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貴方と奏でるワルツ

作者: 藍田ひびき

「ごめん、クレア。今日の約束はキャンセルさせてくれ。急なお誘いでね」


 片手を上げて謝罪する婚約者を、クレアはげんなりとした面持ちで眺めた。


「またなの、ハーバート。先週もそう言って約束を破ったじゃない」

「すまない。ケネットのお嬢さんのお誘いなんだ。ケネットさんには寄付をたくさん頂いているだろう?機嫌を損ねるわけにはいかないんだよ。次は必ず埋め合わせするから」

「……わかったわ」

 

 クレアの答えを待たず、ハーバートは入り口へと走っていく。

 そこには一人の女性が待っていた。ウェーブのかかった豊かなブロンドの髪に、蠱惑的な肢体を見せつけるかの如く身体の線を出したイブニングドレスを纏っている。


 あれがケネットのご令嬢とやらだろう。

 ハーバートへ腕を絡ませ、その豊かな胸を押しつけるご令嬢。その態度といい服装といい、随分と大胆な女性のようだ。

 腕を組んで歩き出した二人の背中を見守りながら、クレアは溜め息を吐いて帰り支度をした。


 

 * * * * * *


 

 帰宅したクレアは、作り置きしていたスープを温めなおして口にした。

 スープと共にパンをかじるが、一人で食べる食事は味気なく感じる。

 

 久しぶりにハーバートと夕食を共にする約束だったから、昨日からスープを仕込んでいたのだ。鶏肉はいつもより良いものだし、パンだって奮発して白パンを買ったのに。

 全部無駄になってしまった。


 女一人で食べ切れる量などたかが知れている。半分は、近所に住む幼馴染のところへ持って行った。


「ハーバートの奴……最近ずっとじゃないか。いくらなんでも酷過ぎる。俺から注意しようか?」

「いいのよ。彼のファンのおかげで、楽団の収益が上がっているのは事実だわ。それにコンサートも近いのだもの。仲間内でギスギスしたらいけないでしょ」

 

 幼馴染のコーディは憤慨したが、クレアは気にしていない風を装って彼を宥めた。

 それに注意して貰ったところで、無駄なのだ。どうせハーバートはまた同じことをやらかすだろうから。



 この街には、小さな楽団がある。

 クレアとハーバートはそのオルグラン楽団に所属するチューバ奏者だ。ちなみに、コーディは指揮者かつ楽団長でもある。


 クレアの父親もチューバ奏者だった。

 父が家で練習していた状景を、今でも時折思い出す。父の奏でる調べがとても好きだった。それはとても大らかで滑るように心へ入り込む音色で。そんな風に演奏できるようになりたくて、チューバ奏者を目指したのだ。


 オルグラン楽団の入団試験を受け、合格できたときは本当に嬉しかった。一番に喜んで欲しかった相手は、もういなくなっていたけれど。父の背中を追う道は、今でも続いている。

 

 そして入団した先で、クレアはハーバートに出会ったのだ。彼はクレアより一年先に入団した先輩だった。


「クレアの奏でる音は明るいな。特にワルツがいい。聞いていると元気が出る」

「ハーバートの音は艶があるわ。昨日弾いていたセレナーデ、すごく切なくて心に響いたわ」

「そう?君にそう言われると悪い気はしないなあ」


 小さな楽団だから、チューバ奏者はクレアとハーバートの二人しかいない。自然と、二人の距離は縮まった。



 ある時、コーディが新しい演目を取り入れたいと提案した。

 最近、隣街に新しい楽団ができたらしい。派手なパフォーマンスを取り入れて演奏する彼らは大評判だった。一方で、オルグラン楽団の演奏を聞きに来る客は目に見えて減っている。

 

 今までは馴染みの客向けに、代わり映えのしない楽曲しか演奏してこなかった。このご時世、それだけではやっていけないとの彼の言に、皆が賛成。めいめいが練習へ取り組むことになった。


 新しい曲の中にはチューバがメインの曲も幾つかある。

 ソロのメインはハーバートで、サブがクレア。

 二人はコンサートに向けて猛練習した。


 そのおかげか、演奏は大好評。

 翌日の新聞にはこう書かれた。

 「天才チューバ奏者現る」「オルグラン楽団の救世主」


 翌日からオルグラン楽団のコンサートには、沢山の客が押し寄せるようになった。

 彼らの目的はハーバートだ。彼のチューバは、いつも観客を沸かせてくれる。


「君と共に演奏すると、いつもよりずっと上手く吹ける気がする。きっと俺たちは相性がいいんだ。結婚しないか?」

「ええ、もちろん。嬉しいわ、ハーバート」



 楽団員たちから祝福され、ハーバートと婚約したクレア。

 婚約者を支えるべく、クレアはサブとして一生懸命チューバを吹いた。彼が演奏しやすいように、彼を目立たせるように。

 

 ハーバートは人気奏者になり、ファンがつくようになった。その多くは女性だ。

 サラサラの金髪に長身、ちょっと垂れた目がセクシーだと騒がれているらしい。


 そのうちに、彼はファンの女性たちと飲み歩くようになった。今夜のように、約束を破られることなど日常茶飯事だ。


 当然クレアは怒ったし、コーディや楽団員たちも彼を諫めた。

 だけど楽団のためにファンサービスをしているんだと言われれば、何も言えなくなる。

 実際、彼女たちは楽団へ多くの金を落としていたのだ。チケットは毎回たくさん購入してくれるし、パトロンになるよう実家へ頼んでくれた娘もいる。


 楽団のためだ。自分だけが我慢すれば良いと、クレアは自分を納得させた。

 だがハーバートの問題行動は他にもある。練習を休みがちになったのだ。

 

 どんな名演奏家であろうとも、日々の練習を怠ればその腕は落ちる。

 一日休んだら、三日練習しなければ元のようには戻らない。だから一日たりとも練習を欠かしてはならない。


 それが父の教えだ。

 

 クレアはその教えを忠実に守り、どんなに疲れていても基礎練習だけは毎日行っていた。


 見るに見かねて、ハーバートへ注意しようとしたこともある。

 それは近々本番を控えた日で、楽団全員で集まって音合わせをすることになっていた。久々に参加したハーバートと共にクレアはチューバを吹いたが、ハーバートがミスばかりするので全然進まない。流石に黙っていることはできず、クレアはいつもよりキツい口調で婚約者を窘めた。

 

「ハーバート。貴方、流石に練習をサボり過ぎよ」

「今日はちょっと調子が悪かっただけさ。次はうまくやるから大丈夫だって」

「次って……。本番に『次』は無いわよ。お金を支払って来て下さるお客様に、そんな言い訳をするつもり?」

「煩いなあ。お前なんて、俺のサブしか出来ない落ちこぼれじゃないか。偉そうな口を叩くな!」


「ハーバート、流石にそれは言い過ぎだぞ」とコーディが口を挟む。


「楽団長として、今の言葉は看過できない。クレアに謝れ」

「この楽団は俺で保っているようなものだ。コーディ、お前こそ口の利き方に気をつけろ」


 悔しいけれど、彼の言うことは事実だ。

 ハーバートの機嫌を損ねて、次のコンサートに出ないと言われてしまったら……。誰よりも困るのは、楽団長のコーディだ。


「いいのよ、コーディ。私が言い過ぎたわ。ごめんなさい、ハーバート」

「ふん。分かればいいんだよ」


 それからますますハーバートは増長した。


 以前はチューバを吹くのがあんなに楽しかったのに、今はそう思えない。ただ義務として吹いているだけ。

 その原因が何であるか、クレアは薄々分かっている。だけど心に蓋をして、見ないふりをした。




「ハーバート!今日の演奏は何だ。気を抜くにもほどがあるだろう!」

「あんまり怒鳴るなよ、コーディ。二日酔いで頭が痛いんだ」


 その日の演奏は散々だった。

 ハーバートはソロパートでミスを連発。あまりの酷さに観客は顔を見合わせていた程だ。


 そもそもコーディが今日のためと考えた演目に、文句を付けてきたのはハーバートだ。


 チューバのソロは3曲の予定だった。

 それでもチューバが優遇されていることに変わりはない。だが常に自分が目立たないと気が済まないハーバートは納得しなかった。

 自分が得意とするセレナーデやノクターンばかりを演らせろと主張する。やむなくチューバの演目を増やし、ハーバートの望む曲を選んだのである。


「自分をメインにしろと言ったのはお前だろうが。それを……」

「このくらい、構わないじゃないか。観客は喜んでいただろう?」


 確かに観客席の前面に陣取る彼のファンたちは、ミスなど気にしなかった。むしろ「ハーバート、頑張ってえ~」と黄色い声を上げていたくらいだ。


「そりゃ、お前のファンは演奏じゃなくハーバートを見に来てるんだからいいだろうさ。だけど、昔から応援してくれてるお客様だっているんだ。その人たちはお前じゃなく、この楽団の演奏を聴きに来てるんだぞ」

「煩いうるさい!俺がどれだけこの楽団に貢献してきたかも忘れて、細かいことをチクチクあげつらいやがって。もういい。こんなところ、辞めてやるよ!」


 感情的になっているだけだと、皆は彼を放っておいた。

 だが一週間後、ハーバートは本当に楽団を辞めた。ケネットの紹介で隣町の楽団へ入ることが決まったと自慢げに語る彼に、皆開いた口が塞がらない。


「俺はこんなしょぼい楽団に収まる器じゃなかったってことだ。向こうの団長には『君の噂は聞いている。是非うちへ来てくれ』と言われたよ。クレアもどうだ?俺のサブ扱いで、一緒に連れて行ってやってもいいぜ」

「私はオルグランを離れる気はないわ。ハーバート、考え直して」


「それじゃあ、ここでお別れだな。クレア、お前との婚約は解消する」

「えっ……どうして!?」

「待て、ハーバート!お前が辞めたいのは分かった。だけどクレアとの婚約まで解消する必要はないだろう」

「俺の価値を理解せず、チンケな楽団に縛り付けようとする妻なんて要らない。俺へ言い寄る女は他にもたくさんいるんだ。考えてみれば、クレアにこだわる必要もなかったんだよ」

「貴様っ……!」


 ハーバートへ殴りかかろうとするコーディを、クレアと楽団員たちは必死で押さえ込む。ハーバートはそれを勝ち誇った笑みを浮かべて眺め、悠々と立ち去った。


 思いとどませるべく、何度かハーバートのもとを訪れて説得しようとしたクレア。だが彼は聞く耳を持ってくれない。

 終いには「そういう上から目線でくどくど言うところが、前から鬱陶しかったんだよ」と家から放り出され、諦める他はなかった。


 ずっと彼へ尽くしてきたつもりだ。仕事でも、プライベートでも。

 だけどハーバートにとっては、簡単に捨てられるものだったのだ。

 その事実に、クレアは打ちのめされる。


 彼女を襲った困難はそれだけではなかった。オルグラン楽団が経営難に陥ったのである。


 人気奏者のハーバートを失ったのだ。彼目当ての女性ファンやパトロンが一気に離れたのだから、当然の結果ではある。

 それでも以前からのファンがいれば何とか保てただろう。だが彼らの多くはハーバートの独壇場に嫌気が差し、楽団から遠ざかってしまっていたのだ。


 コンサートを開いても、観客席はガラガラ。年単位で契約していたコンサートホールからは、契約打ち切りを仄めかされた。

 

 コーディは金策に走り回ったが大した成果は上がらず、給料すら満足に払えない。「悪いけどこちらにも生活がある」と辞める団員が相次いだ。



「次の復活祭に賭けようと思う」


 残り少なくなった楽団員を集め、思い詰めた顔のコーディがそう宣言した。

 

 この街は90年ほど前、大水害に見舞われたことがある。人々はそこから逞しく立ち上がり、今の街並みを築き上げた。

 それを讃えるため、水害の起きた日に復活祭が開かれるのだ。その日は多数の観光客はもちろん、街の重鎮や領主様も訪れる。

 オルグラン楽団は毎年、この祭でコンサートを行ってきた。そこで成功を収めれば、落ちた評判を取り戻せるかもしれない。


「そこでだ。演目のうち、2曲はチューバのソロにする。クレア、君にお願いしたい」


 ここまで人数が減ってしまうと、演奏できる曲は限られてくる。残っている楽器奏者のソロを前面に打ち出すのは当然といえよう。


「でも私、ソロをやる自信がないわ」

「大丈夫だ。君の得意なワルツ系の曲を選ぶ。それに、君の腕は俺が良く知ってる。今の君はハーバートと同じくらい……いや、練習をサボりまくっていたあいつより、君の方が上だと思う」

「分かったわ。この楽団を存続させるためだもの。ソロ演奏、頑張ってみる」



 復活祭に向けて、クレアはひたすら練習に打ち込んだ。仕事を終えて帰宅してからも。時には寝食を忘れることもあった。

 

「クレア、顔色が悪いぞ」

「ちょっと寝不足かも」

「今日は休んだ方がいいんじゃないか?」


 頭がふらふらするような感触。だけどこれから音合わせなのに、休むわけにはいかない。「大丈夫」と言い掛けた刹那――、ぐるんと視界が回る。

 「クレア!?おい、クレア!」というコーディの叫び声を聞きながら、クレアは気を失った。



「ん……ここは……」

「目が覚めたか。気分はどうだ?」


 深い海の底から引き上げられたかのように、意識が戻ってくる。

 クレアは自分の部屋に寝かされていた。横には焦燥した様子のコーディが座っている。彼がここまで運んでくれたのだろう。


「良くはないわね」

「その様子だと、食事もあまりとっていないんだろう」

「当たりよ。ちょっと根を詰めすぎたみたい。迷惑をかけてごめんね」


 否定しようと思ったが止めた。この幼なじみは多分、全てお見通しなのだ。


「なかなかうまく吹けなくて、つい無理しちゃったわ。体調管理も出来ないなんてプロ失格ね」

「そこまで意地になったのは。あの男のせいか?」

「そうね。それもあったかもしれない」


 ハーバートの勝ち誇った顔が脳裏に浮かぶと、イライラした。それを脳裏から追い払うべく、練習へのめり込んでしまったのだ。


「すまない。君が傷ついていると分かっていたのに……。無理にソロなんて頼んでしまった俺が悪い」

「謝らないで、コーディ。楽団長として貴方の判断が間違っているとは思わないわ。それに実のところ、そんなに傷ついてないのよ」


 コーディの髪色と同じブラウンの瞳が揺らいだ。その瞳に痛ましそうな色を浮かべてクレアを見つめている。無理をしていると思ったのかもしれない。


「本当に本当よ。確かに少しは悲しかったけれどね。それよりも、腹が立つ気持ちの方が大きいの。多分……この恋はとっくに終わっていたんだわ」


 ハーバートが女の子と遊び歩いて、それに怒ることさえ許されない日々。徐々にすり減った恋心は、あの婚約解消の日に消え去った。


 コーディは何かを言い掛けようとしたが、口をつぐんだ。

 二人の間にしばし沈黙が流れる。

 彼が部屋の隅を眺めているのに気づき、クレアはそちらへ目を向けた。そこにあるのは、小さなチューバ。


「まだ持っていたんだな。懐かしい」


 まだ幼いクレアにと、父が買い与えたものだ。毎日、このチューバを吹いて練習した。

 覚え立ての曲を自慢したくて、コーディが遊びに来る度に吹いてみせたものだ。


「子猫のワルツを吹いた日のことを、覚えてる?」

「もちろんだ。俺がはしゃいで、足を怪我したんだよな」


 子猫のワルツは、軽快なメロディーで大人から子供まで人気の曲だ。一見簡単そうに見えるが、アップテンポであちこちへ音が飛ぶため、実はかなり難易度が高い。

 この曲が大好きだったクレアは、何度も何度も練習した。ようやく吹けるようになった時は本当に嬉しかった。早速コーディに聴かせたところ、彼は曲に合わせて踊り出し、転んで怪我をしてしまったのだ。


「あの後、クレアの父さんにこってり叱られたんだよな」


 二人で思い出を語り、笑い合う。子供の頃のように。


 あの頃は、ただチューバを吹いているだけで楽しかった。

 

 どうしてその気持ちを忘れていたのだろう。

 ここのところ、嫌なことばかりで。その気持ちを演奏にぶつけていた。そんな状態で、上手く奏でられるわけはなかったのだ。


「クレア、復活祭は諦めよう。一旦、楽団を閉じてもいいんだ。また一からやり直すことだって出来る」

「駄目よ!」


 今なら、うまく吹ける気がする。

 それにオルグラン楽団は、コーディの父とクレアの父が立ち上げたものなのだ。まだ諦めたくない。


「コーディ、お願い。私にこのままソロをやらせて。何もせずに楽団が潰れるのを見ているのは嫌なの。それで駄目だったら、諦めるから」

「分かった。だけど無理はするなよ。もしまた倒れるような事があったら、今度こそ止めさせるからな」




 今日も街のコンサートホールは満員だ。演奏が終わると、鳴り止まない拍手の音が外まで聞こえてくる。


 復活祭のコンサートは大成功を収めた。


 領主様から「素晴らしい演奏だった。特にチューバの明るく滑らかな音色には、心が震えた」との言葉を貰えたのが、何よりの収穫だ。クレアは誇らしい気持ちでいっぱいになったし、コーディや楽団員たちは感激して泣いていた。


 翌日の新聞には「長い下積みを経て開花した才能」「領主様絶賛、美女チューバ奏者」という文字が踊った。


 オルグラン楽団は以前のような活気を取り戻した。

 今やコンサートを開く度にホールは満員となり、パトロン希望者も多い。おかげで、辞めていった楽団員たちを再度雇うこともできた。


 クレアのチューバをメインに据えるけれど、かといって彼女だけに頼ることもしない。

 コーディはそう宣言した。楽団員たちが大賛成したのは言うまでもない。



「クレア、先に帰っていてくれ。これから打ち合わせなんだ。そんなに遅くならないと思うけど」

「分かったわ。夕食の準備をして待っているわね」


 それからしばらくして、クレアはコーディと結婚した。

 

「幼い頃から君が好きだった。一人前になったら求婚しようと思っていたのに、ハーバートに先を越されて……。あの時はどんなに悔しかったか。一生大事にする。俺と結婚してくれないか」


 楽団員たちは楽器を持ち寄り、結婚式の参列者を楽しませてくれた。


「長年の片思いがようやく実ったか。おめでとう、コーディ!」

「クレア、今度こそ幸せになれよ!」


 皆に祝福された新しい門出は、クレアにとって何よりも大切な思い出となった。


 二人は現在、クレアの家で暮らしている。

 次の演目について議論し合ったり、コーディの好きな曲を吹いたり。時折、幼い頃の思い出を語り合うこともある。

 そんな、ささやかで幸せな毎日だ。



「この楽団に戻ってやってもいい。最近、羽振りがいいらしいじゃないか。俺がいれば、今よりさらに人気が出る」


 ある日ハーバートが楽団を訪れた。前にも増して偉そうな態度だ。


 無論コーディも楽団員も、聞く耳を持たなかった。

 皆、知っているのだ。ハーバートが隣町の楽団から追い出されたということを。


 その楽団はオルグランと違って大所帯だったため、腕のいいチューバ奏者は他にもいたのだ。それでも以前のハーバートであれば、何とかやっていけたかもしれない。

 しかし、女たちと遊び歩いてろくに練習していなかった彼の腕は落ちていた。しかも周囲との協調性が無く、自分だけ目立とうとする。

 そんな演奏者は不要と楽団長は判断し、ハーバートを解雇したのだ。


 古巣なら受け入れて貰えると、都合の良い事を思っていたのだろう。だが誰にも相手にされなかったハーバートは、地団駄を踏んで悔しがった。


「チッ!俺だって本当は、こんなチンケな楽団に戻るのは嫌なんだ。後から俺を逃したことを後悔しても遅いんだからな!」


 捨て台詞を吐いて去っていくハーバートを、オルグランの楽団員たちは鼻で笑った。


 しかしハーバートは諦めが悪かった。クレアの家へ押し掛けて、復縁を迫ったのだ。彼に纏わりついていた女たちは、落ち目になった途端に離れていったらしい。


「クレア、君はいつだって俺のことを立ててくれた。あんな薄情な女どもより、君の方がよほど良い女だったと気付いたんだ。やり直そう。俺たち、相性が最高だったろう?」

「相性が良い?そう思っていたのは貴方だけよ。私が貴方に合わせていただけだもの。今はソロでも十分やっていける自信があるわ。それに、私はもうコーディと結婚してるの!」


 ハーバートは「君が他の男を選ぶはずはない!」と言い張り、信じようとしない。無理矢理居座ろうとする彼と押し問答になっていた所へ、コーディが帰宅。ハーバードは怒ったコーディに殴られ、ほうほうの体で逃げて行った。


 捨てた婚約者が、今でも自分を愛していると思っていた傲慢さに呆れる。

 婚約していたときは自信家な所も素敵だと思っていたけれど。

 今となっては彼のどこが好きだったのかすら、クレアは思い出すことができなかった。


 その後のハーバートの行方は分からない。どこの楽団にも受け入れて貰えず、場末の酒場でチューバを吹いている姿を見かけたという話もあるが、本当かどうかは分からない。

 クレアには、もうどうでも良いことだ。



 

 街一番のチューバ奏者が住む家からは、時折テンポのよいワルツの音が聞こえてくる。その軽快な音色に道行く人々の足取りは軽くなり、みなスキップするように家路へと向かうのだった。




 * * * 余談~その後のハーバート  * * *


「つまんねぇ演奏だなあ!」


 酔っ払いたちのヤジがステージへ飛ぶ。ハーバートは罵声に耐えながら、チューバを吹き続けていた。

 

 隣町の楽団から追い出され、しばらく女たちの所を転々としていたハーバート。しかし彼女たちからも早々に愛想を尽かされ、家から追い出された。

 当然だろう。人気奏者どころか働きもせず金をせびる男など、何の魅力もないのだから。

 

 オルグランからも追い払われたハーバートは様々な街を訪れた。そこで楽団を見つけると、自分を入団させてくれと頼み込む。だが彼の演奏を聞くと、楽団の者たちは「悪いが、うちには要らないよ」と首を振った。

 

「人気奏者だったって?その腕でか?随分とレベルの低い楽団だったんだな!」と侮辱的な言葉を投げ付けられたこともある。

 

 ようやく見つけた今の職場は、港へほど近い街にある小さな酒場だ。そのステージで毎晩チューバを吹く。

 客の多くは寄港した船に乗っていた水夫だ。ただでさえ気の荒い男たちに酒が入っているものだから、今夜のように罵声を浴びせられることも多い。

 

 そんな屈辱に耐え、得られる収入はわずかなものだ。その日暮らしが精いっぱいで、楽団にいた頃の華やかな生活を思い出す度に惨めな気持ちになる。

 

「下手くそ!やめちまえ!」

「何だと!音楽の何たるかも知らない低能のくせにっ」


 耐えきれず言い返したハーバートは、怒りに任せて客と乱闘。その場でクビを言い渡された。


「クソっ……!俺は街一番の奏者、ハーバート・マクレイだぞ。どいつもこいつも、俺を馬鹿にしやがって……」


 ふらふらと歩いていたハーバートの耳に、音楽が聞こえてきた。行進曲らしき、テンポの良い音色だ。

 その音を頼りにたどり着いたのは、街の真ん中にある広場。そこで小さな楽団が演奏を行っていた。


 見たことのない連中だ。流しだろうか、それとも祭りか何かで招待されてきたのだろうか?


 昔懐かしいその音に惹き付けられ、ハーバートはしばしその音色に聞き入る。

 曲が変わり、チューバ奏者がメインとなって吹き始めた。女性奏者だ。


 それを見た途端、ハーバートの頭の中はクレアの事でいっぱいになった。


「あの女……俺がちょっと離れている間に男を引き込みやがって。俺より劣る奏者のくせに生意気だ」

 

「きゃあっ」


 女性の悲鳴で、ハーバートは我に返った。

 あの女性奏者が額から血を流している。自分が石を投げたのだと気付いた時には――もう遅かった、ハーバートはその場にいた観客たちから取り押さえられていた。

 

 街の衛兵に引き渡されたハーバートは賠償金を支払うことが出来ず、鉱山での強制労働が課せられた。

 屈強な男たちに混じってツルハシを振るうのは、優男のハーバートにはとても辛い作業だ。慣れない肉体労働に疲れ果て、寝るだけの日々。


 

「兄ちゃん、少し飲まないかい?」


 同僚の男が、酒瓶を片手に声を掛けてきた。

 鉱山の労働者たちは自分のことだけで手一杯で、他人のことなど気にしない奴らばかりだ。そんな中で、この中年男だけがハーバートを気にかけ、何かと話しかけてくる。

 

 渡された酒は酷い味だ。安酒を更に薄めているのだろう。だが、久々のアルコールにひりつくような喉の渇きを潤しながらハーバートは酒を煽る。


「前から思っていたが、何でお前は俺を気に掛けるんだ?」

「んー。兄ちゃんを見てると、他人とは思えなくてな。ここにいる連中は皆ワケありだが、兄ちゃんはスレてないから」

 

 男はぽつぽつと自分の過去を話し始めた。

 

 彼は小さな商店を構える商人だった。妻と子もいた。その平凡な生活に、どこか退屈を感じていたのだろう。商人仲間に唆され、リスクの高い商品を扱い始めてしまった。

 妻は再三危ないから止めた方がいい、今の収入でも十分やっていけると夫を止めたそうだ。だが男は聞く耳を持たなかった。最初はかなりの儲けになったことも、気を大きくしてしまった原因だったろう。羽振りがよくなった男は遊び歩くようになり、娼婦へ入れ込んだ。そんな夫に愛想を尽かし、妻は子供を連れて出ていった。


 その後、商品が大暴落。破産して食うに困った男は盗難に手を染めて捕らえられ、鉱山へと送られたのだ。


「俺のいるべき場所は、嫁と子供のいるあの家だったんだよ。あの時の俺は、そんな当たり前のことに気付かなかった。兄ちゃんもここへ来るまでに色々あったんだろう?帰るところがあるんなら、今度こそ大事にした方がいい」


 その夜、床に入ったハーバートは涙を流した。

 帰る場所なんて無い。自分の居場所はオルグランの、クレアの傍だった。だけど今さらそれに気付いたところで、どうしようもないのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] いくら素質や才能があっても、それに驕って真摯な姿勢や努力を忘れたら、そりゃ当然こうなりますよねっていう。 そうして、かつての栄光にいつまでも縋りつきながらどこまでも転落していくんですよねえ…
[良い点] 思い上がったオトコが制裁され、尽くした女性が、ずっと見守ってくれてた誠実な男性と結ばれたこと☆ [気になる点] 最初の3ヶ所は楽団の名称がオルグレンで、その後オルグランになってます。
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