3-5 全国大会の定理 ~決勝 東東京・ピタゴラス一郎 戦~(後編)
木下は、すっかりこの「場」を支配していた。
明智がすっかり”ピタゴラス・イチ”こと木下一郎に押されている。
「ヒデト思うんだけど……正露丸ってさ、すっげぇ苦くてやべえ……舌でビリビリ痺れてんじゃん……これって人が口に入れるものなのかよ……やばすぎるって……」
「えっ、何で飲まなかったの……?」
審判をしている朱麻里が思わず突っ込みを入れる。
「実は……フンッ!!」
バシュン……
10秒が経過する直前に突如、歩が動き出し、すべり台を滑降していくところだったが、明智の絶妙な舌づかいによりお茶の水圧でジェット噴射のように発射した正露丸によって、盤外への飛び出しを抑えられ、滑り台の周辺を破壊しその場に駒が散っている。
思わず驚く木下。
「なっ……!! あの茶色いタマに、”死のピタゴラス・スライド”が破られただって……?!」
2ターン目 先手 明智ヒデト:0点
2ターン目 後手 ピタゴラス一郎:0点
「”SAY☆LOW☆GUN☆”!!……それじゃあさ、振りだしと行こうか……」
明智がニヤリとしながら洒落た所作で指パッチンをするが、微妙に音が掠れて鳴らない。つまり明智は指パッチンというものができない。
「そうですね……ならば、永世名人の名誉のために、堂々とやりましょうか……! セイッ!」
木下はやや眼を見開きながら、崩れた駒から角と桂、歩を引きずりながら指を傾け、同時に盤上に残った正露丸を指の一部で潰して茶色い線を作り、防波堤のようにする。
決して太くない指ながら凄まじい筋力、そして正露丸を潰すという胆力の持ち主だ。
そして駒が盤外に落ちる頃には、正露丸特有の異臭が全体に広がっていた。
(やべぇ……ヒデト思うんだけど、イチって控えめに言ってやべぇって)
2ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角桂歩 8点
3ターン目 先手 明智ヒデト:0点
「ひぃっ……くさっ……!!」
朱麻里が正露丸から発せられる異臭に唖然として袖で口を押さえている。
「ヒデト思うんだけど……こういうの汚い……さっきから汚くない? ヒデト悪いけど、そこの正露丸のように、本気で潰すから……悪いけど」
「さぁ……? やってみるならタダですからね、どうぞ」
悪臭がたちこめる盤上、明智は冷静に駒を4枚、山を取り残すようにして奪い返した。
3ターン目 先手 明智ヒデト:銀桂歩2 6点
3ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角桂歩 8点
<こちらまで正露丸の悪臭が臭ってきましたね……それにしても100年以上の歴史と伝統のある薬、これだけ臭いがきついとは私も思いませんでした。普通はオブラートを使うか、糖衣のものを買いますからね!>
柴田もあまりの正露丸臭さにドン引きのようである。
後手になり、木下が着実な指づかいで自分で組んだ山から駒を引き剥がそうと手を伸ばした瞬間、閃光が走る。
「”YAMAGATA☆光のページェント”!!」
明智がペン型LEDライトを木下の眼をめがけてスイッチオン、これには思わず木下も手を引っ込めた。
「”暗黒のイージス・シールド”!」
木下が眼鏡の横のボタンを押すと、シャッターのように眼鏡がサングラスのように黒い複雑な皮膜で守られ、光のページェントを無効化した。
「何ッ……! シット! ヒデト思うんだけど……これじゃ殆ど時間稼ぎにもならなかったって……」
「残念でしたね……その程度のギミックはこれまでに10回ぐらいやられてるので、対策済みですよ……物理的・心理的に優位に立つためにも対策は完璧にしないと」
木下は山の下を凄まじい指さばきで一気にほじくり、金、香、歩2枚の4枚を手にした。
3ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角金桂香歩3 14点
4ターン目 先手 明智ヒデト:銀桂歩2 6点
<”光のページェント”を弾いた木下名人、さらに攻める! しかし、これだけやってよく崩れないなと思いますよ……!>
「ヒデト思うんだけど……まだ終わってない……苦しいけど、まだ、もう少しならいけるって……!」
「堕ちる……堕ちろ! この「山」にはどの角度から攻めようとも「スイッチ」が仕込まれている……!」
明智も木下からの煽りに負けず山の下の部分を一気に掘削し、さらに金に銀。歩3枚の5枚の駒を手にした。
4ターン目 先手 明智ヒデト:金銀銀桂歩5 13点
4ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角金桂香歩3 14点
「これ、どこかで見たことあるんだけど、”浅草の金色のアレ”じゃない? あのビルの上に乗っかってるやつさぁ……アレ、なんていうんだっけ……」
「……ですね、これは”浅草のアレ”だって、東東京の僕なら当然思いますよ。ところで、攻める部分が無いみたいですが、またここは物理学対決といきますか……?」
バチバチに睨み合う二人……5秒ほど顔を突き合わせ、緊迫した時間が過ぎていった。
やがて、木下は指を伸ばしながら、一瞬でも崩れの「番狂わせ」ができる時間調整ができないかと、あちこちの隙を伺っているような動きを見せる。
――ふと、木下は横から何らかの圧力がかかっているのに気付き、思わずそちらを見てしまう。
「”水面から顔を出して人の多さに驚くタマちゃん”」
「ぶ、ブフッ……?!」
ガシャ、ガラガラ――
明智が指を使ってまで変顔をしていたので、思わず指の位置がずれ、浅草の”アレ”が倒れ、あわや場外というところまで行ってしまった。
4ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角金桂香歩3 14点
5ターン目 先手 明智ヒデト:金銀銀桂歩5 13点
<全く似ていない! ちなみに明智選手の表情は顔にヒゲのような落書きがあるだけで、あの愛嬌あるアザラシには全く似ても似つきません! しかし、これは完全に意表を突かれた! 木下名人、つい噴き出してしまった――!>
「ヒデト思うんだけど……勝負中に余所見しちゃ、いけないよね……じゃあこれ、持っていくから……悪いけど」
「うぐっ……まさか物理的防御はできても、心理的防御が足りなかったか……?!」
明智は木下が山を崩して5秒が経過するや否や、王、飛2枚、金2枚、香、歩3枚をかっさらっていった。
5ターン目 先手 明智ヒデト:王飛飛金金金銀銀桂香歩8 46点
5ターン目 後手 ピタゴラス一郎:角金桂香歩3 14点
「オーケー! それじゃあ、次でヒデトのラスト☆ナンバーにしようか……」
<これで決まったか! と……おもいきや、あと5点届いていませんでした! さぁ、明智選手がラスト☆ナンバー宣言をした! 恐らく次の一手が決まらなければ、木下名人の永世は遠のいてしまいます。逃げる明智に追う木下! さぁ……どうなるのか……?!>
明智がクロックを叩くと同時に木下は動く。
指に突然ポケットから取り出した接着剤を塗ったかと思うと、玉を中心に10cm以上はあろうかという中指で届く限りの駒をさらっていった。
「奥義! バカボンド・オン・ザ・ボード!!」
「何っ……?!! まだ奥の手……あるの?!」
明智は一瞬面食らったが、その直後に木下も動揺していた。
接着剤を指に塗るのは危険なラフプレイ……それだけのリスクを犯しつつも、上手く回収ができない。
木下は今度は指を少し上に挙げ、二段目の駒の回収を続けた。
(これで……勝った……!!)
脇に逸れてしまった駒もあったが、そこに取り残された駒は僅か4枚の歩。
これで全ての駒を落とせば、木下の勝ちは確定するのだ。
「あぁ、まさか、こんなのが「決勝戦」だなんて……」
駒が次々と落ちていく。
朱麻里がため息をつく間にも駒が容赦なくどんどん落ちていく。
「勝負ありだ……! これで優勝ですよね……?!」
5秒を切る警告アラームが鳴ったあたりで、明智が指で指摘する。
「あのさ、ヒデト思うんだけど……それって、まだ「落ちてない」って……」
「えぇっ……?!」
接着剤に包まれた玉が木下の中指から離れない。
それも間の悪いことに、重力のエネルギー源となる他の駒が既に落ちてしまっており、指の関節複数にまたがって粘着している。
「”ザ☆粘着ボンド”……ヒデト思うんだけど、そういうのってさ、性格に出てる。粘着質な奴ってさ、必ずその仕返しを喰らうよね……アメリカでもそう……そういう奴ってさ、必ず嫌われるし、モテないよ」
「審判……! どうなんでしょうか?!」
時間切れのアラームが鳴り響く中、木下が懇願するような眼で朱麻里を見る。
「いえ……ルールでは「盤外に落とす」とあるので、その駒は他の指に触れずにそのまま落ちないとダメです」
ブンブンと指を振るも、全く落ちない玉将に囚われ、木下はこれにて得点が終了し、時間切れで負けも確定した。
5ターン目 後手 ●ピタゴラス一郎:角角金金銀銀桂桂桂香香香歩6 36点(時間切れ負け)
6ターン目 先手 〇明智ヒデト:王飛飛金金金銀銀桂香歩8 46点
「そんな……まさか五段の明智ヒデトに……こんな未だに思考のメカニズムが理解できない相手に僕が負けるなんて……」
「イチ、ヒデト思うんだけど……対戦相手のことを知るのも戦う上で重要だって、どっかの国の偉い人が言ってたと思うの。あと……思うんだけど、イチって別にヒデトを馬鹿にしてる訳でもない。ちゃんとヒデトがどんな手使ってくるか、リサーチできてるじゃん。そういう意味ではさ……ヒデトから見てイチって全然雑魚じゃなくて、結構な強敵だとさ、そうやってリスペクトできるんだよね……」
「あ、ありがとう……ございます、明智さん」
「だからさ、また対戦の機会があったら……ヒデトに向かって全力でかかって来いよ。必ずヒデトがまたボコボコにしてやるからさぁ……」
<優勝は名人を4年間維持し続けた東東京代表の”ピタゴラス・イチ”こと木下名人を下した、埼玉代表の明智ヒデト五段でした! これにより、まず日本一のトロフィーが授与されます。授与者は、NSKKの名誉会長にして、2026ミラノオリンピック大会組織委員会の役員でもある、豊臣蘇芳氏から贈られます!>
「おめでとう……!」
この豊臣蘇芳、実は豊臣琉花の伯父にあたる人物で、国会議員である。
「あぁ……はい、センキュー……」
明智は将棋の玉が逆さまになったものが上に付いた奇々怪々なトロフィーを微妙過ぎる表情で受け取った。
<そして豪華賞品として、協会誌「KU・ZU・DO・MO」の表紙に1回載る権利、同誌に1回コラムをかける権利、それから山形牛10kgが贈呈されます。ありがとうございました! 私からも天下の名勝負を見せていただけたこと、感謝いたします! この柴田健太郎感激であります!!>
パチパチパチパチ……
「そう……表紙載れるのって名誉だけど、山形牛、新幹線で食べてきたし、そもそもこんなに貰っても冷凍便でヒデトハウスに贈るしかないし、普通にこの宿にあと2日ぐらい泊まりたいって……」
ちなみに明智はこれをこの後、ホテル内のスタッフにクール便で自宅に送ってもらうことにした。
そして、時勢は2026ミラノ・コルティナオリンピックに向かっており、まさかの「将棋崩し」がその競技に選ばれる絶好の機会というものが、明智たちに少しずつ迫ってきていたのである――
※飛び道具※
「相手を傷つける」行為でなければ自分の手番であれば認められている。ただし、音が鳴れば自分の手番は終わり、さらに駒を一枚でも外に出してしまえば即失格になるという諸刃の剣。




