復路スタート
レオルの妹は無知ではあったが、理解することはできていた。自身の頭に輝く瑠璃の髪飾りを見た瞬間に、頭を駆けめぐったのである。尋常ならざる体験をして、これを兄が得たのだということを。その体験が故に、兄は往き、戻ってこないということを――。
女の勘といえば陳腐に思える。しかし、紛れも無く女の勘がそう訴えるのだ。
婿を隣にして、妹はずっと泣いていた。レオルの背中に泣いていた。
「では達者でな。俺は往く――」
日時計は昼の12時前を指していた。行きと同じペースで戻れば、間違いなく間に合う。胃に少しの酒を入れたお陰で、レオルは疲れを忘れていた。王都まで行ける、と信じている。
持ち物は腰袋の中に、護身用の小さなナイフと水筒、わずかな食料、それとくすんだ銅色のコインがひとつ。
レオルは自分の心音に合わせて、ゆっくりと走り始めた。
少しずつ、遠ざかる兄を見ながら、妹は枯れるほど泣いていた。
走れば走るほど、筋肉の疲労が戻ってきた。体が重くなってきた。呼吸も乱れている。
ぬかるんだ地面も、レオルの元気を吸い取った。
これは不味い。
レオルは焦った。このペースでは、間に合わない。
それでも何とか速さを落とさず、勾配のきつい最初の丘にたどり着くことができた。
丘の上に伸びる街道には、わずかに昨晩の雨水がまだ流れている。近くに落ちていた棒を拾い、それを杖にしてレオルは、気合を脚にこめて登り始めた。
わずかに残った雨露が時折、木の葉からレオルの頭に落ちてくる。
街道の雑草にテントウムシが止まっている。ミツバチがせわしなく飛び回る。カマキリが獲物を狙って、鎌を振り上げている。このときのレオルは、疲れてはいたが、こうして生き物の営みを観察するくらいの余裕がまだあった。
丘の頂上にたどり着くかどうかといった場所に来て、レオルの耳に馬のいななきらしきものが聞こえてきた。それは、左の茂みの奥から聞こえたようだった。
疲れてはいたが、馬があれば早く移動できる。
しかし、この時代の馬は貴重品であった。戦争でも馬に乗れるものは名のある部将に限られている。そんな貴重なものが、普段から森の中をうろついているわけがない。
それでも淡い期待を抱きながら、レオルは茂みをかき分け進む。3度ほど茂みをくぐると、頭上に木々が多い茂る広い空間に出た。そこに、期待していた馬が繋がれて居た。あきらかに誰かの馬のようではあったが。
馬に寄ってみると、やせ細った老馬であることがわかった。そして、その近くで男のうめき声が聞こえた。この馬の持ち主だと直感したレオルは、辺りを探した。
すると、馬から離れたところの木の根元に、白髪で頭頂部が禿げた老人がもたれて座っているのが見えた。もともと白い布でできていたのであろう衣服は水で濡れ、泥で汚れている。何かあったのであろうか。しかし、その老人の手にあったものを見て、レオルはそれ以上近づくのをためらった。その手には剣が握られていた。
うーん、と頭を抑えながら、眩しそうな目つきで、老人は少し遠くのレオルに焦点をあわせた。そして言った。
「お前は……誰だ」
距離を置いてレオルは、老人に聞こえる声で返した。
「私はレオル。平民なので苗字はありません。あなたはここで、何をしているのですか」
老人は答えた。
「俺は、あの若き王を倒しに行く途中なのだ。しかし、昨日の激しい雨で狂ってしまった。暴れていたら頭を木にぶつけてしまった。首が痛くて、もう動けないのだ」
レオルは昨晩、この丘を転がり落ちているときに聞いた咆哮を思い出した。激しい雨音の上から聞こえてきた、あれほどの太く大きな声を、この老人が出したというのか。
「なぜあなたは、王を倒しにいくのですか」
レオルの質問に、老人は頭をおさえて言った。
「王の暴虐を止めるのだ。あれほどの悪に染まった人間だとは思わなかった。俺はそんな人間を一度、救ってしまった。あれがそもそもの間違いだったのだ。それに伝え損ねたこともある。とにかく、若くて愚かな王を止めるのは、俺の使命なのだ」
そう言うと、老人は立ち上がろうとした。しかし、全く動く様子が無い。レオルは意を決して、老人に駆け寄り、立ち上がらせようと試みた。しかし、老人の下半身は、力というものが入っている感じがしなかった。
立つことを諦めた老人はレオルに尋ねる。
「お前はどこに向かっているんだ」
レオルは今までのことを話した。妹のために王都へ行ったこと、友のいのちを守るために王都へ走り戻っていると言うことを伝えた。老人は感動した様子で、自分の腰に下げた革のバッグをレオルに渡した。
「もう俺は駄目そうだ。だから全部お前にやる。困ったら、この中のものを飲みなさい。いっときの間であるが、常軌を逸した力がみなぎるぞ。まあ、飲みすぎたら私みたいになってしまうがな。ふふふ……。あと、この剣と馬も呉れてやる。王を殺せなくても、やつの鼻っ柱をヘシ折ってくれれば良い。奴は俺の剣と馬を見れば、きっと恐れ慄くはずだからな」
「えっ、本当に良いのですか。馬と剣を持っているということは、きっとあなたは、高名な戦士だったのでしょう」
「俺の名はビーラータイム。若いお前は知らないだろうが、先代の王に従い闘った狂戦士だ」
無知なレオルは勿論知るよしもないのだが、狂戦士とは文字通り、精神の高揚をもたらす丸薬の効果によって、人並みはずれた破壊力を有する狂気の戦士のことであった。
覚醒・幻覚作用のある葉や鎮痛効果を持つ実の乳液、筋肉の一時的な肥大と強化を促す物質を含む木の根などを乾燥させ練り合わせ、加熱して固めたものを強壮丸として所持していた彼らは、戦闘に際してそれを飲み込み、死をも恐れぬ殺戮の戦士へと変貌することができた。
しかし激しい強壮作用により、敵味方の判断を欠いてしまうが故に、目の前の人間を全員殺すまで、剣を振るい続けるため、乱戦では用いることができず、主に少人数による奇襲戦や退却時の殿軍として活用された。
彼らは痛みを感じなかったため、首を落とさない限り動き続けることができたと言われており、その姿から「死兵」と呼ばれ、敵から恐れられた。彼らは戦場において無双の勇者であったのである。
しかし、戦争が終わると、彼ら狂戦士は丸薬の酷い副作用に悩まされ、薬を飲んでいないのに突然狂ったり、毎日、訳の分からない言葉を発しながら徘徊したり、無気力で生気の無い顔をして街角に死ぬまで座り続けたりした。それは永きに渡り続いた戦乱の世が生み出した、悲劇の残滓であった。
さてこの老人――アイスレーブ・ビーラータイムは本人の言うとおり、若き頃はその時代で名を知らぬものがいないといわれた高名な狂戦士であった。彼の特筆すべき点は、丸薬の効果を自身の精神力でコントロールすることができること。彼は戦闘中に狂って、味方を殺したりすることがなかった。いや、狂いながらも考えることのできる男だったのだ。
こんな有名な逸話がある。
あるとき、アラミス王が自国の支城から出撃した隙を突いて、その支城が何物かの奇襲に遭い、残っていた兵ごと城を奪われてしまった。城が乗っ取られたとの連絡を受けて、アラミス王と各部将をはじめ、すべての兵団はすぐに引き返したが、城は完全に内側から乗っ取られており、もともと堅牢で鳴らした城であったこともあり、外部からの攻略を容易ならざるものにしていた。
城を遠目に観察するに、敵はまるで煙のように城内に侵入したようで、城壁や城門に争われたような形跡もなく、そっくりそのまま奪い取られたような様子が、なにやら異様な印象を与えていた。
さらに悪いことに、城の中には、アラミス王待望の男子、ディオニクスが生まれたばかりであった。ようやく生まれた待望の男の子である。城内にディオニクスと、その母であり第二夫人でもある側室の王妃――ステリアを残してしまっていたことを王は悔いた。自ら救いに行くと言って聞かない王を、周囲の大将たちは必死で止めた。制止され、王は兵士たちに懇願した。
「だれか、わが子だけでも救ってくれ! わしの唯一の男子なのだ。彼を失うことはつまり、この国を永劫を失うことに同じなのだ!」
しかし、誰も名乗りを挙げることなど出来なかった。敵だらけの城内に単身で乗り込み、王子を抱えながら、生還する自信がないのだ。
やがて陣の中、その遥か奥のほうから、一人の壮年の男が、太くたくましいその手を挙げた。額が異様に短く、後ろになでつけられた長い金髪と、同じ色の口髭をたくましく備えた無骨な男であった。
「俺がやります」
それがビーラータイムであった。王の前に出てきた狂戦士部隊の隊長を見て、王は困惑の表情を浮かべた。
「その気持ちはありがたいが、そなたは狂戦士であろう。敵とわが子を見間違えたりはしないのか」
「はっ。恐れながら、私は確かに狂戦士ですが、いままで味方を斬ったことはありません。私は死ぬことを恐れません。私は負けたことがありません。たとえこの身が敵の槍に貫かれても、私はご嫡男を助け出して見せましょう」
誰かほかに居ないのか、と王はもう一度、全部隊に号した。しかし、手を挙げるものはやはり、居なかった。
仕方ないが、ビーラータイムに委ねるほか手段は無かった。王は、敵の篭る城の内部に詳しい者に命じて、城へと侵入する秘密の抜け道を彼に教えさせた。ただし、その入り口は、城門前に配備されている大勢の敵の中を突破して行くことが前提ではあったが。
敵中を突破した後、城内から降り注ぐ矢の雨を避けながら城の外壁に沿って駆けて行き、城の裏手の丘の中にある草木で覆われた秘密の扉をくぐって城内へ侵入。侵入した道は本丸の中へと続いているので、そこの兵士さえ打ち倒せば、王子と側室のいる部屋は近い。
図面に描いて、城内の間取りを教えられたビーラータイムは両腰に2本の剣を挿し、手には槍を持ち、愛馬アイゼンウルフに騎乗した。まず最初の敵中突破に際しては、死を覚悟したビーラータイムの配下の狂戦士10人が帯同することになった。勇敢な狂戦士たちは、腰の皮袋から丸薬を取り出し、手のひらですり潰して粉にして、鼻から吸い込んだ。このほうが、即座に脳に届き、効果が顕著に現れるらしい。覚醒を始めた馬上のビーラータイムは2度身震いし、凶暴な表情を浮かべた。
馬を与えられし狂戦士11人は、自分が分からなくなる前に、猛然と突撃を開始する。
王子救出作戦の端緒が、ひそかに開かれたのである。。
夜陰に紛れ、一人の狂戦士と10人の騎馬隊は全力で敵に突入した。
王は城から離れたところに位置する、小高い丘に設置された本陣で、城の方角の闇を見つめていた。闇の向こうで金属がぶつかり合う音と男達の怒声が聞こえた。しばらくその音を心配そうに王たちは聞いていたが、しばらく経ってから、それが聞こえなくなると、あとは祈るしかなかった。
やがて朝が近くなった。
狂戦士はまだ戻ってきていなかった。丘には朝靄が深くかかっている。
アラミス王以下、配下の部将で寝るものは誰も居なかった。靄が晴れたら、状況を確認し、場合によっては城を捨てて退却しなければならないと部将たちは準備していたからだ。王が何と言おうとも、王子のことは諦めてもらうつもりだった。それらの部将の中に、のちに『金獅子大将』と異名を与えられる若きブリュンハイドも居た。
深い霧に日の光が差し込み始めるころ、本陣に座る王のもとへ、一人の伝令が転がり込んできた。
「申し上げます! ビーラータイム様が敵に追われて、こちらへ駆けてきております!懐には、王子の姿!」
王は立ち上がって、命じた。
「あの忠実な狂戦士を殺させるな。全軍前へ!」
命令どおり、敵の追撃部隊を蹴散らしたアラミス軍は、ビーラータイムを守るように本陣へ連れて帰ってきた。
その腕には、柔らかな布でしっかり包まれた、小さな赤子が眠っていた。その王子には怪我どころか返り血さえも飛んでいなかったが、帰還の狂戦士は全身血まみれで、肩から大量の血がずっと流れており、背中には数本の弓矢が刺さっていた。愛馬アイゼンウルフも横腹を斬られ、尻に同じく数本の矢が刺さった状態であった。そんな状態で、ビーラータイムは下馬して、王のもとへ歩み寄る。
「なんとか王子様はご無事です。しかし、ステリア様は、私に王子様を手渡すと、背を向けられ、槍を手に敵中へ飛び込んでいかれてしまいました。追いかけはしたのですが……申し訳ございません」
そう言い、赤子を王に手渡すと、狂戦士と愛馬は力尽き、同時に倒れた。
ビーラータイムはその後、このときの矢傷が原因で破傷風を負い、回復したころには前線で戦える体力を失っていたため、誰にも知られることなく、ひっそりとその姿を消した。
そんな往年の勇者のことを、レオルは全然知らない。
とりあえず、勧められるがままに、革のバッグをもらい、同じくもらった剣を腰紐に引っ掛け、木に繋がれた老いた馬を老人のもとへ連れていった。老人は馬に顔を近づけて頬にキスをすると、馬も老人の顔を舐めた。老人は馬へ語りかけた。
「いままで俺に良くついて来てくれた。でももう俺は終わりのようだ。お前は俺に殉じるな。いいか、この若者を乗せて、俺達の目的地まで運ぶんだ。お前のいのちの続く限り、運ぶんだ。お前の背には物足りない若者だが、あの頃、俺と駆け抜けた戦塵の大地を思い出してみろ。最強の狂戦士を乗せた、最強の軍馬の恐ろしさを、狂った王子に見せてやれ」
馬と老人は、少しの間、互いを慈しみ合った。撫で合った。舐め合った。額を擦り付け合った。
レオルはそれが終わるのを待って、馬に乗った。馬に乗る方法は、一度セルビアヌスから教わったことがある。実は馬に乗った経験はその一度しか無く、レオルは緊張した。落馬を恐れた。木にもたれ、枯葉の上に座り込んで、その様子をみていた老人は笑い、レオルを諭すように教えた。
「若者よ。大丈夫だ。その馬、アイゼンウルフはお前を絶対に落とさない。お前がきちんとしがみついて居ればな。それにその剣は、あの王を殺すためにきちんと手入れをしている。最低でも十回はあいつを斬り刻めるぞ。それとな、その革のバッグの中には、紙に包まれたいくつかの丸薬が入っていると言っただろ。その丸薬はな、死にたくなったら飲めばよい。そうすれば生きる気持ちが沸いてくる。または疲れて体が言うことを利かなくなったら飲めばよい。そうすれば再び動き出す。さらに恐怖に気持ちが支配されたときも飲めばよい。そうすれば打ち克つ勇気で心が燃える。ただし、絶対に飲みすぎるなよ」
老人は喋りながら、楽しそうにずっと笑っていた。
老馬は、そんな老人を気にして全然進もうとしない。
老人は意を決したかのごとく、レオルと馬に向かって叫んだ。
「さっさと行け。俺がまた発狂してしまわないうちにな。俺の最後の敵は、おそらく狼だ。今夜俺はやつらと戦って死ぬ。さあ、行け! 若き勇者よ」
声に背中を押された気分で、レオルは手綱を引き、馬を促した。
アイゼンウルフは、もう老人のほうを振り返ることは無く、決別するかのように街道に向かって進みはじめた。その目から、一滴の涙がこぼれた。
こぼれた涙は、木漏れ日の光に溶けて消えた。