九、キサラのいない一日
「おはようございます、ナツヒ様」
「……なんで今日もお前なんだ」
「今日も円弧先生はいません」
「いつ帰ってくるんだ」
「今日の夕方頃に帰ってくると思います」
ずいぶんと明るくなったな、と坂城は考えながら、部屋に入る。
部屋の雰囲気とは逆に、暗い顔のナツヒが、不機嫌そうに坂城を見てきた。
「夕方……」
「ええ。一週間空けた自宅を確認してくるとのことです。彼女からこちらの薬を預かっていますので、お飲みください」
「……そこにおいてくれ」
ナツヒは坂城をちらりと見て、目をそらす。
坂城に興味はないようだ。
それを気にする必要もなく、坂城は寝台横の机に近寄った。
「……ナツヒ様、この薬は」
「……」
坂城は、薬を置こうとした寝台横の机を見て目を見張る。
ナツヒに問うても、答えは返ってこない。
机の上にある二回分の薬。
薬の量を考えると、昨日の昼と夜分だろうか。
「ナツヒ様」
坂城がナツヒを見ると、不機嫌そうな顔でこちらをにらんでいた。
「ナツヒ様」
「あいつが帰ってくるまで飲まない」
「は……?」
「あいつは俺の治療を放棄したんだ。だから俺も治療を放棄する」
「彼女は放棄したわけではないですよ」
「患者がここにいるのに」
ナツヒはそういってうつむく。
その姿は駄々をこねているように見える。
「ナツヒ様はなぜそこまで円弧先生を気に入っているんですか?」
「別に、坂城には関係ないだろ」
「先日の円弧先生に対する発言は、私も当主様に報告しなければなりません」
「勝手に報告すればいい。俺は彼女と結婚するだけだ」
「円弧先生の気持ちは無視してですか?」
「というか、坂城はなんでそんなにあいつを気にしてるんだ」
ナツヒの赤い瞳が鋭さを増し、坂城を射貫く。
それは妖怪特有の圧力。
坂城は本能に従い、息を詰めてしまう。
それがナツヒの考えを助長したようだ。
「まさか、おまえもキサラを狙ってるのか!」
「ち、違いますよ!私には妻子もいますから。円弧先生を心配しているだけです。同じ、人間として」
「……」
『同じ人間として』
その言葉に納得したのか、ナツヒの圧力はすぐに収まる。
「…それならいいんだ」
ナツヒからキサラを気に入った理由が聞ければ、薬を飲まない理由も聞けたかもしれない。
だが、これ以上キサラの話に踏み込むのは危ない。
少なくとも、赤居とか、他の鬼がそばにいるときの方がいい。
坂城は話題をナツヒとキサラに戻すことにした。
「ナツヒ様。助言にはならないかもしれませんが、私から一言よいでしょうか」
「…聞くだけだ」
「私は思うのですが、最初から『結婚』ではなく、私のような、『ナツヒ様の専属医』がはじめの提案としては妥当だったのではと」
「……考えておく」
「それはともかくとして、お薬は」
「考えておく」
話が進まない。
今日の薬は諦めるほうが良さそうだ。
「では私はこれで。今日は円弧先生が帰ってくる予定ですので、それまでお薬を飲むようにお願いします」
「帰ってきたら、すぐに俺に顔を見せるようにいっておけ」
「……承知しました」
次期党首とはいえど、この家の中では権力を持つ存在。
病が治るにつれて、その妖力は戻ってきているのだと、赤居が言っていた。
坂城は頭を下げて、静かに部屋をあとにした。