雨音の内側
まだ水気の残るモップを立てかけ、御岳は壁の時計を見た。閉館五分前だ。最後の会員がロッカールームを出ていく。
奥のロッカーを確認し、照明を落とす。
カウンターに戻って点検表に印をつけたところで、ロビーの端の影が寄ってきた。
木崎だった。
「もう閉める」
言いながら、ポケットから車のキーを出す。
「先に乗ってろ」
木崎は頷き、いつものようにキーを受け取る。躊躇はない。
御岳がジムを閉めて駐車場に足を向けると、わずかに湿った夜気が体を包んだ。
五月も残り少なくなっていた。
車に乗り込む。
助手席に座った木崎が声をかけてきた。
「お疲れ様」
そのねぎらいも、もう慣れたあたたかい響きだ。
「腹減った、いつものとこでいいか」
「うん」
それだけで充分だった。
深夜まで開いているラーメン屋の暖簾をくぐり、カウンターにつく。
木崎が御岳の左側に来る、いつもの位置だ。
「俺、醤油。お前は?」
「タンメンかな。あと餃子も」
「相変わらずよく食うな」
御岳は笑って、水のコップを隣に差し出した。
「俺はもうおじさんだから、そんなに食えない」
「僕だっておじさんだよ」
軽い口調で言いながら、木崎がコップを受けとる。
御岳は軽く手を挙げて店員を呼び、ふたり分の注文を告げた。
品が届く間に、御岳は思い出して足元から荷物を取る。
鞄を探って、薄い本を取り出した。
隣の男が書いた小説だった。
手指の爪が、歯に生え変わった男を主人公にした、少し奇妙で、すこし淋しい物語だった。
大切なものを持とうとすると噛んでしまうようになった男は、最後に月夜の森で、全身を歯に覆われて静かに動きを止めるのだ。
「これ、読んだ」
「……ありがとう」
水を飲んでいた木崎が、コップを置いて軽く頭を下げる。
「面白かった。サインいれてくれないか」
カウンターの上にアンケート用紙と共に置かれているペンを手に取って、彼に向ける。
受け取った木崎は、「なんか、照れるね」と言いながら、『木崎奏』としたためた。
「嶽って、どんな字だっけ?」
手を止めた彼から、「貸せ」とペンを取った。
「御嶽山の、嶽」
アンケート用紙の裏に、大き目に記す。
「御岳嶽って、山っぽい名前だね」
「親父が元ワンゲル部」
言いながらペンを返すと、受け取った木崎が笑う。
「お父さんは山のひとで、嶽は海のひとなんだ」
「親父には、散々山登りに連れて行ったのに、って文句言われたな」
木崎はサインの下に『嶽へ』と書き足す。
「嶽が選んだんでしょ」
差し出された本を受け取り、御岳は少し黙った。
湯気が近づき、丼と餃子の皿が置かれる。
「いただきます」
本をしまう間に、木崎はもう手を合わせている。
少し遅れて、御岳も彼に倣った。
並んで、しばし食事に集中した。
麺を啜る音と、いつの間にか降り出した外の雨音。
「やっぱりここ、美味しいね」
餃子に箸を伸ばしながら、木崎が笑みを向けてきた。
「ああ」
頷いて、叉焼を噛む。
歯の話を書いた男が、隣にいる。
月夜の森で動きを止めたあの主人公のことが、ふと重なる。
犬歯の奥が、かすかに疼いた。
店を出ると、雨は本降りだった。
「走れるか」
木崎が頷いたのを見て、車まで駆ける。
シートに乗り込み、ドアを閉めた。
「梅雨前なのに、すごい降り方」
助手席の木崎が、ハンカチで水滴を拭う。
「家まで送る」
濡れた髪を掻き上げて、御岳はシートベルトを締めた。
「ありがとう、助かる」
ワイパーの作動音に、ウインカーの音が重なる。
車の鼻先を木崎の家の方角に向け、御岳はちらりと隣を見た。
「お前の小説って、何ていうジャンルなんだ」
「幻想小説って言われる。耽美ホラーって言うひともいるかな。僕は、あんまりジャンルとか意識してないんだけど」
信号で止まる。赤が、濡れた路面に滲む。
「ジャンルが決まると、楽なのか」
「たぶん、書く方より売る方はね」
ワイパーが一定の速さで往復する。
街灯の明かりが揺れて、窓を流れる雫が光った。
「嶽のジャンルは、水だね」
隣で木崎が、小さく笑う。
「なんだか濡れてばっかりだし」
「悪かったな」
滲む色が、青に変わった。
車を出し、来た道を戻る。
御岳はアクセルを強く踏まず、静かに進ませた。
水は、形を持たない。
器に従う。
フロントガラスを流れる水を一瞬意識して、ステアリングを握り直す。
灯りの消えたジムの前を過ぎた。
交差点を曲がると、道は細くなる。
マンションの灯りが、遠くに見えた。
御岳は減速する。
雨脚は強まっていた。
「嶽」
隣から呼ばれる。
らしくなく前を向いたまま、木崎が言う。
「まだ、時間ある?」
ブレーキを踏む。エンジンの振動が、足裏に残る。
「あるけど」
御岳は短く言葉を切り、隣の横顔を窺った。
「どうした」
木崎が先に視線を逸らし、それから顔を向ける。
「上がって行って。そばにいたい」
御岳はわずかに眉を寄せる。
「胸、また痛むのか」
助手席に視線を落とす。
木崎は首を振った。呼吸は乱れていない。
「そうじゃなくて」
雨音が、屋根を打つ。
「まだ、一緒にいたい」
ステアリングに手をかけたまま、御岳は動かない。
木崎が続ける。
「帰らないで」
視界の端で、ワイパーがひと往復する。
御岳は干上がった喉の奥から、静かな声を落す。
「帰らないで、は軽く言う言葉じゃない」
息を継いだが、喉は渇いたままだ。
「俺は軽く受け取れない」
エンジン音と雨音が、間を埋める。
「……お前が好きだから」
俯いていた木崎が、顔を上げた。
木崎は動かなかった。シートベルトに、手をかける気配もない。
瞠られた目が、細くなる。
それが、御岳にはどこか切なげに見えた。
それでも彼は、もう視線を逸らさない。
浅い息が、唇から漏れた。
「僕も、嶽が……」
鋭く、一度喉が鳴る。
吐く息に、言葉が乗った。躊躇いもなく。
「嶽のことが好きだよ」
御岳は動かなかった。
返す言葉を持たぬまま、一呼吸過ぎる。
沈黙を破ったのは、木崎だった。
「もし本当に、僕が好きなら」
浅い呼吸の間が開く。
「部屋に来て」
御岳は、すぐには答えなかった。
遠くを走る車の音が、雨音を横切る。
「……軽く言うなって言っただろ」
「軽く、聞こえた?」
御岳は首を振る。
熱のこもった言葉だったからこそ、聞き流せなかった。
「俺はお前を、軽く扱えない」
視線を外さないまま、ワイパーを止めた。
雨音が大きくなる。
――嶽が選んだんでしょ。
木崎の声が蘇った。御岳は一度、目を閉じる。
「上がる」
静かにエンジンを切る。
キーを抜く音が、雨音に溶けた。
「でも、今夜は何もしない」
木崎が小さく息を吐く。
その頭が、軽く上下に振れる。
金具の音が鳴り、シートベルトが擦れた。
ドアを開ける。雨の匂いが流れ込む。
ふたりの足元で水が跳ねる。
エントランスの明かりが、濡れたアスファルトに滲む。
雨はまだ降っていた。




