スタートライン
セリーヌ・セルビアヌスはレオルの幼馴染であり、竹馬の友であった。
しかし、互いの身分には大きな差があった。
レオルは一介の平民でひつじ飼いの息子。
セルビアヌスは、王の命令によりレオルの住む村を含む、一帯を守護する城主の息子。
普通に考えれば、交わることの無い二人であった。
レオルにまだ母がいたころ、彼はお遣いで近隣の市場へ行かされた。しかし、ちいさなレオルは計算が出来なかった。体の弱き母が布団の上で、ヤギのチーズはこれくらいで幾ら、麻布はこれくらいで幾ら、などと細かく教えながら、レオルに金を渡したのだが、愚かなレオルは10歩進んで、それを忘れてしまっていた。
だから彼は市場で騙された。ヤギのチーズも小麦粉も、麻布や綿の糸など、ことごとく高い値段で買わされた。そして最後に肝心の母の薬草を買う金がなくなってしまった。薬草の店の前で、レオルは長い時間困った。それでも、残ったわずかな金で、売って欲しいと店の主人に頼んでみた。当然のごとく断られたにも関わらず、その場からどかずに居座り、懇願し続けた。あまりにしつこく何度も頼んだせいで、しまいには主人を怒らせ、か弱きレオルは殴られた。
小枝のように地面に転がったレオルを、一人の男の子が起こしてくれた。その男の子はこう言った。
「さっきから見ていたけど、君は計算が出来ないのかい? 全部騙されているよ」
それがセルビアヌスであった。レオルはこんなに血色の良い、瀟洒な子供を見たことがなかった。レオルが見とれていると、セルビアヌスは腰袋から金を呉れた。
「お母さんが病気なんだね。これを使いなよ。誰にも内緒だよ」
薬草店の主人は、セルビアヌスが城主の息子であることを知っていたから、そちらのほうに平身低頭して、レオルから金を受け取り、薬草を渡した。突然現れた救いの手にレオルは何度も感謝した。利発な少年は何故かレオルに興味があるらしく、ずっとレオルに質問をぶつけながら市場の出口までついてきた。
「君はセザールの村から来たんだね。へえ、ひつじを飼っているのかい。いいなあ、僕はひつじを見たことがないんだ」
セルビアヌスの最後の言葉にレオルは、いつでも見に来ていいよ、と反応した。すると彼は、「じゃあ今から行って良い?」と訊いてきたので、レオルは快く返事をし、それを受け止めたセルビアヌスは、身を隠すように、布のマントを頭から被った。
ふたりは城下の市場を出ると、小石や土くれの転がる荒い道を歩き、レオルの村へと向かった。
彼らが着いた時、家の玄関先では、息子の遅い帰宅を心配していた母が、おぼつかない様子で待っていた。息子の到着に安心したのもつかの間、母はレオルの傍らにいる少年を確認すると、みるみるうちに顔色を変えた。そしてレオルのもとへ駆け寄り、彼の頬を張ってから、地面に膝を付いた。
「お許しください。セルビアヌス様。わが不肖の息子につき、どうかお許しください」
と何度も謝っていた。何のことがさっぱりレオルには分からない。ぼさっと突っ立っているレオルの頬を再び母は張った。するとセルビアヌスは、自分が無理やりお願いしてここに来たことを、理路整然と説明した。母は恐れ多い様子で、それを聞き、どうしたら良いのか判らない様子である。それをよそにレオルは、ひつじを見に行こうと城主の息子を誘い、ふたりは一緒に母から走って離れていったのであった。
夕方まで遊んだ。ひつじを追いかけ、撫で回し、餌を与え、ふたりは一緒に楽しんだ。遊び疲れて草むらに寝転がりながら、涼しい風に当たっていると、向こうのほうから母の叫び声が聞こえた。レオルを大声で呼んでいた。
ふたりは家のほうへ駆けていった。すると妹を抱きかかえた母を、馬に乗った数人の衛兵が取り囲んでいた。衛兵たちはセルビアヌスの姿を見かけると、急いで向かい、彼を抱きかかえた。そして、レオルとその母を激しく糾弾した。誘拐したのではないか、と。
「違う違う。僕が頼んだんだ。彼は僕の友達だ」
セルビアヌスが慌ててそう言うと、衛兵達は逆らうことができなかった。そしてセルビアヌスは「とても楽しかった。また遊ぼう」と言いのこし、衛兵の馬に乗って去っていった。見送りのあと、レオルは夜通し母に怒られた。もう二度と会うなと怒られた。
しかしこの後も、ふたりは事あるごとに密会することになる。愚図なレオルには友達が居なかったから、初めての友達ができたことが嬉しかった。一方のセルビアヌスは、城内での教育や訓練ばかりの生活に飽き飽きし、自由を欲していた。だから何も考えずに自由に生きるレオルに対して、うらやましさを覚えずにはいられなかった。
城の近くで虫を捕まえたり、小川のほとりで魚を獲ったり、時にはセルビアヌスがレオルに勉強を教えたりした。そして衛兵が自分を探し始めないうちに、ふたりは別れた。
やがて数年が経ち、セルビアヌスは城主である父の転封により、別の領地へと移ることになった。旅立つ最後の日、ふたりは小高い丘で抱き合いながら泣いた。そして、いつかの再会を誓い合ったのだった。
皮肉なことに、その誓いはレオルの処刑に際して達成される。
セルビアヌスは、父の転封に何度か従った後、志願して王都パルメルフの兵卒となり、すぐに出世して王城の警護隊長となっていた。そしてこの日、城壁の周りを巡回しているときに、城門の前に人ごみを見た。その人ごみに入ってみると、確かに見覚えのある懐かしい顔があった。その幼き日の面影そのままの姿を見て、おもわず飛び出してしまったのだ。
「セルビアヌスか。お前はこいつを知っているのか」
ディオニクス王は忌々しげに、その若くて端正な隊長に問うた。王は自分よりも人気のあるセルビアヌスが嫌いであった。いつか罠にはめ、殺してやろうと計画していた矢先のことである。だから願ってもない機会であると思った。
「はい。この者は私の幼馴染でございます。どうしてこのような事になっているのでしょうか。レオルよ、君は何かをしたのかい」
レオルは両膝を地面につけた状態で、経緯を説明することを許された。彼の話を聞き、セルビアヌスは迷うことなく王に申し上げた。
「ディオニクス様。この者、レオルが村へ帰り、再びこの城門まで戻ってくる間、私を吊るしてください。私が彼の身代わりとなりましょう。もし彼が戻ってこなければ、私を代わりに殺してください」
若き暴君ディオニクスは、唇の両端を引き上げて言った。
「良いだろう。どうせ戻ってくるわけがあるまい。他人など信じるに値しないということを、俺が愚民どもに見せてやろう」
王の言葉を受けて、セルビアヌスはレオルの背後に控える商人に十分な金を渡し、瑠璃の髪飾りを買い取り、レオルに与えた。しかしレオルは、それを受け取ろうとせず、目に涙を浮かべてこう言った。
「私は、昔から君に助けてもらってばかりだ。今回ばかりは受け取れない。私は唯一の友をうしなうことができないからだ」
しかし、セルビアヌスは友の申し出を拒む。
「私にとっても君は唯一の親友だ。私の願いは君の願いを叶えてやることだ。命がけで友を救えない人間を、親友とは言わない。私は君を信じている。レオルよ、君の愛する可愛い妹のために、これを持って行くべきだ」
友の言葉にレオルは感激し、とうとう泣き出した。絶対にセルビアヌスを死なせてはならないと思った。髪飾りをその手にしっかりと受け取り、額を地面に何度も擦りつけ、レオルは決意する。
「王様よ。私は必ず戻ってきます。私の愛する妹のために。私の大切な友のために。いまから3日後、死ぬために戻ってきます。どうかそれをお許しください」
王は薄ら笑いを浮かべたまま、次のような要求をした。
「3日だと? 愚か者め。セザールの村までは歩いて1日半だろ。走れば1日だ。往復で2日だ。それしかやらぬ。2日後の今と同じ時間に戻って来い」
それを聞きセルビアヌスは抗議した。
「それでは結婚式がやれませぬ。それに2日も走り続けることなど――」
その抗議を途中でレオルがさえぎった。
「セルビアヌスよ、大丈夫だ。よく考えたら3日も君を、この強烈な太陽の下に晒しておく訳にはいかない。私の考えが甘かった。王様、2日後のこの時間よりも早く、かならず戻ってきましょう。約束です」
若き王は、残酷な笑みを浮かべて、愉快そうに言う。
「約束した。かならず戻ってくるんじゃないぞ。一刻でも遅れたり、戻ってこなかったりしてくれれば、俺はこの男を処刑することができる。さらにもし、その処刑のわずか後に戻ってきたならば、俺は貴様を赦してやろう。いいか、戻るつもりならば、かならず時間に遅れて戻って来い。そうすれば貴様の命だけは助けてやろう。信頼などと言う物がこの世に存在しないことを、愚民どもに教えてやってくれ」
太陽は燦燦と頭上にあった。
セルビアヌスは城門の中の、ひときわ大きな杭に縛り付けられた。この杭は以前、王が自身の親族を処刑するときに使ったものである。
レオルは刎頚の友の姿をしかとその目に確認し、網膜に刻み付けると大きく頷き、決意の顔で城門の真下に立った。
オリーブの苗木のような細い手足に、真夏にも関わらずシラカバの樹皮のように白い素肌が弱弱しかったが、その最初の一歩目はとても力強い足取りであった。
市民たちは城門前の道に立って成り行きを見守る。そして通りすぎるレオルの背中を目で追った。心配そうに見守った。
2日間に渡る、壮絶な死のマラソンが始まった。