すり切れた私が、色をとり戻すまで
出張みたいなものから帰ってくれば、我が家から他人の家のような匂いがした。
履き慣れないパンプスを脱ぎ、一歩踏み入れようとした瞬間、よそよそしい廊下が目に入る。
たかが一泊分いなかっただけなのに。
洗面所で手を洗い、ふいに鏡を見る。
どこか疲れた、かさついた肌の女と見つめあう。
視線をはずし、誰もいないことがわかっているのにそろりとドアを開け、居間へと進む。
「やっぱり綺麗、だね」
部屋は、私が出かけたときよりもむしろきちんと整頓されていた。
いつもなら斜めに置いてあるリモコンすら、きっちりと机と並行に置かれている。
こんな状況を私は知っている。
私が出かけ、帰ってくればいつもよりも綺麗な部屋が待っている。私でなければ、誰が片付けるのかといえば、それは同棲相手である彼氏、である。
彼との付き合いは長く、高校のころからずっとずるずるとここまで中途半端に過ごしている。
居心地が良くて、腹の立つこともあるけれど、そんなことは気にならないぐらい私はあれのことが好きだ。
だからこそ、気が付いてしまった。
いつもはいいかげんな掃除しかしない彼が、こんな風に部屋を綺麗にしてしまう理由というものに。
きょろきょろと周囲を見渡すと、何もかもが収まるべきところにしまわれている。
絨毯を見ても髪の毛一本落ちていない。
綺麗好きではない彼が、おそらく粘着テープで丁寧に何かを取っていったのだろう。笑える挙動だけれども、笑えない。
引き出しを開け閉めし、中を確認する。
荷物を置きに自分の部屋へ行き、机の上に出しっぱなしのジュエリーボックスを開く。
そこには見覚えのないピアスが、ご丁寧に片方だけ混入していた。
小さな、ルビーに似た赤色のスタッドタイプのピアスは、私が選ばないタイプのものだ。
長い付き合いのおかげで彼も感覚的に理解している。だからこそ、そういう手合いのものは私には贈ってこない。
ここには、第三者が侵入した。
ため息をついてそのことを確信する。
ティッシュごしにそれを引き抜き、きちんとたたんで机の引き出しにしまう。
両手をついて、さらに息を吐き出す。
どうして、またこういうことをするのかな、と。
私の彼氏は浮気性である。
それを隠しているつもりで隠しきれていない。
まだ隠すのが下手な最初のころは大っぴらにばれて、私は十分に怒った。
別れる別れない、の大喧嘩をして、二度としないという彼のことを信じて付き合いは続いた。
まあ、あっけなくその約束は破られたのだけれど。
回数を重ねるごとに、彼は慎重になっていき上手になっていく。
それに反比例するかのように、私は怒りの感情が小さくなっていった。
今も怒ってはいない。
むしろやはり、と自分自身の勘と感覚に飽きれて感動しているぐらいだ。
彼は基本的にはケチだから自分のテリトリー内に彼女を呼ぶ。その後始末を考えれば外泊の方がいいと思うけれど、そこは変な価値観なのだろう。
そしてきっちりと証拠を隠滅し、だからこそ私に妙な印象を与えていることに気が付きもせず満足している。
歴代の彼女たちは彼の苦労をあっさりと飛び越え、ちゃっかりと証拠を残していく。
レースのカーテンに私のものではない長く茶色い髪の毛が括り付けてあったのは、少し怖かった。
私が何も言わなくても、なんとなく勘づいたことに気が付けば、彼はあっさりと彼女たちを切り捨てる。
彼もなんだかんだで、私と本当に別れるつもりがないことだけは確かだ。
けれど、と。
何度目かの証拠と、それを看破しても何も心が動かない自分。
疲れているのかもしれない、と、何もかも忘れたふりをして風呂に入って寝た。
彼が私が机の上に置いたお土産に、ちょっとだけ喜んだ声が聞こえた気がした。
「部屋、綺麗に掃除してくれてありがとう」
朝食のトーストをかじりながら彼へお礼を言う。
「いや、別にこれぐらい。帰ってきたらちゃんとしてた方が気持ちがいいだろ?」
なんてことない、という風に彼が答える。
他愛のない会話をして、シンクへ皿を置く。
出勤は彼の方が早く、すでに身支度を整えて出かける体勢になっている。
「いってらっしゃい、気を付けて」
台所から顔を出し、いつもの声掛けをする。
右手をひらひら振りながら、いつものように出かけていく。
それだけで、なんだかどっと疲れた気がする。
日常が戻ってきた。
けれども私の気持ちは戻りきらない。
出勤をして、リモートの会議だったり、普通の会議なりをこなす。
ずっと気持ちが凪いだまま。
こんなことは、今までになかった。
私はあれの事が大好きで、証拠を見つけても、次の日に彼と言葉を交わせば全て元通りになっていた。
やっぱり私は彼が好きで、「こんなこと」ぐらいでもう騒いではいけない、そう言い聞かせて笑う。
そうやって私はずっと過ごしてきた。
こんな風にすとん、と気持ちが萎えていくことがあるだなんて想像もしていなかった。
それでも、彼のいる部屋から出ていく勇気はない。
十五年以上一緒にいて、それがあたりまえだったから。
「何、また浮気?」
「あーーーーーーーー、うん、そう」
大学時代の友達からの軽口に項垂れる。
何もなかったかのような顔をしていたのに、彼女はきっちりとそのことに気が付いてくれた。
ありがたい、けれども少しだけ億劫な気持ちになる。
「まあ、あんたがいいんならいいんだけどさ」
そんな感情を察知したのか、あっさりとその話題を躱す。
そういうところが、私と彼女がずっと細々とでも続いている証拠だろう。
二人して大衆的な居酒屋でのんびりと飲みながら、愚痴を言いあう。そういう空気も好きで、彼女とは時折こうして一緒に過ごしている。
「なんかちょっと、タイミング悪くて申し訳ないんだけどさ」
「……ん?」
少し、悪い予感がして身構える。
「結婚、することにしたんだよね」
「……、あ、え?あぁ、結婚?あ、ちがくて、おめでとう?」
「いや、疑問形で言われても困るんだけど」
彼女から聞き慣れた、けれども聞き慣れたくない結婚の二文字が出て完全に混乱した。
どこか飄々としていて、感情の薄い彼女はそんなものとは一番縁遠いと思っていた。
たとえ、まあそれなりの同級生たちが結婚しようとも、彼女はきっとしないんじゃないか、と思う程度には。
恋人がいることは知っていた。その人が少し年下なことも。
だからこそ、私はのんきに構えていられた。
結婚だけが全てじゃない、するもしないも自由。
そう思っている、けど。
「なんか、ちょっと意外で」
「私自身も意外、かな?やっぱり。まあしてもしなくてもいいってなら、したい方に合わせるのもいいかな、って」
「ということは向こうから?」
「まあ」
ちょっと照れている彼女は珍しくて、かわいい、と素直に思う。
幸せいっぱい、な報告なはずなのに、いらない気をまわさせてしまってむしろ申し訳ないぐらいだ。
「式は?」
「一応家族だけで、披露宴とかはしないけど、今度食事に行こうよ、もちろん彼氏さんも一緒に」
おそるおそる、という具合に彼女が提案する。
私と、彼が大手を振って順風満帆、というわけではないことに気が付いている。
けど、そんなものは隠して、こうしてあたりまえのように誘ってくれる気配りがうれしい。
「ありがと、あれが一緒かどうかはわかんないけど、ぜひお会いしたいですって伝えて」
そこから仕事の愚痴やら、結婚準備に伴うあれやこれを言い交しながら楽しい時間は過ぎていった。
少し、酔った体で家までの道をふらふらと歩く。
夜風が気持ちよくて、私の中の汚い気持ちを押さえつけてくれる。
友達が結婚をする、と聞いて喜んだ。
でも少し寂しいと思った。
そこまでは大丈夫。そう思うのは普通のことだ。
だけど、それ以上に、いや以下に私は気持ちの悪いことを思っている。
それを言葉にして定義付けてはいけない。
いつのまにかたどり着いた家は、「いつもの」匂いがした。
久しぶりに一緒に映画を見に行き、帰り際に彼の同僚だという人と出くわした。
少し軽薄そうで、名前を聞けば聞き覚えがある、仕事はできる、という同僚だったと思う。
「あれ、彼女さん?」
「はじめまして」
ここで、妻ならばいつもお世話になっています、ぐらい付け加えるのだろうけれども、私はただの同居人だから、どこか締まりのない挨拶を口にする。
「こいつ、いつも自慢してるんですよー」
「や、ちょっと」
にこにこと悪気なく同僚が軽口を叩く。
彼は焦って、それを静止にかかる。
「や、でも、あれ?年……」
最後まで口にすることなく、いつのまにか同僚は彼に連れ去られていた。
まあ、たぶん年下だったのに老けてません?って言おうとして、さすがに自分でも言葉にしてはいけないことに途中で気が付いて口を閉ざしたのだろう。そして慌てて同僚を排除した彼の行動に、私は不信感を持たなくてはいけない。
「あ、ごめん、あいつ用事があるって」
「そうなんだ、忙しそうな人だものね」
だけど、私はそれすら面倒くさくて、彼のとってつけたような言い訳に適当な返事をする。
あの時から、私はおかしいままだ。
もう気持ちが動かない。
何度浮気をされても、何度喧嘩をしても、私はこの人のことが大好きで、怒っても別れたくはなくて。感情の乱高下を持て余してた。
なのに、心肺停止の心電図ぐらい私は平静なままだ。
でも、別れる気力すらない。
私は、この人のことがまだ好きなのだろうか、と彼の少し先を行く背中に向かって呟いた。
裁量労働制の自分は、与えられた居室で昼ご飯をのんびりと食べている。朝一番の会議が終わり、授業の準備を終え、一息ついたところで買ってきたサンドイッチとおにぎりを取り出す。
大きな画面で息抜きとばかりに動画サイトを徘徊する。飼いたくても飼えない犬や猫やハムスターや鳥の動画で癒される。
ペット禁止だから、どれもこれも無理なんだよなぁ、そもそも彼は動物嫌いだし、と思いながら次々とかわいい映像に和んでいく。
猫、一匹なら飼える部屋、あるよね?
興味本位で不動産のサイトをあさる。
犬の飼育は可能だけれど合わせて十キログラム以内とか、猫はだめ、とか色々制約があっておもしろい。
そして、職場の大学にほど近い場所に築年数は古いけれども、ペット飼育可にしてリフォームし直したアパート物件を見つけた。
ちょっと良くない?
そんな気持ちが思い切り湧き出る。
ペットのいる癒される生活と、今の環境。
私はあきらめてそれらを閉じ、ただ背景だけが映る画面をぼんやりと眺めながらおにぎりを口にした。
祖父の調子がよくないと伝えられ、一番かわいがられた孫である自信がある私は、急いで実家へと向かった。彼にはメールで家へ帰るむね伝え、着替えだけを鞄に詰めて新幹線に飛び乗る。
二時間程でたどりつく実家は、新幹線に乗る心理的ハードルの高さからご無沙汰だ。
安静にしている祖父を見舞い、久しぶりの実家のリビングに寝転がる。すかさず犬が私の背中に乗り、人間よりも高い体温を押し付けてくる。
「思ったより元気そう」
「まあ、それでも年は年だから、たまには顔を見せてあげて」
嫁にあたる母は、祖父との関係は良好で、どちらが本当の親子がわからない、といった関係性を築いている。ふわふわとおっとりとして、かわいらしい母は、私と真逆だ。
「ごめんて、ちょっと忙しくて」
「それはいつもでしょう?だって」
それからはずっと小言が続く。
確かに、大学、大学院、さらに後期課程とまあ忙しい、の一言であまり近寄らなかったのは事実だから。
唯一の子どもの私がいなくなって、さみしいという気持ちもわからないでもない。
結局私は一晩だけ泊まって、自分の住む家へと帰宅した。
わざと、連絡すら入れずに。
「ただいまぁ」
ひどく他人の匂いがする玄関で、わざと声を出して帰宅の言葉を告げる。
私の靴の隣には、絶対に私が履かないタイプのヒールの高い綺麗な靴が鎮座している。
「あら?どなた?」
さくさくと進んで、素早く居間へと侵入する。
宅配のピザを開けようとして固まったままの彼氏と、どこか勝ち誇ったような顔をした見知らぬ女性が座っていた。
やっぱり、年下だったんだな、と彼女の表層から読み取る。
私より若くて、私より華やかで、私より。
そこまで考えて思考を放棄した。
こんな風に、言い訳も出来ないほどの状況に遭遇しても、私の感情はフラットなまま。
あの時から、まるで動いていない。
悲しい、でもむかつく、でもない。
本当に、何もない。
探しても探しても、揺らぐ気持ちがどこにも存在しない。
そのことに気が付いて、ようやく驚いて感情が揺れた。
「あ!」
あるものを取りに、おもむろに寝室へと向かう。
ティッシュに包まれたそれを取りだし、再び居間に座ったままの彼女のもとに差し出す。
「これ、あなたの?」
片方だけのピアスに、彼女の視線が落とされる。
訝しむ顔が、徐々に険しくなって、眉間にしわを寄せたまま、彼の方へぐりんと顔を向ける。
その動作が少し面白くて、笑ってしまう。
「誰のよ!」
突然ヒステリックに叫ぶ彼女を、感情が豊かだなぁ、と眺める。
それにしても、あの持ち主とは別の人だったのか、と、途切れもせず彼女がいる彼に感心する。
確かに顔はそこそこでともかく気が利くこれは、高校、大学とたいそうモテていたことを思い出す。そしてそのたびに、割と嫌な目にもあったことすら記憶がよみがえる。
それは、忘れてしまってもよかったのに。
彼の浮気現場を目撃したショックよりも、そのことにダウナーな気持ちとなる。
「え?え?えっと、あれ?これ、おまえのじゃないの?」
「いや、違うし」
私へと擦り付けようとして、はじき返す。
さすがに、私の好みではないことには気が付いていたのか、それ以上の言葉は重ねない。
「たぶん、別のお嬢さんのじゃないかな?この人、割とモテるし、女の子と遊ぶの大好きだし」
無類の女好き、とまでは言わないが、ちょっとだけ女の子と遊ぶのが好きな男。
それを隠そうとはするけれども、おそらく悪いとは思っていない。
これが男の本能、だとか阿呆な言い訳をする阿呆というわけではないだけまし、ぐらいな程度には軽い。
私の言葉を薄々実感していたのか、彼女はぎりっと彼を睨みつけ、丁寧に平手打ちをして逃げ出して行った。
残されたのは彼と、私と、私はあまり好きじゃない宅配のピザ。
「あーー、まあ、疲れたから、私は引っ込んでるから」
鞄に入れっぱなしの洗濯物を洗濯かごへと突っ込み、おとなしく部屋へと退散する。
なんか、何もかも面倒くさいな。
そんなことを思いながら。
「おはよー」
「……おはようございます」
次の日、日曜日だからお互いお休みだ。
どの面下げて、と、思いながら居間へ入れば、彼は何もなかったかのような顔をして挨拶をしてきた。
昨日の闖入事件など初めから起きていないかのような態度に、さすがの私も面食らう。
「えっと、昨日の、何?」
「昨日?ああ、同僚のこと?」
確かに、ピザを食べようとしていたところを踏み込んだとして、それは何かの証拠にはならない。
せいぜい、パートナーに許可なく異性を部屋へ入れた、というマナーの部分だけだ。
「同僚、同僚なんだ」
「そう、色々相談に乗ってやってたんだ」
そのお世話になった先輩に平手打ちをする後輩が存在するのかと、皮肉めいた言葉が浮かぶけれども、声には出さない。
そんなことすら面倒くさく、曖昧に相槌をうつ。
気力がなくて、食パンをそのままかじる。
あまり、おいしくはないけど、とりあえず腹は満たされる。
「友達、結婚するんだよね」
絨毯に座りながら新聞を読んでいた彼は、ぎこちなく顔を上げて私と視線を合わせる。
「披露宴とかはしないらしくて、今度お互いの彼氏を連れて食事に行きませんか、って誘われたんだけど」
「えぇ、それは」
「ああ、うん、そういうの苦手だもんね、別にいいよ」
期待通りの答えが返ってくる。
彼は、私の周囲とは交流をもとうとしない、高校時代は仕方がなくても、大学は学部は別で接点がない。彼の友達は私の友達ではないし、逆もまた同じだ。
だから、こんな答えが返ってくることはわかっていた。
わかっていたけれども、ようやくここで心がざわつく。
あからさまにほっとして、また彼は新聞へと視線を戻す。
徐々に、何かが色あせていく。
もう、彼のことをどう思っているのかもわからなくなる。
それでも、私はここを出て一人で立っている姿を想像することができないでいる。
朝起きて、適当にごはんを食べて、夜はたまに一緒に食事をして。別々の部屋で寝る。
同棲というよりもは同居、といった方がしっくりくる生活がなだらかに続く。
あれから私は外泊をしていないので、家に連れ込む、ということはない。
他のところでせっせとまた別の女性と付き合っているのかどうかは、知らない。
職場でおにぎりをかじる。
好きな具だったはずなのに、味がぼんやりとしている。
味気ない、というほどではなく、でもおいしいでも、まずい、でもなくただ食べている、という感想しか浮かばない。
趣味にしてもそうだ。
配信の映画も、和む動画も、気になっていた作家の最新刊も、手を付けようとして途中でやめてしまう。
物語は頭に入ってこないし、没入感が得られない。
読んでは、意味が分からずページを戻し、読んでも理解できない。そうこうしているうちに睡魔がやってきいて眠ってしまう。そして朝、同じ時間に起きるのだ。
何もかも少し紗がかかったような、薄ぼんやりとした景色が拡がっている。
あまり、よくない傾向なのではないかな、と思うものの困ることはないので放置したまま。
どこかで、鳥の声が聞こえた。
今の季節ならば繁殖行動による呼び鳴きなのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考える。
ディスプレイに浮かんだ文字を拾いながら、一つ一つ仕事をこなしていく。
鳥ですら二人で協力して子育てをするのにな、なんてくだらないことを思いつきながら。
友達の彼氏、いや夫との食事会では楽しい時間を過ごせた。
一人でやってくることを知っていたのに、彼女は少し寂しい顔をした。その中に色々な気持ちがあるだろうけれども、それをぶつけることはない。このあたりの距離感は、絶妙だ。
優しそうで、頼りなさそうに見えてしっかりしている彼と、彼女はとても似合う。
うらやましい、という思いがないわけじゃない。
けど、喜べている自分がちょっとだけ嬉しい。
ご機嫌になった帰り道、家の前で唐突に知らない女性に声をかけられた。
まだ若く、この前ピザを食べようとしていた女性に少し似ている。
「どちらさま?」
マンションのエントランス前で相対する。
綺麗にまとめられた髪と、片方だけの赤色のピアス。
ああ、彼女があの時の女性なのだと理解する。
「おばさん、いいかげん別れなさいよ」
「確かに、私はおばさんだけど」
毎年若い女の子が入学してくる職場に勤めていて、自分の年を実感しないはずもなく、そのあたりは他の同年代よりも敏感だ。私は年を取るのに、常に相手は同じ年代の少年少女なのだから突きつけられるものが痛い。
「あなたのピアス、とってあるから、いる?」
そんな場合じゃないのに、のんきな言葉が口をつく。
「はぁ?あんたばかじゃないの?」
「お勉強はできるバカかもしれませんね、確かに」
こんな風に彼の彼女のような女に詰め寄られることは初めてじゃない。
そのたびに、私の気持ちは薄れていく。
けれども、嫌いにはなれない。
そんな女、馬鹿じゃなくてなんなのだろう。
「私、子どもが出来たんだけど」
ぼんやりと相手を眺めていたら、そんな爆弾のような言葉が投げつけられた。
瞬間、頭になにかが昇り、けれどもすぐに下がる。指先まで血液が配給されないかのように、冷たくなっていく。
子ども。
たぶん、最初は私も欲しかった。
付き合い始めの少女のころ、漠然と思っていた将来の自分。
彼と、私と、そして子ども。
そのころはただ漠然とした、ぼんやりとして、まさしく夢に等しい願い。
その時のかけらが、ふわりと舞い上がる。
「……そっか、そうね、わかった。彼に言っとく」
言い切った、という顔をした彼女を置いて、私はさっさとキーで開錠してエントランスに入り込む。
ちらりと振り向けば、彼女は唖然とした顔をしたまま立ちすくんでいる。
もっと何かを言い募ろうとして、肩透かしをくらったかのように。
「そこにいると冷えるよ、こんな時期だけどまだ寒くなるからさ」
言い残して、私はエレベーターに乗った。
彼女はそれ以上私について来る気はなかったようだ。
「ただいま」
「おかえりー」
カップ麺の残骸が無造作にテーブルの上に転がっている。
食べたばかりなのか、どことなくジャンクな匂いをあちこち振りまいている。
「さっきさ、あのピアスの持ち主にあったんだけど」
スマホを片手にソファーに転がっていた彼の手から、そのスマホが滑り落ちる。
「え?え?なに?どうして?」
「さあ、でも子どもができたって、よかったね、もうすぐかどうかは知らないけど、パパになるって」
「へ?え?」
私の言葉に混乱する。
遊びはきれいに、を続けてきただろう彼にとっては青天の霹靂だろう。
「疲れたから寝るね、話し合いは明日にしようか。といってももう話すことはないんだけどね」
化粧を落として、とりあえず眠ってしまおう。
取り乱すことすら出来ずに呆然としたままの彼を放置する。
色あせて、ぼんやりとした景色が、とうとう色を失った気がした。
部屋に入って鍵を掛ける。
スマホを放り投げてベッドにもぐりこむ。
ふいに、今までのあれこれが頭の中に流れていく。
初めて会った時、付き合った日、デートしたとき。
彼の家へ挨拶にいって緊張をした自分。私の親と立ち話をしている彼を見ていた私。
進学して、就職して、同棲して。
ずっと、ずっと私は彼と一緒にいた。
私の人生の半分は彼との歴史だ。
何かが、目からあふれ出る。
もう怒ることも悲しむこともなかったはずの自分が、泣いている、という事実に戸惑う。
擦り切れてもう動じなくなってしまった気持ちがはじけていく。
私は、彼が好きだ。
たぶん、今も。
そんなことをようやく認識し直したのに、現実が襲ってきた。
彼と付き合い続ける、ということは彼女の問題を解決しなくてはいけない。
罪悪感は持ちたくない。私は何も悪くない。
ぐるぐるといろんな気持ちが浮かんでは消えて、消えては浮かぶ。
声を押し殺して泣いて、時計の針の音だけが響く部屋にくぐもった声が漏れる。
泣いて泣いて、それでも泣いて、思い出は次々と押し寄せる。
頭が痛くなるほど泣いて、私は気絶するように眠った。
「……おはよう」
がんがんする頭を抱えながら、とりあえず冷やしてあるお茶を飲み干す。
休日なのに私より早く起きていた彼は、どういうわけか絨毯の上に正座している。
「ごめん」
もそもそと珈琲と焼いてないパンをかじる私に向かって、彼が土下座をする。
「私に言われても、困るんだけど」
顔も目もむくんでぱんぱんだ。
多分、声だって掠れている。
けれどもどこかすっきりとしている。
久しぶりに泣くことができて、色々なものが一緒に流れていったのかもしれない。
「出来るだけ早く出てくね、今度はもう少し職場に近いところにしたいし」
ふっきれたように、私は今まで怖くて口にしたこともない内容をつらっと吐き出している。
その言葉に驚いたのは彼であり、私自身だ。
こんな風にあっさりと、彼との別れを選択できるだなんて。
今までうじうじねちねちしていたのはなんだったのだろう、と。
そういえば、と、コーヒーの味がはっきりとわかる。それに気が付いてまた驚く。食パンはやっぱりもそもそとしているけれど。
何か言い訳のようなものを繰り返しながら、私の周りを話しながらうろうろしている。
なんか話してるな、と思う以上に気持ちが動かない。
少し前までのそれとは違う、無関心にも似たそれ。
気持ちが切れるとも、百年の恋が冷めるとも、感情の底が抜けた、とも言える。
「そういうことだから、あと少しだけごめんなさいね。あ、私が買った家電はもってくから」
そこそこ良いオーブンレンジとテレビは私の持ち物だ。
細々とした調理器具は買い替えるとして、と、もはやそちらの方に興味が移ってしまっている。
自分はこんなに薄情な人間だったのか、と、感心をする。
以前に調べた物件に、まだ空きはあったのか、とか、犬を飼うつもりもないのだけど、とか、あれこれ思い浮かべては気分が上昇する。
笑顔を浮かべていたのだろうか、そんな私を見て、彼が強引に肩を掴んで私を向き合わせる。
「聞けよ!」
「何を?」
「何をって」
「いや、もういいから、もういいし。興味ない」
怒っても悲しんでもいないトーンの私の声に彼がひるむ。
いつも曖昧にして、それでも深くは追及しなかったのは傷つきたくなかったからだと気が付く。
防衛本能で膜をはり、気にしないような擬態をしていた。いつしかそれは本物になって、彼への気持ちが薄れていったのかもしれない。
正直、今はもう本当に興味がない。
長い付き合いで私の言葉が本心だということを理解したのか、絶句したまま固まっている。
「じゃあ」
貴重品だけをもって、とりあえインターネットカフェに逃げ込む。
着信は山ほどあるけれども、全部無視を決め込む。
体に悪そうな色の飲み物を飲みながら、好きな漫画家の新刊を読みふける。
やっぱりおもしろくて、もうどれだけ振りかにわからないぐらいに堪能した。
頼んだごはんはおいしくて、読んだ本はどれも新鮮だった。
あれから、ホテル住まいを決め込んで、とっとと引っ越し先を決めた。
残念ながら例の物件は埋まってしまっていたが、職場に近くて私が掃除できる範囲内のワンルームに入居することができた。
転勤、入学シーズンじゃなかったのがよかったのかもしれない。
住んでいた家に荷物を取りに行くたびに縋りついてくる彼を笑いながらいなし、必要なものだけ運び出す。
幸い、大きな家具がなかったおかげで数日のそれで終了した。
最後は、泣きながら土下座をする彼を見下ろして、きちんとさようなら、と言うことができた。
正直、そんなになるぐらいなら最初からちゃんとしとけよ、と口にしないだけ私は優しいと思う。
結婚する気もなければ、大事にするわけでもない相手、もっと早く放流しろよ、と今なら思う。
私の目は、どれだけ曇っていたのだろうか。
一人だけの部屋で大の字に寝転がる。ちょっと狭いけれども、何もかも手にしやすい位置にあるから暮らしやすい。
衝動買いしたパキラの鉢植えを見上げる。
まあいいや、この子と一緒に暮らそう。
私は、綺麗な緑の葉をたたえるパキラに向かって挨拶をした。




