審義の上り坂
深夜の王城は静まり返っていた。
ディオニクス王は、渡河の失敗によるレオルの死を確信していたようで、すでに寝殿に入ってしまっている。
しかし、セルビアヌスはレオルの死を信じていない。
自分が信じなければ、本当にレオルは死んでしまうと思う。
来ると信じているからこそ、自分はこうして吊るされているのだ。
あいつは必ずここに来る。
セルビアヌスの信念は揺るがない。
街道を見つめ続ける彼の目線の先に、人影が映った。レオルではないかと期待したのだが、近づいてくるそれは、伝達兵であった。
伝達兵は、城門内に入ると門番の衛兵に話しかけている。
おそらく、王への伝言を持ってきたのであろう。しかし、王は就寝中であるため、起こしてまで伝えるべきかどうか、考えあぐねているようであった。
衛兵は、困った顔で、寝殿のほうへ恐る恐る向かっていった。寝ている王を起こして、機嫌を損ねさせるのが怖いのだ。
その間に、セルビアヌスは城門脇で待っていた伝達兵に、何事かと聞いた。
もともと、セルビアヌスは罪人として吊るされているわけではない。あくまでも身代わりとして、ここにいるだけなのだ。しかも伝達兵にとって、彼は上官にあたる存在である。それらの理由から、伝達兵はセルビアヌスの質問に答える義務があると考え、次のように報告をした。
「レオルが、川を渡り、配走人の道を通って、こちらへ向かっております」
セルビアヌスは、体が自由であれば、飛び上がって喜びたい気分になった。
しかし同時に、この報告が王の耳に入ることを恐れた。叶うならば、王は今夜中、寝ていて欲しいと思った。
その願いは、むなしく破られる。
王が寝床から起きてきたのである。顔はあきらかに怒気を放っていた。
伝達兵からあらためて報告を聞くと、寝起きのディオニクス王は衛兵に命じた。
「配走人の道を知っているやつを呼んで来い。レオルの足取りを先読みするのだ」
そう言うと、独り言のように「ブリュンハイドは一体何をしているのだ」と呟き、その後、セルビアヌスのほうを向いて、こう言った。
「こそこそ走っているお前の友人に、なにか特別な贈り物をしてやらないとな」
セルビアヌスの喜びは、ぬか喜びになってしまった。
レオルは道なき道を走っていた。
王城の前にそびえたつ大きな山の道である。
国の首都を守るはずの山が、国に住む友を助けるために走る市民の、行く手を阻むことになっていた。
これを超えれば、セルビアヌスが待つ城が見えるはずだ。レオルは一心不乱に走る。
城から伸びる舗装された街道は山と山の間を迂回するように敷かれているため、行き道は平坦に近い道筋だったが、この配走人の道は街道のように蛇行せずに、山を乗り越えるようにまっすぐ王城へ向かっているため、起伏の激しい道だった。
はだしの足裏に、湿った腐葉土が絡みつき、それに混じった小石が突き刺さる。昨日の雨で、十分に水分を含んだ土が泥となり、足を滑らせた。
体のだるい重さに、足元の悪さと、傾斜のきつい上り坂ということもあって、すでに息はあがっていた。脚もまるで棒きれのように曲がらない。
それでも走った。
止まれば、歩くことさえ出来なくなる。
歩けば、走れなくなる。
体が、それを教えてくれていた。
走れるところまで走る、などという考えは毛頭無い。
なにがあっても最後まで走る。
足がもげれば、体で走る。
体がちぎれれば、頭だけで走る。
頭が砕ければ、眼だけで走る。
たとえ髪の毛一本になっても、なんとしてもたどり着く。
それが約束なのだ。
友人だけでなく、今日のあいだに出会った人たちとの約束なのだ。
レオルは、荒い呼吸の中、天を仰ぎながら、走った。
城門の中、たいまつの灯りに照らされたディオニクス王の顔は怪しく揺らめいていた。
ほどなくして、キアヌという者が、衛兵に連れられて、王の前に差し出された。
キアヌは元・配走人である。被っている帽子の下から見えるその顔は、卑屈にゆがみ、王に媚びていた。
この男は昔、とある豪商より預かった大金の一部を盗んだという理由で解雇された者である。
王はひれ伏すキアヌに対して、ぶしつけに言った。
「お前、配走人の陰草の道を知っているか」
自身の走る道を教えることは、配走人にとっては暗黙のタブーである。
しかし、それに対して、キアヌはうやうやしく答えた。
「もちろんでございます。彼らは、いまのいままで、道を変えたことはありません」
ディオニクス王はそれを聞き、命じた。
「ならばお前、俺の配下の者たちに、その道を案内してやれ」
キアヌは、即答すると、立ち上がった。そして後ろに控えていた衛兵と一緒に門外へ向かった。立ち上がり、後ろをむきながらキアヌは、王の後ろのセルビアヌスをちらりと見た。
なぜ、警備隊長がここに吊るされているのか。
そういう怪訝な顔をしていた。
キアヌは、レオルの一件を知らないのである。
元・配走人が居なくなると、若き王はセルビアヌスを見て言った。
「なあに、心配するな。さっきも言ったように、頑張るレオルに差し入れをしてやろうと思ってな」
にやつきながら王は、セルビアヌスに対しても、そのときすでにひとつの罠を考えついていた。それは、彼の信念を試してみるための策略であった。
レオルの肺が、危険信号を出している。
息を吸う力も、吐く力も失いそうなほど、肺の力は弱っていた。
それほど、この上り坂はきついのだ。
整地された道ではない。
大きく固い雑草や、伸びた蔓、ごつい石などがレオルの足元をぐらつかせた。
そして時折、上空の枝に巻かれている緑色の紐を確認しながらの登坂である。
近道とはいえ、険しすぎた。
それにも関わらず、かなりの時間をずっと走っていた。
夜の色が、黒から藍に変わりつつある。
少し向こうのほうの、大きな岩のある場所を視界がとらえた。
とりあえず、あそこまで走ろう。そして、あそこについたら、次の目標を決めて走ろう。
それが、走り続けるための動機となる。
とりあえず、あそこまで――。
その目標まであと少しのところで、レオルは地面の蔓に足をとられ、思いっきり転んでしまう。
足下の雑草に頭から突っ込んだ。
急速に太ももとふくらはぎの筋肉が硬くなっていく。
足の裏がじんじんと痺れはじめる。
肩が重い。腰もだるい。膝が痛い。
前に出るという気持ちが、坂を転がり落ちていくようであった。
暗闇に閉ざされていた街道の向こう側が、城門越しに薄く見渡せるようになってきた。
夜の間に減ってしまっていた、城門のあたりに集まる市民の数も、再び増えてきた。
セルビアヌスは、今か今かと、レオルの到着を待つ。
ときおり襲ってくる睡魔の甘い誘惑が、セルビアヌスを眠りの淵へといざなってくる。
そんなとき、彼は杭に後頭部を叩きつけて耐えながら、待ち続けた。
キアヌと話をした後、王は再び寝殿に戻っている。
王の罠がレオルを襲う前に、友にはここへたどり着いて欲しかった。
それから程なくして、街道の向こうから、一人の伝達兵が、セルビアヌスの元へやってきた。いままで報告に来ていた者とは違う、小柄な男であった。
門番に許可をとった後、その伝達兵は、近づいて来て、小声で言った。
「セルビアヌス様、レオル様からの伝言でございます。」
目の前の雑草を掴みながら、レオルは這いつくばって進んだ。
立ち上がる力が湧いてこない。
それでもレオルは進む。
転んで調子がずれたのか、呼吸はさらに荒くなり、息を吐いて良いのか、吸って良いのか、わからない。
鼓動も激しく胸のあたりをきつく打っている。
頭が朦朧としてきた。
視界の淵が白く濁る。
朦朧とする闇の景色に、それよりも暗い雲のようなものが、じんわりと映りこんできた。
その暗雲は、レオルにゆっくり接近し、穏やかにささやきかける。
――もうお前は充分やったのではないのか。
低い、女のような声であった。
――これ以上走ると、お前は死ぬ。吊るされて死ぬ前に、死ぬ。
雲が体にまとわりつき、首筋を舐めてきた。
――ここで寝ていきなさい。
甘美な言葉であった。寝る、という言葉がこれほどまでに愛おしいとは。
雲に抱かれた。花のような匂いがした。
レオルはうつぶせの状態から、体を返して仰向けになった。
裸の上体に、やんわりと雲がかぶさる。
――お前の友人も納得しているよ。お前は頑張ったのだから。
じめじめした汗をかいている素肌を、雲がひんやりと包んだ。柔らかい重さが、レオルの腹のあたりに乗ってきた。
レオルは女を知らない。だが、これは女の感触だと思った。
レオルの想像通り、暗雲は女の形となった。美しい、裸の女になった。
――ここで、私と愉しみましょう。その後、家に帰って、妹夫婦と一緒に、幸せに暮らせば良いではないか。
レオルの全身の脈は、さっきまでとは違う鼓動の打ち方を始めた。
息遣いが、短く浅いものになっていく。
女の吐息が、レオルの鼻にかかってきた。
生々しいぬくもり。
女の潤いのある舌が、レオルの口に入ってきた。
粘度のある唾液が喉にまで達し、夢中で飲んだ。
女の温かい手が、薄っぺらなレオルの胸をなでまわし、そのまま下のほうへ流れていく。こそばゆい刺激に、思わず腰が浮いた。
もはや抱きしめる力も出ないレオルは、女のなすがままであった。
思考が遠く離れていき、脳幹のしびれるような快楽が打ち寄せてきている。
もうどうでも良くなってきた。
レオルは、このままずっと、ここで寝ていることにした。
ただひたすら肉欲に、堕ちることにした。
セルビアヌスは、伝達兵の語る「レオルの伝言」を全く信じなかった。
その伝達兵はこう言った。
「レオル様は先程、こちらへ来ることをお辞めになられました。あなたに申し訳ないと、瑠璃の髪飾りもこちらへ返却されました」
伝達兵は、手にある包みの中から、レオルが妹のために持って帰ったものと全く同様の、瑠璃の首飾りを見せた。
しかし、そんなものは、探せばこの街にも幾つかあるはずだ。偽りであると見抜いた。
「嘘を申すな。そのような稚拙な嘘で、私が騙せると思ったか」
こう言われても、伝達兵は平然と言葉を返した。
「申し訳ありません。私にはこれしか証拠がありません。しかし、レオル様は何度も、あなたに申し訳ないと言っておりました。ロイドの丘での約束を、守れなくて申し訳ない、と繰り返しておりました。」
ロイドの丘――それはレオルとセルビアヌスが幼少の頃、抱き合って別れを惜しんだ場所だった。なぜ、それをこの伝達兵が知っているのか。
「それに、レオル様はあなたに会えなくなることを悲しみ、腰袋に入れていた銅色のコインを取り出し、何度も眺めては泣いておりました」
こうして伝達兵は、レオルとセルビアヌスしか知りえぬ情報を、「レオルの伝言」の中に織り交ぜながら、セルビアヌスに語った。
年上の子供にいじめられるレオルを助けに入って、ふたりともやられてしまったこと。
泥棒の罪を着せられたレオルのために、本当の犯人を捜してきたこと。
自分の誕生日になると必ずレオルが、たくさんの川魚を捕まえて持ってきてくれたのだが、猛暑のため、城に着く頃には大半が腐ってしまっていたこと。
セルビアヌスの妹が、城外で野犬に襲われそうになり、レオルが身を挺して守ったこと。
こっそり馬に乗せてあげたこと。
教えてあげた日時計を、レオルはいまだに使っているということ。
ありとあらゆる二人の昔話をされた。
なぜ、こうも色々と知っているのか。
セルビアヌスは、驚いた。
もしかして、本当にレオルと会ったのではないか。
そして本当にレオルは――。
初めて信念の中に疑念が沸いた。
丁度そこへ、ディオニクス王が階段を下りてやってきた。
「おやおや。早起きしてみれば、どうした。何かあったのか」
王の質問に、伝達兵は答える。レオルが諦めた、と――。
王が高笑いをした。それ見たことかと、セルビアヌスを責めた。そして言う。
「セルビアヌスよ。お前ももう諦めたらどうだ。特別に、いま諦めたら、死刑は免除してやる。両目を潰し、舌を半分切り取るだけで済ませてやるが、どうだ? 」
吊るされたまま、セルビアヌスは黙っていた。
口を一文字に固く閉じ、眼を見開き、顔を真っ赤にして、黙っていた。彼の頬の辺りが震え始めた。
王はそれを見て、屈辱に耐えていると思った。
つまり、信頼していた友に裏切られたことに対する、恥辱に震えていると思っていた。
しかし、それはとんだ思い違いであった。
王と伝達兵が見ている前で、突然、ぼきり、と音がした。セルビアヌスのアゴのあたりから聞こえた気がした。
「何事か。貴様、何をしている」
王は音の正体を、何かを耐えるように押し黙っているセルビアヌスに問うた。
すると、杭に吊るされた端正な顔立ちの男の口から、白いものがこぼれ落ちた。
地面に落ちたそれは、歯であった。とがった根元に血肉がびっしりと付着している。
伝達兵の男が「ひっ」と悲鳴をあげた。
そしてもう一度、ぼきり、と同じ音がして、再びセルビアヌスの口から別の歯が落ちてきた。
「どうした。なんだその歯は」
王はもう一度、問うた。その声はすこし上ずっていた。問われた相手は、言葉を落とす。
「歯を、折ったのだ。私は、さっきの一瞬、レオルのことを疑ってしまった。頭の片隅で、あいつが、ほんとうに諦めて逃げたと思ってしまった。両手が自由であれば、私は恥ずかしさのあまり、自分で自分を徹底的に殴っていただろう。だが、今はそれができぬ。だから、歯と舌を使って、自分の歯を折ったのだ。自らの、戒めのために」
痛みのあまり、王に対する敬語を忘れていた。開いた口は、下の前歯が2本なくなっている。口の中は血で溢れ、歯茎や歯の隙間に赤い塊が入り込んで見えていた。
王の命令を持ってすれば、一日のうちに各地の密偵を動かすことができる。集中して自分とレオルの情報を吸い上げれば、なにかしらの話が集まるに違いない。ふたりのことを見ていた者、関わっていた者、あるいはレオルが誰かに昔話をしていたかもしれない――。それらの者を探し出せれば、あとは簡単だ。
そして、その話を伝達兵の情報網に乗せれば、即座に王のもとへ届く。あとは、弁舌が巧みな者に、さも本人から聞いたかのように話をさせればよいのだ。
見抜けなかったことを、吊るされ続けたことによる、疲労のせいには出来ない。
見抜く努力をしなかったのだ。
そのせいで、レオルのことを疑ってしまった。
見抜くよりも先に、一瞬でも疑ってしまった。
だからセルビアヌスは、自分を戒めた。
歯で歯を折るという、壮絶な痛みを伴う戒めによって、自分を責めたのだ。
レオルと再会したならば、自分を殴ってもらおうと思った。自分の気が済むまで殴ってもらおうと決めた。
彼にとって、歯がなくなることよりも、友を疑うことのほうが、恥ずかしいことなのである。
「これから私は、あいつの事を疑う度に、自分の歯を折ってゆく。私がその結果、全部歯を無くしてしまうような、つまらない男であれば、その時点で舌を噛んで死ぬ。たとえ歯茎だけになっても、噛み切ってみせる」
このように述べるセルビアヌスの強い言葉にディオニクス王は狼狽した。いつも冷静な男の中に、熱く揺らぐ炎のような意志を見たからだ。
「お前は何故、あの男のためにそこまでするのだ。あんな貧相で、何の取り柄も無さそうな平民のために」
思わず王はそのように聞いてしまった。このときだけは素直に、人が人を信じる理由を知りたくなったのだ。
「たしかにあいつのからだは弱い。頭もそれほど良いわけではない。おまけに貧しい。しかし、あいつはそんな事、何とも思っていない。あいつは、いつでも前向きだ。それにあいつは――」
ここまで言うとセルビアヌスは、言葉を切ってディオニクス王を見た。そしてごくりと血を飲み干し、こう続けた。
「あいつは、一度決めたことは、絶対に投げ出さない強さを持っている」
幼きころのある日、レオルと一緒に歩いていたセルビアヌスは、道端で銅のコインを発見した。草むらに誰かが落としたらしい。しかし、硬貨の中では一番価値の低い、銅のコイン一枚では、何も買えない。セルビアヌスは何の気なしに、それをレオルにあげた。
レオルは、まるで金貨をもらったかのように喜んだ。唯一の友人からの贈り物である。喜ばない理由が無かった。そのままずっとコインを握り締め、大事そうにその腕ごと胸に抱えた。
その友人と別れ、夕暮れを背に村へ帰るレオルの前に、4人ほどの男の子供たちが現れた。それぞれみな、レオルよりも年上であり、ことあるごとにレオルをいじめていた。
その中の特に体の大きな少年が、レオルが胸に両手で隠すように持っているものを、俺に見せろ、と言ってきた。レオルはそれに抵抗したのだが、力の強い少年たちに羽交い絞めにされ、すぐにコインを取られてしまった。
もっと良いものを持っていると勘違いしていた少年たちは落胆し、レオルを一度殴りつけると、コインをその場所一面に広がる小麦畑の中へ投げ捨てた。
レオルは、あっと叫ぶと、その落ちた場所のほうへ走っていったが、空はすでに薄い闇へと変化していたため、細かい場所まで特定することができなかった。
翌日――、セルビアヌスはその道を、乗馬の練習のため、指導教官と供を連れて通っていた。
すると彼方の小麦畑に人の頭が見える。それを良く見ると、とても知った顔であった。
そのレオルが自身の背丈よりも低い小麦の中へ出たり、入ったりしている。
声を掛けたかったが、セルビアヌスは訓練中であったため、それができず、後ろ髪を引かれる思いで、その場所をあとにした。
翌日は大雨であった。
その翌日も大雨であった。
まだレオルがあそこに居るのではないかと不安になったセルビアヌスは、編み傘を被り、そっと様子を見に行った。
すると、やはりそこにはレオルが居た。
セルビアヌスは急いで、ずぶ濡れの友のもとへ急いだ。そして「なにをしているんだ。病気になるぞ」と心配そうに言った。
それに対してレオルは、君からもらったコインを探している、ということを伝えたのであった。実に3日間、大雨の中で、朝から晩まで探していたのだという。レオルの顔が、赤く上気しているのを見て取ったセルビアヌスは嫌な予感がして、その額に手をあてた。
ものすごい熱であった。
「そんなコインなんか、また俺があげる。だから、家にもう帰ろう。ものすごい熱だぞ。このままここに居たら、死んでしまうよ」
セルビアヌスは必死に説得したが、レオルは応じない。
泥まみれになりながら、足元の泥をすくっては、手のひらを確認する作業を繰り返していた。
「僕にとっては、あのコインは宝物なんだ。君がくれたものは全部、宝物なんだ。絶対に見つけると決めたから、僕はまだ探す」
こうなるとレオルは頑固だった。梃子でも動かない強さを時折、こうして発揮するのだった。
折れたセルビアヌスも泥に裸足を沈め、一緒に探すことになった。
泥まみれは一人から、二人に増えた。
何度目かの泥さらいをして、やがて激しい雨が止むころ、レオルの手の中には、泥に混じって褐色のコインがあった。
二人は小麦を踏みつけて、喜び合った。
レオルはその日から一週間、高熱のため寝込んでしまったが、後で彼に聞いたところによると、熱でうなされていても、ずっと手の中にコインを握り締めていたのだそうだ。
決して、途中で投げ出さない――。
レオルとは、そういう男であった。
レオルのまぐわいは、まだ続いていた。
下になった状態のまま、上に乗る女を求め続けた。
このまま全て忘れてしまおうと思った。
快楽に身をゆだねながら、まず忘れるべき内容をおさらいしてみた。
まず、セルビアヌス。ぼんやりと旧知の友人の顔を思い浮かべた。
すると、上から覗き込む女の顔が、セルビアヌスになった。
次に、ザキット。
煙のように女の顔は、片腕の剣士の顔に変化した。
あとは、狂戦士の老人と、アイゼンウルフ。
女は老人の顔になり、最後は馬の顔になった。
ここでレオルは覚醒する。
こいつは――、幻覚だ。
両腕で、女の幻影を振り払い、かき消した。
乗っかっていた女の体は、黒い煙となって、散っていく。ぬくもりも、重さも無くなった。
レオルの極限の疲労と、妥協が生んだ産物――。それが、黒い雲であり、女であった。
それよりもレオルは、唯一の友人を裏切ろうとした自分を恥じた。
自分をここまで進めてくれた道中の恩人たちに対しても、申し訳ない気持ちになってしまった。
命をかけてくれているそれらの人たちのことよりも、いまだ知らぬ女のことを思い浮かべ、没頭した――。疲労で意識が朦朧としていたとは言え、許されぬ愚行である。
そしてまだ、頭の片隅に、「友のもとへ行かなくても良いのではないか」という誘惑のかけらが残っている気がした。
レオルは、立ち上がり、よろめくように斜面を駆け上がると、前方の大きな岩へ向かった。
そこにたどり着くと即座に、岩に向かって自分の額を思いっきり叩きつけた。
ごつん。
という音がした。
さらに叩きつけた。
自分の頭の中の甘い誘惑を、全て頭の外に出したいと思っていた。
もう二度とそれが戻ってこないように、徹底的に外にはじき飛ばそうとした。
ごつん。
ごつん。
岩に血がにじんだ。額が割れたようだ。しかし、まだこれでは物足りない。友への裏切りの代償にするには、あまりにも小さすぎる。
ごつん。
がつん。
ぐつん。
ぐずん。
ぐじゅん。
ぐじゅっ。
ぐじゅっ。
ぐちゃっ。
どちゃっ。
どちゃっ。
どちゃっ。
岩に当たる硬い音が、乾いたものから湿ったものに変わってようやく、レオルはふと気がついた。
自分はいま、なぜ岩に頭をぶつけているのか。
一体、何をしているのか――。
顔面を血で滴らせながら、彼は岩に頭をぶつけている理由を忘れてしまっていた。
女の記憶ごと、少し前の事が全て、頭の外に飛んでいってしまっていたのだ。
レオルはふらりと立ち上がると、「そうだ、もう行かなければ」と独りごち、おぼつかない足取りで走り始めた。
大きな岩からは、血が滝のように流れていた。