心臓破りのクーロン川
日差しが傾く頃、レオルは山を下り、クーロン川へたどり着いた。
しかし、なんということであろうか。川は、昨日と同じ穏やかなものとは全く逆の、怒りに満ち溢れた表情を見せていたのである。
ごうごうと音を立てて流れていく茶色い濁流。
狂った流れは、川下へ向かって強風をも呼び込んでいた。
レオルの居る少し小高くなっている岸のそばまで、水は溢れ、しぶきを激しく飛ばしている。
半日のうちに、川の流域面積はかなり広がってしまっていた。
護岸工事がしっかりできていなければ、ここら一体は洪水に飲まれているに違いない。
レオルは知らぬことだが、昨晩の豪雨に乗じて、ディオニクス王の命令で上流の土塁が決壊させられ、ひどく氾濫させられてしまったのだった。
先代の父が、住民のために設置した土塁であった。市民の命を守る土塁であった。市民の作物を守る土塁であった。
それを息子が壊した。
レオルを行かせぬためだけに、壊した。
川の激しさを前にして、レオルはためらいを見せる。自分には無理だ逡巡を繰り返した。
この川を泳いで渡る以外の方法としては、上流の山岳へ向かい、こちら側の山岳と反対側の山岳を繋ぐ高台の吊り橋を使うしか無いのであるが、レオルはそれを知らなかった。しかしもし、知っていたとしても、走って半日はかかる距離であった。ただし、まだ馬がいたならば、半日もかからなかったはずなのだが――。
向こうで伝達兵が弓に書簡を結びつけて、対岸同士で情報のやり取りをしている。しかし、レオルには彼らが何をしているのか、まったく分からない。
川の激流を見れば見るほど、レオルの勇気は失われた。
前方の川の流れる音に混ざって、後方の上り坂より馬の蹄の音、鎧の触れ合う音が聞こえてきたような気がした。さっきの兵士達が追いついて来る、かすかな音だと思えた。
前方の激流、後方の刺客。
足が震えた。前に濁流、後ろに追手。前後を挟まれ、レオルは死を覚悟した。
そのとき、丘の上で出会った、老いた狂戦士の言葉が思い出された。死にたいと思ったとき――。勇気が出ないとき――。そうだ。革のバッグだ。
レオルは腰に下げた小型のバッグを開けた。そこには薄い葉に包まれた小さく丸い丸薬があった。得体が知れないので、少しためらったが、背に腹は代えられない。あの老人の言うことを信じ、思い切って、一つを飲み込んだ。口の中に苦みがひろがる。そして上着を脱ぎ捨てた。靴を脱ぎ捨てた。
心臓が大きく、どくんと跳ねた。
その跳ねは次に二つ連続して起こり、さらにその次には三回、次は四回、と回数を増やし、どんどん速くなっていく。それに伴い、体が熱くなってきた。体の芯が燃え、口から炎の息吹が出るようであった。下腹部がむずむずした。何かを壊したくなってきた。なんでもやれるような気がしてきた。腰にある剣で、追手と戦ってみようか、とも考え始めていた。正常ではない。その考えは正常ではない、と理性が押しとどめた。
そして自分の理性がまだ残っているうちに、レオルは思いっきり川に飛び込んだ。
川のほとりでレオルの様子を観察していた伝達兵の一人は、川に飛び込んだレオルの姿を眼で追った。
それは鬼気迫る泳ぎであった。
泳ぎの型などなにも知らない感じで、ただ我武者羅に手を、足を動かすだけであった。しかし、それでも前に進んでいた。横からの流れを受けながらも、前に進んでいた。
にも関わらず、やがてその姿は、どんどん下流に押し流され、小さくなっていく。さすがにこの激流を泳ぎきるのは、水泳の達人でも無理だ、と伝達兵は冷静に眺めた。
川辺におけるレオルの様子を観察し、それを報告しろと命じられていたその伝達兵は、レオルが下流に流され、ついに見えなくなった時、その事実のみを書簡に記し、矢文で対岸に届けた。
濁流の中、レオルは必死で手を掻いた。
大きなうねりが次々に体を襲った。
それに対して、強引に手と足で抵抗した。
頭で考えて泳いでいるわけではない。体が分かっていて、勝手に動いているのだ。
理性などすでに無く、あるのは得体のしれない高ぶりと、衝動だった。
前に進まなければならないという衝動。
薬によってもたらされた脳への過剰な働きかけは、その衝動に後押しされるように、彼の肉体に異常な限界突破をもたらしていた。
筋肉の限界。
肺活量の限界。
血流の限界。
生まれつきひ弱なレオルの限界は、凡人のそれ以下であったが、それでもその限界を突破したときに生まれるエネルギーは、常人の比では無かった。あきらかに常軌を逸していた。
横からだけでなく、上からも質量の高い泥水が覆いかぶさってくる。
水中では、上流から運ばれた丸太や小石が、ぶつかってくる。
それにも抗い、ひたすら水上に頭を出して、レオルのからだは進んだ。
本能のままに進んだ。
薬物によって、自我は失われている中、体の活動を促す神経物質のみが、レオルのからだを動かした。
レオルのからだのみが、自身に起こる事象を、きわめて客観的に記憶していた。
セルビアヌスは、全身汗だくになりながら太陽の熱から耐え抜いていた。
かなり憔悴していた。水は一滴も飲んでいない。
西日が、彼の真っ赤に焼けた体の、鍛えられた筋肉に彫刻のような陰影を与えた。
先ほど、伝達兵がディオニクス王に、レオルが馬にて平原を突破した、と小声で伝えていたのは知っていた。
セルビアヌスは、レオルが馬に乗っているということに驚いたが、それよりも「突破」という言葉におかしな響きを感じた。
なにかの障壁をレオルに対して置いていたような言い方である。
昨晩のブリュンハイドの姿も気になった。
王は、レオルの帰還を邪魔するための策略を講じている。
セルビアヌスは、昨晩から自分の脳裏にこびりつく嫌な予感が、確信に変わりつつあることを感じ取っていた。
逆にだからこそ、レオルが何事もなく、ここへ戻ってくることを全身で祈った。
その祈りをよそに、王はレオルが何故、馬に乗っていたのかと、伝達兵を近くに呼び寄せ聞いていた。小声過ぎて、その内容はセルビアヌスには聞こえなかったが、あきらかに最後まで話しを聞いた直後に、王の顔色が変わったことがわかった。
やがて街道が夕日に赤くなるころ、伝達兵が再び参上し、杭の隣の玉座にてぶどう酒をたしなむディオニクス王に報告をはじめた。
「お伝えします。レオルが、クーロン川に飛び込み、流されたとのことです」
伝達兵の報告を聞き、セルビアヌスの確信は衝撃へと変わった。心臓に矢が射ち込まれたかのようであった。
それを聞いた若き王はにやりとした。そして「ご苦労。最後まで死体を捜すようにブリュンハイドへ伝えよ」と命じた。そしてセルビアヌスのほうを見て、「何故、お前の友人は、川に飛び込むなんて、無茶をしたんだろうな。ふふふ」といやらしく笑い、グラスの酒を飲み干した。
セルビアヌスは動揺で息ができなかった。
なぜレオルは橋を使わず、泳げないにも関わらず、泳いだのか。
橋を渡ることができない、なんらかの理由があったはずだ。
この王は、一体、何を企てたのだ――。
ういた。もぐった。ながされた。
のった。くぐった。おしつぶした。
つかんだ。たたいた。のけた。
けった。ふんだ。のりこえた。
もがいた。あがいた。あばれた。
すった。はいた。のんだ。
ういた。しずんだ。うかんだ。
しずんだ。のんだ。しずんだ。
はいた。うかんだ。うかんだ。
のられた。くぐられた。おしつぶされた。
もまれた。まげられた。のばされた。
のんだ。のんだ。のんだ。
はいた。はいた。はいた。
もがいた。あばれた。くるしんだ。
うかんだ。うかんだ。すった。みえた。
のばした。のばした。
つかんだ。にぎりしめた。たえた。
しずんだ。しずんだ。のんだ。のんだ。
はけなかった。
おぼれた。
氾濫する川を、たどり着いたばかりの岸に立って『金獅子大将』ブリュンハイドは眺めていた。
先代の王が造った治水の川であった。
王と民衆は長い時間をかけ、力をあわせて、古来より「暴れる龍」と恐れられた川を、龍が悠々と天空を泳ぐが如き、穏やかな流れに変えた。ブリュンハイドはこの川の流れが好きだった。
その流れを昨晩のうちに、新しき王は再び元の流れに戻したのだ。
傍らに控える伝達兵の話によると、ブリュンハイドの部隊が昨晩の豪雨の中、レオルを追って橋を渡った後で、上流に住む民衆に命じて、上流の堤防と土塁を破壊させたのだそうだ。その際、何人かの村人が鉄砲水の犠牲になった。
そしてその後、洪水となり、橋が流されてしまったのだという。
ブリュンハイドは思った。
あのレオルという男は、ここまでして食い止めなければならない相手なのだろうか。
先ほど、馬の上で見たあの貧相な若者に、それほどの脅威があるというのだろうか。
この川岸に着いてすぐに伝達兵が、「レオルは川に飛び込んで、下流に流されていった」と報告してきた。たしかに、すぐそこには、彼のものと思しき上着と靴が捨てられている。
無謀にも、この流れに飛び込んだというのだろうか。
おそらくは生きてはいまい。
ブリュンハイドはそう考えてはいたが、これは王からの勅命である。生死の確認は必ず必要であるし、生きている可能性も無いわけではない。
「全軍、上流の吊り橋より向こう岸へ迂回するぞ」
兜にあしらわれた、本物の獅子のたてがみを揺らしながら、金色の大将は最後尾の兵士にまで聞こえる声で指示を出した。
沈みゆく夕陽がその鎧を、金褐色に輝かせていた。