態で、焦点の定まらない目で地の奥底を見つめる大碓は、槍をカランと前に放った。すかさず観念したのか、地べたにベタっとあぐらをかいた。
ほっとして近づく小碓、その瞬間、大碓は腰の小刀をスパッと抜いて自分の首筋に当て、エイッとばかりに斜め下に滑らせた。瞬間どばっと血が噴き出した。
「キャーッ」とばかりに、周り中から悲鳴が上がる。
「兄上、早まったことを・・」
後ろに崩れかける兄に縋って、手で首の出血を押さえる小碓。しかし噴水のように血が噴き出し、手の施しようもない。
「主、無駄で御座る、最早助からん」
大碓を抱き、
「兄上、兄上」と、泣き叫ぶ小碓であった。
こうして小碓は大碓を説得して纏向に連れていくことに失敗した。この上は詮無いこと、事の顛末をありのまま正直に帝に報告することにした。
館の無抵抗な者達には何もせず、あとの始末を任せて纏向に引き返した。身籠っている姫達を連れていく訳にもいかず、帝の沙汰を待つようにと、そのまま館で謹慎させた。
アルテミスは六十二になっている、地球人なら小碓の一つ上の十五ってところ。
「ハデス、この小碓って子、小さくてひ弱そうなのにすごく野蛮で怖いわ。あんなにいっぱい人を殺しちゃって」
「アルテミス様、あの場合はやむを得なかったのです、大碓が大勢の人を使って小碓達を殺そうとしていたのですから。それに小碓よりも三太夫の方がたくさん斃していましたよ、三太夫が十八人で、小碓は五人で御座います」
「あれ、そうなの? あんなに血飛沫を上げて、血にまみれているからてっきり十人ぐらいやっつけたのかの思ったわ。でもどうしてこの世界では争いが起こるのかしら、とても不思議なことね?」
「まだまだ未熟な野蛮人の世界ですから、こういう歴史を経る必要があるのでしょう」
アルテミスは首を横に動かし、コキコキ鳴らし、
「そうね・・でも、いろんな人の人生を同時平行で見て行くのって、疲れるわね。頭が変になりそうよ」
と、ステッキで肩を叩き、体の凝りをほぐし始めた。
「生放送を見ているのですから慣れるしかないでしょう。わたくしがまとめた物を御覧になった方が楽ですよ、キーワードを言っていただければ、日の本中のどこでも見る事が出来ます。それどころか他の国の様子だって見られますよ」
「分かってるの。でもミーはどうもこの子が気になって仕方がないのよ。だから出来るだけ小碓の成長を見届けたいわ。勿論あとで復習の為にまとめたやつも見たいけど。さてと、小碓も寝た事だし、ミーもシャワー浴びて、お寝むにしよっと。あとは頼むね、ハデス」
「お休みなさい、アルテミス様」
既に言葉も覚え、野蛮な武器、刀や槍、弓という物を使うことなども知ったアルテミスである。一日のサイクルが十二刻(二十四時間)であることを覚えた。そして地球人は極めて歳を取るのが早い事も知った。さらには地球の人類がまだ生まれたばかりである事も分かった。
アルテミスの世界では文字を使うことが稀だったから、文字や絵を書いている姿がとても奇妙に映った。そしてアルテミスも地球上で使われる色んな文字や言語を睡眠学習でどんどん覚えていった。
タルタロス人はコンピューターに音声データや画像データの形で映像を蓄積しているため、文字をあまり必要としなくなった。コンピューターやロボットに話しかければ、結果が言葉や映像で瞬時に返ってくるからである。
数日後、玉座の間で、不機嫌そうに菅畳にあぐらをかいて小碓を見つめる帝、
「ずいぶん刻がかかったようだの、小碓よ。でどうであった、大碓の様子は?」
と、爪を齧りながら、入り口と小碓を交互に見つめる。
「一緒に来てはいないようだな?」
玉座から二間ほど離れ、正装であぐらをかき、手を板の間に突いてお辞儀している小碓。
「はは・・・」
頭を低くしたまま、周りの者が気になるように視線を走らせる。
「んん、そうか」
帝は爪をぺっと吐き出すと、蠅を追うように手を振って、
「これ皆の者、下がっておれ・・・ささ、これでよいか?」
部屋の四隅に立つ衛兵が見えない所に去っていく。その気配の消えるのを待って、小碓が答える。
「陛下、実は兄上は謀反を企んでおりました。それゆえに取り鎮めて兄をここへ連れて参ろうとしましたが・・」
思いが込み上げて、項垂れてしまう小碓。
「陛下、も、申し訳御座いません、わたくしの落ち度で御座います。残念な事に、兄上は自害なされて、果てまして御座います」
小碓の目から涙が滴る。
「な、何じゃと?」
帝は思わず立ち上がって、
「なにゆえ大碓が死なねばならんのじゃ? 吾は、許すと言ったではないか? 汝は一体、何と申したのだ?」
「はい、わたくしはただ兄がしばらく食膳に見えないので陛下が心配していると。そしてこれからはきっと参内するようにと話しました。ところがその日の夕に急に国許に向かわれてしまったので御座います。そこで色々調べに参ったところ、兄は陛下に殺されると申し、最早詮無い事と、わたくしを殺そうとなさったので御座います」
「何という事じゃ」
茫然として小碓を見つめる帝、不意に足の力が抜けて菅畳にどさっと座った。
「それで汝はどうしたのじゃ?」
「はい、わたくしと従者の三太夫を数十人で取り囲みましたので、遺憾ながらお相手を致しました。どうにか皆を取り鎮めまして、兄上を説得して連れて行こうとしたのですが・・」
「んん、それで?」
「兄は最早これまでと観念したのか、姫様達をはじめ、皆の見ている目の前で、首を掻き切って、果ててしまわれました」
「なんと・・吾は大碓のなしたことを許すと言ったのに・・」
思案に暮れる帝、
「(なんと世継ぎの大碓が死んでしまうとは)・・して兄姫、弟姫は無事なのか?」
「はい・・しかし、二人は既に兄の子を身籠っておられる由に御座います」
「なんとのぉ、大事な預かり人だというに・・・まあ起きてしまった事は、もう元に帰らん。御苦労であった、下がってよいぞ」
「ははっ」
下がりながら、小碓は不満げの帝が気になった。
小碓の立ち去る姿を憮然として見つめる帝、
(確か八尺の大叔父の話では伊福連の者共もやって来て警護していると言っていたが、たった二人で数十人の者を倒してしまうとは、小碓とは一体?)
と、小碓に対し畏敬の念を抱いくのだった。
すぐさま帝は八尺の大叔父を使いに出して、大碓の領地を伊福連に代行させる事とした。既に何人か貸した仕丁が戻ってきて事情を知っていたが、伊福連の驚きも一方ではない。ただただ大碓に人を貸したことを謝っている。屈強な者共を殺められた伊福連が小碓を恨んだのは当然であった。製鉄の技術者や護衛の者達が一遍に減ってしまったのである。
使者の八尺の大叔父は、気遣って丁重にお悔やみを言った。伊福連が大碓に加担した訳ではないことを、八尺の大叔父も調べて分かっていたところであった。
そして本巣の大根王の所にも行き、話の行き違いから生じた災いであったと謝り、兄姫、弟姫を本巣の国許に送り返すこととした。
ここに至って大根王も自分が一枚絡んでいることを恐れたが、八尺の大叔父の助言もあり、口を閉ざし、帝の機嫌を損ねないよう気を付けるようになった。当然彼もまた小碓に遺恨を持った。可愛い娘達が、まだ少女だというのに、嫁いで半年と経たずに未亡人となってしまったのである。
実を言うと古事記では、この段は小碓がもっと野蛮で残虐な男として描かれている。
帝が、
――お前はどのようにねぎらったのか
と訊くと、小碓は、
――明け方に、兄が厠に入ったとき、出てくるのを待ちうけて捕らえ、顔が潰れるほど殴り、その手足をもぎ取って、菰に包んで投げ捨てました
と、ある。しかしこれは小碓の人気が高くなるのを恐れた当時の為政者(景行大王か?)が、わざと悪しざまにこけ下ろして伝承(もしくは記録)しろと命じ、そして時が流れて古事記の作者にそのように伝わったものと思える。
いつの世も変わらない、戦上手の家臣が、主家より有名になっては困るのである。
纏向日代の宮の正殿は、政事や賓客を迎えたりする場所である。帝の住まいでもあるのだが、帝はめったにここでは寝ることがない。妻や妃達の別棟が周りにあって、夜になると輪番に帝が泊りに行くのである。
朱雀門の外に住む家族に廻ってきた場合だけ、正殿に妻や妃が訪ねて来ることになっている。前述したように男子を産んだ妻や妃は日代の宮の外の屋敷に住んでいるからである。
すなわち、子を産んでない妻や妃の方に帝の通う機会が、より多く割り当てられているのである。帝は子をたくさん作るのが仕事ともいえる。子供達は皇室に残るもの以外は、成長すると皆地方の国の造などとして派遣されることになる。
大后播磨稲日大郎姫は、大碓と小碓の実母である。播磨国加古川の出で、備国造、吉備臣(現岡山県付近)の系列である。
…備国はのちに備前と備後、備中に分けられる。…
小碓が帝に謁見した数日後、この大后が血相を変えて帝の西の間に入ってくる。衛兵が慌てて付いてきたが、帝が制するのを見て、一礼して下がっていった。
「陛下、妙な噂を聞きましたが、一体どういう事なのか教えて下され。何でもわが子大碓が死んだとか何とか、何がどうして大碓が死ぬので御座いますか?」
「こ、これ奥よ、そんなに慌てんで、落ち着くのじゃ」
「これが落ち着いていられますか。どういう事で御座います?」
帝は凄い剣幕の大后を宥めながら、順を追って事の次第を話して聞かせた。・・・
「そんな、大碓が自決したなんて考えられません。だいいち大碓が娘二人を囲い込んでいただなんて、今初めて聞きました、何かのお間違いで御座いましょう」
「いや、兄姫、弟姫のことは事実じゃ。吾の所望した娘らを好いてしまって、身代わりを使ったのじゃ。だがそのことは大目に見て許したのだがな、残念なことじゃ」
「陛下、あなたがいけないのです、そんなおぼこ娘を差し出せだなんて、歳を考えなさいまし、歳を」
「これ、これ、そんなつもりで所望したのではない。吾は大根王の心を確かめただけなのじゃ、素直に差し出せば忠誠心に狂い無しと観てとれるゆえ、ほど良きところで返してやってもよいし、また養女として他家に嫁がせてやってもよいと思っていたのじゃ」
「ううう・・・」と、冷やかに帝を見つめる大妃。
「まあ、そんな事はどうでも宜しい。それより小碓のことはどうなさるので御座います?」
「小碓がどうしたのじゃ?」
「しっかりなさいまし、大碓は小碓に殺されたのではありませんか? またそうでなくても、屋敷に押しかけて殴り込んだので御座いましょう、兄に対し戦を仕掛けたと同じ事で御座います、すぐに皆を集めて評議なさいまし。小碓を大碓と同様に処罰願います」
「これこれ、奥よ、汝は小碓の母でもあるというのに、何て残酷なことを言うのじゃ。小碓は武装して殴り込んだ訳ではない。むしろ大碓の方が武装していたのだ。小碓はただ吾の命令に従ったまでじゃ、罪はない」
大后は散々食い下がって小碓の処罰を求めたが、帝がこれをなんとか宥め、下がらせた。
この播磨稲日大郎姫という方はとかく気性が荒く、勝気であった。
かつて帝が西征のおりに、立ち寄った播磨で見かけた美しき姉妹の姉である。纏向に戻ってからどうしても忘れられない帝が、長左を連れて再び播磨に妻問いに出かけた。
姫はまだ幼くて戸惑い隠れた。が、結局見つかり帝に口説かれて一夜を共にする。
それからは舟に乗って、月に何度か帝の通う日々が続く。纏向と加古川の往復で、舟で片道一日もあれば行き着くのである。
初めの子は生まれてすぐに亡くなってしまった。
景行一三年再び身籠った姫は安産を祈願して近くの社(日岡神社)に願掛けをしたという。そして生まれた珠のような赤ちゃん、大碓と小碓の双子であった。
生まれて間もなく纏向に移って屋敷を賜った。初めのうちは二人とも同じ屋敷だったが、五つぐらいの時から別々の屋敷となり、大碓は母の大后と、小碓は乳母を伴ってその反対側の屋敷に移った。
大后は帝をこよなく愛していたものか、帝似の大碓を愛した、そして逆に大后自身に似ている小碓を嫌っていた。妙な話であるが、大后には伊那毘若郎女という妹がいて、その方も実は帝に召されているのである。
小碓を見ると、帝に愛されている妹のことが頭に浮かぶのかもしれない。
憤懣やるかたない大后は、自邸に戻ると仕丁を呼び、奥の座敷に祭壇を作れと命じた。角材を井桁に積み上げ、中に丸い小さな素焼きの手炙りを置いた。
皆を下がらせて一人になると、手炙りの灰の上に熾き火を置いて、頭の中で何かを唱えながら桜の木屑を焼べた。時おり火力の付くように荏胡麻を焼べる。胡麻の油みがじじじとなって、部屋によい香りが立ち昇る。
この不思議な行動が大后の日課となった。この部屋には、大后以外は誰も立ち入れない。
こののち帝は大碓の葬儀も禁じ、塚(墓)を倭の直轄圏内に造ってはいけないと命じた。曲がりなりにも大碓は帝に弓を引いたことになるからである。そして、生まれ変わった時に近くに住んでいれば、倭に仇を為す危険があると信じられたからである。
…仏教が伝来してないから墓とは言わず、塚と呼んだ。これが古墳時代の謂れである。ただし、死者との別れを惜しむ葬儀らしきことは古くから行われたと思われる。…