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神足のレオル  作者: 卯野裕富
10/13

くだり坂のランニングコーチ

 キアヌは平民であり、卑怯者であった。

 子供のころから人を騙すのが得意で、それによって多くの人が迷惑した。

 村の祭りの最中に「狼が来た」と言って、人々を混乱させ、いたずらであるとばれたら、近くの無実の少年のせいにして、逃げた。

 旅人に道を聞かれて、まったく逆の方向を教えた。

 目の不自由なおばあさんの買い物を手伝うふりをして、金を盗んだ。

 近所の仲睦まじい夫婦の事を妬み、それぞれに嘘を吹き込み、離縁させた。

 ときおり、戦争にも従軍したが、戦いが始まると近くの森や林に、わからないように逃げ込み、終わるまで隠れ続けた。

 足だけは速く、配走人の仕事に就くことを希望したが、人格面での素養が足りないため、最初は不適格とされた。しかし、町の豪商に上手く取り入り、その口添えで、うまく配走人になることができた。

 と、例をあげれば枚挙にいとまが無いのだが、いずれの罪も些細なことであったため、今まで大きな罪に問われずに生きてこれたのである。

 そうしたある日、配走人の時に、豪商から預かっていた大金の一部を懐に入れてしまったことが発覚し、職務を剥奪され、彼は貧しい生活を強いられた。

 そんな苦渋の生活の中、突然受けることになった今回の王からの招集と命令を、絶好の機会とばかりに彼は張り切っていた。

 まず、王の命を受けて、城を出たキアヌは、同じく王から密命を受けていた衛兵と一緒に街道から外れたあぜ道を通って、脇に広がる林の中へ向かって行った。その途中で、今回の一連の事件について、衛兵たちに説明してもらうことも忘れていなかった。

 そして彼らがたどり着いた一見何の変哲も無い、この林の一部分こそ、配走人の道の出口である。

 次に衛兵へ、上空の木の枝に巻かれた緑の紐の存在を教えた。

 さらに、この紐をたどっていけば、この道を走るレオルと出会えることも説明した。

 それを聞いた衛兵たちのひとりが、それでは、と先へ行こうとするのを制止して、キアヌは言った。

「これ以上やみくもに進んだら、他の配走人に見つかってしまう。そうなると、レオルに伝わり、彼は道を変えるかもしれない。すまないが、俺に行かせてくれないか」

 衛兵たちはいぶかしんだ。しかし、キアヌは怯まずに説得をした。

「要は、毒でも盛って殺すか、ナイフで脅して諦めさせるかすればいいんだろ。俺に任せておきなさい。そんなのは簡単なことさ」

 キアヌは、その後も弁舌巧みに、衛兵の不安を取り除いていった。最後は、衛兵に感謝されるほどに説得を成功させた。

「じゃあ、行ってくる。すぐに帰ってくるからな。俺のこと、ちゃんと王様へ言っておいてくれよ」

 被っていた帽子をとって、そう衛兵に挨拶をすると、ナイフを腰に差し、キアヌは緑の紐のある場所から離れたところを迂回するように走っていった。音を立てずに、素早く走り去っていく様は、たしかに配走人であった証明となった。

 衛兵たちはその場で、王に言われていた別の作業に取り掛かった。



 頭が痛い。

 レオルは、額の血を拭きながら、走る。

 足元が時々、ふらついたが、なんとか歩きよりも若干速い、という速度で進んでいた。

 下り坂であることが幸いした。体重を下に掛ければ、自然と足が進むからである。

 レオルの体は、夏にも関わらず冷えていたが、ふいに、鋭角に一筋の光が肩のあたりに差し込み、その部分を温めた。

 まぶしくも温かい、朝日。

 木々の間から差し込んできたのである。

 ついに、夜が明けた。

 真横から差してくる太陽が、頭上に上るまで、もう少しだけ時間がある。

 このペースならば、ギリギリ間に合う、といったところだろう。

 あくまでも、この歩くより少し速いペースを維持できれば、の話だが。

 息がずっとあがっていた。

 加えて、全身の筋肉が硬直しており、動かし難くなっていた。

 体重がずっとかかっている膝も、ものすごく痛い。

 それと猛烈な空腹感。

 おとといからずっと、排泄というものを行っていない。

 あまり食事をしていないことと、胃や腸にあったものが、すべて汗や呼吸となって排出されていったことが空腹の理由であった。

 レオルは走りながら、食べ物を探した。下手なキノコなどは食べられないことを知っていたから、マロウやナスタチウムといった食用の花、もしくは、ワラビやゼンマイなどの草、あとは果実があれば最高だった。

 さっきからずっと、それらを探しているが、見つからない。何でも良いから食べたい。不味くても良い。口に入れば、何でも良い。

 腹が減りすぎて、気分が悪くなってきた。

 最後に食べた、ザキットにもらったパンの味が懐かしい。

 ああ――。

 食べたい――。

 レオルはふと、隣に気配を感じた。

 そこには、帽子を被った男がいた。レオルと並走して、そこにいた。

 一体いつから、ここにいたのだろうか。まったく気付かなかった。

 その男は走りながら、こう言った。

「話は聞いたぜ。俺はこの区間を走る配走人だ。お前の手助けをしたい。なんでも言ってくれ」

 それを聞き、レオルは遠慮なく即答した。

「何か食べるものをください。腹が減って死にそうです」

 男は笑った。

「腹が減っているのか。往復でかなりの距離を走り、何度も死にそうになりながら、この期に及んで空腹か。まだ元気な証拠だな。それにその頭の傷はどうした? 」

 レオルは、よく分からないが気付いたらこうなっていたと、簡単に説明する。

 すると配走人と自称する男は、さては山の精にでも会ったかと冗談めいて語り、口元に笑みを浮かべたまま、おもむろに腰袋から真っ赤なトマトを取り出した。

 表面がぷりっとしたそれは、とても美味そうだった。

 一部の皮が破れ、中身がこぼれていたが、そんなことなどレオルの目には入らない。

 とにかくはやく食べたい。

 枯渇していた唾液が出てきた。

「どうだ。うまそうなトマトだろ。食うか? 」

 男は、そう言いながらトマトをレオルの眼の前に差し出した。

 それをひったくるように男の手からもぎ取ると、レオルはかぶりついた。

 口の中に、酸味と甘みが広がり、堪らずむさぼり、飲み込んだ。

 走りながら、音を立てて吸いつき、噛み締めた。ヘタまで綺麗に喰い尽した。

 その様子を隣の男は、にやりとしながら、見ていた。



 セルビアヌスは、口内から流れる血を飲んでいた。

 それによって、幾分か喉の渇きが潤う。喉に乾いた血の塊が絡みついて、時折咳が出たが、なんとか空腹と飢渇に堪え切れていた。

 朝日がまぶしくその顔を照らしつける。

 顔はげっそりと痩せ、髪は汗で顔にくっつき、だらりと開いた口は2本の歯が無いせいで、貧相な様子であった。吊るされる前までの、二枚目の顔立ちは姿を消していた。

 それでもセルビアヌスの気持ちは凛としている。

 レオルが確かに、近づいていると思えてきたからだった。

 門の前に、たくさんの群衆が集まり待機している。

 多くの配走人たちが、昨晩までのレオルの状況を何人かの市民に伝えてきていたから、それを聞いた他の市民は、口から口へ、情報を伝達し共有した。その話は街中に広がり、レオルの戻りを期待しながら大勢の市民たちは待った。

 王は夜明け前から玉座に座り、退屈そうに門外を眺めていた。

 市民が門に集まってきたことを、忌々しい目つきで時折、睨んでは舌打ちする。

 思い通りに、レオルを昨日のうちに仕留められなかったことに苛立っていた。

 王も、吊るされた若者も、門前の市民も、誰も、現在のレオルの状況を知らない。

 全員がただ、黙って待つしかなかった。



 レオルは気分が悪くなった。

 胃のあたりが、痛む。

 トマトを食べてから、痛むようになっていた。

 急に何も入っていない胃袋に、ものを入れたから内蔵が驚いているのであろうか。

 自分の内臓は、たった一つのトマトの重みさえも耐えることができないのであろうか。

 隣の男は、まだ微笑みながら見ている。

 だからレオルは聞いた。

「なにを笑っているのですか」

「いや、あんたがさ、頑張ってるからだよ」

「はあ。ありがとうございます」

「ザキットは優秀な配走人だった。もうすぐ、外の街道であいつと追撃軍とで戦闘が始まるだろう。あんたに追いつかせないための闘いさ。おそらくザキットは帰ってこない」

「かもしれません。だから、わたしは、彼のために走ります。背中に彼の想いが乗っていますから」

 レオルはそう答えながら、よろよろと走る。正直、口を開くのもしんどいので、もう話しかけてほしくなかった。

「つらそうだな。水でも汲んできてやろう」

 そういう声が聞こえた。

 風が吹いてきた。

 木々がざわめくように揺れる。

 トマトのお陰で、走る力は湧いてきたが、考える力が、走る意識に吸い取られていて、ぼんやりとしている。頭に空気が入らなくなっているような重たい気分だった。

 レオルは前だけをみていた。もはや隣の男のほうなど向く力などあろうはずもない。

 それほど、彼の筋肉は疲れていた。

 後ろのほうで、ひときわ大きなざわめきが起きた。

 また風が吹く。

 眠い。

 食事の後は、眠くなる。

 寝ずに走り続けるという異常事態から、体が逃げようとしていた。

 どんどん睡魔が襲う。

 かといって寝ることは許されないので、レオルは片目ずつ、眼をつぶって寝ようとした。

 右目をとじて、右半分。

 左目をとじて、左半分。

 それぞれ半分ずつ、交互に寝る。

 浅知恵に思えたが、実際にやってみると、少し楽になったような気がした。

 しかし、さらに睡魔が襲ってくる。

 また片目をつぶった。ぼんやりとした光が片方の視界に見えてきた。それを見ていると、少し幸せな気分になった。なんだか足元がふわふわと浮くような感覚に襲われる。いや、これは体の半分が見ている夢なのだろうか。

 半分、夢の中――。

 半分、現実――。

 だんだんとその境界線が、溶けて融合を始めた。

 しかしその中で、肉体の疲労だけが、外に向かって一人歩きをして、夢と現実の融合を阻害している。

 筋肉の痛み。

 呼吸の苦しさ。

 心臓の乱れ。

 だんだんそれらの疲労が拡大してきた。

 どんどん巨大に膨らむ。

 レオルという器に入りきらぬほどに、膨らんできた。

 体内にある、疲労を入れておく袋が、限界という名の膨張に耐え切れなくなっていった。袋は、内側から押し広げられ、その表膜は伸びきって薄くなり続け、やがて――。

 ぶつり、と一部が小さく破れる音がした。

 それに伴い、レオルの本能が、死という恐怖を覚えた。

 ばりばりばりばり。

 破れた部分が横に裂けていき、じわりと中身が見えてくる。

 中から覗くのは死であると、予感された。

 じわじわじわじわ。

 大きく裂けたところから暗い何かが染み出てきた。やはりそれは死なのか――。

 しかし、闇よりも深い暗黒のそれは、「死」ではなく、「無」だった。全ての終わりではなく、永遠に続く、何も無い、という感覚――。なにかがあるわけではない。なにも無いわけでもない。それはまるで、質量のある空虚。

 次々にそれはレオルの中に広がり、ついには、彼のすべての内面が「無」に飲み込まれた。

 すると――。

 疲れを知らなくなった。

 呼吸することも知らない。

 心臓が動いているのかもわからない。

 走っているが走ってないようだ。

 一人歩きをしていた、休むこと、食べること、たどり着くことという「欲」が「無」に変質し、そのせいで現実と夢は完全に精神的な融合を果たし、次の段階へと移行していく――。

 その結果、疲労は快楽となった。

 苦痛は安楽に変わった。

 緊張は、弛緩した。

 いままで感じたことの無い高ぶりが、頭の奥のほうから生まれてくる。

 心地良い夢が現実を、包むように覆いはじめたのだった。

 

 その時、後ろから再び声がした。

「レオル、レオル。頑張っているな。どうだ、トマト食うか? 」

 その声が、片目で見ている夢の中から聞こえてくるのか、または風の音を聞き間違えているのか、それとも本当に、もう片目で見えている現実の声なのか、半分寝ているレオルには分からない。

 もういりません、と返事をしてみたが、レオルにはその自分の声すら、自分の口から発せられたものなのか、それとも頭の中で発しているものなのか、その区別もつかない。

 また再びどこからか、同じ声が聞こえてきた。

「レオル。大変だ。お前は間に合わなかった」

 何に?

「セルビアヌスが先ほど、処刑されたらしい。お前は間に合わなかったんだ」

 そんなはずはない。まだ日はあっちの空にあるではないか。日はまだ私の頭上に登っていない。

「いや、いや、いや。間に合わなかった。セルビアヌスも、もう来るなと死ぬ前に言っていたそうだ」

 わが友、セルビアヌスは本当に死んだのか?

「死んだ。吊るされたまま、槍で突かれて死んだ。もうお前の目的は無くなったのだ」

 いや、たとえ友が死んだとしても、私は走る。友のところまで走ることが目的なのだから。

「もうよせ。走る必要がないだろう」

 走る。

「死にに行くようなものだ」

 だとしても、走る。

 走る。

 走る。

 私は走る。

 私は、走らねばならない。

「なぜ、そこまでして走るのだ。一体、何のために走るのだ」

 最初は妹と、唯一の友人のために走っていた。

 でも、走っている途中で、色々な人から、色々な想いをもらって、助けられてきた。

 その想いのためにも走る。

 その想い、というものが何なのかは私には分からない。

 でも、それが恐ろしく大きなものであることだけは分かる。

 もともと私の目的とは、吊るされた友人を死なせないことであったが、途中で出会い、私に命を預けてくれた人たちとの出会いが、私の目的を大きなものに膨らませた。

 ザキットと別れてからずっと、自問していたことがある。それは、この走りを闘いに置き換えると、私は何と闘っているのかということだった。

 今、こうして改めて考える時間が出来て、ようやく分かってきたことがある、

 走り続ける私と、待ち続けるセルビアヌスの信念は、ある意味、武器だ。それは剣とか槍とか人を殺すものでは無い。人を生かす、見えない武器なのだ。

私の信念は、約束通り走ることであり、友人の信念は、約束通り待つことだ。その約束に支えられた信念を貫くことで、決して折れることの無い、武器が出来上がる。

 私たちはその武器を使って、王の心に見えない傷をつけて見せる。

 あの暴虐の王に、人を信じるという意味を、分からせる。

 そしてあの街の人たちを救う――。

 私は今、そう思った。

 私の闘いとは、そういうものなのだと今、分かった。

 だから、何があっても私は走るのです。

 最後くらいは、まっすぐ自分だけの力で走ると決めたのです。



 元・配走人キアヌは、レオルと並走しながら、説得を続けた。

 最初に彼を見つけたとき、そのかたわらに帽子を被った本物の配走人が、ぴたりとくっつくように走っているのを確認した。

 だからまず、遠目からその配走人を排除する機会をうかがった。

 しばらくしたら、配走人が一瞬、レオルから離れた。

 その隙に、その配走人にそっと忍び寄り、ナイフで刺して殺した。口をふさいで、声を上げられないようにすることも忘れなかった。

 その後、レオルに追いつき、語りかけを行ったのだが、レオルは全くのうわの空で、片目を交互につぶっては、空に向かってぶつぶつと、私の質問に答えているのだか、独り言を呟いているのだか、分からない様子で言葉を返してきた。

 しかし、何を言っても、一つの回答しか戻ってこなかった。

 走る、の一点張りだった。

 その声は、か細く弱弱しかったが、その言葉は、太く強かった。

 心の軸が僅か程にも、ぶれず、心の芯は少しも、曲がらず――。

 レオルという男の本質が、どこまでもまっすぐで硬い、ということがキアヌに伝わってきていた。

 おそらく、このうつろで、遠い眼をした表情から判断するに、さっきまでの配走人と自分が入れ替わったことさえ、分かっていないだろうと思えるのに、木の上に存在している配走人の道の目印だけは、はっきりと認識しているようであった。

 道順のとおりに完璧に走りぬけている。

 キアヌはどんどん加速して坂を下っていくレオルの顔を見た。

 眼が、とろりとしている。口が、だらりと開いている。その口角は上にあがり、笑っているようにも見える。手首も、走りにあわせてぶらぶらしていて、首もぐらぐら動き、座っていない。全身の筋肉が弛緩していると思えた。

 苦しいとか辛い、などという思考が無くなり、心の中の上澄みの部分、つまり幸せとか楽しさとか、そういうものだけを感じている。そういう佇まいをしていた。

 こうした状況は、一部の走る職業を営む者たちの間で、「陶酔の神の祝福」と呼ばれ、古くから言い伝えられてきていることをキアヌは思いだす。

 陶酔の神が、限界を超えて走る者の足に宿るというのだ。

 ひとたび足に宿った者は、からだの痛みを忘れ、心は快感にも似た多幸感に包まれる。

 そして、動きを止めない限り、そのままずっと走り続けることができる。

 人呼んで、神の脚――、神足しんそく

 キアヌもその周りの人間も、その状態を経験したことは無いが、昔の伝達兵の中には何人か居たと聞く。

 伝説に由来する事実がある。

 アラミス王のとある遠征中、先陣の部隊の砦が、不意を突かれ敵に囲まれたため、情報網を遮断されてしまい、遠くの本陣へ、囲まれているという情報を伝えられなくなってしまった。そんな絶体絶命の包囲中、意を決したひとりの伝令役が、敵の攻撃をかいくぐりながら、10里以上の道のりを短時間のうちに本陣まで走破したという逸話がある。

 レオルは片道25里の道に約一日かかったが、この伝令は、10里を日が西に傾いてから沈むまでのわずかな時間で走破したと言われている。これは最初から最後までほぼ全力で走らなければ、到達できない走行時間である。

 そして何より、皆を驚愕させたのは、その伝令が、本陣に着くそのときまで、幸せそうに笑っていたことだった。全力で走り続けたにも関わらず、疲れひとつ見せない表情で、笑っていた。

 その伝令は、王へ伝言すると、その場で微笑みをたたえて、幸せそうに死んだという。

 その場にいた兵士たちはその様子をみて、「彼に陶酔の神が降りてきた」と噂した。

 噂は長い時間を経て、走りの世界で生きる男たちの、ひとつの伝説となった。


 いまその伝説を、その眼でキアヌは目撃していた。

 きっと、これがそうに違いない。

 陶酔の神が、この男に神の足を与えている――。

 先ほどから、手に持ったナイフで、走り続けるこの男を何度も刺そうと試みた。

 しかし、彼の鬼気迫りつつも、幸せそうに走る姿と、どこまでも真っ直ぐな言葉を聞いて、その気が失せていくのが分かった。

 キアヌがこれまで出会ってきた人間は、つまらぬ奴らばかりであった。

 甘い言葉に弱く、苦しみに耐えきれず、楽なほうに流れてゆく、実につまらぬ奴らであった。

 自分は、そういう奴らを騙して、飯を食ってきた。 

 そういう奴らは眼を見れば分かる。

 眼の中心が腐っている。

 それに反して、レオルの眼はうつろだが、一点の曇りもない。

 キアヌは、初めて見るこの正直な男の姿に、心が揺さぶられているのを感じた。

 いままでの自分には無い、何かを持っている。

 この瞬間を生きるために、命の全てを燃やしている。

 その命を、最後まで燃やし切ってやりたい。

 俺のような、つまらぬ男に刺されて死ぬような人間にさせてはいけない。

 キアヌの心の変化は、その手からナイフを落とさせた。

 そのとき、気持ちの高ぶるレオルの口から、言葉がこぼれおちた。

「私はゆく。最後までゆく。そして、倒す――」

 キアヌに対してではない、遠い何かに対して語りかけているような口ぶりだった。

 ――何を倒すのか。

 武器を持たぬ平民が、何を倒すというのか。

 キアヌは恐ろしくなった。

 陶酔が、レオルの心をさらに強くしていた。

 もしや、誰も口には出さぬことを、この男――。

 キアヌの鼻の奥にカッと火がついた。それは決意の熱火であった。

「わかった。俺が手伝ってやる。な、最後まで、俺がお前を先導してやる。だから見せてくれ。俺にお前のやろうとしていることを。まだお前の友は死んでいない。まだ間に合うかもしれない。だから走れよ! 走れレオル!」

 一心不乱な若者の姿を見ているうちに思わず熱くなり、キアヌの口からも思わぬ言葉がこぼれてしまっていた

 卑怯者と蔑まれてきた自分の運命を変えられる、絶好の機会が来たのだ、と思わずにはいられなかった。


 

 体の回りを乳白色の光が包み込んできた。少し上のほうは檸檬色のまばゆい光が見えていた。夏だというのに、暑くない。丁度良い温度とはこのことか。

 足元の土も柔らかく、膝を前へ、前へと進ませてくれた。

 筋肉の痛みもいつの間にか消えている。

 ――これなら行ける。

 なんとも心地よい雰囲気に、レオルの精神はかつてない高揚を見せていた。

ふわふわと浮かぶような夢心地の中、レオルの昂った恍惚はたくさんの感謝を生んだ。


 細くても強い体に産んでくれた母に感謝した。

 利口じゃなくても強い心に育ててくれた父に感謝した。

 いつも優しい気持ちにさせてくれた妹に感謝した。

 その妹を幸せにしてくれるであろう婿に感謝した。

 何も持っていない自分に、武器と馬と薬をくれた眼光鋭い老人に感謝した。

 力強い走りで自分を敵から逃がしてくれた勇敢な老馬に感謝した。

 命をすてる覚悟で敵を食い止めてくれようとしている片腕の剣士に感謝した。

 飢えた自分にトマトをくれた隣にいる男に感謝した。

 極めて厳しい試練を与えてくれた王に感謝した。

 そして最後に、自分を待ってくれている唯一の友人に感謝した。

 

 この一歩は感謝の一歩だった。

 この一歩は想いの詰まった一歩だった。

 だから自分は行かねばならぬ。

 だから自分はこの足を止めてはならぬ。

 だから自分はこの一歩を前に出す。

 レオルは踏み込んだ。

 次の足はさらに遠くへ踏み込んだ。

 そしてその足は空を切り、レオルは穴に落ちた。



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