陥落寸前
子供の頃。
猟犬として飼い始めたのに、性格があまりにも臆病過ぎて。
結局、猟犬ではなく、ペットとして飼われることになった大型犬がいた。
名前はバーム。
毛色がバームクーヘンみたいだったから、つけられた名前だ。
バームはなぜかユーリには懐かず、私によく甘えてきた。
ソファに座り、お菓子を食べていたり、読書をしていると。
バームはその大きな体をソファに乗せ、私に膝枕をするよう要求した。
そして今。
バームがいるわけではないのに。
私はソファに座り、膝枕をしている。
誰を?
それは……ライル!
私はうっかり、「ライルと離れ離れになることは、不安です。でも騎士団長としてすべきことあるのですから、そこは仕方ないこと。ただ専用ラウンジに行くぐらいなら、この部屋で一緒にお茶を飲みませんか」と本音を吐露してしまった。
そしてこれがトリガーになってしまう。ライルは王都に着いてからずっと維持してきた騎士団長モードを、解除してしまったのだ。
それは言うなれば、甘々新婚溺愛旦那様モードだろうか。
「自分と離れ離れになるのが……不安なのですか……! 一緒にいたいと、願って下さるのですか……!」
問い掛けるライルの碧い瞳は、眩しい程にキラキラとしている。今さらなかったことにはできず「そ、そうです!」と半ばどうにでもなれと返事をすると。
「分かりました。妻の望み、叶えます……」
そう言った後のライルは、最初は一緒にお茶を飲んでいるだけだった。
ただ、ピッタリくっつくように隣に座り、目の前のスイーツよりも私ばかり見るので、大変緊張する事態になっていた。
私が緊張していると分かると「そんな風に緊張するアイリも、愛おしいです」と言い出し、私を骨抜きにしていたが。
ふわっと愛らしくあくびをした。
私は王都で何か成すべきことがあるわけではない。
薔薇石英を宣伝する活動があるが、そこまでのことではなかった。
対してライルは戦場へ出るわけではないが、騎士団長としての重責がある。
旅の途中から完全に騎士団長モードになり、そこからはいつも以上にありとあらゆることに気を配り、神経が張り詰めていたと思う。
だが私とソファで寛ぎ、ついその緊張の糸が緩んだ。
そこで出てしまったあくびは、無防備で可愛らしい。
「ライル、少し横になっては? 昼食までまだ時間がありますし」
「! 失礼しました。レディの前であくびをしてしまうなんて」
「生理現象ですから、気にしないでください。とても可愛らしいあくびでしたよ」
そこでベッドかソファで横になることを勧めると、ライルは頬をぽっと赤くしてリクエストしたのだ。「膝枕をして欲しい」と。
その時のうるうる上目遣いの瞳。
あの瞳を前にして「え、ダメです」と言えるわけがない。
それにそもそもライルに膝枕をする――お断りの理由がない。
ということでドキドキしながら膝枕をすると……。
ライルは「アイリ……」と甘々の声で私の名を呼び、膝枕されている姿勢のまま、私をぎゅっと抱きしめる。もうその様子はあの大型犬のバームそっくり。しかもライルは「頭を撫でてください」「頬に触れてください」と甘えまくる。それに応じると、私の手の平にキスのシャワーをふらし「好きです、アイリ」「愛しています」と、惜しみなく愛の言葉を口にする。
つまり甘々新婚溺愛旦那様モードが、突如として始まってしまったのだ。
焦れ焦れ状態のまま、私が月のものに突入した。そうなるとライルは甘えたい気持ちをぐっと抑えることになる。だが私が本音を思いがけず吐露することで、ライルの抑えていた気持ちが溢れ……。
というか。
今のこのライルはどう考えても、私のことを大好きだ。好きで、好きで、好きでたまらない。そんな状態なのだ。それなのに白い結婚……! しかも高級娼館に足を運んでいる。
そこでもしや、と思う。
ライルは騎士団長。
幼い頃より騎士見習いとして男社会で生きている。
もしかすると性の目覚めが女性ではなく、男性だった……とか……?
男性を抱くことはできる。
でも女性は……。
私のことは嫌いではない。
好き……だと思う。
でも初めて好きになった女性。
男性の時のように、上手く体が機能しないかもしれない。
でも日々その欲求はある。
だから高級娼館に足を運んだ。
高級娼館なら、金持ちのありとあらゆるニーズに答えようとする。
当然、娼婦だけではなく、男娼もいるだろう。
え、もしかして……。
なぜ高級娼館に行ったのかと尋ねたら、男娼を抱きに行ったと答えるかもしれない。
え、どうしたらいいのかしら!?
「アイリ」
ぎゅっと私に抱きつき、大人しくしていたはずのライルが上半身を起こし、顔を近づける。
「自分といるのに。心ここに在らずでは?」
「そ、そんなことは」
「アイリの頭の中、自分だけで埋め尽くしたいです」
ライルが鼻を摺り寄せ、さっき飲んだミントティーの爽やかな息が、私の唇にかかる。
ああ、ダメ。
この距離、キスをしてしまいそう。
焦れ焦れ作戦は続いている。
今、キスをされたら――。