1.百合子さん
「じゃあ、撮りますよぉ。六平さん、もっと笑ってぇ」
毎日繰り返される株の鈍い値動きのように、いつもと変わり映えのしない紙面から目を上げる。
「そうそう、六平さん、いい笑顔ですよぉ」
食堂の向こう側でスタッフの百合子さんが息子夫婦と孫とをフレームに一緒に収めてスマートフォンのボタンを押す。
「はい。これ」
車椅子の横から背伸びをして覗き込む孫の頭を撫でながら、六平は百合子さんから手渡されたスマートフォンの画面を満足そうに眺めている。
日本を代表する自動車メーカーに仕事一本槍で人生を捧げてきた私には残念ながら六平が眺めているような構図の写真を手にすることはできない。身体の自由が思った以上にきかなくなったことを実感した時には身寄りのない私に選択肢はなく、二年前にこのケアハウスに世話になることを決めた。人生の雑事と思えることを全て捨て去って仕事に打ち込んだのが幸いし、退職後は退職金と企業年金で生きるに心配することはなかった。しかし、安定という名の退屈と引き換えに、ため息が出てしまいそうな平凡な毎日に小さな喜びを与えてくれる、六平のような家族を持つことを放棄することになった。
「おじいちゃん、またねぇ」
エントランスまで百合子さんに付き添ってもらった六平は、手を振りながらケアハウスを後にする孫に、小さく手を振って応えていた。
経済面で言及されている遅々として進まない電気自動車へのシフトについて古巣の自動車メーカーに業を煮やしていると、六平が百合子さんに車椅子を押され食堂に戻ってきた。私のテーブル付近で止まり百合子さんにテレビのリモコンをねだった。テレビの音量は六平の聴力に合わせてセットされた。私は読みかけの新聞を畳んでテーブルに置いた。
「可愛いお孫さんですね」
彼の聴力に合わせるため腹に力を入れて六平に問いかけた。
「そうなんだよ、本当に可愛くてさぁ。ユリちゃんも目じゃないよぉ?」
六平はそう言い、テーブルに放り出されていた雑誌を集める百合子さんのお尻を撫でた。
「ちょっと、六平さん!」
百合子さんは六平の手をピシャリと叩いた。薄汚い老いぼれの汚辱に身を浸らされても百合子さんは笑顔を絶やさない。
「お盛んですな」
私の表情に六平を蔑んだ色が入り込んだことは否定しない。
「八十過ぎてもチンポは衰えんでよ。な?ユリちゃん?」
(下劣な奴だ)
古巣の調達部で海外のバイヤーとタフなやり取りをしていた頃のエリート意識がこの年になっても抜け切らないせいか、スマートさに欠ける六平のような奴を見ると込み上げてくる感情がある。ケアハウスで暮らすようになってから六平のような人間に囲まれると同時に、そのような人間と同等に扱われるようになった自分のプライドはズタズタに引き裂かれた。
「藤城さんはこんなことしませんもんね?」
私の肩に手を置き、百合子さんは小首を傾げて私の顔を覗き込み同意を求めてくる。柑橘系のコロンの香りが鼻腔を突いた。私は口の端を少し引き上げ静かに頷いた。
「いい加減に六平さんも藤城さんを見習って」
肩から離れていく百合子さんの手には四十代とは言うものの、未だに娘のような瑞々しさが失われていなかった。