花のエース区間
クーロン川の下流域で、地面に根を生やしたまま半分水没してしまった大木の枝を掴みながら、溺れて意識を失っていたレオルを助けたのは、ザキットという名の配走人であった。
ザキットは、レオルが対岸から川へ飛び込む前より、ひそかにレオルを観察しており、彼が飛びこんだあとも、反対側の岸を走って、流されていくその姿を追いかけていた。そして、レオルが常人ではありえないほどの泳ぎで川を渡り切ろうとしたところで、元より及ばぬ力が尽きてしまい、それでも何とか近くにあった木の枝につかまったまま、動かなくなってしまったところで、ザキットは助けに向かった。レオルの身体は、対岸まであとわずかというところであった。
ザキットは岸辺から手を伸ばし、レオルが掴んでいる枝の根元を握りしめると、自分側に寄せた。ここでレオルの手が枝から離れてしまうと、救出が難しくなるところであったが、レオルの手は、枝を決して離すことは無かった。そして、その体を、川の流れに乗るように岸辺に寄せきると、すばやくレオルの腰帯を持って、片手で軽々と陸地へ引き上げた。
すでにあたりは暗くなっている。
仰向けに寝るレオルの腹を片手のひらで押して、水を吐かせた。ごぼごぼと音を立てて、何度目かの大量の水を吐き切ると、レオルはうっすらと眼を覚ました。輝きの無い、ぼんやりとした眼差しであった。
「大丈夫ですか。レオルさん、しっかりしてください」
ザキットの心配をよそに、レオルはゆっくり周囲を見回した。自分が何故ここにいるのか分からない、といった様子であった。
たしかに現在の事態を把握することはレオルにとって、しばらくの時間を要することに違いなかった。
気分を落ち着かせても、レオルには丸薬を飲んでから、川に飛び込むまでの記憶しか無い。
よって、その後の行動については、ザキットから説明をうけることになった。
ザキットはレオルよりもかなり年上であると思われたが、なぜか平民のレオルに対して非常に腰を低くして接してくれていた。彼は小柄な体型の男で、その頭には紺色の頭巾を被り、そのからだには同じ色の長いマントを袈裟がけに羽織っている。マントがかかっていない素肌の右腕が、筋骨隆々で恐ろしく太かった。
彼は自分の名前に次いで、配走人であることを自己紹介に加えていたが、レオルにはその職が何なのか、全く分からなかった。
話を聞きながら、地面に座りこむレオルの手足は鉛を詰め込んだように重い。
それでも、「私は行かなければならない」とレオルは立ちあがろうとして、よろけて転んだ。
すでに限界を超えてしまった彼の筋肉は、力を無くしてしまっていたのだ。
「もう少し休んだほうがいい。あなたの泳ぎは普通では無かった。何かもの凄い力が体の底から湧いて出てきているような泳ぎでした。そのため、全ての体力を使いきってしまったのでしょう。あなたが気を失ってから、それほど時間は経っていません。橋が流されているせいで、追手の大将は、上流の吊り橋を通り、半日くらいかけて、こちらへやってくると思われます。ですので、もう少しだけ、休む余裕くらいはあるでしょう」
ザキットは自分の袋から、パン切れを取り出すと、立てずに地面に転がるレオルの口に入れた。
小麦の風味がレオルの乾いた口に唾液を分泌させ、その唾液が小麦粉を溶かし、甘みを作り出す。その甘みはレオルの疲れを少し癒した。
レオルの上体を起こしてあげながら、ザキットは話を続けた。
「あなたのことは我々のみならず、パルメルフの市民も知っています。あなたに起こったことは、王国の伝達兵のみならず、我々配走人も把握し、監視させていただいていましたから。もちろん、昨日あなたが村へ向うときも、草葉の陰から見させて頂いておりました」
行き道のとき、この先の山のあたりで何者かの視線を感じたことがある。あのときの視線は、この右腕の太い男のものだったのか、とレオルは思った。
その後も、妹との別離、狂戦士との会話、馬での包囲突破など、ここに辿り着くまでにレオルの身へ起こった全ての事を、ザキットは知っていると話した。配走人の情報伝達力は、王家の伝達兵にも匹敵するほどの速さを誇っていた。
「そこで提案なんですけどね、レオルさん。あなたのその腰紐にぶら下がっている剣を、私にいただけませんか。きっとあなたのお役に立ってみせますよ」
その剣とは、丘の上で狂戦士にもらった剣であり、レオルは万が一の護身のために使用しようと考えていた武器である。だから、あの激流のなかでも手放すことなく、腰につけていた。
そんな大事なものを、差し上げても良いものか――。
たしかに、命を救ってもらったという恩はある――。
しかし、この先誰かに襲われた場合、剣が無くては闘えない――。
レオルはこう考え、少し話せるくらいに落ち着いてきたので、あらためて訊いてみた。
「なぜこの剣が必要なのでしょうか。これは、私に馬をくださった恩義ある人のものなのです。ですから簡単に譲ることはできません」
ザキットはレオルの気持ちを痛感した様子で、レオルの質問にこう回答した。
「追手を食い止めるためです。この川を迂回して、王の軍勢はあなたの生死を確認しにこちらへ来るはずです。いや、もう対岸から伝達兵が、私達のことを見ていて、あなたの生存を知っているかもしれません。あなたを追撃する軍の大将は、馬に乗っています。このままあなたが普通に街道に戻って、走っていたら、王都に着く前に追いつかれて殺されてしまうでしょう。だから、あなたが最後まで走り抜けるように、私は出来る限り足止めをするつもりでいます。それには剣が必要なのです」
「さっき私に弓を撃ってきた兵士たちは、とてもたくさん居ました。あなた一人で食い止めることなど不可能です。私のために死ぬ必要はないと感じます。私みたいな人間に、助けはもうこれ以上、不要です」
「いえ、食い止めることは、可能です。私ひとりで、十分な脅威に成り得ます」
「なぜですか。あなたは兵士では無いのに」
レオルは、男の自信の根拠を知ろうとした。ザキットが答えようとしたとき、一陣の風が吹き、袈裟に羽織られていたマントが翻ったせいで、覆われていた彼の左半身が露わになった。
男の左腕は、ひじから先が無かった。
レオルがあわてて目を伏せた事に気付かないふりをして、ザキットはあらためて答えた。
「私は、元剣士です。かつてドンゲル橋の戦いで100人を相手に闘ったこともあります。今は理由があって、軍には属していませんが、いまだ剣の腕は衰えておりません」
バイエルハウゼン・ザキットは、前代の王の治世下において、剣士として戦いに従軍する男であった。
左腕は、生まれつきの病気のせいで赤子のときに切り落とされた。
通常であれば、兵士として選ばれることの無い運命に生まれてきたのだが、ザキットの幼きころからの夢は、剣士になることであった。彼は物心ついた時から残された右腕で、小さな棒きれを振っていた。誰かが、そうしろと言ったわけではない。誰かが、こうしたほうが良いなどと言ったわけでもない。彼は、剣士になったつもりで棒を振るのが、好きだった。ただそれだけであった。毎日、日が昇ってから、落ちるまで振り続けた。目の前にハエやハチがいれば、それに向かって棒を振った。最初はまったく当たらなかったが、次第に当たるようになってきた。棒で叩かれ、気絶して落ちていったハエやハチであったが、やがて棒に当たった瞬間に爆ぜるようにバラバラになって落ちるようになった。そして振りすぎて、棒が折れたら、もっと太くて長い棒を振った。来る日も来る日も、棒の大きさ、太さをあげていきながら、少年は振り続けた。
やがて思春期を迎えた頃、少年の右腕は自身の腰の太さほどに発達し、振っていた棒は農業用の大鎌の先端に岩石を巻きつけた重い物になり、ザキットはその自分の背丈ほどもある大きな棒を、まるで小枝のように軽々と振ることができていた。
彼の住む町では年に一回、大規模な剣術大会が開催されており、参加に適した年齢となった彼は、それに少年の部として出場した。
剣術大会は、柔らかい木材で作られた木刀で行われ、寸止めでの決着を求められるものであった。はじめて木刀を手にした少年は、その軽さに驚いた。自分がいままで振ってきたものと比べれば、雲泥の差であり、その一振りは、自分にも見えぬほどの速さで振り回せるものであったからだ。
当然と言うべきか、少年は圧倒的な強さで優勝する。全ての試合において、相手の少年に何もさせず、最初の一振りで、相手の急所に、木刀の先端を寸止めしての全勝。特にその剣先の速さは、観客の大人たちの度肝を抜いた。
さらにザキットは、大会の終了間際に、再び会場へと出てきて、大人の部で優勝したものと勝負をさせて欲しいと大声で願い出た。相手が少年では弱すぎて、物足りなかったのである。
大人の部の優勝者は、剣の腕において近隣に名を轟かせるほどの猛者であった。だから誰もが、対戦は無理だと鼻で笑った。そして、誰も彼の願いを受け入れることをしなかった。それでも少年は訴え続けた。会場の中心に立ち、大声で訴えた。
大人たちは、黙らせようとザキットを会場の外に出そうとしたが、ザキットは手にしていた木刀を振って、彼らを遠ざけた。大人たちが少年の木刀を恐れて近づくことができなかったのは、その速さ、威力が大人顔負けであったのに加えて、その切っ先が殺気じみていたからである。子供の剣とは思えぬ殺気であった。
仕方なく優勝者の猛者を連れ戻して、勝負してやってくれと周りの大人たちはお願いをし、一部始終を見ていた観客も、その勝負を後押しした。
こうしてザキットの願いどおり、ふたりは合間見えることになったのだが、結果としてザキットは、ひどく打ちのめされて負けた。完膚なきまでの負けであった。相手をした剣の達人は、痛みを与えなければ、この子供のためにならぬと思い、寸止めではなく実際に木刀で打ち据えた。
ザキットは全身痣だらけになり、顔も大きく腫れた。そして今度は腫れた顔で、達人に「弟子にしてくれ」とお願いをした。これに達人が二つ返事で答えたことで、ザキットの剣士への道が開かれることになったのである。
達人のもとで鍛えたザキットの剣の腕はみるみるうちに上達し、やがて師匠を超えた。もはや教えることも無くなったと達人は、ザキットを王都の兵士として推挙した。それが受け入れられ、片腕の若者は当時まだ一介の部将であったブリュンハイドの部隊に入隊することになった。このとき、ザキットは18歳。心身ともに気迫で満たされた血気盛んな若者である。
それから数年にわたり、ザキットはあらゆる戦場で活躍した。幼き頃からの念願を叶えることができて、嬉しさのあまり、敵を斬って斬って斬りまくった。
若き日のこんなエピソードがある。
ブリュンハイド旗下の兵士は勇猛果敢な者が多く、あるときの戦場にて大勝利を収めた後、仲間の数人が自分の獲った首の数を自慢し始めた。
俺の首級は4個だ、俺は5個だ、いやいや俺は6個だのと実際の敵の首を持ち寄って話をしはじめたのである。
そんな中、仲間の一人が、ひとつも敵の首を持っていないザキットを見て、揶揄してからかった。それに対してザキットはこう言った。
「敵を倒して首を獲るなどと、そんな暇があったら一人でも多く倒したほうが良い。それに、いちいち首など獲っていると、腰にぶら下げる首級が重すぎて、うまく動けなくなってしまうではないか」
それを聞いた仲間たちは、「ならば自分がそんなにたくさんの敵を倒したという証拠はあるのか」と求めてきた。それに対して片腕の剣士は平然とこう答えた。
「俺は剣の刃こぼれが恐ろしくてな。だから首の柔らかい部分しか斬らぬ。ただし、そこを斬れば、相手は大量の血を噴き出しながら死ぬ。ちょうど首の横の部分だ。そこしか斬らぬ。よって、その部分にだけ刀傷のある死体の数が、俺の倒した人数ということになる」
動いている人間の、兜と鎧の隙間にある肉体の部分だけを狙うということは至難の業であるが、ザキットは乱戦の最中、その僅かな隙間に剣先を通したと言った。仲間達はそれを聞いて、そんなことは無理だと笑った。バカにされたと思ったザキットは、ならば今から戦場跡に確認へ行こうと言って聞かず、疑いの目を向ける仲間達を連れて、先ほどまで自分達が戦っていた場所へ確かめに行った。
すると、多くの死体に混ざって、沢山の綺麗な死体が見つかった。それらは皆、何が起こったのかわからない、という顔で死んでいた。兜を脱がして首元を確認すると、喉仏の横あたりから耳のあたりにかけて深い切り傷があり、大量の血が流れ出た痕跡が見つかった。
そういう死体の数は、ゆうに50体を超えていた。
ザキットは戦場において敵の剣や槍をかわしながら、敵の頚動脈のある部分だけを狙って闘っていたのである。
そんな凄腕の剣士を一躍、歴史の表舞台に上げた戦いが、「ドンゲル橋撤退戦」である。
高い統率力と戦闘力によって幾多の戦争に勝ち、領土を拡大し続けてきたアラミス王であったが、さすがの彼にも何度か敗北を喫したことがあった。その中のひとつの、とある戦いにおいて大敗を喫し、戦場からの撤退を余儀なくされたアラミス軍は、敵軍の熾烈な追撃に遭うことになる。
その戦いは遠征だったということもあり、部隊の後方に控える、食糧や水などを大量に積んだ補給部隊を守りながらの撤退となってしまったが故、移動速度が遅くなってしまい、迅速な退却ができず、部隊の2割ほどが撤退時に壊滅の憂き目をみた。
撤退時に重要なのが、追撃してくる敵と戦って時間を稼ぎ、その間に部隊を遠くへ逃がす役割を担う、最後尾の守備部隊・殿軍の存在である。
殿軍になるということは、逃げずに残って戦うということであり、必然的に命を落とす可能性が高くなる。そんな誰もが躊躇してしまう最後尾の守りに志願したのは、まだ若き一介の部将に過ぎなかったブリュンハイドであった。
アラミス王の許可の下、剣士ザキットなどの荒々しき猛者を率いるブリュンハイドは、逃げる自軍と追う敵軍の間に広がる川にかかる大きな橋・ドンゲル橋にて追撃軍を迎え撃つことに決めた。
大きな橋とは言え、深い河川に架かるドンゲル橋は手を広げた大人4人分の横幅しかなかった。つまり、一気に大勢を通せないのである。ブリュンハイドの狙いはここにあった。
つまり、橋に数人の猛者を置き、橋を通ろうとする同じ数の敵に当たらせるのである。仮に敵が大軍であっても、橋を通るときには4、5人の列になるため、相対して闘う人数としては、ほぼ同じ数に持ち込めるという計算があった。また、一気に通れないことで、敵の進撃の流れを止め、自軍をより遠くに逃がすこともできる。ブリュンハイドの部隊は50人ほどしか居なかったが、橋を利用することで、ある程度の時間までは、前線を交代しながら敵と互角に渡り合うことができるはずであった。
ブリュンハイドは、最前列にて敵を迎え撃つ者の人選を始めた。すると、左側をマントで隠し、紺色の頭巾を被った若き剣士、ザキットが前に出てきてこう言い放ったのである。
「一番前は私だけで十分です。私が死ぬまで皆さんは後ろで見ていてください」
ブリュンハイドがそのように言い切る理由を聞くと、精悍な顔でザキットは答えた。
「こんな狭い幅の橋の上で、私の近くに味方がいると、自分の剣の邪魔になります。私の両脇は、左手側であっても誰も通したりしませんから、一人で前に立たせてください」
自信ありげに言い張る様子の若者を見て、ブリュンハイドはそれを許可した。いままでのザキットの、優れた武功も知っていたから彼に任せることにしたのだ。しかし、一つだけ忠告した。
「ザキットよ。お前はさっき、自分が死ぬまで、と言ったが俺はお前を死なせない。駄目だと思ったらすぐに次の者を送り込むから、かならず逃げよ。お前の死ぬときは、俺が決める」
ザキットはその言葉に感謝し、それにあたって数本の剣が欲しいと申し出をした。ブリュンハイドは配下の人間に持っている剣をいくつか彼に貸すように指示を出す。そして、10本ほどの剣が集まった。
さっそくザキットは、橋の中央に立ち、借りた剣を橋板のあちらこちらへ突き立てた。狭い橋の上に10本の白刃が直立する様は、それだけでもある程度の敵の足止めになりそうな感じに見えた。
当時の兵士たちは、戦場では剣を腰に差していたが、乱戦であまり使用することはなかった。剣を使うときは、組討になったときや、相手の首を獲ったりする場合に限られていたのだ。乱戦の最中で、鎧兜を着込んだ何人もの敵を相手にする場合は、剣だとすぐに刃こぼれして使い物にならなくなってしまうからである。だからもっぱら、槍で突いたり、叩いたりすることが主な攻撃方法であり、中には好んで剣を使うものいたが、それは重量のある大剣で、斬るというよりも、叩き割ることを目的としていた。
しかし、それら槍や大剣は両手で扱うことが前提であったから、片手のザキットは、軽くて長い剣を使うほか無い。そうなると、すぐに剣は刃こぼれしてしまう。その弱点を補う方法が、敵の柔らかい部分のみを斬る技術であった。しかし、そうして刃こぼれを防いでも、人間の血糊と肉の脂が刃先に付着して、やがて斬れなくなってしまう。だから大勢の敵を相手にする場合は、何本も剣が必要になるのであった。
そのためザキットは、名刀と言う類のものに興味がなかった。剣は消耗品であるという思いが強かったからだ。彼は戦場において、殺した敵から剣を奪い、それを使って闘う方法を好んでいた。そうすれば、永遠に斬り続けることができると、彼は考えていたのである。
10本目を橋板に刺し終わったとき、向こうから激しい土煙と足音と共に、追撃軍が迫ってきた。いよいよである。その数およそ200。ザキット以外の味方は橋の後方にて、待機した。しかしただ待機していたわけではない。もしもザキットの脇を敵が通過した場合、その敵を倒せるような準備は怠ってはいなかったのである。
ザキットは橋の入り口あたりで、自身の所持する剣をだらりと構えて、追撃軍を待った。
まず橋に向かってきたのは足の速いと思しき槍兵4人。
鋭くとがった槍先が、一寸違わぬ高さに合わせられて並んでいた。
ザキットは一斉に突き出されたその槍たちを一刀の下に叩き落とすと、左から右へ剣を一閃させた。
揃えたように血しぶきがあがる。4人とも見えぬ速さで喉元を斬られていた。
その場にどさりと倒れた敵を踏みつけて、次の敵が襲いかかってきた。
またすばやい動きでザキットは斬り捨てる。
追撃軍は軽装であった。よって防具で守られていない、柔らかい部分が多かった。
首筋を割られ、腹を裂かれ、ザキットの前に、次々に死体が転がった。
敵はその死体を乗り越えようとして斬られた。
次の敵はさらにその死体を乗り越えようとして斬られた。
ザキットの腕のない側、左側を抜けようとしたものもいたが、すぐに追いつかれ斬られた。
その背後を狙った敵も振り向き様の返す剣で斬り伏せられた。
斬られても死に切れない敵を蹴り飛ばして、欄干から川へ落としたりもした。
このときまで、敵はみな、所詮一人、とザキットのことを侮っていた。
その先で待機しているブリュンハイドの部隊のことしか見ていなかったのだ。
しかし、ザキットの周りに死体の山が出来上がった頃には、追撃軍全員が、目の前の片腕の剣士に注目していた。
いや、目を離すことなどできなかったのだ。敵兵も覚悟していた。目の前の相手を倒すことは命がけであり、至難の業であると。
ザキットにとって、ここからが正念場となる。
最強の剣士を夢見てきた男の、真骨頂――。
一瞬の間をおいて、再び敵の猛攻が開始した。
一斉に切っ先の角度を変えて、敵が飛び込んでくる。
橋を抜けることが優先ではなく、この男を倒すことが優先とばかりに敵が襲い掛かってきた。
それをかわし、あるいは蹴り飛ばし、斬った。
裂いた。割った。断った。
そして剣の斬れ味が悪くなると、橋に刺さっている剣を抜き、それを使った。
また斬った。
動くものは皆斬った。
我武者羅に斬った。
足が血で滑る。
滑りながら斬った。
立ち上がりながら斬った。
振り向きながら斬った。
つまずきながら斬った。
乗り越えながら斬った。
これが俺の夢だったと思いながら斬った。
恍惚の笑みを浮かべながら斬った。
快楽に押しつぶされながら斬った。
狂いながら、斬った。
大量の死体から流れ出る血が、橋一面を赤く濡らしていた。
橋板の隙間から、血が川に流れ出て、やがて川も赤く染まった。
その様子を後方で見るブリュンハイドは戦慄を覚えた。
彼のみならず、その場にいた味方は全員凍りついていた。
橋の上に血まみれの悪魔がいる。
凶気あふれる悪魔。
人を斬ることで喜びを得る悪魔だ。
その腕は一本しかないはずなのに、剣を振るうごとに、時折いっぺんに複数の血しぶきがあがる。
そのしぶきは空中で一旦静止し、雨となって降り注ぐ。
とにかく、あたり一面の光景は、褐色の赤であった。
悪魔の体も、返り血でぬらぬらと光っており、上がりすぎた体温によってその血が蒸発し、湯気が立っていた。血の煙である。悪魔自身も全身に、赤をまとっていた。
やがてその悪魔は敵を斬ることに飽き始めてきたのか、刃を相手の眼に突き立ててみたり、口の中に突っ込んでみたり、腹に刀身を深く突き刺し、抜くときにねじりながら、臓物を引きずりだしてみたり、明らかに常軌を逸した行動を取り始めた。
すでに、橋板に刺さっていた剣は、全て使い切っていた。残されたのは、その手にあるもの、ただひとつ。
敵兵の数は、最初の半分以下に減っている。
あまりの強さに、敵兵で彼に襲い掛かるものは、誰も居ない。
彼らはただ遠巻きに、飛び込む勇気も湧かず、剣や槍を構えたまま、動けずにいた。
橋の上は死体だらけで、もとの橋板の模様などすでに見えなくなっている。
あの片手の悪魔は、積み重なった死体の上でまだ闘っていた。
剣をだらりと下げ、にやけた表情のまま、敵に向け、来い来いと叫んでいた。
そろそろ危ない、とブリュンハイドは思った。
あきらかにザキットは狂っていた。
殺戮に狂いすぎていた。
そのとき、ふいに、相手の後方から馬に乗った人物が突出してきた。
この時代、軍馬に乗れる者は限られており、それは大概、大将とか部将クラスの猛者を意味する。
つまり、こちらへ突進する馬上の戦士は、追撃部隊の指揮官あたりであると思われた。
橋を突破できない兵士達の不甲斐なさに憤り、槍を持ち、自らが出てきたのである。
よほどの猛者とみえる。敵兵が道をあけた。
その道を馬が、ザキットに向かって一直線に進む。
ブリュンハイドの旗下にいたひとりが、おもむろに馬上の主を射抜かんと弓を馬のほうへ向けた。しかし、ブリュンハイドはそれを制した。ザキットが構えたからである。先ほどまでとは打って変わって、冷静に馬に向かって剣を構えたからである。
ザキットの取れる行動は二つしかないと思われた。馬に当たって弾き飛ばされるか。馬を避けて槍に貫かれるか。いずれにせよ、陸上の、それも幅の制限された橋上では、馬との相性が悪い。それでもブリュンハイドはザキットの最後の勝負を信じた。
これを倒せば、とりあえず最初の追撃部隊は壊滅する。壊滅させれば、先に退却中の部隊たちも、自分達さえも余裕を持って移動することができる。ブリュンハイドは、ザキットに賭けた。
ザキットは笑っていた。
馬に対峙している状況で、笑っていた。
殺すことが楽しいわけではない。
剣で斬ることが楽しいのだ。
さっきは、かなりおかしくなっていたと自覚している。
人をたくさん斬りすぎて、理性が飛んでしまっていた。
しかし、ここに来ての、この状況――。
闘いの、最終局面――。
ザキットは冷静になった。
馬との距離が縮まる。
馬上の男は、ザキットが槍を持つ自分の右手側にしか避けられないように、馬をやや左に寄せて走っていた。
ザキットは槍を避けるか、馬を避けるかの選択を強いられた。
ザキットは、前に出た。
馬のほうへ、走る。
相手の槍先が、ザキットの胸の高さに合わせられた。
そのタイミングで、ザキットは剣の柄を逆手に持ちなおすと、肩のあたりまで上げた。
そして、走りながら投げつけた。
剣は真っすぐ、馬上の男の首に突き刺さった。
落馬する武将。
その時、
「逃げろ! ザキット!」
ブリュンハイドは叫んだ。控えていた仲間たちも救援のために走りはじめていた。
乗り主を失った馬はそのまままっすぐ、ザキットの横を通り過ぎて行こうとした。その馬の手綱をザキットはかろうじて掴む。
武器を無くした相手に、敵兵が襲いかかった。部隊長の仇とばかりに。
馬に半ば引きずられながらザキットは、ひらりと馬にまたがり、剣戟を避けるように後方へ下がった。
入れ替わるように、味方が敵にあたる。
猛将は、ザキットだけではない。この部隊は、全員が腕に覚えのある者達で構成されているのだ。
敵は、鉄のぶつかり合う音とともに、思い思いに吹き飛ばされ、槍や大剣の餌食となった。
ザキットは馬にうずまるように気を失った。その馬がブリュンハイドの隣を過ぎようとしたとき、ブリュンハイドの太い腕が手綱を掴み、馬は一瞬で動きを止めた。
ザキットの疲労は限界まで達していた。
橋の上で、40分以上も闘っていたのである。
この足止めのお陰で、すでにアラミス軍本隊は退却に成功し、自軍に有利な場所での再戦の準備ができていた。
殿軍のザキットが、ひとりで斬った敵の数は、ざっと見積もって100体以上。
指揮官を無くした残りの追撃兵は、混乱し、壊滅させられた。
ブリュンハイドは動けぬザキットをそのまま馬の背に乗せたまま、敵の後詰が来る前に撤退した。
こうして、ドンゲル橋での撤退戦は幕を閉じた。
ザキットはこの戦いによって名を上げ、『片手100人斬りのザキット』と敵味方から恐れられる剣士となった。このとき、バイエルハウゼン・ザキット20歳。
ここが彼の、人生の絶頂期であった。
夜の闇が深く落ちてきた。
傍らにある川の濁流は、あいかわらず白いしぶきをあげながら、黒くうねっている。
レオルはザキットに自分の腰にあった剣を持たせ、彼の右手と剣の柄を腰帯で結び付けていた。
「久しぶりの剣ゆえ、血で握りが滑ると困るから、わたしの腰帯で剣が手から離れないようにしてください」
とザキットが要望したからである。
結果として、レオルはザキットに剣を渡した。
彼の戦士としての来歴を聞いたからである。または、レオルの手助けをどうしてもしたいと強く懇願されたからでもある。しかし、ひとつだけまだ訊いていないことがあった。
手と剣をがっちりと固定しながら、レオルは訊いた。
「あなたはなぜ、こうまでして私を助けてくれるのですか?」
月明かりもあまり届かぬ暗闇であったが、ザキットの目が炯々と光を放った。
「それを訊かれたら言わねばなりません。これは、あなたが友のために自分と闘っておられるのと同様、私は自分の過去のために闘わなければならない時が来たということなのです」
ザキットはドンゲル橋の戦い以降の、自身のことを語り始めた。
ザキットはドンゲル橋の戦い以降、10年の間、武功を重ね続け、ブリュンハイドがついに大将へ昇格したときに、その副将となった。その後、ほどなくしてアラミス王が崩御し、その息子であり、唯一の男子であったグレン・ディオニクス・セラティノスが二代目の王として即位した。
即位する前から、その気性の荒さと残忍さをすでに多くの人々に指摘されていたディオニクスは、狂気の王となり、さらに自分の欲望のままに動いた。
そしてその渇いた欲望は、不運なことに、ザキットの妻にも向けられることになったのである。
ディオニクス王即位の祭典が、前代の王の葬儀の後、3日間に渡り行われた。祭典には重臣たちの家族なども城下にて参加し、即位を祝福した。
その二日目、酒に酔ったまま、護衛に守られ、不機嫌な様子で城下をふらついていたディオニクスは、その近くをザキット夫妻が仲睦まじく歩いている様子を目撃する。
ザキットの妻は、男ならば誰でも振り返るほどの美人であった。すでに夫との間に2人の子供をもうけていたが、それを感じさせぬ若さと瑞々しさを兼ね備えていた。
かなりの好色家であったディオニクスは、その美しさと、それとはまた別の理由でこの女性を欲した。そしてその奪い方は、普通に木の上の果物をもぎ取るようであった。
並んで歩くザキット夫婦の間に入り込み、妻を連れて行こうとする王。ザキットは抵抗したが、王に命じられた衛兵に取り押さえられてしまい、身動きを取ることができなくなってしまった。ここに剣があれば、と思ったが祭典につき、帯剣は禁じられている。この時もし、ザキットが剣を持っていれば、衛兵を倒し、恐らくはディオニクスを斬り付けていたかもしれない。
妻は強引に城内に連れていかれ、帰ってこなかった。
暴れるザキットは牢へ閉じ込められた。
翌日、祭典の最終日の夜。
各将兵たちが余興を王の前で行っていた。
演舞や火の輪くぐり、歌の披露などさまざまな芸をして、王を喜ばせようとしている。
彼らはみな、昨晩のザキット夫妻のことを案じてはいたが、それを忘れるように振舞っていた。
しかし、余興につまらなそうな顔をしていた王は、あの女を呼べ、と護衛の者に命ずると、忘れようと努めていた周囲の将兵たちは否が応でも、思い出してしまうことになった。王の寝殿へ強引に連れて行かれたザキットの妻のことを――。
王が座る玉座の前に放り出された剣士の妻は、明らかに憔悴しきっていた。
髪は乱れ、化粧は落ち、真っ赤に充血した目からは大量の涙が流れたのであろうか、頬には涙のあとがうかがえた。
王はその妻を見て、おまえには用がなくなった、と冷たく言い放ち、さらに続けた。
「最後の余興だ。皆の者、この女が面白い芸をするぞ。貴様、剣を呑んでみよ」
と、白面の表情ひとつ変えずに、残酷な言葉を吐いたのである。
王は自分の腰にある長剣を鞘から抜いて、地面へ放った。
数回、地面の上で跳ねた剣はザキットの妻の前に転がってきた。
妻は、なにを言われているのかわからぬ風であった。だから、もう一度あえて、ディオニクス王は言った。
「その剣先を口から呑めと言っているのだ。全部呑めたら帰してやる。牢獄の夫もな。呑めぬと言うなら、それは俺の命令に背くといくことだ。そうなると、どうなるのか、わかるな」
自分も、夫も、子供も殺す――。
そういう意味であった。
強烈な理不尽であった。
その様子を見守る重臣以下の将兵は鳥肌がたった。あまりの残忍な要求に震えた。
しばらく考えた妻は、意を決した顔で、剣を手にする。
これで王を斬りに行く、という選択肢もあったが、玉座の周りには武装した兵士たちが並んでいる。ここで斬りこむのは無理に思えたし、万一失敗した場合、家族の命に危険が及ぶことを恐れた。
だからこそ、呑んだ。
剣を持ち、立ち上がり、叫び声や呻き声ひとつあげずに、剣先から一気に呑み込んだ。
眼はカッと見開かれていた。
妻の足元におびただしい血液の塊が、ぼたぼたと落ちる。
妻はゆっくり膝から崩れ、眼を開けたまま、うつぶせに絶命した。
剣は、刀身の根元近くまで、押し込まれていた。
愉しそうなのは、王ただひとり。
反対に、しんと静まり返る周囲の家臣たち――。
壮絶な光景に、見ていた者全員、王に恐怖した。
我々はとんでもない悪魔に仕えることになった、と心の底から恐怖したのだった。
ザキットは翌日、釈放され、前日の残酷な出来事を聞いた。
王を、殺そうと思った。
家に帰り、剣を取り、王城を襲撃しようと決意した。
家に戻ると、父母が戻ってこぬことを心配していた子供たちがいた。
10歳と8歳の男の子である。ふたりは父をみて泣いた。そして母を探した。
父は何も言わずに、壁にかけていた剣を2本、右手に掴んだ。
そして何も言わずに、子供達に背を向け、外に出た。
外にはブリュンハイドが居た。
その大男は、ザキットの前に立ちはだかって言う。
「そうくることは王も読んでいるぞ。城門内の警備は厳重だ。お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、耐えるんだ」
ザキットの表情は死んでいた。悲しみと怒りで、死んでいた。
「俺ならできます。邪魔する者は一人残らず斬れます。そしてあいつのもとへとたどり着けます」
眉ひとつ動かさずにザキットが、口からそう言葉をこぼした。
しかし、ブリュンハイドは固い表情で拒む。
「駄目だ。行かせることはできない。早まるな」
その言葉を無視して、ザキットは前に進もうとした。その体をがっちりと、ブリュンハイドは抱きかかえて抑える。ものすごい力で羽交い絞めた。そして太く言いつけた。
「死ぬな。お前の死ぬときは俺が決めると言ったはずだ。お前が死んだら、あの子達はどうする。野良犬のような人生を送らせる気か! 」
ふたりの子供は玄関先で、様子を窺っており、その心配そうな眼差しがブリュンハイドに刺さった。父を止めてくれ、とそう訴えかけていた。
子供たちの気配を背中で感じたザキットは泣いた。むせび泣いた。口惜しさに噛んだ唇は破れ、血が流れた。
ザキットの右手から落ちる二本の剣。
そしてこの日、稀代の天才剣士は軍を辞した。
「私は王に、愛する妻を殺されました。もてあそばれ、殺されました。残酷なやり方で妻は死んだのです。しかし、私は何もできませんでした。あれ以来、復讐することを諦めたのです。子供のことを想い、諦めたのです。それからというもの、私はこれでよかったのか、と考えてしまうようになりました。その考えはやがて、本当は復讐に失敗するのが怖くて、逃げたのではないかという自責の念に変わりました。子供を養うために、こうして配走人をやりながら、そういう想いに身を引き裂かれる思いで生きていました」
そこまで言うと、ザキットはレオルの眼をしっかりと見据えて続けた。
「まさにそんなときでした。昨日、あなたのことを聞いたのです。王に勇気を以って闘いを挑むものがいると。死ぬと分かっていて、友のために闘うものがいると。私達平民は、剣や弓を持つことを許されていないにも関わらず、あなたは信念という武器を持って、王と闘おうとしている。私は自分の不甲斐なさを痛感しました。剣がないから、闘えないと自分で勝手に決め付けておりました。レオルさん、私はあなたを見て、絶対にあなたの手助けをすると決めたのです」
レオルにとって、走ることは妹に会うためであり、友を救うためであった。ザキットの言うような、王と闘うつもりで走っているわけでは無かった。だから、武器を持たぬ闘いであるという実感も無かった。というわけで、この片腕の剣士が、自分のために命がけで闘ってくれるという決意を受け入れられずにいた。だからあえてレオルは訊いた。
「あなたは私のせいで死ぬかもしれません。そうなったら、あなたの子供達はどうなるのですか。子供のために、こうして働いているんでしょう」
「いえ、大丈夫です。あなたが昨日、この山を走り去った後、かなりしばらくして王の軍勢があなたを追うように街道を通り過ぎていくのを見ました。そこで、私は仲間の配走人たちと情報を探りました。そしたら、あれは、あなたの帰還を邪魔するための軍勢であるとわかりました。私はあわてて家に走り、子供達と話をしました。そこであなたのことを説明し、私はもしかしたら、もう帰ってこないかもしれないと伝えました。私の長男は12歳ですが、しっかり者です。私の言葉に涙ひとつ流さずに、自分達のことは心配するな、弟を守って生きていくから、とだけ言ってくれました」
レオルは話を聞いてますます、すまないと思った。だからこそ、ザキットには生きて欲しかった。レオルは剣を固定されたザキットの右手を両手で包むと、彼に伝えた。
「あなたのお気持ち、大変ありがたく感じます。甘んじて、その厚意も頂きます。でも、絶対に生き残ってください。私はなんとしても、約束の時間までにたどり着きます。だからあなたも、なんとしても生き残って、子供のもとへ帰ってください」
ザキットは首を振った。
「いや、死ぬとか、生きるとか、もう私にはどうでも良いことなのです。妻が殺されたあの日、私の心は死にました。それからは、まだ私の体が生きていることの理由を探して、彷徨っておりました。そしてようやく、その理由を見つけたのです。あなたをこうして助けることが、私が今日まで生きてきた理由でした。理由が分かったので、あとは自分のやるべきことをやるだけなのです。その後の生死は、その結果に過ぎません。私にはもう、関係がありません」
かたくなな決意であった。受け入れるしかない決意であった。
ザキットは過去と闘おうとしているということなのだ。
妻の仇を討てずに、逃げてしまった自分を取り返すための闘いを挑もうとしているのだ。
それを感じたレオルは、自分のこの走りを、自分にとって、なんのための闘いなのかと考えた。
しかし、わからなかった。
答えは、出なかった。
座っているうちに、レオルの体はある程度まで動くようになってきた。
ぼんやりと霞がかっていた頭も、はっきりとしてきている。
そろそろ行こうと立ち上がった。それを見て、ザキットは、レオルを川の対岸から見えない、雑草で覆われた場所まで連れて行く。そして言った。
「川のあちら側から視線を感じます。誰かに監視されているようです。おそらく伝達兵でしょう。今、街道に戻っても良いのですが、もっと近道があります。私達、配走人が使う陰草の道です」
ザキットはそう言うと、草むらを掻き分けてレオルをもっと奥地へ案内した。
誰がどう見ても、道なき道を進んでいる。膝まである雑草が足に絡まり、無造作に伸びた枝が顔を突いた。しかしザキットは何事もないかのように歩いている。
「わかりますか? この道のことが」
と、ザキットはレオルに訊いたのだが、レオルは首をかしげた。
「ですよね。私達は雑草の根元を極力踏まないように走ります。踏んでしまうと、雑草が枯れて、いつか道が出来てしまう。出来てしまうと、私達以外の人間が通ったりしてしまう。それは困るので、分かりやすく道を作りません。その代わり、目印はあります」
ザキットは剣を頭上に振り上げた。手が剣と繋がっているから、いまは剣が手の代わりをしているのだ。剣先が向いている上空には、覆いかぶさるように木々が生え、隙間から星がのぞいていた。
「私達は上に道を作ります。つまり、上のほうの木の枝に目印を付けているのです」
レオルがよく見ると、茂った木の枝に、緑色に染めた小さな麻紐が結ばれていた。さらに少し遠くの枝にも、同じものが結ばれているのが分かる。かなりよく見ないと分からない目印であった。
「わかったようですね。あの緑の目印をたどっていけば、王都へたどり着きます。この山道は、追撃兵はおろか、伝達兵すら知らない道です。道に迷わなければ、あなたは無事に城門で待っている友人のもとまで行くことができるでしょう」
レオルはザキットに何度も感謝を伝えた。しかし感謝するのはこちらのほうだ、とザキットは返した。
「あなたの挑戦がなければ、私が目覚めることは無かったのです。かならず時間内に走り切ってください。もし、道に迷ったならば、私の同朋がこの先に居ますので、あなたを助けてくれるでしょう。彼らはみな、いまから私が何をしようとしているのか知っています。それは、あなたにたどり着いてもらいたいという想いで行う行為です。だから、あなたは私のそういう想いを背負って走ることになる。私の同朋も、私の想いのために、あなたを助けてくれるはずです」
レオルは、狂戦士の老人と老馬の想いに加えて、またひとつ、別の想いも背負うことになった。しかし、それは重荷では無い。走るための原動力だった。
二人の別れの時が来た。
レオルはもう、生きてください、などと言わなかった。その言葉は、この期に及んで、あまりにも陳腐なもののように思えたからだ。
ザキットもレオルも、お互いの目を見て頷いただけで、それ以上の言葉は発しなかった。
そして、両者は別々の方向へ走る。
二人とも死を意識していた。
あとは自分自身でその死を受け入れるだけである。
だからそこに、頑張れも、さようならも、無かった。
そこに、もはや言葉は必要ではなかった。