隣で目を閉じる
御岳には年に一度だけ、テレビもネットも見ない日がある。
目が覚めるとスマホの日付表示に短く目をやって、アラームをかける。
今日は体を動かしてたいのに、今年に限って仕事が休みだ。
寝覚めのコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。寒さの緩み始めた空は晴れていた。
御岳はカップを置き、簡単に準備を整えて車のキーを取った。
向かったのは、ひとつ隣の駅にある町だ。住宅街のはずれの方に、古い一軒家が建っている。
カーポートに車を止め、御岳はキーホルダーを鳴らして家の鍵を開けた。
締め切っていた家特有の埃っぽさに、雨戸や窓を開けて回る。 御岳の父方の祖父母の家だった。無人になって、もう二年になる。
風を通して、仏間に向かった。仏壇に線香をあげ、祖父と祖母に手を合わせた。
言葉はなかった。
たなびく線香の煙を少し見て、御岳は紫色の座布団から腰を上げた。
持ってきたマスクと軍手をつけ、ごみ袋を広げる。
祖母が亡くなった後、時折こうして片付けに来ている。取っておくものの選別と、明らかな不用品の処分は終わり、あとは残った物を少しずつ仕分けていく段階だった。
休日だけたまに顔を出す父親は、遺品をごみ袋に収めながら、静かに言ったことがある。
「ひとが本当に一生を終えるには、時間がかかるな」
台所で、日用品の買い置きや食器類の中から、まだ使えそうなものを分ける。不要な物を分別し、袋にまとめていく。
袋がふたついっぱいになったところで、まだ二階の窓を開けていないことに気づいた。
わずかに痛みを訴える腰を伸ばし、軋む階段を上る。
祖父の書斎だった部屋に入る。
壁際には背の高い書架が並んでいる。かつてはぎっしり詰まっていた棚も、ところどころ歯が抜けたように隙間ができ、「郷土史」と書かれた古い本が斜めに傾いていた。
机越しに手を伸ばし、窓を開ける。
吹き込んだ風に、わずかに春の匂いが混じる。
空気が動く。
祖父が本のページをめくる紙擦れの音が、ふと蘇る。
御岳は書架を見渡し、ある顔を思い浮かべた。
こういう棚、好きそうだな。
ポケットからスマホを取り出す。理由は考えない。
数コールのあと、眠たげな声が出た。
「まだ寝てたか?」
あの小説家は、基本的に夜型だ。
「ううん、さっき起きたところ」
「今から出てこられるか」
理由は問われなかった。
木崎は、ただ「うん」とだけ返す。
最寄り駅を伝え、着いたら連絡しろと言って通話を切った。
二階の残りの窓を開け、階下へ降りる。
台所で手を洗い、縁側に胡坐をかいて、途中で買ってきたコンビニ弁当を広げた。
庭先に、名も知らない花が咲いている。
痛んでも、残されても、季節は巡る。
そのことがわずかな救いになるようで、けれど自分だけが取り残されているようでもあって、御岳は弁当を食べる手を少し早めた。
木崎から連絡が入り、車で駅へ向かった。
人待ち顔をしているスプリングコートの男に、すぐに気づく。
車を寄せる。
「木崎」
降りて声をかけると、ぱっと笑って振り向いた彼が、わずかに動きを止めた。
視線が足元へ落ちる。
「どうした」
胸か、と一瞬思い、一歩近づく。
木崎はすぐに首を振った。
「……私服、初めて見たから」
そういえば、会うのはいつもジムだった。
「おかしいか」
言いながら、自分の服を見下ろす。
デニムとシャツ。変わったことはない。
「ううん。……かっこいいよ」
キーを持つ指が、わずかに止まる。
その言葉は拾わない。
「……乗れ」
それだけ言って、運転席に戻った。
車を出すと、しばらく沈黙が続く。耐えきれなくなったように、木崎が口を開いた。
「どこに行くの」
「爺ちゃんち。お前に見てもらいたいものがある」
「僕に?」
首を傾げる気配が、助手席から伝わる。
「直接見てもらった方が早い」
それ以上は言わない。ハンドルを握る手に、少しだけ力が入る。
ひっそりと建つ祖父母宅に車を入れる。御岳は先に降りて、鍵を開けた。
「お邪魔します」
靴を脱ぐ声が後ろから聞こえる。
「二階だ」
そう告げて、階段を上る。
軽い足音が、ひとつ分遅れてついてくる。
書斎に入ると、後ろからついてきた木崎が壁一面の書架を見回し、小さく息を飲んだ。
「わあ……」
声が、素直に弾んでいる。
「すごいね。お爺さんって、何してた人?」
「高校教師。歴史教えながら、郷土史の研究してた」
そう答えると、木崎は「なるほど」と頷き、背表紙に目を走らせた。
細い指先が、慎重に一冊を抜き取る。埃を払う仕草まで丁寧だ。
木崎が頁をめくる音が、静かな部屋に響く。
窓から差し込む日差しが、舞う細かな埃をきらめかせる。
本に視線を落とす彼から、さっきまでの眠たげな顔は消えていた。
こういう顔をするのか。
御岳は腕を組んだまま、その横顔を見る。
「全部、処分するの?」
「いくらかは寄贈して、残りをどうするか考えてる。捨てるには忍びないから」
木崎が顔を上げる。
「こういうジャンルに強い古書店、知ってる。まとめて持ち込むより、出張査定頼んだ方がいいかも」
少しだけ前のめりだ。
「僕、立ち会うよ」
その一言に、わずかな責任感が滲む。
御岳は短く頷いた。
「……頼む。助かるよ」
素直に言うと、木崎は少しだけ目を丸くし、それから照れたように笑った。
階下に降り、木崎を居間に通す。
「広いね」
「古い家だからな」
適当に座れと言いかけたとき、線香の残り香に気づいたのか、木崎の視線が奥の仏間に留まった。
そのまま、シャツの袖に重みがかかる。
指先で、そっと引かれた。
御岳は視線を落とす。
木崎が、少し迷ったあとで言った。
「……嶽。僕も、ご挨拶していい?」
その呼び方に、胸の奥が小さく鳴る。
一拍だけ間を置く。
「……ああ」
頷くと、袖をつかんでいた手が離れた。
敷居をまたぎ、木崎が仏壇の前に膝をつく。
紫色の座布団ににじり寄り、きちんと正座をする。
線香をあげ、彼は静かに手を合わせた。祖父母に言葉をかけるように、長く。
所作のひとつひとつが丁寧だった。
御岳の祖父母に心を寄せてくれているのが、判った。
息が、わずかに深くなる。
薄暗い部屋で、落ちたうなじだけが白かった。
手を合わせたまま一礼し、木崎が顔を上げる。
遺影を見つめ、座布団から静かに降りた。
「お爺さん、嶽と似てる。鼻が高いところとか」
御岳は鼻梁に指をやり、わずかに笑う。
「よく言われた」
仏間を出た木崎が、居間の奥を見て言う。
「縁側もあるんだね」
天気もいい。そちらがいいかと、並んで腰を下ろした。
風が吹く。木崎の髪が揺れる。
庭を眺める横顔を、黙って見る。
「福寿草が咲いてる。木瓜もきれいだね」
御岳は彼が指さす先を追う。
黄色い花と、薄い桃色の花をつけた細い木があった。
「そういう名前なのか」
頷くと、木崎が少し笑って肩を揺らす。
「嶽って、花の名前知らない人?」
「あんまりは」
「草むしりしに来るって言ってたけど、雑草以外も抜いてない?」
「その可能性はある」
木崎が声を立てずに笑う。その音が、庭よりも近い。
「こんなに素敵なお庭なのに、もったいない」
木崎の言葉に言い返そうとしたとき、スマホのアラームが鳴った。
御岳は黙ってそれを切る。
説明はしない。
目を伏せる。
あの日に逝った者たちを、失われたものを、ただ、悼む。
かさぶたを掻くように、忘れられない記憶の蓋が、わずかに疼く。
けれど、日々は続く。
細く息を吐いて目を開ける。
隣を見ると、木崎が静かに目を閉じていた。
理由を聞かない。問いもしない。
ただ、並んでいる。
胸の奥で微かに軋んだ何かが、ゆっくりとほどけていく。
「木崎……」
名を呼ぶと、声がわずかに掠れた。
木崎が目を開ける。
小さく頷き、視線を庭へ戻す。
「本の買取の時だけじゃなく、またここに来てもいい?」
いつも通りの、柔らかい声だった。
「嶽ひとりに草むしりやらせるの、不安」
冗談めかしているが、逃げ道は作っていない。
御岳は庭を見る。福寿草が、陽を受けている。
ここに、また来る。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうに言う。
木崎が、少しだけ笑った。
その笑い方が、もう他人のものではない気がした。
笑みの残る頬に、考えるより先に手が伸びた。
気づけば、手のひらでそっと包んでいる。
ぬくもりが、いつもよりもひどく近い。
「嶽……?」
浅い息とともに、惑うような視線が上がる。
目は逸らさない。
「まつげ、ついてる」
「あ……」
木崎の視線が落ちる。
親指の先で、頬に触れたそれを払う。
「取れた」
それだけ言って、留まりたがる手を、静かに引いた。
指先に、体温が残る。
「ありがとう……」
風が吹く。木瓜の細い枝が揺れる。
隣の距離は、変わっていない。
――けれど、もう同じではない。




