微かな
簡単に言えば父親がいない。
それだけだった。
今時、片親は珍しくないのが現状だろうがそれでも特別な思い出なのだ。
父さんは料理が上手だった。日曜日の朝御飯は海と一緒に楽しみにしていた。
特に好きだったのはパンケーキ。そのにおいが漂ってくるだけで目が覚めるくらいだった。
他にも凝った料理はあったけれどそれが一番だった。
バターに思いっきりメープルシロップをかけて.........海はジャム派だよね。
その週はパンケーキの約束をしていた。
だけど、もうその匂いで目を覚ますことはなかった。
事故。飲酒運転の信号無視に巻き込まれたらしい。
日曜日のキッチンには焦げた匂いがした。何も焼いていないのに。それがお母さんの悲しみのにおいだと気づいたのはもっと後だった。
幸せはパンケーキの甘い匂い、悲しみは焦げて失敗した匂い、寂しさは微かに残るバターの匂い。どうしても感情の匂いは思い出についてまわるらしい。
父さんがいなくなってから海と二人でパンケーキを作った。でももうあの時のような甘さは残らない。
話してる間中海はずっと手を握っていた。これじゃ朝と逆だ。
自分の中でもう整理はついているつもりだ。
けれど亡くなったではなくいなくなったというあたりまだ認められていないのかもしれないとも思う。
御門から何の匂いもしなかったとき、ふと話してしまおうと思った。
人に話すことで形にしたかった。
あやふやなものが残っただけになったけれど。
無理に形にしたらそれはそれで大切なものを欠いてしまうのだろう。
処理できない気持ちにいら立ちが募った。