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まだ、言わない

御岳(みたけ)さん」

 あと一時間でジムが閉まるという頃になって、木崎がやってきた。

 彼はあれから、執筆の手が止まるたびに浮かびにやってくる。

 家にこもりきりだと、日付感覚も曜日感覚もなくなるからちょうどいい気分転換になるらしい。

 御岳はカウンターで顎を引いて、彼に言う。

「閉館の放送鳴ったら、声掛けに行きます」

 木崎がほどけるように笑う。

「ありがとうございます」

 彼の口調も、呼び方も、ジムの中では今までと変わらない。

 他のスタッフや利用者の手前、御岳の立場を慮ってくれているらしい。

 その距離感が、彼らしいと思う、けれどほんの少しだけ、物足りなく感じる自分がいた。

 業務の手を止めぬまま、その物足りなさの理由を時折考える。

 けれど自分が知るどんな言葉もうまくは当てはまらない気がして、御岳は水温記録表のファイルを音を立てて閉じた。

 閉館放送が流れ、御岳は水質調査用のサンプル採取容器と点検表を手に腰を上げる。

 ロッカーで帰り支度をする利用者に挨拶し、プールへ向かった。

 案の定、木崎はまた浮いていた。

 四肢から力が抜け、最初に見た時よりもずいぶんと体を水に預けられるようになっている。

「閉館放送、鳴ったぞ」

 採取容器に水を取りながら声をかける。

 ばしゃんと大きく、水音が鳴った。

 ひゅっと鋭く息が鳴る音がして、浮いていた木崎が苦し気に胸を押さえるのが見えた。

 そのまま彼が、咳き込んで沈む。すぐに頭が浮かんでこない。

 大きな泡だけが浮かんでくるのを見て、御岳は採取容器をプールサイドに投げ捨てていた。

 からん、という乾いた音。御岳が、プールの縁を蹴った。

 飛び込む水音が消えぬうち、御岳の体が水を切る。

 息継ぎせずに、泳いだ。木崎のもとまで、まっすぐ。

 プールの中央の一番深いところに、胸を押さえて沈んでいる木崎の姿を見つけた。

 彼の脇の下に手を入れて、底を蹴って引き上げる。

 水音を立てて同時に顔を出し、御岳は焦って青い顔の小説家に呼びかけた。

「木崎」

 軽く頬を叩くと、彼が薄っすらと目を開け、咳き込む。

「……ごめ、僕……」

「いい」

 御岳はほっと息を突き、水を飛ばして首を振った。

「浮いてろ」

 それだけ言って、木崎の脇の下に手を入れ直して浮いた体を支え、プールサイドへ導いていく。

 木崎の体をプールサイドに引き上げてから、御岳も上がった。

 切れ切れの息を繰り返し、薄い肩を揺らす男を濡れない場所に座らせて、御岳はその背に手を添える。

 俯いていた木崎が、顔を上げた。視線が合う。いつものまっすぐさとは違う、縋るような視線だった。

「俺はいい。息だけしろ」

 丸くなった背中を撫で、声をかける。

 震える背が、いつもよりも小さい。

「呼吸だけに集中しろ。ゆっくりでいい」

 切れ切れに浅い息を吐く木崎に、落ち着いた声を渡した。

 胸元で握りしめられた手を取って、自分の呼吸を教えるように濡れたジャージの前に導く。

「四数えて吸って、六だけ吐け。深く、ゆっくり」

 乱れていた呼吸が、御岳の声と息遣いに導かれるように徐々に落ち着いていく。

「もう……大丈夫」

 掠れた声で言った木崎に頷いて、御岳は一枚だけ棚に残ったタオルを取りに行き、彼の肩にかけてやった。

 立ち上がるのに手を貸して、胸を守るように背中を丸めた小説家をロッカールームに促す。

「病院、行くか」

「ううん、たまにこうなるだけだから」

 ロッカールームのベンチに腰を下ろして、木崎が首を振る。

 濡れた髪から、細かなしぶきが飛んだ。

「たまに、こうなるのか」

 乾いた声が、微かな心配の気持ちより先に出た。

 木崎は微かに口元を緩めて、微笑みとも、諦めともつかない表情を覗かせる。

「慣れてるから」  

 何でもない事のように言う彼が、少し痛々しくて、御岳は視線を迷わせた。

 肩からかけたタオルの前を掻き合わせる彼の指先の、冷たさ。

 呼吸に合わせて上下する、細い鎖骨。

 もし自分があの場にいなければ。

 もし間に合わなかったら。

 そんな想像をしてしまって、胃の底が冷たくなった。

「もう、平気だから。着替えて、出ますね。ごめんなさい」

 立ち上がる木崎に手を差し出しかけて、御岳は指先を宙に留める。

「これ、使ってください」

 ロッカーを開けた木崎が、フェイスタオルを御岳に差し出してきた。

「……ありがとう」

「こっちこそ、ありがとうございます」

 頭を下げた男から借りたタオルで顔を拭いて、御岳は彼に背を向けながら言う。

「着替えたら、ロビーで待ってろ。家まで送る」

 答えを聞かず、ロッカールームを後にした。


 閉館作業を終えて、木崎と共にジムを出る。

 木崎の呼吸は、幾分か落ちついていた。

 シャワールームで絞っただけのまだ濡れたジャージ姿で車に乗り込もうとすると、木崎が「これ」と少し湿ったバスタオルを差し出してくる。

 ありがたく座席に敷かせてもらい、エンジンをかけた。

「道、案内しろ」

 路上に出る前、短く問う。

 駅方面ではなく、ジムの向こうだとは聞いていたから、先に出したウインカーの音が響いていた。

「三つ先の交差点、右に曲がった先……」

 隣から帰る声に頷き、車を走らせる。

 二つ目の信号で車を停車させた時、木崎が静かな車内にぽつりと言葉を落した。

「……自然気胸って、知ってる? 肺に穴が開く病気」

「……聞いたことはある」

 元ダイビングインストラクターの御岳は、スキューバダイビングが禁忌な病気のひとつとして、知っていた。

「それ、二回やってて。一度目は会社員だった時と、二度目は三十になって小説家になってから」

 いつも人の目を見て話す木崎が前を向いたままなことに気付いて、御岳は俯いたその横顔に視線をやった。

「次、また再発したら手術だって、言われてる」

 彼は前に抱えたバッグに視線を落としたまま、乾いた声を漏らす。

「……そうか」

「昼間は、平気なんだけど」

 声の震えを押さえようとするように、木崎が短く息を継ぐ。

「夜中になると、急に自分の息の音が気になって」

 さ迷った視線が、短く御岳を捕らえた。

「寝てる間に、息ができなくなったらどうしようって、たまに思う」

「……木崎」

 信号の赤が、深夜の空気に沈む。

 返す言葉が見つからないまま、信号が変わり、車を出した。

 三つ目の交差点で曲がってから、御岳は低く声をかける。

「この先、どっちだ」

「……二つ先の角のマンション」

 御岳はゆっくりと車を走らせ、木崎の言った場所で車を止めた。

「ありがとう」

 シートベルトを外した木崎が、助手席のドアに手を伸ばしかけた手を止める。

「……よかったら、上がっていって。タオルと着替え、貸すから」

「……助かる」

 それだけ言って、御岳はエンジンを切った。


 部屋の鍵を開けながら、木崎は「散らかってるけど」と言った。

 だが上がった部屋は、男の一人暮らしにしては片付いている。

 ただ、ワンルームではないらしいのにリビングにベッドが置いてあるのが目を引いた。

 御岳がベッドを見ていると、バスルームからタオルを持ってきた木崎が頭を掻く。

「本当は奥が寝室だったんだけど、今はそっちが書斎になってる」

 本が増え、ベッドがリビングに押し出されたということらしい。

 礼を言ってタオルを受け取り、御岳は濡れた頭を拭く。

 見るともなく、壁のカレンダーに記された「通院」の文字が目に入った。

 テーブルの端に揃えられた、薬袋にも。

「着替え、これ、使って」

 奥の部屋から、木崎がスウェットの上下と買い置きらしい下着を手に戻ってくる。

「……脱衣所、借りる」

「うん、濡れた服、これに入れて」

 差し出された衣類とビニール袋を受け取って、脱衣所に入った。

 洗面台に置かれた歯ブラシやハンドソープに、木崎の生活の匂いがあった。

 濡れた衣類を脱ぎ、タオルで身体を拭いながら、御岳は木崎の胸を守るように少し背中を丸めて歩く癖を思い出す。

 彼の浅い呼吸。時折軽く咳き込む姿。

 車内で聞いた、「再発」と「手術」と言う言葉。

 少し小さいスウェットに袖を通して、洗面台の鏡に映った自分を見る。

 その胸像に、この部屋で一人、息を詰まらせて喘ぐ木崎の姿が一瞬、重なった気がした。

 胸の奥が痛んで、御岳は眉根を寄せて鏡から視線を逸らす。

 髪を掻き上げかけた手を止めて、額に手のひらを当てた。その手が、ほんの少し冷たい。

 御岳は息をつき、濡れて重くなった衣類を押し込んだビニール袋を手に脱衣所を出た。

「やっぱりサイズ、合わないね」

 リビングで木崎は、テーブルにコーヒーのマグカップを置きながら御岳を見て笑った。

「よかったら飲んで、あったまっていって」

 促され、小さな座卓に向かい合って腰を下ろす。

 梅の花が咲き始めた時期とはいえ、夜は冷える。あたたかな湯気と少し強い暖房が、木崎の気遣いだった。

「お腹、空いてない? 簡単なものならできるよ」

「……いや」

 首を振って、コーヒーに口をつける。喉に落ちる苦みが、さっき自覚した胸をわずかに疼かせる。

 目の前の男がいなくなることを思うと、指先から力が抜けそうになる。

 取っ手を握り直し、言葉もなくカップを傾けた。御岳の視線だけが揺らがなかった。

 彼は手許のカップから顔を上げない。

 コーヒーの湯気が消えかけたころ、木崎が少しためらいがちに口を開いた。

「……さっきみたいに、なると。夜が、少し怖い」

 そこで初めて彼は顔を上げ、御岳と視線を合わせた。

「でも、嶽がいると落ち着く」

 御岳は視線を逸らさずに、彼が微笑むのを見る。

「いてくれて、よかった」

 噛み締めるような言葉に、もう一度、胸の奥が痛んだ。

 湯気が、ふっと途切れた。

 静かな室内に、二人分の呼吸だけが残る。

 御岳は息を吸いかけて、途中で止めた。喉の奥がひりつく。

 ——恋だ。

 認めた瞬間、胸の奥のざわめきが静まった。

 もう目を逸らす理由はなかった。

 御岳は黙って、コーヒーを飲み干す。

 「俺もだ」とは、まだ、言わない。

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