1−1 避暑地の出来事 (1)
その夏、私は浮かれていた。
それまでは長女のお古しか与えられなかったのに、十二才から数カ月を過ぎた夏に、初めて自分用のサマードレスを買って貰えたんだ。だから、六月に嫁いだ長女を除いた家族四人と使用人と共にやって来た避暑地で、何か良い事があると信じていた。
グラントン公爵領の北部の山脈のふもとは王国でも有名な避暑地だから、夏には人が集まる場所だった。金持ちの上位貴族なら別荘くらい持っているだろうけど、我が家は伯爵家にしては貧乏な田舎貴族だから、貴族用ホテルに泊まっていた。
ホテル街の近くの繁華街を、薄い水色のサマードレスを着て侍女のニアを連れて歩く。避暑地に来たからと言って特別なお小遣いが出る様な余裕は我が家にはないから、主に見ているだけだけれど。
夏の高原は涼しかった。我が家、カーライル伯爵家の領地も田舎で王都よりはずっと涼しいらしいけど、我が家の領地である南部より北にあるこの地は避暑地に相応しい空気の冷たさがあった。
大通りに面した多くのお店は道路側に軒が伸びていて、その下に客寄せ用の商品を並べていた。もちろん、ここは貴族相手の繁華街だから、商談は建物の中でするのだろうけど。
私は田舎の領地で暮らしているから、ある程度お金持ちを相手にする商品が並んでいるのを見る事も滅多にない。だから見ているだけで楽しかった。木彫りの彫刻を並べた店があり、表面を炙ったらしい黒っぽい彫刻など普段なら地味で興味を引く事もなかったが、こうして領地の外で見ると物珍しい物に見えた。一方で金属細工を並べた店があり、普段なら見ない筈の物も眺めてみると何かの価値を感じた気がした。
そんな風に初めて買って貰った私だけの為の服を着て、見知らぬ避暑地の通りを歩く。それだけで今までと違うひと時に思えた。大人になった様な気がしていたんだ。
初日の午後は繁華街を見て回ったが、二日目の午前中は街を出て北側の山に少し入って見たかった。高原の珍しい草花や水辺の生き物が見れないか、田舎者はそういう物にも興味があったんだ。だけど、街から出ようとする私を侍女のニアが制止する。
「お嬢様、街から出ると不届き者がいるかもしれません。街中を歩きましょう」
「普段も領地の裏山に登っているけど、誰も何も言わないじゃない」
「領地とここは違います。貴族街の外では間違って出て来る子女を狙う者もおりますので、護衛を連れずに出る事は領主様から止められております」
「そう…」
ここまで言われて無理に外に出たいとも思えない。思う様にいかないからと言って唇を尖らせるほど子供じゃないし、仕方なく今日も繁華街を歩く事になった。
昨日と代わり映えのしない風景の中を歩いていると、果物の匂いが漂ってきた。そちらに歩いて行くと、路上にいくつもテーブルが並べられた店先で、下男が果物を絞ってジュースを作っている様だった。匂いにそそられて注文をしたくなったけれど、大人の男女がテーブルに座ってジュースが運ばれるのを待っているのを見ると、自分がここでジュースを頼むのは場違いに思えた。
少しの間そちらを見ていた私は、周囲への注意が足りなかった様だ。侍女のニアが声を上げても、何が起きているのか咄嗟には理解が出来なかった。
「お嬢様!」
ニアの声は少し強かったから彼女の方を見てしまったけれど、彼女が注意したかったのはそっちじゃなかった。
ニアに向かってくるっと回った私の背中に何かがぶつかり、よろめいた私は両膝と両手を地面についた。その私の頭上に声がかかる。
「ごめん、大丈夫?」
小奇麗に外見をまとめた、年上の少年が私に手を伸ばしてきた。せっかくだからその手を取って、引き上げてもらった。少年は少しはにかみながら言った。
「ごめんね、前をよく見ていなかったんだ」
「ううん、こちらも不注意だったから…」
「そうだね、お互い気を付けよう。それじゃ」
右手を軽く上げて少年は歩き去った。
彼の綺麗に切りそろえられた黒髪の襟足が目に入って、ふらふらとその後ろ姿を追ってしまった。後ろから眺めていると、彼は少し遠くを見ている様で、お店や商品は殆ど見ていなかった。彼が頭を巡らした時に見える頬は白っぽかったし、濃い色のスラックスに包まれた足は細長かった。
彼の後を少し距離を開けて歩いている私に、侍女のニアが小声で話しかけた。
「お嬢様、そろそろ宿に戻りましょう。昼食に遅れます」
…昼食には帰る様に言われていたんだ。私は後ろ髪を引かれながら宿へ帰った。
夏らしく避暑地で始めてみます。