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遠くへ行かない

 高速を降りて、しばらく下道を走る。

 海岸に向かう通りに車を走らせながら、御岳(みたけ)は軽く目を細めた。

 変わったな。

 最後に来てから、もう一昔以上経っている。

 新しく宅地造成された周囲を見回して、助手席の木崎が小さく言った。

「この辺りって……」

 どんな言葉を飲み込んだのか、聞かずとも分かった。

 御岳は、軽く顎を引く。頷いたつもりだった。

(がく)も……?」

 掠れた問いに、御岳のステアリングを握る指先にわずかに力がこもった。

「……俺は、家も職場も仙台市内の内陸だったから、ほとんど被害はなかった」

 だからこそ、と言う言葉が、御岳の喉の奥に引っかかる。

 前を向いたまま答える。

ステアリングを操る手がほんの少しだけ揺れた。

 信号待ちで車を止める。木崎の視線が横顔に刺さった。

「嶽、呼吸……」

 言われて、ほとんど息を止めていたことに気が付く。

「息、あげる」

 そう言って、木崎が助手席からわずかに身を乗り出した。御岳の頬を、彼の吐息がかすめる。

 あたたかく浅い呼気に、御岳の呼吸がほどけた。

 徐々に息を吸う感覚が戻ってくる。

 木崎はただ、ゆっくりと浅い呼吸を繰り返した。触れもしなかった。

 嫌ではないのに、御岳の胸の奥がざわめく。

「木崎……」

 前を向いたまま、視線だけを彼の方に向けて呼ぶと、彼の体が離れた。

「ごめん……」

 彼は少し俯いてそれだけ言うと、前を向いた。

「……いや」

 信号が赤に変わって、御岳はアクセルを踏む。

 木崎は顔を横に向けて、窓の外を見ている。御岳は彼の方を見ぬように、少し深い息をついた。

 車内に、音はなかった。


 冬の朝の海岸は、無人だった。

 海は静かに、ただそこにあった。

 もっと心が揺れるかと思っていたのに、御岳は静かに、それを眺める。

 砂浜を踏む足の重さ。潮の香りのする風。打ち寄せる波音。

 どれも体が、まだ覚えていた。

 波打ち際の手前で、足を止める。半歩遅れてついてきていた木崎が、隣に並んだ。

 彼は黙って、海を見ていた。

 その広さも、波しぶきの白さも、潮騒も、すべてを刻み付けようとするように。

 声をかけなければ、動かない気がした。

「水、触ってみたら」

 彼ははっとしたように御岳を見て、小さく頷く。

 木崎は靴先が濡れるのも構わずに一歩前に出て、海水に手を浸した。

「冷たい……」

 小さく呟いて、御岳を振り返った。

「それに、足元の砂が、動く。変な感じです」

 笑った彼に、御岳も笑った。

「入っても、平気ですか?」

 御岳はわずかに顎を引く。

「深くまで行かなければ」

 木崎が波打ち際まで戻ってきて、脱いだ靴の中に靴下を丸めて入れた。ズボンの裾を、軽くまくり上げる。

 コートのポケットに両手を突っ込んで立っている御岳に、彼は一度笑いかけると、海の方に一歩ずつ足を踏み出す。

 彼の細い足首が海水に浸ったところで、大きめの波が来た。

 バランスを崩しかけた木崎に、御岳は反射的に水しぶきを上げて走り寄っていた。

 よろめいたコートの肘を掴んで、細い体を支える。

 驚いた顔の木崎と、一瞬、目が合う。

 御岳は彼が姿勢を立て直したのを見て、すぐに手を離した。

「びっくりした……」

「こっちの台詞だ」

 靴のまま海に入ってしまった御岳は、重くなった足を一歩引いた。

「海って、思ったより動くね」

 御岳は何も返さず、海水を蹴立てて波打ち際に戻る。木崎も少し遅れて、ついてきた。

 波音が、誰もいない海岸に寄せては返す。

「波の音って、嶽の声に似てる」

 御岳はちらりと木崎を見て、すぐに目を足元に向けた。

「波の方が深い」

 短く言って、浜辺の一角に顔を振り向ける。

「嶽、照れてる?」

 脱いだ靴を拾い上げた木崎が、少しからかうような声を向けてきた。

「寒いだけだ」

 一度だけ肩をすぼめて、御岳は木崎が並ぶのを待った。

「あの辺、座って待ってろ。自販で何か買ってくるから」

 浜辺を視線で示し、木崎が頷くの見て駐車場にあった自動販売機に足を向ける。

 一歩ごとに濡れた音がして、靴がすぐに砂にまみれた。

 御岳は濡れたジャージの裾を少しめくり上げて、駐車場に戻る。

 色褪せた自販機に歩み寄って、硬貨を飲み込ませた。

 あたたかいココアを二本買い、木崎の元へ戻る。

「ほら」

 缶を差し出すと、「ありがとう」と言って彼がそれを受け取る。

 触れた指先が、冷たかった。

 御岳は何か言いかけ、けれど黙ったまま木崎の隣に腰を下ろす。

 プルタブを開けて口をつけようとすると、隣でアルミの鳴る軽い音が数回響いた。

 指先がかじかんでいるのか、プルタブを引けないらしい。

 御岳は黙って彼の手から缶を取る。代わりに、自分が手にしていたそれを差し出した。

「まだ口付けてないから」

 冷たい指で受け取った木崎が、「……ありがとう」と小さく言う。

 御岳は答えず、缶を開けてココアを一口飲んだ。吐いた息が、微かに白くなる。

 指先をあたためるように両手で缶を包んでいた木崎も、ココアに口をつける。

「美味しい」

「……ああ」

 それ以上の言葉はなかった。

 潮騒を聞きながら、並んでゆっくりとココアを飲んだ。

 口の中の甘さが、潮の香りを少し強くさせた。

 隣を見ると、時折り缶を傾けながら、木崎はまっすぐに海を見ていた。

 その目はどこか遠くて、手と喉だけが動いているかのようだ。

 御岳はちょっと笑って、前を向いた。波に揺れる海面に、日差しが砕けていた。

 しばらく、軽くなった缶を指先で掴んで、木崎がココアを飲み干すのを待った。

 彼が缶を大きく傾けて白い喉を上下させたのを見て、その横顔に声をかけた。

「車に戻ろう」

 隣に御岳がいることを思い出したように顔を向けて来た木崎は、「うん」と言って立ち上がる。

 砂を払って、駐車場に足を向けた。

 車のドアを開けて、すっかり砂まみれのスニーカーの爪先でアスファルトを数回蹴る。

「嶽、これ使って」

 助手席に上体を突っ込んでいた木崎が、バスタオルを座席越しに御岳に放った。

 彼にタオルを借りるのは、これで二度目だ。

 御岳は短く礼を言い、靴先の砂を落としてから車に乗り込む。

少し湿り気のあるバスタオルで濡れた足を拭っていると、木崎もすぐに助手席に座った。

「タオルがあってよかった」

 彼はそう言って自分の足を拭いたフェイスタオルをバッグにしまい、靴下を履いた。

 御岳は濡れた靴下を丸めて、水気と砂を拭いた足先を濡れたスニーカーに突っ込む。

「タオル、もういい?」

「洗って返す」

 手を伸ばして来た木崎に言って、御岳は借りたバスタオルを後部座席に置いた。

「いいのに」

「次、会った時に返す」

 小さく笑った木崎を見てから、車を出した。


 暖簾を出したばかりらしい小さな定食屋に、ふたりで入った。

 揃って刺身定食を注文して、待つ間に木崎が問いかけてくる。

「嶽はもともと、こっちの人?」

「ああ。生まれも育ちも、仙台」

 お絞りを置いて答えると、木崎がすこし意外そうな顔をする。

「地元の人かなと思ってた。御岳って、御嶽山から来てるのかと」

「親父の実家が向こう。もう誰も住んでない家だけど」

「空き家なの?」

 水を少し飲みながら頷く。

「休日に、少しずつ片付けてる。夏場は草むしりしたり」

「ひとりで?」

「ああ。放っておいたら、荒れるだろ」

 そうだね、と木崎が相槌を打った。

 厨房から、食器の触れる音がする。

 あまり待つこともなく、定食が運ばれてきた。海鮮がいいと言っていた木崎が、盛り合わせの刺身を見て嬉しそうな顔をする。

 箸を取って手を合わせる動作が、揃った。御岳はそれに気づいて口元をわずかに緩める。

 木崎はさっそく刺身を醤油につけて口に運んでいた。

「すごく新鮮で美味しい」

「よりゃよかった」

 目元を微かに和らげて、御岳は味噌汁に口をつける。

 細い体のどこに入るのか、木崎はよく食べる。

刺身を一切れずつ味わいながら、白米がもう半分以上減っている。

「木崎は歳、幾つ?」

 尋ねると、小鉢に箸を向けていた彼が手を止めて顔を上げた。

「三十五。嶽は?」

「三つ上」

「落ち着いてると思った」

 納得したように頷いた木崎が、小鉢のひじき煮を食んで視線を壁に向ける。

 御岳は見るともなくその視線を追った。黒板に書かれた、『岩牡蠣』という文字が目に入った。

「牡蠣って、美味しい?」

 問いかけてきた木崎に、マグロに醤油をつける手を止めて答える。

「好き嫌いはある。食ったことないなら、食ってみれば。まだ入るだろ」

 笑うと、木崎が頷いた。

「すみません、岩牡蠣をひとつ」

 御岳は軽く手を挙げて、テーブルを拭いていた店員に声をかける。

 すぐに殻付きの牡蠣が運ばれてきた。木崎がそれに視線を落とし、顔を上げる。

「どうやって食べるの」

「レモン絞って、そのまま口付けて啜る」

 レモンを絞った木崎が、少し怖々とした様子で殻を手に取った。

 顔に近づけ、御岳を見る。

「匂い、濃いね」

 御岳が軽く頷くと、彼は目をつぶって牡蠣を啜りこんだ。

 目を開いて口を動かし、飲み込んだ後、御岳に言う。

「海だ……」

 木崎が手にしたままの殻から、雫が一滴、皿に滴る。

 彼の反応に、御岳は口元を緩めた。

 食べ終えて店を出ると、木崎がちょっと髪に手をやった。

「なんだか、少し重い気がする」

「潮風に当たってたからな」

 車に向かいながら、短く言った。

 軽く頷いた木崎は一歩遅れてついてきて、すぐに隣に並んだ。

 

 高速に乗ってしばらく車を走らせていると、木崎の頭が前に傾いた。

 車の揺れに合わせて幾度か舟をこいだ彼は、がくりと頭を落してから、はっとしたように顔を上げた。

「ごめん、僕、寝てた?」

 目を擦りながら木崎が言うのに、御岳は少し声を和らげる。

「寝てていい」

「ううん、起きてる」

 首を振って、木崎は座り直す。

「無理するな」

 御岳が言うと、彼がヘッドレストに頭を預けて視線を向けてきた。

「無理してないけど、嶽の運転、安心する」

 そう言って、彼は少し言葉を切る。

「体から力が抜ける。……一緒に浮かんだときみたいに」

 御岳は短く視線を向けて、微笑む木崎を見た。

 すぐに目を前に戻す。ステアリングを握った手が微かに揺れた。

「……そうか」

 それだけ、言った。

 しばらく車を走らせる間、木崎は時折うとうととしかけながらも起きていた。

 車を減速させ、SAに入る。

「トイレ、いいのか」

「うん、僕は平気。行ってきて」

 停車させた後、そんな短い会話を交わして、御岳は手洗いに向かう。

 戻ってくると、助手席の木崎がヘッドレストに深く頭を預けて寝息を立てていた。

 御岳はそっと運転席のドアを閉め、シートベルトをつける。

 傾いた隣の頭を、黙ってわずかに、自分の肩に呼んだ。

 預けられた重みが、嫌ではない。

 御岳は前だけを見たまま静かに車を出し、高速の合流地点に向かわせる。

 深くに行かない。それで済むと思っていた。



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