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軽いノリで風俗店で働き始めた男の話

作者: 鈴木 和音

風俗店を舞台にした物語です。男性スタッフの視点から描いてみました。

  一


中学一年生の最後の登校日。明日から春休みに入るというタイミングで、僕は同じクラスの好きな女の子に、思い切って告白した。通知表を貰い、クラスメイトたちが続々と校舎を後にする中、僕はその子を人通りのない体育館の裏に呼び出した。

「好きです。付き合ってください」

 あらかじめ、何回もイメージトレーニングをしたのに、たどたどしい言い方になってしまった。それでも、僕は勇気を出して告白した。

「ごめんなさい。巻野君の事は、友達としてしか見れない」

 付き合う事が出来たら、春休みは遊園地にでもデートをしに行こうと計画していたが、残念ながら叶わなかった。だが、心配だったのは、二年生になって同じクラスになって気まずい関係になったらどうしようという事だった。

 幸か不幸か、二年生になったら好きな子とは同じクラスにならなかったが、その子と仲の良い親友の、森口由梨という女子生徒と同じクラスになった。

「巻野」

 始業式の翌日、登校途中に後ろから僕の名を呼ぶ声が聞こえたので振り向くと、森口がいた。直接会話をするのは多分これが初めてだが、彼女の存在は一年生のときから知っている。彼女は両親と一緒に住めない事情があり、児童養護施設から通っているとして、学年の間で有名だったのだ。

「あの子にこくったんだって?」

切れ長の目をして、背中まで伸びた髪の森口が、声を弾ませて話しかけてきた。

「うん……そうだよ」

 僕は一年生のとき、森口はよく、僕が告白した相手の子と一緒に下校していた事を知っている。もしかして、あの子がやっぱり考え直した、といった話をしに来たのかと期待したが、その期待はすぐに打ち砕かれる。

「あの子、他の学校に彼氏がいるんだよ」

 由梨から見て、僕は相当がっかりした顔をしていたはずだ。僕の表情を見てとった森口は、ただ一言。

「ばーか」

 鼻で嘲笑い、逃げるように学校へ走って行く。


   ×


 彼氏がいる女の子に告白したからだろうか。クラスの女子は、僕がクラスで学級委員になってすぐ、口々に僕に罵詈雑言を浴びせてきた。

「キモイ」

「菌がうつるから近付かないで」

 面と向かって言ってくるだけでなく、少し離れたところで、僕に聞こえるような声で、「巻野龍(りゅう)(ぞう)ってキモイよね」などと囁き合っている者もいる。

「失礼な事を言うな」と言い返すと、「は? 話しかけてくんな、キモっ」と言われる。ときには不良男子グループのリーダー格が入ってきて、「巻野、女の子をイジメるなんて最低だぞ」と言って、僕の首を絞めてくる事もあった。

「お前みたいな奴が学級委員だなんて、世の中どうかしてるよ」

 タイミングを前後して、あるときなど、ある男子生徒が僕の生徒手帳を奪い取り、僕が取り返そうとするのを、他の複数の男子生徒から羽交い絞めにされ、周囲の者たちがその様子を面白おかしく眺めていた事もある。

 一方、仲が良い男子生徒も数名いた。好きな女の子は誰なのか、クラスで一番美人は誰だろうか、昨日見たドラマに対する考察と今後の展望等々。思春期の頃なら誰もが話すような話題。だがそんな彼らも、周囲の人々が僕を「キモイ」と囁くようになってから、少しずつ僕と距離を置くようになって行った。どうして皆僕を敬遠するのか、僕は理解に苦しんだ。

 イジメは社会的にも大きな問題であり、三学期になると、学年集会でイジメについて先生から話があり、各クラスでも道徳の授業で話し合う事になった。授業ではイジメについて、一人ずつ発表する時間が設けられた。

「身体が小さいとか、運動神経が悪いとか、肌の色が違うとか、家庭環境の違いとか、生まれ持った性質なんて、生まれてくる本人にとってはどうしようもない事です。自分ではどうしようもない事を否定されたら、誰だって傷付きます」

 イジメについて自分の意見を発表する場では、僕は、人が生まれ持った性質を見下す事がどれだけ愚かな事か、という話をした。

「お前が言うな」

「やっぱりキモイ」

先生がいる前では表情一つ変えずに黙って聞いていたクラスメイトたちは、休み時間になって先生が教室から出て行った途端、僕に悪口を吐き捨てる。


 それでも、授業を真面目に受けていた僕は、勉強は得意な方だった。中学三年生のとき、国語の定期考査で出てきた漢字の読み方を解く問題で、「堅固(けんご)」という字が出題されたとき、クラスの中で読み方を正解したのは僕一人だったので、先生に褒めてもらえた。だが、そんな僕の功績すらも、クラスメイトらは「キモイ」と揶揄する。


 都内の高校に進学すると、部活には入らず、休日は地域の街歩きサークルに参加した。都内の隠れ名所を歩いて巡るこのサークルは、親に連れられて参加している小学生を除けば、メンバーの中で僕が最年少だ。社会人の中に混じって交流をしていると、歴史のみならず、学校では学べない大人の世界が垣間見れて勉強になる。体育会系の部活に入っている同級生からは、何の部活もやっていない事を馬鹿にされがちだが、大人の世界を一足先に見ているのだから、自分の方が人として成長していると思っている。

 街歩きサークルでは、列を成して横断歩道を渡る際、最後尾にいる僕が渡ろうとしたときに信号が点滅を始めると、列に遅れてでも必ず立ち止まるようにしている。中学時代、同級生の男子が横断歩道を自転車で渡るとき、信号が赤から青に変わる前に見切り発車をし、信号無視の車にはねられ、足首の可動域が狭小化して、一生片足を引きずるような歩き方になってしまった事があり、それ以来、僕は交通ルール遵守を心掛けるようにしているのだ。

「巻野君は真面目だ」

「今どきの高校生と思えないくらいしっかりしてるね!」

「将来が楽しみだ」

 社会人の参加者は、口々に僕を称賛してくれる。「真面目でしっかりしている」という客観的評価もあり、将来は弁護士を目指そうと思うようになった。

 受験第一志望は偏差値の高い名門大学の法学部。ところが同級生の面々は、「お前が受かるわけない」とか、「こんな奴が弁護士だったら嫌だな」などと、これから受験をする人に向かって失礼な言葉を浴びせてくる。もはや、人権意識の欠片もない。こういう連中を懲らしめるためにも、僕は絶対弁護士になってみせるという意気込みを強くして受験に挑んだ。結果は、第一志望、第二志望ともに不合格。

「ほらな、落ちたろ」

 卒業式の日、同級生らは寄ってたかって、浪人になる事が確定した僕を嘲笑った。そんな中、数少ない友達の一人で、村野という男子生徒だけは違った。

「俺も浪人だよ。来年合格したら、一緒にお祝いしようぜ」

 村野は僕が心を許して話せる貴重な親友だ。三年生になって初めて同じクラスになって知り合った。三年生になって間もないある日の放課後、学校から駅まで一緒にバスに乗って帰るときの事。

「巻野って、下川と仲悪いの?」

 村野の唐突な質問に、僕は首を傾げる。下川も三年生になって同じクラスになり、初めてその存在を知った女子生徒だ。

「いや、話をした事もないけど?」

「さっき、休み時間にお前が廊下へ出て行ったとき。あいつ、お前の事キモイって言ってたぞ」

 一度も口を利いた事すらない人からそんな陰口を叩かれる心当たりがないのは不愉快だが、そういう事実を隠さずに教えてくれる友達の存在はありがたい。

 受験に失敗した僕は予備校に通い、一年後にもう一度受験に臨んだ。今回は去年受けたところよりも偏差値の低い大学の法学部だ。結果はまたも不合格。

 親からは「浪人して良いのは一年まで。二浪してまで大学に行きたければ学費は自分で稼げ」と言われていたので、僕は勉強は続けつつ、予備校に通う費用を稼ぐため、ドラマや映画のエキストラのバイトをする事にした。高校時代、教育実習に来ていた大学生が、三浪して大学に入った話をしていたし、僕は三度目の正直を目指したのだ。

 結果は、またも不合格だった。

 僕は今後の身の振りをどうすべきか考えた。もう一年我慢して再度受験に挑戦するか、それとも、しらばくはバイトの参加日数を増やして貯金を貯めるか。ちょうど、エキストラのバイトは楽しいと感じ始めているところだ。

 ところが、いつものようにエキストラのバイトに参加しているとき、撮影の合間の待機時間に、配布されたロケ弁を他のエキストラと一緒に食べる事があるのだが、撮影でよく一緒になる四十代後半の女性と話をしながら食事をしていたときの事。

「巻野君は最近、撮影で一緒になる事が増えたけど、これからもエキストラ続けるの?」

 女性の質問に、僕は大学受験に三年連続で失敗し、これからどうしていこうか考え中であると答えた。

「どの道に進むにしても、諦めない事が大切よ。私みたいなオバサンでも夢を持って青春してるんだから、巻野君の歳なら、いくらでも可能性がある!」

 彼女は女優よろしく、潤いを満たした瞳で遠くを見つめながら、両手を胸の前で合わせる。

「私はね、そのうち監督の目に留まって女優に抜擢されるのが目標なの」

 エキストラから俳優に抜擢された人がいるという話は僕も聞いた事はあるが、数千人か、もしかしたら数万人に一人の割合ではないだろうか。話を聞いたら、この女性は若い頃に芸能プロダクションのオーディションを何社も受けて全て落ち、それでエキストラになったという。

「結婚も、親になる事もない人生になってしまったけど、いつか私も、大御所って呼ばれるような大女優になってみせるわ」

 人の努力を否定するのは失礼な事だから反論を避けたが、真剣な眼差しで語る女性を見て、僕は強烈な違和感を覚えた。俳優とエキストラは立場が完全に違うし、言うなれば異なる職種だ。このままエキストラを続けるにしても、受験勉強をするにしても、今の生活を続けていたら、僕もこの女性のようになってしまいそうな気がしてきた。




   二


法曹界の夢は諦め、就職する事にした僕は、飲料メーカーの配送ドライバーの仕事に就いた。具体的には、保温庫の付いた二トントラックを運転して、街の至るところにある自動販売機に缶やペットボトルの飲み物を補充していく仕事だ。僕は高校を卒業してすぐに車の免許を取っていて、その頃は普通車免許で二トントラックが運転出来た。乗用車に比べて大きな車体で狭い路地を運転するときは神経を使うが、車の運転は楽しい。

 二十代の後半に差しかかる頃になると、SNSでは続々と同級生の結婚、出産の報告が飛び交うようになった。いずれも中学高校時代、僕を蔑む言動を繰り返していた人たちだ。僕は結婚の気配もないし、会社で出世していけそうな雰囲気も特にない。トラックの運転そのものは楽しいが、同じ作業の繰り返しをするだけの毎日を五年も続ける頃になると、段々飽き飽きしてくる。


 村野と再会をしたのは、僕がそうして働きながら、もうすぐ二十七歳の誕生日が近付くゴールデンウイークの終わりだった。

 いつものように、路上にある自動販売機を開けて、段ボール箱に入った清涼飲料水を補充しているところへ、後ろから男性の声が聞こえた。

「巻野?」

 振り向くと、スーツに淡い黄色のネクタイ姿の村野が立っていた。僕は会社の制服である色つきのYシャツにスラックスで、お互いに高校時代の制服姿のイメージに近い格好だったし、お互い髪も染めていないので、すぐに分かった。

「弁護士になるって言ってたけど、やっぱり現実は甘くないよなぁ」

「弁護士どころか、大学に入る事も出来なかったよ。村野は?」

「俺は一浪した後大学行って、卒業してからは、全国のリゾート地を転々としてるよ。今は神戸(こうべ)に住んでる」

 いかにも自由奔放な生き方をしているような言い方だ。彼は実に活き活きとした顔をしている。高校を卒業するとき、進路が決まらずに不安そうにしていたあの頃とは、まるで違う表情だ。聞けば今日は、地元の友達の結婚式のため、仕事の休みを貰って実家に帰省中だそうだ。

「仕事は何をしてるの?」

 僕が訊ねると、彼は周囲を見回し、近くに人がいない事を確認してから僕に顔を近付け、声が漏れないように口元に手を当てながら、声を低くして答えた。

「今はソープランドで働いてる」

 ちょっと意外な業種の名前に、僕は思わず「えっ?」と驚きの声を上げる。

「ソープランドの男性スタッフは結構稼げるから、金が貯まったら店を辞めてリゾート地に行って遊ぶんだ」

「女性が沢山いる職場って、やっぱり楽しいの?」

 僕もソープランドには何回か行った事があるが、客として遊びに行くのと、スタッフとして店で働くのとでは、やはり見える世界は変わるものなのだろうか?

「興味があるなら、ウチの店で働いてみる? 女の子やお客さんの送迎もあるから、運転が得意なスタッフがいると助かるし」

 待遇を聞くと、僕の今の仕事よりも倍近い収入が見込めそうだ。今の仕事にも飽きてきたところだし、生まれ育った東京以外の街で暮らすのも初めての経験なので、ここで村野と八年ぶりの再会をしたのも何かの縁だし、僕は二つ返事で村野がいる店で働く事にした。




   三


 神戸の中心街から地下鉄に乗って、西へ向かって数駅離れた駅で降り、地上へ出ると、目の前にはちょっとした商店街がある。商店街のアーケードを横目に大通りを歩くと、車の交通量は多いが、人通りが段々少なくなり、そこから一方通行の路地へ入った辺りが、雑居ビルが建ち並ぶ柳町(やなぎちょう)という地域だ。柳町は約一、五平方キロメートルの界隈に、五十件以上のソープランドが存在している。総額六万円ほどで一〇〇分間遊べる高級店から、一時間一万円の所謂格安店まで、多様な店が軒を連ねている。

 僕が村野と一緒に働く事になったのは、大通りから一方通行の路地に入って最初に看板が目に付く「プレシャス」という店だ。

 店の営業時間は朝九時から深夜零時までで、男性スタッフは朝の八時から深夜一時過ぎまで働く。僕は出勤初日に、他のスタッフと同じようにYシャツにネクタイを締めて出勤すると、中山という三十代の先輩スタッフから店内を案内された。三階建てのビルを借り切って営業しているプレシャスは、店の入口を入ると、すぐ右側にエレベーターと階段があり、左側に受付カウンターがある。受付の後ろがバックヤードになっていて、スタッフが事務仕事をする空間だ。エレベーターと受付に挟まれた赤絨毯の廊下を真っ直ぐ進んだ突き当りに客の待合室がある。二階と三階には接客をするための個室が合わせて十部屋並び、泡姫(ソープランドで従事する女性の隠語)の控室は二階の隅にある。店に来た客は、受付のカウンターに並べられた泡姫の写真の中からお気に入りの泡姫を指名して会計をし、部屋へ案内されるまでの時間を待合室で過ごすというわけだ。

 出勤すると、各部屋に汚れがないか、タオルやローション、シャンプーやボディソープの補充漏れがないかチェックする。ムードを出すためなのか、何故かタオルは全て赤一色だ。客の待合室では、客が座る革張りのソファを動かして床に掃除機をかけ、ラックの雑誌を入れ替えたりする。待ち時間に客が読むための雑誌だが、週刊誌や新聞の他、風俗店の情報誌を取り寄せている。

 九時に開店すると、早速二人ほど予約の客が来て、村野をはじめ、先輩スタッフが手際よく案内していた。それからほどなくすると、店の傍に停まった四トンの箱トラックから、運転手がリネンカートを何台か店に運び込んだ。僕と中山はそれを受け取り、二階のリネン室にエレベーターで運ぶ。代わりに、バックヤードにある、使用済みのタオルが無造作に詰め込まれたカートを持って来て、運転手に渡す。中山の説明によれば、このトラックはクリーニングの業者のトラックで、こうして毎日リネンの搬入に来ているという。

「多い日はマックスで一日六十人くらいお客さんが来る事もあるから、常に清潔なリネンを完備しておく必要がある」

 この建物の中だけで、一日に六十以上もの情事が繰り広げられるというのだ。

僕は今までの人生で抱いた女性は一人だけだ。浪人生時代の二年目、予備校で同じクラスだった一つ年上の女性で、同じクラスの人同士の懇親会でたまたま隣の席になり、懇親会が終わった後、「話したい事があるから、二人で飲みに行こうよ」と誘われ、二人で良い店がないか探す事にした。当時、僕は二十歳を過ぎたばかりで、だいぶ酔いが回っていた事もあり、「こっちに行こう」と彼女が歩いて行く方向に黙って付いて行くと、そこはラブホテルだった。その女性とは、それから数回肉体関係を結んだが、彼女が大学に合格し、僕が不合格になった連絡を取り合ったのを最後に、音信不通になった。

 僕は二十七年間の人生の中で経験人数一人だけで、回数も両手で数え切れるほどなのに、ここで働いている女性は、果たして人生で何人の男性と関係を結ぶのだろう?

 僕は中山と一緒に店の入口の前に立ち、客引きをする事になった。客引きといっても、勿論路上へ出ての客引きは禁止されているから、店の敷地の内側に立って、道行く人に声をかけていくのだ。

「可愛い女の子いてますよ! 写真だけでも見ていかれませんか?」

 中山は満面の笑顔で道行く男性に声をかけていくが、大抵の男性は見向きもせずに過ぎ去るか、ちらりとこちらを振り向くだけで、またすぐに前を向いて歩いて行く。

 やがて、濃い緑色のジャンパーを着た、三十代くらいの男性が通りかかった。

「お疲れ様でーす」

 中山はこれまで通りかかった人とは違い、深くお辞儀をしながらそう挨拶をして見送った。ジャンパー姿の男性は、中山に軽く一礼をして去って行く。

「あの人は警察だ」

 男性の後ろ姿が小さくなると、中山は小声で言った。

「私服警官には絶対声をかけたらあかんで。うっかり一歩でも路上へ出て声をかければその場で手錠を掛けられるからな」

「知ってる顔の警察官だったら大丈夫ですけど、知らない顔の警察官が来たら、分からないで声をかけちゃうから、危ないですよね」

「警察官は定期的に人事異動があるから、勿論知らない人が巡回に来る。歩き方、目つき、それから雰囲気で見分けるしかない」

 中山は額に皺を寄せ、声を低くして説明したが、僕にはどうして中山が私服警官と一般の人を見分けられるのか不思議で仕方ない。

 風俗店にやって来る客は、鼻の下を伸ばしたり、目元が垂れ下がったりといったような、見るからにスケベな心理を思わせるような表情で来るのかと思っていたが、意外とそうでもない。白昼堂々と店に来る客は、喫茶店にちょっと寄り道をしに来たくらいの感じで、穏やかな表情のままだ。遊び終えて店を出て行く客に、中山や村野が「女の子はいかがでしたか?」と訊ねると、「はい、良かったです」と、笑顔になる人もいれば、「まぁ、悪くはないよ」といった感じで、特に表情を変えずに帰って行く人もいる。まるで、食堂で食事を終えた感想のような軽い感じだ。

 客が帰ると、すぐにリネン室からベッドシーツとタオルを両手に抱え、泡姫が接客をしていた部屋に行き、次の客が来たときのためにベッドメイクをしていく。部屋に入ると、泡姫が風呂場を水滴一つ残らないように拭き取り掃除をしている間、僕はベッドの上に置かれた皺の寄ったタオル数枚とベッドシーツを取り除け、クリーニングから戻りたての清潔なシーツに取り換える。使用済みのシーツとタオルを両手で抱えると、掌にはジメジメしたタオルの感触が伝わり、水分を吸ったタオルは幾分重い。この水分はシャワーなのか、客の汗か、それとも泡姫の体液か……。階段を下りながら、そんな思考が脳裏を過るが、考えてみると、何やらグロテスクだ。昼休みまでの間だけで、四部屋分のタオルを運んだが、昼休みに近くの商店街の中華料理店で定食を食べたときは、汁物を飲むのに抵抗を感じた。

 深夜十二時。最後の客を玄関で見送ると、村野と一緒に会計の締めを行った。一人で金を数えさせると、かすめ取る者がいるので、必ず二人体制で数えるのだと中山から言われた。


 そのような毎日で最初の一週間を過ごすと、二週目からは送迎車の運転を任されるようになった。出勤すると、七人乗りの、白塗りの国産高級ワゴン車を運転して、助手席に中山を乗せ、十分少々かかるJRの駅前に、泡姫を迎えに行った。

「駅前のファミレスを通り過ぎて二本目の電信柱付近で停車するんだ」

 駅が近付いてくると、中山はそう指示した。言われたとおりの場所に行くと、電信柱の横に、先週僕と一緒にベッドメイクをした泡姫がジャージ姿で立っていた。仕事をしているときの露出度の高いワンピースではなく、青地にオレンジ色のラインが入ったジャージ姿だった。出で立ちだけを見たら、これから部活にでも出かける学生かとも思えるかもしれない。

「おはようございます」

 僕が運転席のスイッチを押して、スライド式の左側後部ドアを開けると、泡姫はそう言いながら乗り込み、右側の座席に座った。それから中山の指示どおり、次の泡姫を迎えに行くため、駅からだいぶ離れた住宅街の一角にある、比較的古いマンションに向かう。中山の話によると、このマンションにプレシャスの泡姫数名と、柳町の他のソープランドで働いている泡姫が複数住んでいるらしい。この日も、マンションの前に行くと、泡姫が一人立って待っていた。こちらもデニムにTシャツという、見た目だけで風俗関係者とは思えなそうな出で立ちだ。

 泡姫はいずれも、車内ではスマートフォンを弄ったりして、比較的リラックスしているように見受けられる。

「巻野さんは東京の人なの? 関西訛りが全然ないけど」

 ある日、ヒナという源氏名の泡姫を迎えに行ったとき、後部座席に座った彼女が訊ねてきた。

「横浜出身だよ。関西の人から見たら、東京も横浜もあまり変わらないかもしれないけど」

「私、横浜行った事ないんだよなぁ。やっぱり地元の風俗では働きづらくて神戸に来たの?」

 店で働いている泡姫の多くは、中国地方や四国地方出身だ。大阪から通勤している泡姫もいるが、神戸で生まれ育ったという泡姫はいない。地元の店で働いていると、知り合いが来てしまう可能性があるからだ。僕が村野の紹介でプレシャスに来た経緯を説明すると、ヒナは「へぇー」と感嘆の声を上げる。

「社会人になってから同級生と一緒に仕事をするなんて、凄い縁だね!」

 そこで、ヒナの声の調子が急に低くなった。

「私は学生時代の友達なんて全員音信不通だよ」

 僕はどういう言葉を返せば良いのか、分からなかった。村野の話では、ソープランドで働いている女性の九割ほどはホストクラブ依存症だという。お気に入りのホストに会うためにホストクラブに行き、お気に入りのホストをその界隈でナンバーワンの売上を達成するホストにさせるために、行くたびに高い酒を何杯も注文し、成績に貢献する。当然、そんな事をしていればお金は消えていく。一般企業の給料では、一ヶ月に稼げる金に限界があるから、短時間でも大金を稼げるソープランドで金を稼ぎ、仕事が終わったらその足でホストクラブに行き、稼いだ金を費やすという生活を繰り返しているのだ。ホストの売上に貢献するために友達を連れ行くケースもあるかもしれないが、そんな生活をしている人からは、友達は次第に離れて行く。ヒナもそんな泡姫の一人だ。

「私は本命のホストを私の力で出世させて、一緒に暮らすんだ。そのために働いてる」

 力強く語るヒナの口調からは、大きな自信が感じ取れる。ホストにしてみれば、自分に貢いでくる女性客はいくらでもいるし、ヒナもそのうちの一人に過ぎないだろう。あくまでも客として貢がされているだけなのに、いつか結ばれると思っているのはいかにも哀れに思えるが、本人はすっかりその気になっているし、僕が立ち入るような問題でもない。第一、僕が窘めるような事を言ったところで、聞く耳は持たないだろう。

「目標が実現出来たらいいね」

僕は適当に話を合わせておく。




   四


 しとしと雨が降っていて、アスファルトがすっかり濡れている朝だった。朝一番で泡姫の送迎を終え、僕は店頭で立ちんぼをしていた。雨も降っているので、屋根が付いている敷地から一歩も出ずに道行く人に声をかけていくが、大抵の人たちは振り向きもせずに通り過ぎて行く。既に他の店に予約をしているのか、あるいはソープランドに用があるわけではないのか。そんな中、別の店で働いている泡姫が傘を差してプレシャスの前を通るとき、「おはよう!」と元気良く声をかけると、彼女たちも元気良く「おはようございます」と返事をくれる。他の地域のソープランド業界は知らないが、柳町のソープランドでは、他店の泡姫が出退勤のために通りかかるときは、元気良く挨拶をしましょう、という呼びかけがされている。どうしてそうなったのかは分からないが、それがこの街の文化なので、僕も従っている。男性スタッフと泡姫という職種の違いはあれど、同じ業界で働いている者同士、店の外で元気良く挨拶をすると、天気は悪くても、いくらか気分が良くなるものだ。

通り過ぎて行く人の中に、黒髪を短く刈り上げた、デニムに白いTシャツ姿の、二十歳前後くらいの見た目の男性がいた。小さい歩幅でゆっくり歩きながら、プレシャスの看板の前で数秒歩みを止めたので、僕は「可愛い女の子いますよ!」と声をかけたが、彼は自信なさげに僕の顔を見てから、黙って立ち去って行く。

 数分後、その男性が再び弱々しい足取りで戻って来た。心細そうに、周囲をキョロキョロ見回している。

「どこか探してるんですか?」

「あ、いや……」

 僕が声をかけると、男性は落ち着かない様子で立ちすくむ。緊張したその表情は、いかにも風俗未体験といった人だろうか。

「ウチの店で遊んで行きますか? 写真を見るだけなら無料ですよ」

 僕は身体を横向きにして両手で店内を指し示し、入店を促した。すると、彼は玄関の段差を踏みしめるようにして上がり、店の中に入って行った。

「ご新規一名様です」

 僕はYシャツの第二ボタンのあたりに取り付けたインカムマイクに向かって話す。すぐに、耳穴にはめた、腰のベルトのインカム本体とコードで繫がったスピーカーから返事が聞こえる。

「ご新規一名様、了解」

 この声は村野だ。受付のカウンターにいる村野は、待機中ですぐに案内出来る泡姫と、これから出勤する泡姫、そして、現在接客中の泡姫があと何分で接客可能かを把握しており、早く案内出来る順番で、泡姫の写真をカウンターの上に客に向けて並べる。

 数分後、接客を終えた泡姫の部屋のベッドメイクをするようにインカムで指示が入ったので、僕はベッドメイクを終え、使用済みのタオルを受付のバックヤードに運んだ。

「白いYシャツの若いお客さん、風俗が初めてだっていうから、取りあえず六十分でリコさんを当てといたよ」

受付に座っている村野が言った。どおりで緊張した表情をしていたのだ。人間誰しも、初めて経験する事に対しては、自信がなく、動きも固くなるものではないだろうか。一方、リコはプレシャスで最年長の二十六歳の泡姫だ。勿論、写真とホームページに掲載しているこの年齢はサバを読んでおり、実年齢は二十九歳。年齢が上の分、若い客にはあまり人気がないが、経験豊富な分、アンケートや口コミではテクニックが高評価だ。

一時間ほど後、立ちんぼをしている僕のインカムに、店内のスタッフから声が届いた。

「お客様お帰りです」

 店内からは、リコと遊んできた男性が、軽い足取りで出てきた。

「いかがでしたか?」と僕が訊ねると、彼は生き生きとした笑顔で白い歯を見せながら「なんかもう、人生で最高の瞬間を経験させてもらいました!」と答えた。声の調子も弾んでいる。店に入って来たときとは別人のようにすら見える。

「リコさんに名刺を貰ったので、絶対また来ます! 年上最高ですわ!」

「是非、またご来店ください。お待ちしています」

 僕がお辞儀をしながら言うと、彼は僕より深くお辞儀をした。

「ありがとうございます!」

 そう言って、彼は胸を張って、最初に来た道を歩いて行った。客から感謝されると、接客をしている者として、この仕事をしていて良かったと思える瞬間だ。


 その日の夜遅く。

 送迎車でJRの駅に客を送り終えて店に戻ると、休む間もなく、今度はラストの接客を終えた泡姫四名の送迎を僕が任された。四名のうち一人はリコだ。他、二名は同じマンションに住んでいる。他店も含め、泡姫が複数住んでいるマンションだ。その二名をマンションの前まで送り、一名は海に近い市内西部。最後に、リコを市内北西部の自宅まで送る。

「お昼前に来た若いお客さん、風俗初体験だったらしいですけど、入って来るときと出て行ったときの表情が全然違いましたね」

 他の三人が降りた後、僕は助手席に座っているリコに話しかける。

「あの子、板前の見習いをしてるんだって。歳は二十歳」

 彼は今日まで、女性の身体を抱いた経験自体がなかったという。

「『初めて』の男の子ってさ、最初は凄い緊張してガチガチで、あの子もやっぱりずっと私のペースだったんだけど、行為が終わって、私が『次はもう少し長い時間でも、自分のペースで楽しめると思うよ』って言ったら、『絶対またリコさんを指名します!』って言って、エレベーターの前で見送るときは、名残惜しそうに手を振ってたよ」

 満足した客ほど、店を出る前にもう一度店内を振り返ったり、入って来るときと比べて躊躇いがちな歩幅で帰って行く。後ろ髪を引かれるような思いという形容がまさに当てはまるような動作だ。


 二週間ほど過ぎた金曜日。板前見習いの男がまた来店した。

「リコさんいてますか?」

 先週とは打って変わって、待ちわびたデートに出かける若者のように軽やかな足取りで歩いて来た。

「リコさんは、本日はお休みなんですが、今日は若くて可愛い子が沢山いますよ」

 こういうとき、次の出勤日を教えるのではなく、別の泡姫を勧めるのが定石だ。借金取りに追われている泡姫は、何の連絡もなしに、ある日突然いなくなる事が珍しくない。やはりリコもホストクラブに通い詰めていると聞いているし、「次回また……」と言って客を帰す事を繰り返していると、そのうち別の店に行ってしまう可能性がある。

「ぜひ、写真だけでもご覧になって行ってください」

 そう言って、僕は店内を指し示して入店を促した。板前見習いは残念そうな顔をしつつ、「じゃあ」と言って入って行く。

彼は前回よりも長めの八十分コースで、プロフィールが二十歳の泡姫を指名した。(もっとも、実年齢は二十四歳だが。)


「いかがでしたか?」

 遊び終えて出て来た彼に訊ねると、彼は「やっぱり俺は、年上がいいっす」と言って、首を傾げた。本当は年上なんだぞ、という言葉の塊が、僕の胸の中で跳躍しているくすぐったさを感じつつ、「次回は是非、ご予約してお越しください」と言って見送った。

それ以来、彼はすっかりリピーターになり、毎月給料が入るたびにプレシャスに来店した。あらかじめ電話でリコを指名した上で、四回目くらいからは、来店する際は香水の匂いを纏って来るようになった。電話指名料金は二千円を追加で貰うが、彼は毎月予約して来店した。彼のように、他の泡姫に比べて人気が低い泡姫のファンは、風俗店としては助かる。人気がない泡姫は、出勤しても控室で時間を潰すだけで、売上がなかなか上がらない。日によっては、控室で過ごすだけで一日が終わってしまう事もある。一方、人気がある泡姫は、複数の客とオーバーブッキングが数回続くと、その客は他の店に行き、他店のリピーターになってしまう場合もある。

「お待ちしておりました」

「いつもありがとうございます」

こういう客に対しては、マニュアルだからという事ではなく、心からおもてなしの心で接客をしようと思える。




   五


 プレシャスで働き始めて三ヵ月が経とうかというある日。中山が出勤時間を過ぎても来なかった。前の日も休むとは言っていなかったので、体調不良か、あるいは感染症の濃厚接触者にでもなったのだろうか。だが、店長は中山が欠勤している事に対して、何も言及しない。

「中山さんはどうしたんだろう?」

 僕は受付に座っている村野に訊ねてみた。

「店の女の子に手を出して消されたよ」

「消されたってどういう意味?」

「想像に任せる」

 可笑しそうに、ケラケラと笑う村野が、不気味に見えた。

一般的にソープランドでは、男性スタッフと泡姫の交際はもちろん、個人的に携帯電話の番号を交換し合う事も禁止されている。閉店後に男性スタッフ数名と泡姫数名で一緒に呑みに出かける事はあるが、個人的に連絡を取り合っている事が発覚した場合、プレシャスでは懲戒の対象になる。だが、懲戒とは具体的にどうなるのか。一定期間出勤停止なのか、減給とか解雇とか、詳細は教えてもらっていない。

「これからは、巻野がキャスティングをやってくれ」

 中山がいなくなったその日から、店長からそう言われ、それまで中山がやっていたキャスティングを僕が任される事になった。

 キャスティングとは、泡姫のシフトを組んだり、客から予約の電話を受け付け、泡姫の予約状況を確認して手配する担当だ。受付のカウンターに座ってパソコンで行い、予約なしで来た客に対しても空いている泡姫の写真を並べて紹介する。僕がプレシャスで働き始めたとき、村野からは、立ちんぼや車で送迎をしているときの会話術でリピーターを獲得出来るようになればキャスティングを任せてもらえるようになると言われていたので、僕の実力が認めてもらえたという事だろう。

 キャスティング担当は、空いてる泡姫なら客に指名されるままに当てるわけではない。客の中には、例えば六十分コースで予約して、予約の時間より五分遅刻してきておきながら、元々予約した枠の範囲ではなく、自分が部屋に入った時間から六十分間遊ぼうとする客もいる。また、泡姫を物同然に扱い、怪我をさせる客もいる。怪我までさせるような客だったら、来店しても「申し訳ありませんが、ただ今予約で埋まっております」と言って追い返すし、無断キャンセルや遅刻が多い客には、同じ口上で追い返したり、アンケートで評判が悪かったり人気がない泡姫を当てておき、マナーの良い常連客が来たときのために、人気のある泡姫を温存しておくのだ。又、一見さんの客に対しても、人気の高い泡姫を受付で指名されたときは、「この子はこの後予約が入ってまして、六十分コースのみでのご案内ですがよろしいでしょうか?」と言うようにしている。実際に次の予約まで余裕があったとしても、初めて来た客がどんな人かは分からない。受付でのやり取りを見た限りでは大人しそうな人でも、密室で若い女性と二人きりになると態度が豹変する――招かれざる――客も珍しくないからだ。

「どんな女の子がタイプですか?」

 カウンターに並べられた泡姫の写真を眺めながら、どの泡姫を指名するかなかなか決めかねている客には、こうして質問をしてみる。すると大抵、「背が低い子がいい」とか、逆に「高い方」とか、豊胸がタイプだといった、見た目の好みの答えが返ってくる。プロフィール写真に記載されている泡姫のスリーサイズを見て指名する客は良いが、「ほっそり系がいい」とか「色白が好き」と言いながら、写真の見た目で指名する客には注意が必要だ。泡姫によっては、既に退職した泡姫の首から下の写真を合成したものを用意する事も多いからだ。遊び終えてエレベーターを降り、「写真より太ってたぞ」と文句を言って帰って行く客がいるが、それはまさに合成された写真なのだ。だから僕は、写真の見た目で選ぼうとする客には、「この子より、こちらの子の方がサービスいいですよ」とか、「気遣いが行き届くのはこちらの子ですよ」といった具合に、接客の良さをアピールした言葉で泡姫を勧める事にしている。実際、僕がそうして進めた泡姫がアンケートで高い点数を貰えたりすると、それも店長から見た僕の評価になるのだ。


 八月も終わりに近付き、柳町の街のネオンに明かりが灯る時間が早くなってきた頃、村野が店を辞めると言い始めた。

「貯金も貯まってきたし、南の島で働きながらマリンスポーツをして暮らそうと思ってる」

 村野はプレシャスで働く前は、北海道のスキー場で働いていたと言っていた。ソープランドはほぼ休みなしに働くので、遊びに出掛ける時間がないが、お金を貯めたらリゾート地へ移住してほどほどに遊びながら暮らしているらしい。一つの職業を続けて出世を目指すのも良いが、村野のように、日本全国で見聞を広げながら生きる人生も、それはそれで楽しいかもしれない。

「金がなくなったらまた戻ってくる予定だから、それまで店を潰さないように、頑張って営業してくれよな」

 そう言って、村野は借りていたマンションの部屋を引き払い、南の島へ飛び立って行った。




   六


 別れがあれば出会いがあるのは、風俗業界も例外ではない。

 村野が退職した翌日、十九歳の新人泡姫マロンが入店した。ソープランドでは、プロフィールには「新人」と表記してあっても、実際には別のソープランドで働いていたとか、デリバリーヘルスの仕事をしていた女性も多い。ホームページで「新人入店です!」と謳った方が客寄せになるからというのが理由だが、マロンは正真正銘の風俗初体験だ。面接に来たときの彼女は見るからに固い表情で、心細さから声が小さかった。受付で僕が最初に彼女と顔を合わせたときの印象は、真っ黒で艶のある髪は肩よりやや下まで伸びていて、ほっそりとした腕も頬も、穢れを知らない乙女のようにぴちぴちだった。面接をした店長も、一応採用は決めたが、「履歴書には今年高校を卒業したと書いてあるが、もしかしたら年齢を上乗せしてるかもしれんぞ」と警戒したほどだ。だが、入店手続きのために再び来た彼女が持参したマイナンバーカードを確認したところ、満十九歳である事が間違いないと証明された。

それまで村野が担当していたホームページの更新は僕が任されているので、早速、マロンのプロフィールページを作成する。市内のスタジオで、プロのカメラマンに撮影してもらった写真の中から、特に写真写りの良いものを五枚選ぶ。

窓際に立ち、揺れる白いカーテンに顔を寄せている、白いワンピース姿のマロン。淡いピンク色のTバックとブラジャーだけを身に付けたマロンが、ベッドの上で四つん這いになり、上目遣いでカメラを見つめている写真。ホームページ上でプロフィール写真をスライドしていくと、最後の五枚目は、マロンが一糸まとわぬ姿で、ベッドの上で体育座りになっている写真だ。体育座りのマロンの乳房は彼女の両膝に隠れ、見る者のじれったさをそそるだろう。照明の関係で肌の白さは盛られている印象を見受けるが、それでも、実際の彼女が放つ清楚さは、写真で指名した者の期待を裏切らないはずだ。

マロンはメイクは薄めでも、大きな瞳と滑らかな肌で十分可愛いし、ネイルもしていないので、いわゆるギャルというより、育ちの良いお嬢様のようにすら見える。街を歩いているところを他店のスタッフが見ても、とても風俗嬢とは思えないだろう。ホストクラブ依存症のようにも見えない。

研修のときのマロンを見ていてもそうだった。ソープランドでは、新人の泡姫はまず、講師の先輩泡姫に接客の模擬実習を受ける。男性スタッフ一人が客の役を演じ、先輩泡姫が講釈をしながら、接客の手順を教えるのだ。大抵の泡姫は、コンビニやファミレスだったら不評を買うような、懇切さのこもっていない口調の娘が多いのだが、マロンはまるで高級レストランかホテルの従業員かと思うような、謙譲語や尊敬語を正しく使い分けた言葉遣いをする。研修を終える際も、部屋から出て行く僕に、深くお辞儀をしながら「ありがとうございました」と挨拶をしていた。

 マロンはデビューしたその日から、客から高い人気を博した。客が書いたアンケート用紙を見ると、「言葉遣い」、「ムード」、「気遣い」など、ほとんどの項目がほぼ満点だ。閉店前にホームページをチェックすると、午後四時出勤からまだ三名しか相手にしていないとはいえ、そこでも彼女の評価が五段階中、最上の五つ星評価が付いていた。

マロンは次の出勤日は金曜日だった。金曜日の夜や日曜日は客が多いため、電話もよく鳴るし、男性スタッフはお茶やおしぼりの準備も忙しい。泡姫も隙間時間なしで、控室で休む時間がない場合もある。この日のマロンのシフトは午前十一時から夜十時までで、夕方六時以降は全て予約で埋まっていた。新人の泡姫と遊びたいという客が多い事もあり、やはりマロンも、出勤時間から間断なく指名が入った。

午後五時五十分頃、マロンのこの日五人目の客が帰って行った。六時から予約が入っているので、僕はすぐにベッドメイクを手伝うため、マロンがいる部屋に向かい、扉をノックする。だが、応答がない。

「マロンさん、開けるよ?」

声をかけてから部屋の扉を開けると、シーツがずれたベッドの傍で、ところどころ髪が乱れたマロンが、硬い床の上に足を崩したまま座り込んでいる後ろ姿が僕の目に入った。

「マロンさん。予約のお客さん、もう一階に来てるから、準備しないと」

 僕の声が聞こえているのかいないのか、マロンは微動だにしない。つい先ほどまで客が入浴していた部屋は少しジメジメしていて、ハンドソープの香りが漂っている。

「マロンさん?」

 僕は靴を脱ぎ、部屋に上がって彼女の前に回り込む。疲れ切ったように項垂れたマロンの目は虚ろで、見るからに放心状態といった顔だった。

「具合悪いの? お客さんにはお断りして、横になって休む?」

「私……」

 一日に何度も入浴するうちにのぼせて体調を崩したり、客から乱暴にされて身体を痛め、苦痛の表情を浮かべる泡姫はいるが、今のマロンは、どちらといった様子でもなさそうだ。心ここにあらずといった態で、それ以上言葉も出てこない。立ち上がる事すらままならなそうだ。

まだ泡姫の仕事を始めたばかりで、複数の、しかも初対面の男性から数時間の間に何度もオルガズムを経験させられるのだ。精神状態が正常ではなくなるのも無理はない。これではとても接客など出来ないだろう。この後のマロンの予約は七時四十五分から三人入っているが、多分無理だろう。

「気分が落ち着くまで、ここで休んでていいから、落ち着いたら早退しよう」

 僕はそう言って、部屋の壁に設置されているつまみで、部屋に流れるBGMのボリュームを上げた。これが正しいかどうか分からないが、今のマロンには、少しでも現実逃避をさせる事が必要な気がしたのだ。

 金曜日という事もあり、その夜は、僕は受付での接客と電話対応、泡姫の予約手配に追われ、その合間を縫ってベッドメイクの手伝いをこなさなければならず、営業終了の時間になるまで、マロンの様子は見れなかった。

退勤する泡姫を自宅まで送るために送迎車を運転するとき、他の泡姫二名と一緒に、マロンが乗って来た。

「今日ラストの客がな、『自分の彼女にはこんな事出来へんから』言うて、めっちゃ乱暴な事してきよってん」

「おるなぁ、そういう男。自分の彼女に出来へん事を平気でするいう事は、ウチら完全に物扱いされとるんや」

 車内では、マロン以外の関西出身の二人の泡姫が、生々しい会話をしている。もはやこれが日常だから今さらこんな会話を聞いても驚かないが、そんな僕自身が、最近、冷たい人間のようにすら思えてもいる。そんな中、助手席に座った新人のマロンは会話に入らず、ひたすら黙っている。

「今日は、すいませんでした。せっかくの金曜日なのに、一番忙しい時間に何も出来なくて」

他の二名が降りて、車内でマロンと二人になってすぐ、彼女が口を開いた。両手の掌を太ももの上で組み、俯いて話す彼女の口調からは、心からの申し訳なさと、責任感すら感じられる。

「まぁ、働き始めはまだしょうがないよ。あの後断ったお客さんたちも、怒ってなかったし。……ところで」

 真っ暗な中を、白い街灯が規則正しく並んでいる住宅街を走る中、僕は訊ねてみた。

「どうしてソープランドで働こうと思ったの? 高校は卒業してるし、それだけ礼儀正しくてしっかりしてるんだったら、他の仕事にも就けるだろうに」

「経済的な事情で大学や専門学校には行けないので就職したんですけど、高校三年生のとき、どこの企業に面接に行っても落ちてしまって、進路が決まらなくてどうにもならなくて、風俗業界の求人情報を探したんです」

 切実な気持ちが伝わるような口調だが、こうした受け答えは本当にしっかりしている。

「これだけしっかりしてるのに面接で落ちちゃうって、何がいけなかったのかな?」

 僕が素朴な疑問を述べると、数秒ほど間が空いてから、マロンが口を開いた。

「どこに行っても、面接で家族構成について質問されたんですけど、私、児童養護施設で育ったので、長い間親と一緒に住んでないんですよ。それを話すと、後は二言三言会話をしただけで面接が終わって、後日『不採用』の通知が送られて来るっていう。毎回それの繰り返しだったんです」

 そういえば、僕が通っていた中学校にも、児童養護施設から通っている同級生がいた。高校は公立しか受験させてもらえず、高校を卒業したら施設を出て自分で働かなければいけないという話は聞いた事がある。

「社会人になったら保護者は関係ないと思うんですけど、施設育ちだとどうして嫌がられるのか、理解出来ないです」

 僕は夜の神戸の街を運転しながら、彼女にどんな言葉をかけるべきなのか、言葉が見つからなかった。かける言葉を探すばかり、赤信号に気付くのが一瞬遅れ、ブレーキをかける強さが通常より急になり、胸にシートベルトが食い込んだ。

「ゴメンね」

 助手席を振り向いて謝ると、彼女は「いえいえ」と言って、恐縮な態で両手を膝の上に置いている。

 マロンが住むアパートの前で車を停めると、彼女はまた礼儀正しく、挨拶をしてから車を降りた。

「今日はすいませんでした。次の出番からは、ちゃんと頑張って働きます」

 心苦しそうに頭を下げるマロンを見て、僕は胸が圧迫されるような苦しさを覚えた。ホストクラブ依存症で金遣いが荒くて風俗の世界に身を置く女性が多い中、生まれ育った環境のせいで一般企業に就職出来ずに風俗業界に流れてくる女性もいる。同じ風俗業界で働いているとはいえ、僕はまだまだ恵まれた人生を送れているように思えて来る。

 マロンは客から絶大な人気があったが、結局、一ヶ月で辞めた。その後の消息は誰も知らない。




   六


 柳町からも見える市内北部の山々が赤や橙色に色づき始めた頃だった。僕はいつものように、客から指名が入った泡姫を呼ぶため、控室に向かった。泡姫は控室にいても、接客をする個室部屋で休んでいても良いが、接客の部屋にはテレビがなく、Wi-Fiも電波が弱いので、予約が入っていないときや、次の予約まで時間がある泡姫は控室で他の泡姫とテレビを見つつ、雑談しながら過ごす泡姫もいる。

 控室に着くと、僕はノックしてドアを開ける。接客をする部屋だと、泡姫が着替え中だったりする事もあるので、ノックしてから返事が来るか、泡姫が内側からドアを開けるまで男性スタッフが開けるわけにはいかないが、控室の場合は着替えはしないので、いきなりドアが開く事は泡姫に伝えてある。

 この時間、僕がドアを開けると、待合室にはウサギとノアという二人の泡姫が、テレビで午後二時から始まったワイドショーを見ていた。ウサギは僕が働き始める前からいる泡姫。ノアは二ヶ月ほど前に別の店から移籍してきたが、客受けがあまり芳しくない。

「ウサギさん、ご指名」

 ウサギに声をかけると、ウサギは「はい」と返事をして立ち上がり、部屋から出て来る。つい三十分ほど前まで百分コースの接客をしていたウサギは今回、一見さんから八十分コースでの指名だ。コース時間を書いた用紙を渡し、接客用の部屋へ向かわせる。

「巻野さん、今日って暇な日なの?」

 控室で独りきりになったノアが訊ねる。

「朝一番から待機してても全然呼ばれないけど」

 今日は六人の泡姫が出勤していて、そのうち、一度も指名が入っていないのは彼女一人だ。

「他の女の子たちはしょっちゅうお呼びがかかってるだろ? その中で自分だけ呼ばれないのはどういう事なのか分からないか?」

ノアはきょとんとして首を傾げている。ノアのように、二十歳を過ぎても合理的な思考が出来ない人間が、泡姫の中にはいる。そしてこういう人と会話をしても、客は楽しくないからリピーターが付かない。収入がないのにホストクラブで遊ぶ事に金を浪費するから、借金をする。サラ金から逃げるため、店を転々として行くのだ。


 気が付けば、僕がプレシャスで働き始めてから半年ほどが経とうとしているが、働き始めた頃は三十人以上いた泡姫のうち、半分以上は入れ替わっている。そんなある日、僕が受付でパソコン作業をしていると、無線のイヤホンから「面接の方をお通しします」と音声が聞こえた。顔を上げると、金髪に染めた女性が入って来た。短く切り揃えられた髪に、付け睫毛が印象的なその女性は切れ長の目だが、瞼のグリッターが強調されていて、多少大きく見える。

 無線の音声はバックヤードにいる店長にも聞こえているので、すぐに店長がカウンターの外まで出て、女性をバックヤードへ案内した。女性はバックヤードに入る前、何か不思議そうな表情をして僕の顔を見つめた。

 女性が帰った後、店長がすぐに僕の前に履歴書を置いた。先ほど面接をした女性のもので、余白の部分に、女性から聞いたスリーサイズが記入されている。

「今の子、採用だから。明日新人研修して写真撮影して、来週からシフト入るから、プロフィール作っといて」

 履歴書の氏名欄を見ると、「森口由梨」と書かれてある。どこかで聞いた名前……。経歴欄を読んでみると、僕の地元に比較的近い東京都立の高校を中退した事が書いてある。その時点で、僕は記憶が蘇った。彼女は僕が中学二年生のときに同じクラスだった森口だ。彼氏がいる女の子に告白した事を「ばーか」と言われた事も、今となってはご愛嬌だろう。地元から遠く離れた神戸まで来て、まさかの同級生と同じ職場で働く事になる。生きていて、こんな偶然があるものなのだ。さっき、彼女が僕の顔をじっと見つめたのは、おそらく僕が巻野龍三だと気付いたからだろう。

 翌日午前中に、森口は再び来た。

「覚えてる?」

自分の顔を指差して訊ねる僕に、彼女はにやりと笑った。

「もちろん覚えてるよ、巻野。久しぶり」

 僕たち二人が中学校で一緒だったと知った同僚たちは、口々に驚きの表情を浮かべる。会話もそこそこに、森口は研修を受けた。新人研修で、男性スタッフは部屋の中で服を脱いで入浴をするので、僕が客役をさせられたら恥ずかしいところだったが、別の男性スタッフがやる事になったので、僕は安堵した。新人泡姫の研修相手になった事は何度もあるが、同級生が相手だと気が引ける。

 森口の源氏名は「モモ」に決まり、翌週から、基本的に朝一番から午後三時のシフトで週四回ペースで出勤する事になった。

初出勤日に、早速僕が送迎車でモモを駅まで迎えに行った。彼女は高校を中退した後、いくつかのバイトを経験し、二十歳のときからレースクイーンとして働いていたらしいが、三年ほどで退職。それからは都内の風俗店を転々としていたそうだが、児童養護施設で一緒だった男性が偶然客として来てしまい、自分と交際してくれなければ風俗店で働いている事をばらすぞ、と脅されたという。それで神戸まで逃げて来たというわけだ。風俗嬢では、こういったシチュエーションで地元から遠方の地域で働く人は多い。

「神戸だったらさすがに知り合いはいないだろうと思ったけど、まさか巻野に会うなんて思わなかったよ」

 初めて車から見る街の景色をじっくり眺めながら、モモが呟く。

 モモは次々とリピーターを獲得し、あっという間に店内で人気上位三位に入った。通常、泡姫は出勤してからその日の担当部屋を割り当てられるが、一位から三位までの人気泡姫には持ち部屋が与えられ、自分の私物を部屋に置いたまま帰宅する事が許される。持ち部屋にはテレビも置いてあるので、持ち部屋がある泡姫は控室に出入りをする事はあまりない。

大抵の客は顔写真で選ぶので、モモは決して他の泡姫に比べて指名を受けやすい顔ではないものの、接客が優秀で口コミが広まり、インターネットの口コミを見て、インターネットや電話で予約する客が増えている。

「凄いテクニックだったよ」

「ソープであんなに気持ちよくなれたのは初めて!」

 エレベーターを降りて来た客は口々にモモを称賛し、満足顔で帰って行く。泡姫は、たとえ顔の見た目はいまいちでも、接客のテクニックが良ければ十分客を獲得出来る。

「とにかくテクニックを褒めてるお客さんが多いね。どこで身に付けたの?」

 僕はモモの部屋に入って一緒にベッドメイクをしたときに訊いてみた。

「レースクイーンも色々あるんだよ」

 彼女の答えが意味深な重みを纏っている。

「枕営業とか?」

「ふふふ……」

 僕の質問に、モモは何も答えず、ほくそ笑んだ。

 つい数ヶ月前までは、高校で同級生だった村野と一緒に働いていたと思ったら、今は中学時代に一緒だった森口――モモ――と一緒に働いている。地元からは遥かに離れた場所で再会する事が現実にある。僕は元来、運命とか、守護霊の存在などは信じない人間だったが、守護霊のお導きなのではないかと思わずにはいられない。


 その日、日が暮れる頃。僕はフロントに置いてあるパソコンで、泡姫たちが更新した店ブログをチェックしていた。エレベーターが動く音が聞こえ、扉が開いたのでそちらを振り向くと、一時間ほど前に案内した中年の男性が出て来た。この客は飛び込みで来て、たまたまモモが一時間だけ空いてる隙間の時間があってモモを指名した客だ。利用時間や金額の確認をしても、「うん」としか答えず、他は一切会話をしなかった。

「あれ? お帰りですか?」

 通常、客が帰るときは、泡姫が部屋からフロントに内線の電話を掛ける決まりだ。客が他の泡姫と顔を合わせないよう、もし別の客が帰るタイミングだったら、数分ほど部屋で待機してもらい、客が一階のエレベーターを降りたところで、一階にいるスタッフがもう一方の部屋に内線を掛けて知らせる決まりになっている。従って、内線の知らせなしにいきなり客が出て来たという事は、モモが電話を忘れたか、別のトラブルの可能性がある。

 僕はすぐにモモの部屋に向かい、扉をノックした。

「モモ、いるか?」

 中から返事がない。トイレに行っているのか、それとも別の理由があるのか。僕は「開けるぞ」と声を掛けて扉を引く。

 照明を暗めにした部屋の床の上で、モモは全裸のまま、ベッドに凭れかかるようにうずくまっている。

「森口、どうした!?」

 僕は思わず本名を呼びながら照明を明るくして彼女の傍に膝を付く。よく見ると、森口の股から流れた血が、白い床を掌ほどの大きさで赤く染めていた。部屋には煙草の匂いも漂っていて、テレビの横には、客が吸ったであろう煙草の吸殻が入った灰皿が置いてある。

「何があったの?」

僕は慌てて、いつもよりやや早口になって訊ねる。

「指を突っ込まれて……」

 モモは苦痛の表情に顔を歪めながら、言葉を振り絞るように話した。モモは客の入浴を終え、客と一緒にベッドに座ると、突然客はモモが身体に巻いていたタオルを剥いで押し倒し、膣に指を突っ込んで何度もほじくられたという。痛さに悶絶しているモモをよそに、客はのんびりと煙草を吸い終えると、さっさと着替えて部屋を出て行ったというわけだ。

「モモが壊されました。出血しています!」

 僕は無線で一階にいるスタッフに知らせ、階段を下りて店を飛び出した。ソープランドの従業員の間では、泡姫が客に怪我をさせられる事を「壊された」と表現している。

「さっきの客、どっちに行った?」

「あっちです」

立ちんぼのスタッフに聞くと、店の出口から見て右の方を指し示したので、二人でその方向へ走って行ったが、大通りへ出て辺りを見回しても、姿は全く見えなかった。きっと、タクシーを拾って逃げたのかもしれない。万が一泡姫が何らかの感染症に感染した際に連絡するために受付時に客に聞いた携帯電話の番号に掛けてみると、使われていない番号だった。

 モモは他の泡姫二人に介抱してもらいながら送迎車に乗り、病院へ直行した。モモは明日のラストの時間まで予約が埋まっていたが、僕はフロントで電話を取り、全ての客にお断りの電話をする。だが、十五分後に予約を入れていた小酒井という三十代くらいの客は連絡が行き違いになり、僕が電話をする前に来店してしまった。

「大変申し訳ございません。モモは急な体調不良のため、早退してしまったんですよ」

 きっと怒られるだろうなぁ、と、重い気持ちで頭を下げると、案の定、小酒井は不機嫌な表情をした。

「確認の電話をしたときは何も言うてなかったやないか。電話を受けたスタッフは誰や?」

「はい。僕です」

 予約客は、予約時間の一時間前に店に電話をする決まりになっていて、ホームページでは「連絡がない場合、キャンセル扱いとさせていただきます」と案内をしている。実際に連絡なしに来店しても、予約をしていた泡姫に他の客から指名が入らなければ、プレシャスでは予約した泡姫を案内しているが、飛び込みで来た別の客から指名されれば、飛び込みの客に案内してしまう。

 だが、今回のケースは店側の都合でのドタキャンになるため、小酒井が落胆するのはもっともな事だ。

「他に可愛い子はおるんか? モモちゃんほどやなくても構わへんけど、可愛い子やなかったらチェンジしてもらうで」

指名し、支払いをした後での客からのキャンセルは返金しないが、こういう客の場合、かなりの高確率でチェンジを申し出る。そうなると客が騒ぎ出し、収拾がつかない場合、プレシャスご用達の用心棒を呼ぶ事になる。体格が大きく、柄の悪い風体の男五、六人に囲まれれば、大抵は誰でも大人しく引き下がるものだ。だが、ちょっと揉めるたびに一々用心棒を呼んでいたら、客を黙らせる事は簡単だが、「あの店は文句を言うとすぐ暴力団が出てきて脅される」といった噂を広められ、多くの善良な客まで離れて行ってしまう。用心棒を呼ぶのは、あくまでも最後の切り札であり、出来ればこの手段は使わずに、上手く収めたいのがスタッフの本音だ。

「本日は予約で埋まってしまっておりまして、次回ご都合の日を教えていただければ、モモさんに限らず、当店で人気の子のご予約を優先してお取りします」

「俺はモモちゃんがええんや!」

 小酒井が声を荒げ始めたところで、バックヤードから四十代の店長が出て来た。

「モモさんは先ほど、他のお客様に乱暴をされて怪我をしてしまい、病院に行かなければいけなくなってしまったんですよ」

「えっ?」

 店長が平身低頭にお辞儀をしながら話すと、小酒井は声が裏返る。

「もしかして、しばらく会えんのか?」

いかにも偉そうに胸を張った小酒井の態度からは、モモを心配しているというより、自分の欲求が満たされない不愉快さがにじみ出ている。だが、そんな客に対しても、店長は丁寧に説明を続ける。

「お客様の中には乱暴な人もいて、女の子の身体を傷つけてしまう不届き者もいるんです。小酒井さんのような優しい方ばかりやないんですよ。モモさんの体調が戻ってシフトが決まったら、すぐにホームページでお知らせしますので、今日のところは、ご理解いただけませんでしょうか」

「まぁ、この仕事をやってる女の子も色々あって大変やろからなぁ……。ほな、今日は大人しく帰るわ」

 声のトーンが大分落ち着いた小酒井は踵を返し、店を出て行った。

「申し訳ありません。またお待ちしてます!」

 出口の照明は店内へ向けて設置されているので、日が暮れた外へ小酒井が出て行くと、その後ろ姿は文字どおり闇の中に消えていく。店長は見えなくなる後ろ姿へ改めてお辞儀をした。

「上の人が出て来ると大人しくなる客なんですね」

 小酒井が帰ってから少し間を置いて、僕は呟く。

「それもあるけど、巻野君はお客さんを持ち上げる話し方をしてない。すぐに怒りっぽい人ほど、ちょっと持ち上げると機嫌を良くする傾向があるものだ。接客の基本だぞ」

 店にとって、泡姫は商品だ。客にとっては、金を払って疑似恋愛を体験する対象でしかない。これらの概念は僕も理解している。だが、店にとって商品だとはいえ、泡姫も生身の人間である。自分が贔屓にしている泡姫が怪我をして病院に行ったという話を聞いて、心配する気持ちより、苛立ちを露わにする人に対して、僕は人間性を疑う。モモは僕が中学生のときから知っている仲だという事もあり、一層怒りの感情を覚える。




   七


 一週間後から、モモは仕事に復帰した。

「傷はもう治ったの?」

「全っ然問題なし!」

 僕の問いに、彼女は唇をにんまりと曲げて笑う。彼女に怪我をさせた男は店長の指示で出入禁止の措置を取る事にした。店の防犯カメラの映像に残された顔は男性スタッフ全員で共有し、次回来店したら出入禁止を通告して追い返す手筈になったが、あれ以来、一度も来ない。

 モモは地域の書店やコンビニの十八禁コーナーで販売される風俗情報誌でも、神戸の風俗紹介サイトでも人気上位の座を守り続けた。

 年が明け、モモが働き始めて三ヵ月ほどした頃。彼女は来月から柳町にある高級店に移籍すると申し出た。

「面接に行ったら、その場で採用決まったよ」

 客の口コミも高評価ばかりで、業界人の間では既に有名なので、そういう泡姫が面接に来るとなれば、もうその時点で店は大喜びだ。プレシャスが八十分二万八千円で遊べる大衆店であるのに対し、モモがこれから働く店は、百分コースで総額六万円ほどするような高級店だ。店の内装の高級感はもちろん、泡姫や男性スタッフの接客も、高級ホテルなみに懇切丁寧な対応をする。

 僕はモモのキャリアアップを素直に喜ぶ反面、寂しさも感じた。地元から遠く離れた街で偶然再会し、同じ職場で働く事が出来た旧友と離れてしまうのは、何だか物悲しい。それに、彼女が実際に経験したように、泡姫の仕事は身に危険が及ぶリスクもある。僕は日々、ヒーターで温まったワゴン車にモモを乗せ、自宅へ送るために冷たく乾いた冬の夜空の下を運転しながら、こうやって彼女を自宅に送り届ける事が、あと何回あるのか数えていた。


 モモがプレシャスに出勤した最後の夜。僕はいつものように、モモの他、二人の泡姫を送迎車に乗せ、一人一人順番に自宅の前で降ろして行く。最後に、助手席にモモだけ残ると、僕はモモの自宅に向けて車を走らせる。

 モモはブルートゥースイヤホンを両耳に付けて音楽を聴いている。今日で店の持ち部屋に置いてあった私物を持ち帰らなければいけないので、足元には、普段は持ってこないリュックサックが置いてあり、その中に、今まで部屋に置いてあったモモの私物が入っている。車内ではオーディオは一切消しているので、赤信号で止まると、出力を強めに設定しているエアコンの作動音が響き渡る。

 このまま黙って自宅の前まで行ったら、さっさと降りてドアを閉めてしまうかもしれない。

 僕はモモの自宅までまだ数百メートル離れた、道幅が広い、交通量の少ない通りで停車する。

「どうしたの?」

 モモ……もとい森口は音楽を再生していたiPodの停止ボタンを押して、僕の顔を振り向く。

「話したい事があるんだ」

 そう言って助手席へ首を向けると、彼女は落ち着いた表情で僕の顔を見つめる。僕は心拍数の高まりを感じつつ、思い切って言葉を振り絞る

「良かったら、僕と一緒に暮らさないか?」

「そうくると思ってた」

 彼女は鼻でクスっと笑いながら即答する。

「絶っっっ対あり得ない」

 耳元で囁くような小さい声だが、緊張していた僕の全身から一気に力を抜くには、充分な弛緩剤だった。地面に立っていたら、その場で膝が曲がって転んでいたかもしれない。

「中二のときさ……」

 森口はそう言いながら前を向き、窓の外を見つめたまま喋り始める。冬の冷気に触れた窓ガラスのように、冷たい目をしている。

「巻野、生徒手帳に『クラスの女子の美人ベストテン』とか書いてただろ」

 唐突に彼女が言い始めた事がよく理解出来ず、僕が黙っていると、彼女は首を回して、軽蔑の念が込められた目で再び僕を見る。

「覚えてないのか」

 僕は使用済みのバスタオルが山積みにされているリネンカートの中に一枚だけ混じっているハンドタオルを探し出すように、十年以上も前の記憶を必死に探ってみる。おぼろげに脳裏に浮かんできたのは、中学二年生のとき、クラスのある男子生徒が僕の生徒手帳に書いてある内容を面白そうに読み上げて、他の男子生徒たちがゲラゲラ笑っている場面。僕は生徒手帳を取り戻そうと手を伸ばすが、他の男子生徒らに妨害されて、手が届かない。女子生徒たちは、僕の生徒手帳を勝手に盗み見ている男子ではなく、僕に向けて冷たい視線を注いでいる。

 思い出した。中学二年生になって間もなく、僕はクラスの男子らと、クラスの女子で誰が一番可愛いか、といった話題で盛り上がり、「順位を書いて見せ合いっこしよう」という話になったのだ。翌日、僕はクラスの中で可愛いと思う女子を十人選び、その順位を生徒手帳の白紙頁に書いて学校へ持って行った。

「巻野、お前本当にこんな事書いて来たのか」

その話題を話し合った男子同士で、実際に順位を書いて来たのが僕だけだったので、男子たちからは大いに笑われた。その日のうちだったか翌日以降だったか、時系列は覚えていないが、休み時間に、男子生徒のうちの一人が、僕の鞄に入れてある生徒手帳をかすめ取って開き、クラス全員がいる前で、僕が書いた順位を読み上げ始めたのだ。

「巻野が考えた美人ベストテン、発表します!」

 僕は恥ずかしくなり、生徒手帳を取り戻そうとするが、他の数名の男子生徒に羽交い絞めにされてかなわない。

もうすっかり忘れていたが、今になって思えば、クラスメイトから「キモイ」と言われたり、無視されるようになったのは、あの事件がきっかけだったのだ。

僕はあのとき書いた十人の名前も順位も覚えていないが、森口は自分の名前も書かれた事を覚えていた。

「私の名前も二位に書かれててさ。あのときのキモさは一生忘れねぇぞ」

 大人になると、「キモイ」という言葉を滅多に使わなくなるが、随分久しぶりに言われた気がする。僕はクラスメイトからされた事はしっかり覚えているのに、自分がやった事はさっぱり覚えていなかった。人間なんてそんなものなのだろうか。

「あの頃はまだガキだったな」

 僕は自分を卑下して言った。森口は再び前を向く。

「巻野ってさ、結局昔と何も変わってねぇよな」

 森口は店で他のスタッフと話すのとは全然違う、すっかり乱暴な口ぶりになっている。

「勝手に女の子のランキングを付けるような事をしておいて、イジメをテーマにした道徳の授業で『人が生まれ持った性質で人を見下すのは愚かな事です』なんて偉そうに言われても、全然説得力なかったよ。自分の事を棚に上げて、今もそうやって、私が昔の話をしたら、まるで他人の笑い話を聞いてるみたいにヘラヘラ笑っちゃってさ」

 運命の再会を果たしたと思っていた僕とは反対に、彼女は僕に対するおぞましさを堪えながら仕事をしていたというのだ。いくら仕事とはいえ、ここまで嫌っている相手から言われた事を素直に聞いたり、部屋で一緒にベッドメイクをしたり、送迎車で二人きりになって世間話をしたり出来る森口が、僕は急に恐ろしい魔性の女のように思えて来た。

「話は以上」

 森口は大きく息を吐くように、声のトーンを高くして言った。

「家の前まで送って」

 森口の自宅マンションの前で車を停めると、彼女は何も言わずに降り、僕と目を合わせる事もなくドアを閉め、こちらを振り向く事もせずに、建物に入って行った。僕はあらかじめ、フラれた場合の最後の挨拶の言葉も考えていたのだが、ここまで強烈な言葉を投げられるとは思っていなかったので、何も掛ける言葉が出て来ない。




   八


 立ちんぼをしていても、コートがいらない季節が来た。柳町の入口と大通りを挟んではす向かいにある高校の校庭の木には、桜の花が美しく咲いている。森口がいなくなった後、彼女を指名していた常連客は来なくなってしまったが、新しく入った泡姫のリピーターが来るようになり、プレシャスの業務は何も変わらずに続いている。風俗情報誌には、高級店で働いているモモ(森口)が安定して一位か二位の人気を維持している。

 僕が朝、店の前を箒と塵取りで掃き掃除しているときや、昼休みに近くの商店街を歩いているとき、出勤途中の森口とすれ違う事がたまにあるが、僕が「おはよう」とか「相変わらず頑張ってるみたいだね」などと声を掛けても、目を合わせる事すらしないか、チラッと僕に目線を向けてもすぐにそっぽを向いてしまう。


 そんな中、村野が出戻りでプレシャスで働くようになった。彼は南の島のホテルでバイトをしながら、プレシャスで働いていた頃に貯めていた貯金を使ってマリンレジャーを楽しんだ後、九州から青春十八切符を使って神戸に戻って来たという。

「ソープランドで一年も働いたら、色んな人間ドラマが見れただろ」

 好奇心に満ちた笑顔で訊ねる彼と対照的に、僕は今一つ元気がない声で答える。

「どん底で苦しんでる人の人生を見てきて、そういう世界を段々理解してきたつもりでいたけど、実は僕が苦しめてる側になってる事もあるんだって、思い知らされたよ……。村野は?」

「南の島で毒蛇に足を嚙まれて足を切断した観光客も見たし、ここで最初に働く前、スキー場で働いてた頃は、スキー場のコースから外れて木に激突して意識不明の人をソリに乗せて、血で真っ赤に染まったゲレンデを降りて救急車に引き継いだ事もあるし、生きてるって、すげぇ事なんだなって、実感してるとこ」

遊びに出掛けるのと、生活のために仕事をしに行くのでは、見える世界が全く変わってくる。風俗街でもリゾート地でも、それは同じようだ。


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