愚かに見えても
小気味良い鈴の音を立てて外に出ると、まるでカラスのように黒い成りの男が立っていた。
刻は黄昏。
その男は見た目こそ少年だ。十代後半特有の、骨格こそ出来あがれど目鼻立ちに少し幼さの残る風貌をしている。人の行き交う街中ですれ違うだけでは気にならなかっただろう。けれど今しがた落ち着いた喫茶店から出てきたばかりのハロルド・エヴァンスには彼の姿は妙に映った。何が、とは言えない。肌で感じるような貼り付くような重みがそのカラス男だけ違った、と言うのが近いしい気はする。まるで人ならざるモノ。老練で古豪な、自分よりずっと歳を重ねた “何か” だ。
そして直ぐに後悔した。気付いたことに。
今は黄昏時である。
「逢魔刻、とも言うよね」
アルトの声を震わせて少年は、けれど視線を合わせようとはしなかった。こちらの思考を読んだかのような発言をしても尚黒く丸い瞳はハロルドが立ちすくんでいる背後の喫茶店を眺めている。ゆっくりと瞬きをして、まるでカメラのシャッターを切るようでもある。
ざぁ、と住宅街を幾分か冷たくなった風が駆け抜けた。足元を少しだけ色付いた落ち葉がくすぐって行く。返す言葉は出ない。そもそも自分に話しかけられているのか、それとも大きなひとり言なのかも分からないのだ。これだけ凝視してしまった後不自然かも知れないが、いっそ何もなかった事にしてこの場を立ち去ってしまいたかった。それが、許されるのであらば。
「……入らないんですか」
戸を塞ぐように立ち竦んだ己がかける言葉ではないかもしれない。けれど互いにこのまま立往生というのも可笑しく、そうして相手が動くのを待てるほどハロルドは気が長い性ではなかった。
少年は声をかけられ漸くこちらを見ると今度は射るように視線を貫いてくる。まるで瞳を抉られるかと錯覚するような。そしてその威圧的な眼差しで確信する。コレは、人間ではない。
彼は長い長い凝視を経てひとつ瞬きをすると、打って変わってへらりと笑った。胡散臭さを隠す気は毛頭ないらしい。
「今はまだ入るには少し早いんだよ」
「早い?」
「うん。たまに様子は見に来るけどね。あとは道案内が得意だからお客さん連れてきたりもするかな。まぁ、猫よりも更に気まぐれなんだけど」
肩を竦めながら目を細めて笑う。愛想よく見えるその笑顔も、先の鋭い目線がよぎって碌な相槌も浮かんでこない。もっとも彼自身もハロルドの返事など興味がないのだろう。ところでさ、と少年は早々に話題を変えた。
「君はここの喫茶店て一体何だと思う」
随分抽象的な問いだ。
けれど何も分からぬ程初心でもなかった。寧ろその類に関しては人よりも精通している自負まである。それでも答えを口にする事を憚られたのは、彼はこの喫茶店をいたく気に入っており、そしてその距離ををはかりかねていたためである。
その逡巡を知ってか知らずか、少年は唄うように紡ぐ。
「 “呪い” の受け口さ。人のもつ妬みやら嫉みやら汚くおぞましい感情が綯い交ぜになって生まれたモノの捌け口だよ。だからこの店に入れる人間なんて碌な奴はいない。でも逆に言えば幸運でもある。だって憑いた厄を落とせるんだからね」
彼はこちらを一瞥して嗤った。
「俺だったら、君は招待しなかったかな」
ぞわりと身の毛がよだつ、というのはこの事を言うのかもしれない。
脳がこの場を離れろと警鐘を鳴らす。間違っても目の前に立つ少年の姿を象ったコレには迂闊に手を出してはいけない。かつて店に半ば強引に連れてきた涼子という女も大概な女狐ではあった。だがそれとは格が違う。モノノ怪の一角やそこらでは話がつかない。
合ってしまった瞳が反らせない。まるで暗く抜け出せない深淵を見ているようだ。そうしてまた彼もこちらを見返している。深く深く覗くように自分を暴いて行く。オレンジ色の夕陽が照らして辺りを金色に包み込んでいるというのに、彼の髪も目も染まらぬように黒く塗りつぶされているかのようだった。いや、もしかしたらそこだけ別の空間なのかもしれない。時間が止まってしまっているのかもしれない。そう錯覚するくらいには、少年自体が何ものにも染まらずそこに確然と存していたのだ。
手に汗の湿る、拳の気持ち悪い感覚が不快だった。再び風が強く抜けて互いの髪をかき混ぜる。そうして漸く息継ぎができた気分になる。事実そうなのかもしれない。彼は視線を沈む夕日に移していた。
「ねぇ、左目の調子はどう?」
気怠そうに聞くくらいなら興味を失して解放してくれたら良いのに。その心中を悟られぬようハロルドは緑に光る片目を隠すように手で覆った。
夏にひょんな事で失った左目は今は義眼だった。だが実を言うと実眼を損なう前から少しずつ光は失いつつあったのだ。そこで義眼に変われどさして支障は無かったし、元よりあらゆる方法を試したものの甲斐はなく、半ばそれも運命だろうと諦めていた。しかし不思議だったのは、左目ほどではないものの、やはり不調だった右目が義眼を嵌めてから少しずつ回復してきたことだ。何かまじないでもと探りはしたものの、自身には馴染みがないものなのか全く理屈は分からなかった。今では以前使っていた眼鏡も必要ないほどに回復している。
そう、この義眼こそ、店で譲り受けたものだった。
「それ、幸運を運ぶ座敷わらしからの珍しい贈り物なんだ。大事にしてよね。あと片眼鏡も持ってるでしょ。それも出来れば普段からつけといた方がいい」
有無は言わせぬ圧があった。初対面の男に言われるには訝しいことこの上ないが、否定する理由もなくただ首を縦に振る。そして気まずさと所在無さ故に乱暴にジャケットのポケットへ手を突っ込むとカチャリと爪に金属が当たった。見ずとも分かる、彼の言うシルバーフレームの美しい片眼鏡だ。部屋に置いてきた筈だとか、こんな無造作にグラスをポケットへ入れるなんてとか、きっとそんな事を考える権利なんて自分にはない。手持ちのチーフで軽く拭い言われるがままに目元へ運べば、満足そうに彼は笑った。
「今日は君に挨拶に来たんだ。名は三統彦って言うんだけど、普段は三彦で通ってる。まぁ、堅苦しいのは嫌いだからミッちゃんて呼んで」
「三統彦? まさか、八咫の……、」
「ミッちゃんだってば。そういうのは別にいいから。今度会う時は酒でも交そう」
それじゃあ、またね。と彼は本当に店には入らず夕日の向こうへ去っていった。薄紫がかった空は濃紺を運んで、彼方には一番星が煌めいている。左目に光るシルバーフレームが返事をするかのようにきらりと瞬いた。
遠くではカラスが鳴き、目の前の道脇を子どもが駆けて家路を急いでいた。先よりも風は随分と冷たくなったように感じる。
肌が冷えて、もう一杯だけ。出たばかりの喫茶店の扉にもう一度手を掛けた。それは決して、彼が言うまじないなどの類で惹かれたわけではない。ここの店主の人柄の、あの居心地の良い暖かさが恋しくなった、それだけである。
あぁ、それだけなのである。