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明るい箱の幻想

作者:

 「明るい箱の幻想」

  楓 未穂


  1

 かさりかさりと落ち葉がこすれ、ちり取りがコンクリートの床にぶつかる音が妙に大きく感じられた。

 蝉の声はもうなく、その静けさに、ふとわれに返るような気がした。

 ベランダのありさまをみて、加凛(かりん)は掃除をはじめたのだった。

 今日は写真館の定休日の水曜で母親の通院日でもなかったが、いつものようにカメラ片手にいい被写体を求め、街にくりだす元気はなかった。写真館というのは加凛の勤め先だ。彼女はそこでフォトグラファーをしていた。

 もう、ひと月ほど水やり以外は手をつけていなかったので、鉢植えが排出した植物の残骸が散らばっていた。葉も花弁も乾燥しきって、夏の面影はとどめていない。どこからともなくやってきた埃も混じりあってベランダの床を汚していた。風で隣りのベランダに行っていなければいいがと思う。マンションのベランダの限られたスペースにプランターを置いて、ガーデニングをするのが、今のささやかな楽しみだった。どうしても土や植物がないとさびしい気がするのだ。

 加凛はジーンズに長袖Tシャツを着て、髪をバレッタで無造作にまとめた姿だった。三十代ももうじき終わりだが、童顔のせいか、まだ二十代としか思われないのはありがたかった。

 今まで周りからは縁談を勧められたり、結婚しないのを不思議がられたりしてきたが、すべてはねのけてきた。女の幸せは結婚なしにはありえないと、みんな思っているのかもしれない。

 だが、そんな偉そうな反論を抱きつつも、実は、自分も、こころのどこかで憧れているというのが正直なところだ。でも、そんなことを言ったら、じゃあなぜなのと不思議がられるだろう。

 運命の人がいるなんて、昔は思わなかった。

 でも、彼に出逢ったとき、なぜか彼がそうだと確信してしまったのだ。桧作(ひづくり)賢司のことを、何年ものあいだ忘れたことはなかった。

 そして、昨日、街で彼をみかけた。

 アーミー・コートのポケットに両手をつっこみ、木の下に立っていた。少し年齢の落ち着きを増してはいても、通った鼻筋、大きいのに切れ長の目は、変わっていなかった。他人の空似だろうか。でも、加凛をじっとみつめているようにみえた。それなのに、すぐにきびすを返して、人ごみの中に消えていった、加凛は急いで追いかけたが、間に合わなかった。

 気づいていたと思ったのに、やはりもう二度と加凛の前には現れない気なのだろうか。

 それとも人違いだろうか。もしかしたら、幻影を追いかけているだけかもしれない。自分でも、自分のことを心もとなく思った。こんなことを思いつめても仕方ない。

 遠くに目を移せば、遥か彼方の山並みをすじ雲がなでるように通り抜けていく。

 自分はただ待ち続けるだけの女になるつもりはなかった。待っても来てくれないと、嘆くつもりはない。現実をしっかりと生きていきたい。そんな矛盾する気持ちをいつも抱えていた。

 もうちょっとしたら、あまり実をつけなくなったトマトは抜いて、来春のための球根を植えようか。フリチラリアなんかは面白いかもしれない。あの気高い花の佇まいを想像すると悪くない気がした。

 ふいに、壁の下の方に目を移すと、フクロウのような顔があるのに驚いた。

 よくみると、羽を広げてとまっているヤママユガの仲間らしき大きな蛾だった。羽の文様がまんまるな二つの目みたいにみえるのだ。夜に街灯の周りをしつこく飛び回る蛾は身の毛がよだつほど嫌いなのだが、蝶に似た大きなアイボリーの羽はぴくりとも動かないし、上の方についている本物の顔はよくみると可愛かったので、見逃してやることにした。夜になったらどこかに飛んでいくことだろう。

 ベランダから部屋に戻ると、加凛は夕食の準備を始めた。母親は椅子に座っている。

「今日は、何が食べたい?」

「何でもいいわよ」

「鶏肉の八角あまから煮と、あとは小松菜の煮びたしでも作ろうか」

 母は近頃では相当元気になってきたが、ひとりでいたらどうなってしまうのかわからない。ひとりのときには、テレビもつけずにぼんやりしていたり、眠っていたりすることが多いようなのだ。


 次の日の朝八時半、加凛は栖栗(すぐり)写真館に出勤した。

 入口には低めの鉄門があるが、お客様が入りやすいように開け放たれている。ファザードにはススキ、りんどう、吾亦紅(われもこう)、ホトトギスも配され、すっかり秋の装いだった。建物は大正モダニズムと言ったらよいのだろうか、日本家屋にアールデコを取り入れたその当時、最先端をいっていたもので、少し増改築して栖栗氏のスタジオ兼自宅として使っていた。その魅力は、今も薄れていないようにみうけられる。 

 暗いスタジオに足を踏み入れると、いつも通り、奥に電球の暖かみのある光がみえた。歩きやすいようにいくつかスポットライトのスイッチを入れて中に入っていくと、奥のソファーに栖栗が腰掛けていた。切りそろえたグレーの鼻鬚の下にはパイプをくわえている。猫脚の脇机にはアールデコのランプが灯り、壁にはフェルメールの絵の模写がかかっていた。

「おはようございます」

「やあ、おはよう。黒田君」

 脇には、ステッキが立てかけてあった。栖栗茂はもう七十五歳をこえているが、シルバーグレイの頭髪や落ちついた顔つきは品よくみえるし、鋭い眼光はまだまだ、自己を保ち続けている証拠だ。

 いつも通り、コーヒーを沸かし、栖栗のところにカップを持っていった。

「今日の予約は、十一時と、十五時、それから十八時にそれぞれ一組ずつです」

「そうかね。どんな人達かい?」

「初めの方が、成人式の記念写真をスナップをまじえて撮りたいという女性で、振袖です。今年の初めには留学中で写真を撮る暇がなかったそうです。着付けとメイクはハナさんに十時から頼んであります。十五時の方はご夫婦で銀婚式の記念写真を撮りたいそうで、最後の方は就活の写真を良く撮ってもらいたいというご希望です」

「なるほど。じゃあ、君はどことどこで撮影するといいと思うんだい」

「成人式の女性は中庭の池の橋の上と、応接室の庭に面したソファーの座位」

「だめだめ! 応接室よりソラリウムの方が、全面から光が入るから着物が映える」

 ソラリウムとは要するに庭に増築した大きめのサンルームのことで、栖栗氏はそう呼ぶのが常だった。だが、背景の調度品のしつらえが応接室の方がアールデコの様式美が出ていて良いと加凛は思ったのだ。

 否定するなら、はじめから聞いてくれなくていいのにとも思う。それに、本当はお客様の希望も聞くべきだろう。でも、プロの写真家は客に可能なかぎり良い成果物を提供すべきで、その判断は写真家が責任を持つべきだというのが栖栗氏の持論だった。

 栖栗氏は柔和そうにみえて、実は、とてもポリシーの堅固な人だった。すべて、自分でやるのと同じようにしてくれないと不機嫌になる。だから、前もって確認することは不可欠だった。正直言って、一緒に仕事をしていくのは難しく感じていた。栖栗氏はつい去年まではほとんどの仕事を自分でやっていたが、リュウマチで手足が不自由になり、それがとうとう最近では写真を撮ることもままならなくなって、手足となって働いてくれる助手として、加凛を雇ったのだった。そんな訳で、加凛は、ただ彼のやり方を学ぶことにしていた。今は、栖栗に意見する勇気も自信も持ち合わせていない。

「この〝天秤を持つ女〟をご覧。こんな風に光を感じる絵は、いくらみても見飽きない。写真も同じだ。光を感じるということは影もあるということだよ」

 栖栗氏が壁のフェルメールの絵を、震えるパイプの先でぎこちなく指して言った。彼の口癖だが、このことには加凛も共感していた。

「でも、全面から光が入るソラリウムでは、その肝心の陰影が出にくいんじゃありませんか?」

「そこなんだよ。そこが考えどころだ。太陽は刻々と位置を変えている。だから、全面から光が入るところでは、光が差し込む方角を選ぶことができる。光の入る側のカーテンは開けるかレースにして、その他の側のカーテンをゆるくドレープさせて束ねてやれば、良い具合に撮れるさ」

 フェルメールは肉眼ではなくカメラ・オブスキュラというカメラの原型のようなものを覗きながら、描いていたと言われている。肉眼より陰影が誇張され切り取られた世界。そんな世界を、写真で表現したいと加凛も思っていた。

 郊外にある個人の写真館で、毎日数組の客が来るのは繁盛しているほうだった。これはひとえに、アメリカの写真雑誌LIFEに作品を載せたこともあるという栖栗氏の評判と、この建物の魅力から来ているのだと加凛は思う。この写真館では、ライトやスクリーンが確保されたスタジオでの撮影のほかに、自然光を利用したものも請け負っていた。つまり、窓から入る陽の光だけをたよりに、室内や中庭で撮影するものだ。日常とは違う空間でありながら、人物はまるでそこの住人のように写りこむ。この建物にはそういった撮影に格好のスポットが随所にあった。


 最初の客が来るまでにまだ時間があったので、現像のために暗室に入った。

 ここは、昔ながらの写真館らしく、スタジオ撮影では中判カメラを使っていた。このフィルムは一般に目にするものの倍ほどの大きさの120フィルムで、DPEが使えないこともあり、現像は手作業だった。今はデジタルカメラを使い沢山のカット数を撮り、これを客に選ばせたり画像データも提供する写真館も増えていて、加凛もそういうサービスを始めなければ時代に取り残されるのではと心配していたが、栖栗氏はまったく取りあわなかった。デジカメは、まだまだ解像度の面で劣りはするが、素人目にはまったくわからない。それでも、栖栗にとって、写真館の伝統というのは簡単に変えてしまえるものではないようだった。

 現像液をつくり恒温バットに移し、定着液も隣りのバットに入れ、電熱器のスイッチをonにした。現像済みのフィルムを引伸機にセットし、ピントを合わせ、ちょうどいい露光を決めたら、あとは単純作業の繰り返しだ。今日は何枚か試してみて、赤みが強かったのでCCーYとCCーMのフィルターを入れ、露光時間は五秒で行くことにした。五秒なんてあっという間だ。「だるまさんがころんだ」を唱えるくらいの時間。長すぎても濃くなってしまうし、短くてもぼやけてしまう。焼きつけの終わった印画紙を現像液に移しピンセットで振りながら、暗室用タイマーとにらめっこして、画像が浮かび上がってくるのを待ち、定着液に移す。この一連の作業を繰り返していく。

 こんな作業をしていると、どうしても色々な思いが浮かんでくる。

 今の自分が、これまで目指してきた、なりたかった姿なのか、加凛はいつも自分に問う。今は、わからないという答えしか返ってこない。いつか満足な自分になれる日は来るのだろうか。写真コンテストに受かれば、フリーカメラマンへの道が開かれるかもしれない。そうなれば、満足できるだろうか。わからないが、とにかく、今はそれしか目標を思いつかない。一度決めたからには、達成するまで頑張ってみよう。加凛は懸命に自分に言いきかせていた。

 加凛は写真学科専攻の新卒で大手新聞社に就職し記者を経て、ようやく念願のカメラマンの座を射止めたあと十年働いたが、連日深夜におよぶ残業がたたり体を壊した。ちょうど母親が倒れたことも重なって、迷った末に退職した。運良く母親は一命をとりとめ、今は経済的な余裕もないので実家で一緒に暮らしていた。それで、今年の春から、知合いが紹介してくれたこの写真館の手伝いを始めたのだ。男と同じように出世を目指すのもひとつの道だが、何かもっと自由な道を探してみたくなった。四十を目前にし、一度はひどく落ち込んだこともある。でも、女の四十歳はそれほどおばさんではないとも、近頃、思う。

 だから、ただぼんやり夢みているのはもうやめた。あえて、馬鹿げた夢を今から本気で追いかけてみようと考え始めていた。写真コンテストで賞を撮り知名度を得て、フリーカメラマンになることを目標に休日に写真を撮り始めたのだ。

 九時四十分、もうそろそろ最初のお客様が着付けのために来るかもしれない。

 着付けやヘアー、メイクの予約がある方は直接美容院へ行くように説明を送っていたが、それでも、まず写真館に来てしまう人が多かったのだ。

 明かりをつけて、出来上がった写真をさっとチェックしてみて、加凛はうんざりした。

 また写っていたのだ。

 一枚の写真の端の方に、白い光の塊りが浮かんでいた。それも、頭や手のある人のような形にみえる。はじめてこれをみたとき、心霊写真だと思って不気味に感じた。だが、栖栗氏にみせると、思わぬ答えが返ってきた。

『この館には、座敷童子がいるんだよ。ときどき、映りこんで悪さをする』

 彼独特のウィットだと思って、加凛は思わずほほえんだ。

『嘘だと思うだろう。だがね、私は姿をみたことがある。あれは五歳くらいの女の子だった。昼間だった。赤いべべを着て、顔や手は白く光っていたよ』

 加凛はぞっとして言葉を失ったが、栖栗老人は話を続けた。

『あれをみるといいことがあるんだ。家は繁栄し、商売は繁盛する。だが、誤解されると困るから、客には絶対言わんでくれよ』

 本当にそんなものがこの(やかた)にいるのだろうか。

 でも、いくら幸運のしるしだと言われても、写真に写られては迷惑だった。修正作業にはとても手間がかかる。

 写真をそのままにして暗室から出ると、女の子が立っていた。栗色に染めたスパイラルヘア、どんぐり眼をくりくり動かし、快活そうで愛嬌がある。どこかで会ったことがあったかと一瞬思ったが、思い出せなかった。ミニに近いスカートからは、すらっとした足が伸びていた。

「あの、もしかしてご予約のお客様ですか?」

「いえ、違います。今日から、あたらしくバイトに入った楠山(くすやま)万由子(まゆこ)です。よろしくお願いします」

「そうなの。よろしくお願いします。黒田加凛です」

 バイトの話など聞いていなかったと加凛は思った。

 勢い良く扉が開いて、栖栗老人の孫息子の礼郎(れお)が入ってきたが、横柄な彼は挨拶もそこそこにスタジオに入っていった。

「あの人はいつもああだから、気にしないで」

 加凛が気遣って言ってみると、彼女はけろっとした顔でうなずき、こう切り出した。

「それで、栖栗さんは黒田さんに仕事を教えてもらうようにって言ってました」

 前もって説明もなかったのに、教えろなんて言うことを少し腹立たしく思った。

「いつ面接だったのかしら」

「今朝。ノンアポで、何でもいいから仕事を下さいって頼んだんです。あたし、この写真館をみた瞬間に、絶対ここで働きたいって思って」

「そうなの。写真のことは少し知っているの?」

「ううん、全然」

「高校生?」

「いえ、高校を卒業してフリーターをやってます」

 話具合からして、やはり若そうだ。二十歳ぐらいだろうか。

 加凛は、よく吟味もせずに人を雇ってしまう栖栗にあきれた。

「これから、撮影の予約があるの。それが終わったら説明してあげるから、ちょっと待ってね」

 成人式のお客は、十時ぎりぎりにやってきた。笑顔が可愛い。横から撮っても様になる顔だと思った。今時の女の子らしく、クールでものおじしないタイプらしい。

 はす向かいの美容室に行くように伝えると、急いで出て行った。それから栖栗に確認をとってから、小一時間、楠山万由子に説明することにした。

 とりあえず、加凛と礼郎でシフトを組んでこなしていた受付をおもに彼女に任せ、そのほか加凛がやっていた雑用をいくつかお願いすることにした。


 撮影は、栖栗氏が言った通り、ソラリウムと庭のガーデンベンチと太鼓橋の上、それにスクリーンをバックにしたスタジオ撮影を行うことになった。

 彼女の着物はイメージにとても合っていた。柄は鮮やかなピンクに黒を取り入れてあり、半襟にもピンクのレースを使っていた。若い子らしく伝統を気にせず流行をいち早く取り入れている。そのことをさり気なく褒めると、少し笑顔が和らいだようにみえた。結局、写真は緊張していては、上手く撮れないのだ。しばらく雑談などして、気持ちをほぐしてあげるのが大事だった。その後、ポーズや笑顔の作り方の簡単なレッスンをしてから、撮り始める。

 太鼓橋のたもとでは広角でゆがみを出してみたし、ガーデンベンチでは、背景をぼかすため、望遠でななめ後ろを振り返っているポーズで撮ってみた。彼女は、やはりどれも様になっていてやりやすい。でも、普段は少し内気で目立たないような子の美しい瞬間、角度を捉えるのが本当のプロだと、近頃、加凛は思う。そんな写真が撮れたときのお客様の喜ぶ顔をみると、仕事をしていてよかったと感じることができた。だが、美しい子もより美しく撮ることができなくては失格かもしれない。

 それぞれの場所で五カットずつ撮ったが、デジカメならこの十倍以上撮ることが可能だ。でも、フィルム写真ではネガ代やら現像の手間などもばかにならない。それに、どんな風に撮れているか現像するまでわからないのが恐い。もしも撮れていなかったら、笑いごとでは済まされない。そのための緊張感が常に現場にあった。

 スタジオでの撮影の途中で思い出して、万由子の様子を窺うと、お客様とはぜんぜん違う方をみて笑っているので少し驚いた。


 その日、隣りの休憩室から、いつにない笑い声が響いてきた。こっそり近づいて聞き耳をたてると、栖栗氏と万由子が笑い声をたてながら、話しているのだった。

「それで、私は月夜の写真を撮りたいの」

「ほうっ、それは面白い」

「うん、先生、知らないでしょ。満月の晩の草原ってキレイなのよ。草が夜露で光って、銀色に光るんだから。思わず、踊り出したくなるくらいだよ」

「ほう、もしかしたら、踊ったことがあるのかな」

「内緒だけど、しょっちゅう」

「ハハハッ、君は面白い子だね」

 こんな風に栖栗と気安く話す万由子に、加凛は心のどこかに嫉妬に似た感情が芽生えつつあるのを感じた。万由子は、写真には、まったく素人で、アルバイトといっても、電話対応、受付、掃除程度しかやっていないのに、もう、何年もここにいるかのように栖栗と話している。でも、決してそんなことを顔に出してはいけない。悟られるのは屈辱だった。

 加凛は思い切って、休憩室の中に入っていった。

「楽しそうに盛り上がってますね」

「ああ、黒田くん。いや、彼女は面白いよ。月光写真を撮りたいらしい」

「月光写真?」

「うん、太陽光ではなくて、月光を使って写真を感光させるんだ」

 月光写真だなんて、万由子はただ思いつきで言っただけだ。そんなことをこんなに面白がるのかと、加凛は、また少しあきれてしまった。

 礼郎(れお)が、不機嫌そうな顔をして休憩室に入ってきて、コーヒーを淹れ始めた。栖栗の机の上にあるフォトスタンドの中の亡き栖栗夫人、ソフィーの面影が強く感じられる。こういう人をクウォーターと言うんだったかと、はじめて会ったときには思ったものだ。

「なんだ、礼郎、調子はどうだ」

 栖栗が声を掛けたが、彼はいつも通り返事をしない。

「返事ぐらいしたらどうだい」

 礼郎と栖栗氏との仲は、はた目からもぎくしゃくしているのが明らかだった。

 彼は栖栗氏のやり方をすべて、時代遅れと決めつけていた。だから、ここから早く出て独立したいと考えているらしい。そうなったら、きっとデジカメを使ったあたらしいサービスを始めるだろう。加凛も、時流に乗るべきだと考えていたが、心のどこかでフィルムに一種の郷愁のようなものを感じているのも事実だった。フィルムは、決して便利なものではないが、過去の遺物のように博物館でしかみられないものになるのは寂しいとも思う。どっちつかずで優柔不断な性格に嫌気がさして、自分でもどうしたらいいのかわからなくなることがある。でも、単純には割り切れない者の方が人間らしい気もする。

 それでも、時代の流れはやはり止めることは出来ないのだろう。


 その日の晩、マンションに帰りつきポストを開けてみると、新聞の隙間に、一瞬、ダイレクトメールと見間違えそうになったが、一通の封書が入っていた。茶封筒に印刷された探偵事務所の文字が目に飛び込んできた。差出人は、なんと桧作だった。やはり、あれは人違いではなかったのだ。

 急いで部屋に戻り、あけてみた。

 ――元気ですか。突然、こんなお便りを出して、驚かれるかもしれませんね。なんだか急に懐かしく思って、顔をみてゆっくり話そうと思ったんですが、迷惑かと思ってやめました。いつか、何か困ったことがあったら連絡下さい。相談ならいつでも乗りますから。

 迷惑なんかじゃないのにと加凛は思った。会いたいと言うわけでなく、相談に乗るなんて言うのが彼らしい。

 それでも、彼からの連絡に加凛はこころを(おど)らせていた。

『また、会ってくれますよね』

 加凛は無理かもしれないと思いながらも、あの時、そんな言葉を口にしたことを考えていた。

 あれから、五年も経ったのだ。



  2

 戻るときには、いつも結構な衝撃とともに地面に叩きつけられる。今日も気付くと、コンクリートの冷たい感触を感じて、まだ、死んではいなかったと思った。

 桧作は道端から起き上がり、ゆっくり歩き始めた。

 街並みは、もう夕闇に包まれようとしていた。

 自分は、どうしてこうなってしまったのだろうか。

 ふいに寂しさが込み上げ、あの子の住む街に足が向いた。

 加凛が実家に戻っているのは知っていた。

 最寄り駅のコンコースでずっと待ち続けた。

 こんなことをしていても、どうせ会えないだろう。通勤時間なんて毎日違うし、通り過ぎて気付かない可能性が高い。

 でも、彼女は来た。髪は伸びて、少し印象は変わっていたが、確かに彼女だと思った。一瞬、目が合ったように感じた。だが、次の瞬間に、自分は何をしているのだろうという醒めた気持ちに支配された。彼女に何を言えばいいのだろうか。逃げるようにそこを立ち去った。


 住居兼事務所のマンションへ辿りつき、桧作探偵事務所と書いてあるポストをチェックした。いつも通り、ダイレクトメール、新聞が入っているだけだった。現在、桧作は探偵事務所をやっていて、普段は依頼を受けて、夫の浮気や子供の素行などの調査を格安で請け負っている。

 だが、それは表向きで、実は桧作は特殊能力を使った調査を行っていた。

 信じがたいかもしれないが、それは過去に(さかのぼ)って起きた事件の真相をみてくるというものだった。だが、この能力を信じる人は少ないし、証拠をつかんでくるのも難しい。それに、おかしな人物に能力を知られるのは危険だった。だから、危なくなるとあちこち転居を繰り返してきた。

 暗い部屋で留守電のボタンが赤く光っていた。何件か仕事の依頼が入っているのだろう。

 電気を点け、上着をハンガーにかけた。

 そのあいだにも、また電話が鳴ったが桧作は取らなかった。

「只今、調査のため外へ出ています。ご用の方は、お名前とご用件、連絡先をどうぞ。追って連絡差し上げます」

 留守電メッセージが応答したあと、何も言わないで相手は電話を切った。事務員を雇うほどの余裕がないので、早く携帯電話に転送されるように設定しなくてはいけないと思っていたが、まだ、やっていなかった。

 お気に入りのロックバンドのCDをステレオコンポでかけた。テレビをつけると仕事ができないからだ。コンビニで買ってきた弁当を食べながら、今日の仕事の報告書を書き終えた。

 留守電を再生し、依頼内容を確認した。二件の依頼が入っていた。一つは行方不明の猫を捜索してほしいというもので、もう一つは自分に代わって、生まれ故郷の今は誰も住まない家の様子を、ビデオに撮ってきてほしいというものだった。猫を探すのは無理だが、故郷のビデオは交通費などの条件次第だ。明日、電話して詳しい内容を聞いてみなくてはならない。

 そのあとで、テレビをつけた。ニュースをチェックしてから、バラエティー番組に変えてみたが、あまりみる気になれなかった。吹き込まれた誰かの笑い声が寒々しく部屋に鳴り響く。

 キッチンのゴミ箱に弁当の殻を捨てようとすると、一杯で入らなかったので、ゴミ袋を箱から引き出し、ベランダのダストボックスに持っていった。弁当ばかり食べているので、プラスティックのゴミが溜まって困る。なんとか押し込んで蓋を閉めた。ベランダから外に目を移すと遠くの街の明かりがみえた。ふいにぶるっと身震いしそうになる。夜になって、大分、冷え込んできた。もう、秋も終わりに近づいている。こんな、(わび)しい生活を好きこのんでしている訳ではなかった。やはり、自分ももっと人間らしい生活をすべきかもしれない。だが、この仕事をはじめてから、こんな綱渡りのような生活では、女性を幸せに出来ないかもしれないと思うようになった。

 夕方、みかけた加凛の面影が脳裏をかすめる。

 五年前のあの日、桧作はただの通りすがりのように、挨拶をして加凛と別れた。

 あのときの彼女の少し寂しそうな笑顔を忘れられなかった。

 それでも、秘密を知られたからには、彼女には二度と逢えない。

 この五年間、その二つの気持ちの間で揺れ動いた。

 桧作は五年前の早春のあの日、加凛とはじめて逢った。

 過去へ飛んだとき、いつも、何故か出発の場所とは違うところにたどりついてしまう。それが悩みの種だったが、現実に戻ったとき、それまで一度も人に目撃されることはなかった。でも、あの日は違った。

 あのとき、秘密の依頼を受けて、一週間前の、ある事件の現場に飛び、事件の起きる様子を目撃して戻ってきた。そのとき、桧作は遊歩道を歩いていた女性の目の前に、転がり出てしまった。そして、彼女を避けようとして、バランスを崩し、もんどりうって、意識を失った。気がつくと病室のベッドの上にいた。すぐ横に見知らぬ女性が座っていた。

「良かった。気がついたんですね。お医者様の話だと、手の骨が折れてるけど、脳には異常ないということでした」

「骨が折れてるんですか」

 桧作は自分の右手を動かそうとして、痛みに顔をしかめた。

 自分のことをみつめる彼女の顔が、まるで如来像のように優しく輝いていた。彼女は黒田加凛と名のった。

 桧作はここまで連れてきてくれたことに感謝して、礼を述べた。

 彼女は気にしないようにと言った。そして、桧作のことを不思議な人だと思いつつも同情してくれているようだった。少し元気になってくると、病室から出て休憩室でお茶を飲みながら、話をしたりした。

「私にはあなたが上から降ってきたようにみえたんです。でも、上に歩道橋があったわけでもないし、街路樹に登っていたとかかしら。でも、私、そんなこと他人に言ったりしませんから。安心して」

 右手を怪我してしまったために、食事をするのも字を書くことも満足にできず、毎日、些細なことにいらいらしていた。でも、加凛の笑顔をみると、こころが安らいだ。

 それから、彼女とときどき会うようになった。

 はじめは彼女にも自分の能力について語らなかった。信用できる人間なんて、世の中にはいないと思っていたのだ。

 でも、彼女のことが好きになっていた。いつも、自分が元気付けてもらうばかりで、彼女に何もしてあげられないのを心苦しく思ってもいた。

 あんなことをしなければ、今は二人で幸せに暮らしているかもしれなかった。

 最近、加凛があの写真館で働き始めたということを知って驚いた。なんという偶然だろうか。

 桧作は部屋に戻って、オカリナを吹きはじめた。

 ときどき気持ちがざわめいて、どうしようもなくなったときに、ひとり吹いてみるのだ。

 自分は過去をみられても、それをどうにも変えることはできない。そのジレンマにいつも苦しめられる。そんなときに無心で吹き続けると、少し気持ちが和らぐ気がした。

 彼が自分で作って奏でるメロディーは、初夏の木々のざわめきや潮の香り、水の輝きなどを思いおこさせると言った人がいた。

 そういえば、加凛もあのときこれを聞いて、とてもなぐさめられたと言ってくれた。

 今更ながら、思いきって加凛にここの連絡先を伝えてみようかと考えた。

 永遠に誰も信じないなんて、なんとも悲しいことだ。彼女のことは信じてみたいと思った。もし、それで裏切られたらそれまでだが。もう、どうとでもなれと思っていた。


 3

 休日に久しぶりの写真撮影に繰り出した。

 雑多な街並みを歩きながら、シャッターチャンスを狙う。

 コスプレの女子高生がみんなの好奇の目を集めながら通ったが、撮りたいとは思わなかった。

 曲がり角で、恐らく明治か大正時代から続くような米屋をみつけて、ご主人に声をかけてみた。気さくなおばあちゃんは犬を撮ってほしいと言った。犬とおばあちゃんとお店とをかわるがわる写真におさめた。

 写真コンテストを狙うなんて目標をたてたものの、一体、自分はどんな写真を撮ったらいいのか迷い続けていた。受賞するような作品はどれも、何か奇抜さがあったり、世相を反映したものばかりだ。お世辞にも綺麗とは言えないものも多い。そういった何かを入れなくては、賞は無理だろう。フリーカメラマンになるには、他に大御所カメラマンに弟子入りして修行する道もあったが、加凛は歳をとりすぎている。

 このまま、あの写真館で働き続けるのもひとつの道だ。そのためには、どうしても栖栗茂に認めてもらう必要がある。

 五年前に加凛が桧作と会ったあの日のことを、加凛は今でもときどき思い出す。

 あの日、加凛がよい被写体をもとめて、朝早くから遊歩道を歩いていたとき、ふいに目の前に男が落ちてきた。加凛は驚いたが、男は打ちどころが悪かったのか、ひとこと呻いたあと、動かなくなった。しばらく何が起きたのかわからず、呆然としていたが、やっと思いたって加凛はその男に駆け寄った。

「大丈夫ですか」

 揺すっても、男は目を覚まさなかった。気を失ってしまったらしい。

 急いで一一九番通報し、救急車を呼んだ。

 ためらいつつ男の胸に耳をあてると、規則正しく心臓の拍動が聞こえた。鼻の下に手をかざしてみると、ちゃんと呼吸もしているらしい。

 救急車を待つあいだ、加凛は見ず知らずの男を膝にかかえこんでいた。無防備な様子にこころを打たれたのかもしれない。男の顔は、眠っているようだった。朝日に照らされて、長い睫毛が輝き、端整な顔は、とても安らかだった。まるで死に瀕した小鳥か、あるいは天使のような生き物に出会った気持ちになった。自分が助けてあげなくてはいけない。自分なら助けてあげられる。

 医師の診断では、幸い、腕の骨折だけで、脳などに障害を起こしているわけではないということだった。病室で、男が目を覚ましたときに、加凛は思わず安堵の溜息をついた。自分でも、なぜ、ここまで男に同情しているのか、わからなかった。でも、放っておきたくなかったのだ。今から思うと、加凛はこのとき、すでに桧作にひとめ惚れしていたのかもしれない。男は桧作賢司と名のり、加凛に礼を言った。でも、なぜか男は自分の家族には連絡を取ることを拒んだ。

 それで、加凛は毎日のように桧作の病室を見舞った。腕の怪我だけだったので、彼はやがて退院した。退院するとき、彼は自分の名刺を加凛に差し出した。彼の仕事は私立探偵だった。


 写真館のことは、休日でも頭から離れない。

 楠山万由子が来てから、すべてが変わってしまったように加凛は感じていた。

 彼女は、加凛が自分に欠けていると思っていたものを、生まれながらに持っているような気がする。

 その日、加凛がスタジオで七五三の三歳の女の子にぬいぐるみをみせ、ご機嫌をとりながら写真を撮っているところに、万由子が来た。

「見学していいですか。受付は、今、礼郎さんがやってくれてて、休憩時間なんです」

「いいけど。子供は敏感だから、恐い顔をしちゃだめよ。笑ってね」

「大丈夫。私、子供好きですから」

 彼女は本当に子供の扱いに慣れているようだった。撮影途中で、子供が突然、万由子のところに駆け寄り、度肝をぬかれた。彼女が笑顔で抱き上げると、けらけら笑い出した。子供の行動というのは予測できないものだとあらためて思う。でも、万由子の子供のあつかいの上手さのおかげで仕事がはかどった。だが、順調に写真を撮り終えようとしているところで、ふと万由子の方をみると、また、あらぬ方を目で追いかけているのに気付いてしまった。きっと、そんな風に無意識に目を動かす癖があるのだと思ったが、子供の方に目を戻すと、その子も万由子の視線の先をみて笑っていた。万由子の方ではなく、別な何かをみて笑っているのだ。

 これは一体どういうことなのだろう。頭がおかしくなりそうなので考えるのはやめた。全部、気のせいだと思うことに決めた。


 その日、撮影が終わって片付けを始めたところで、栖栗に呼び止められた。

「この頃、なかなか腕を上げているようだね」

「本当に、そう思われますか」

「うん。陰翳礼賛、大いに結構だ。大分、良くなってきた。ところで、近頃、礼郎はどんな様子かね?」

「ええ、彼の写真は若い人に人気ですよ。宣材写真を撮ってほしいという依頼が多いみたいです」

「そうかね」

 宣材写真をいうのは、オーディションなどに応募するときに使う、ポーズをつけて、多くのショットを撮影する写真のことだ。ポートレートと同じようなものだが、こちらは、その子の特徴を打ち出すような、生き生きとした表情やポーズが求められる。

 ときどき、栖栗氏は加凛に、礼郎のことを尋ねた。加凛もそんなに礼郎と親しいわけではなかったので、あまり詳しいことは答えられなかった。

 礼郎は栖栗とほとんど話をしない。どんな写真を撮っているか、たまにはみせなさいと栖栗が言うことがあったが、それを礼郎は無視していた。加凛は暗室に乾燥させている礼郎の写真を何度かみたことがあった。彼は筋がいいように思う。どことなく昔の栖栗の写真と似たようなところがあるとも感じた。だが、礼郎に言ったら否定することだろう。


 お客様が特に希望しない限りm最初の予約の段階で仕事を礼郎と加凛で二つに分けていた。礼郎が受けた電話は彼の担当、加凛が受けた電話は彼女の担当だ。でも、万由子が来てからは、彼女に適当に振り分けてもらうことにした。受付のスケジュール帳に加凛と礼郎の欄を作り、それぞれの予約を記入していき、ダブル・ブッキングを防ぐ。それから、暗室の使用は、従来通り入り口の横に吊るしてある予約簿にそれぞれの名前を入れていた。

 ある日、加凛が現像作業をしているとき、廊下から、子供の声が聞こえてきた。今日の予約には子供はいなかったはずだ。それに、こんなに沢山の声が聞こえてくるなんて。子供たちが廊下を走っていく振動が伝わってくる。キャーキャー叫びながら、走っていき、キー、バタンと扉を閉める音が響いた。加凛は焼付けする手を休め廊下に出て、あちこちの扉をあけてみたが、子供などいなかった。その日は、それ以後、音は聞こえなくなった。考えてみるとあのドアは、廊下の突き当たりの横にある部屋からだったように思った。閉めるときにキーと妙な音がするのはあそこだけなのだ。

 そこは栖栗のプライベートな部屋の一つで、彼以外の者は入らないはずだった。

 加凛はふと思い立って、休憩室で万由子に尋ねてみることにした。

「ねえ、あなたあれがみえるの?」

「あれって?」

「笑わないでね。私、実は栖栗さんにこの館には、座敷童子がいるって聞いたのよ。それに私も声や足音を聞いたわ。あなたには姿もみえるの?」

「黒田さん、つかれているんじゃないですか。そんなこと考えない方がいいですよ。私、実は霊感がある方なんですけど、ここに悪いものはいない感じです」

「じゃあ、いいものはいるの?」

「だから、慣れてない人は、あんまり気にしない方がいいんですって」

 彼女は意味深な言葉を残し、部屋を出て行った。



「キャーッ!」

 ある晩、悲鳴を聞いて加凛が駆けつけると、万由子が窓の前でしゃがみこんでいた。

「どうしたの?」

「あそこっ!」

 彼女の指さす方をみると、五本指をぴたぴたと吸盤のように貼り付けて、ヤモリが窓ガラスの上を歩いていた。

「なんだ、ヤモリね。平気よ。あれは害虫なんかを食べてくれるし、歩く姿はユーモラスで愛嬌があるじゃない」

「嫌です。絶対! 虫を食べるなんて、許せない!」

 まわりに木々も沢山あるこの写真館の門灯のまわりには、夜になると羽虫などが集まる。そのあたりをヤモリが、のろのろと歩き回っているのはよくみかける。

「俺も、あれは嫌いなんだ」

 いつのまにか、礼郎がやってきてそう言った。

「そうですよねー!?」

 万由子は礼郎の方を向いて、嬉しそうにおおげさな相槌をうった。

「ヤモリっていうのは、家を守ってくれるからヤモリっていうって聞いたわ。家に来る虫を食べてくれたり、別に悪いものじゃないのよ」

「でも、嫌なものは嫌なんだよ」

 礼郎と万由子に非難されているような気がして、加凛はまいった。

「嫌なら、仕方ないですね。でも、退治する方法なんてなさそうですけど」

「虫がいるから集まってくるんだ。殺虫剤で駆除すればいい」

「止めてください!」

 今度、こう言ったのは万由子だった。

「なんだよ、虫は嫌じゃないのかよ」

「大体、虫を殺すために殺虫剤をまくなんて、環境破壊ですよ。その殺虫剤が地面に流れたりして。殺虫剤だって人体にも有害なんですから」

 そう言うと、万由子は行ってしまった。

「ったく、訳わかんねー奴だな。急に怒り出して」


 その日、加凛は現像作業中に、またあの声と足音を聞きつけ、ふらふらと暗室から出ると、今さっき、音をたてて閉まった突きあたりの扉の前に来ていた。

 勝手にあけてはいけないと理性は警告していた。

 でも、どうしても、この部屋に何かがあるような気がして、開けずにはいられなかった。

 それに多分、鍵が掛かっているかもしれない。

 だが、ハンドルに手を掛けると簡単に回り、扉はあのキーという音とともに開いた。

 その部屋には窓がなく、壁全面と部屋の中にも何列か、まるで図書館のようにに天上まで届く本棚が並んでいた。

 中を見回しても誰もいなかった。

 本棚の中に並んでいるのは、ほとんど全部、フィルムのファイルだった。背に撮影年月日と場所などがメモされていた。プリントした写真も一部、その横に並んでいる。一冊、手にとってみると、昔のアメリカ南部、スラムと思しき路上に群がる黒人達や、日本のどこか貧しい町の労働者達の容赦ない眼差しが、そこにあった。彼らは、あわれな姿を写真に撮られることを怒っていたのだろうか。あるいは、写真というメディアを通して、自分たちの怒りを伝えようとしていたのだろうか。

 それを元に戻して、棚の隅の方に目を移すと、ひときわ大きくて古そうなアルバムがあった。

 開いた途端、どこかヨーロッパの裕福な家の子供たちのセピア写真が目に飛び込んできた。

 偶然開いたページの写真には、四人の女の子達がおそろいのニット編みのワンピースを着て、左から背の高い順に、階段状に並んで写っていた。

 一番小さな子は三歳くらい、一番大きな子は十五、六だろうか。

 あどけない表情に思わず顔がほころんだ。

 加凛はさっきまでの怖さも忘れて、写真を次々めくっていった。

 立派な身なりの夫婦が写っていた。

 それぞれの人物の下に、Louis,Annaと書いてあった。

 祖父母らしき人達や親戚も入った集合写真もいくつもあった。

 同じ家族の移り変わりを眺めるのは楽しかった。

 子供達が次第に成長し、年長の兄弟は大人びていく。そして、あたらしい兄弟姉妹が増えてもいた。

 加凛はふと、節目節目にこんな風に家族で写真を撮った時代がうらやましく思えた。みんな、そのときそのときの出来うる限りのおしゃれをして、晴れがましい顔で写真に写っている。老いも若きも、一つの家族として結びついている。もしかしたら、今では希薄になってしまった家族の絆がここにはあるような気がする。

 だが、次にめくったページをみて、加凛は凍りついた。それは、あの少女達の家族を写したものだった。だが、端の方に桧作賢司にそっくりの人物が写りこんでいたのだ。これは一体どういうことだろうと考えた。

 その時、ふいに少女の甲高い声が響いた。

 “Forget me not!(私を忘れないで!)” 

 驚いてそっちの方をみると、はじめの写真に写っていた一番年下の子にそっくりの子が本棚の影からこちらをみつめていた。

 ブルネットのカールした髪、大きなブルーの瞳、ほっぺたはリンゴのようだ。

 くすんだカーキ色のワンピースの上に赤い長いニットを重ね着して、えんじ色の靴を履いている。

 まるで仏蘭西人形のようだ。

 これはさっきの写真と同じ格好だった。

 写真には色がなかったが、こんな色だったのかと思った。

 だが、目を離したすきに音もなく消えた。あちこち探してももういなかった。

 もう一度、さっきの写真をみてみるとその写真の下には左から順に、Mary, Glace, Anna, Sophieと書いてあった。

 加凛はその部屋の中を元通りにして、栖栗に気付かれないことを祈り、こっそり外に出た。しばらく考えてみて、あれが座敷童子なのだと思った。だが、座敷童子というよりも、むしろ子供の幽霊と呼ぶべきだろう。それから、Sophieという栖栗夫人と同じ名前がひっかかった。


 4

「お久しぶりです」

 レストランの予約席に辿りつくなり、加凛は何もなかったように微笑んだ。事務所は狭いし、お世辞にも綺麗とは言えないので、とりあえず、ここで話をすることにしたのだ。

 新しい店ではなかったが、昔ながらの丁寧なサービスの欧風料理の店で、ゆっくり過ごせるはずだ。照明を落とした店内には、少しハスキーな女性シンガーの「スマイル」がかかっていた。

 ボーイが椅子を後ろから押してくれて、彼女はゆっくりと腰掛けた。

 彼女から、電話があったときには嬉しい半面、恥ずかしさも感じた。ポストに入れた手紙は、取り繕ってはいても桧作の願望が透かしみえたかもしれない。

 しかし、こうして間近で彼女をみると、相変わらず若くみえるのに驚いた。ろうそくの炎で艶っぽいシルクのブラウスが輝き、顔色を引き立てているせいかもしれない。

「全然変わらないね」

「ふふっ、桧作さんも変わってないですよ。また会えて嬉しい」

 桧作は彼女が喜んでくれていることに安堵した。

 格好悪いところは見せたくなかったが、メニューを見ても、ワインの良し悪しはまったくわからなかった。ボーイにお薦めを尋ね、それに決め、コースメニューを注文した。

「元気そうで良かった。ところで、話してくれるかな? 僕で役に立てることならいいんだけど」

 桧作は照れ隠しに、あまり反応を示さず、先を促した。

 加凛は、写真館で子供の幽霊をみたこと、そして、栖栗茂の部屋にあったアルバムの話をはじめた。写真のことを聞いて、桧作は嫌な予感がした。

「この少女のことがどうしても知りたくなったの。彼女は多分、子供の頃の栖栗夫人ソフィーなんだと思ったんだけど。で、私の前に現れたということは、何か私に伝えたいことがあるのかもしれないって思って。でも、栖栗さんにそんなことを話すわけにもいかないから。それで、相談しに来たわけ」

「そうか。それで全部?」

 そう言うと、加凛はためらうように、栖栗写真館のことを知らないかと尋ねてきた。桧作ははじめて聞いた店だけどどうしてかと尋ねた。

 加凛はそれならいいのと言って、何かを頭のすみに追いやるかのように頭を振った。

「それで、その少女が写っていた写真の場所はどこなの?」

「多分、上海だと思うの。栖栗さんは戦前に上海で夫人と知りあったという話を聞いたことがあるの。栖栗さんの家族は上海で紡績会社を経営していて、何不自由のない生活をしていたらしいわ。彼の母親は欧米人に、刺繍や料理をならっていたそうよ。そういうつながりだったかもしれないと思うんだけど」

「その頃の上海には欧米人も大勢いたからね」

「よく知ってるのね」

「いや、それほどじゃないけど」

「ねえ、それでお願いなんだけど、あのときみたいに、また、特別調査をお願いしたいの」

「この前のことでわかったと思うけど、興味本位にみにいくだけっていうのは、よくないと思うんだ。行ったからって過去を変えられるわけじゃない。ただの傍観者だ。いつも俺は、みたあとには自分が何十歳も歳をとったような気になる。君だって、五年前にそう思わなかった? 本当は後悔したんじゃない?」

「うん、あのときはちょっとショック大きかったな」

「俺も、後悔したんだ。本当に悪かった」

「ううん、そんな風に思わないで。私、あれで、長年のもやもやがすっきりしたのよ」

「本当に?」

「うん。父のこと、今では恨んでいないわ。だから、連れて行ってほしいの」

「栖栗さんのことがそんなに気になるの?」

「うん。私は今まで、栖栗さんに認められたいと思ってきた。はじめは、ただの頑固なおじいさんだと思っていたの。だけど、この頃、本当のところ、どんな人なのか知りたいと思うようになったの。昔のことを知ったら、何か少しはわかるかと思って」

 桧作はしばらく、何も言わず加凛をみつめた。

「わかったよ。じゃあ、まず、行く世界のことをこっちで調査してみよう。そうしないと効率が悪い」

 桧作は事前に栖栗が住んでいた戦前の上海のことをざっと調べ、二日後に再度会うことを提案した。

 もしかしたら、加凛はあの写真をみたかもしれないと桧作は思った。別に隠す必要はないのだ。だが、なぜか言えなかった。

 桧作は古い文献を図書館に調べに行った。実家にも何かあるかもしれないが、そんなことはしたくなかった。


 二日後に約束通り加凛は桧作の事務所を訪ねた。

 玄関から入ってすぐ左側にある部屋に通された。ここを事務室として使ってるらしい。加凛は勧められるまま小さなソファーに腰掛けた。

 桧作はお茶を入れてくるよと言って、キッチンへ引っこんだ。

 あるのはテーブルと小さなソファー、雑誌を何冊か入れたマガジンラックと小さな本棚だけだった。北側なので、窓からの光はあまり差し込まなかった。

 テーブルの上に上海歴史地図という本が載っていた。加凛はそれをパラパラとめくってみた。地図の中に建物や橋などの名前と数字が赤字と黒字で入っていた。赤字は戦前の呼び名、黒字は今の呼び名だ。数字はどうやらそれが建てられた年号らしい。例えば、「ガーデンブリッジ 1907」と赤字で書いてある。

 桧作は奥に引っこんですぐに、紅茶を運んできた。

「それの虹口(ファンキョウ)地区のページに出ているけど、栖栗さんが住んでいたのは上海の日本租界となっていた虹口のデキセイロアパートだったらしい」

 加凛が、よく調べたのねと感心した素振りをすると、桧作は少し機嫌をよくしてくれたようだった。

「これでも探偵だからね。なんとか、つきとめたよ。その頃の上海の地図は何度も眺めて、大体、頭の中に入った。あとは、栖栗茂さんがソフィーに出逢った日だけど、それは、あの糸を辿って飛んでいけばいい」

 加凛にはよくわからなかったが、桧作は過去からつづくその人の運命の軌跡が、(あや)なす糸のように光ってみえると言う。

 それを辿って過去へと飛んでいくのだ。

「そうだ、依頼料を支払わなきゃ。ちゃんと払うから教えて」

「いいよ。今回は特別に只にしておく」

「そんなの、申し訳ないわ」

「いいんだよ。気にしないで。ところで、もう一度、確認しておくけど、とりあえず、調べたいのは栖栗さんが、ソフィーさんとどうやって知り合ったか、彼女がどんな人だったかということだったよね」

「うん、本当はなんでソフィーが幽霊になって出てきたのか知りたいんだけど、それは多分、無理だから」

 加凛はそう答えて、紅茶を一口飲んだ。桧作は納得して、出発する準備に移った。

「じゃあ、そろそろ行こうか。こころの準備はいい?」

 桧作の問いに加凛はゆっくりとうなずいた。

 桧作は、調べた資料に載っていた写真を、目の前のテーブルに置いた。

 それは戦前の上海の街並みを写したものだった。

 加凛は言われるまま、桧作と手をつなぎ、その写真をじっとみつめた。

 見ているうち、人物たちが、蜃気楼のように揺らめいた。

 次第に、それは気のせいとは言えないほど立体化し、色づいていく。

 体が、綿毛のようにふわりと舞い上がるここちがして、風を感じた。みるみるうちに写真の風景が視界全体にひろがっていった。

 その刹那、ふたりはその世界に吸い込まれるように落下していった。

 加凛は気付くと、戦前の上海と思われる街の大通りに桧作とともに尻もちをついて座り込んでいた。だが、誰にもみとがめられることはなかった。ここではふたりはさしずめ、透明人間といったところだ。でも、お互いの姿はなぜかみえるのが不思議だった。

『いたた。お尻を強く打ったみたい』

 加凛は立ち上がろうとして、鋭い痛みを感じ悲鳴を上げた。

『大丈夫? 慣れてないと、しばらく痛むかもしれない』

 桧作は加凛を助け起こしながら言った。

 目の前の店の看板には、横書きで現代でみかけるのと逆向きの右から左に〝内山書店〟と書かれていた。確かこの書店は日本人がやっている有名な大規模書店だと、歴史マップに書いてあった。目の前の通りが北四川路(きたしせんろ)で、これを南に行けば狄思威路(デキセイロ)アパートに着くはずだと桧作は言った。

 この虹口(フャンキョウ)のあたりは、欧米人が設計した鉄筋コンクリートやレンガ造りの建物が林立する街並みだったが、その頃では、すっかり日本人街となっていた。街を往来する人々はほとんどが日本人、日本語の看板のある和菓子屋やら洋品店、ユダヤ人が出した洋菓子店などが並んでいた。日本人に混じって、しゃれた身なりの西欧人や、もう辮髪(べんぱつ)ではなかったが、小さな丸い帽子をかぶり、裾のひろがったロングスカートのような民族服を着た中国人の物売りがハイフォーなどと声を上げながら天秤棒を担いで通り過ぎていく。あちこちの地べたに地元民が売り物の入った箱を並べており、物乞いも座り込んでいる。この北四川路には路面電車や二階建てバスも走っていたが、黄包車(ワンポウツォウ)と呼ばれる人力車もあちこち沢山客待ちをしていて、新旧、東西のあらゆる文化の入り混じる場所だった。ここはもともとアヘン戦争のあとに英・米の作った共同租界で、日清戦争の後から日本人も入れる権利を得た。そのため、その三国の治外法権が成立する、いわゆる無法地帯であった。それでも、もし犯罪が起きれば、罪人の出身国法で裁かれて、うまく社会が機能していた。

 街頭で新聞を売る中国人の持っていた朝刊の日付を確認すると、今日は一九四〇年五月二十日だった。この日が、栖栗がソフィーに出あった日らしい。  

 狄思威路アパートにつきポストを確認すると、栖栗の住まいは五階の東端の501号だった。栖栗と加凛はエレベーターに乗って、栖栗の家へと向かった。ベルを鳴らすと一人の女性が扉を開けたが、誰もいないので、首を傾げて扉を閉めた。加凛と桧作は彼女が扉を開けた隙に中へ入った。

 上海の多くのアパートがそうだったように、ここもスチーム暖房、ガス設備、暖炉などの最新設備をそなえた英国式の鉄筋コンクリートのアパートだった。

 その日、栖栗の家には母の幸江(ゆきえ)に料理や編み物を教える英国婦人アンナが来ていた。チェリーパイの作り方の指導のあと、幸江が娘たちのために編んでいたセーターの袖付け部分を教えてくれてから帰っていった。だが、帰った直後に、幸江は忘れ物に気付いたらしい。彼女の大事にしていた懐中時計が机に載っていたのだ。一つの胴体から、二つの頭の生えた眼光するどい鳥の文様がついていて、大層、高級そうだった。

「どうしましょう。今度先生が来られるまで大切にしまっておくしかないかしら」

「ぼくが今、走っていって渡すよ」

 茂が言い出した。

「大丈夫? これはアンナ先生の大切なものだから、落としたりなくしたりしたら絶対だめよ」

「へっちゃらだよ」

「そうお? じゃあ、アンナ先生、バス停でバスを待っていると思うから。お父さんの工場がある楊樹(ヤンジッ)浦路(ポロ)とは逆行きのバス停だからね。そこに居なかったら、帰ってらっしゃいね」

 幸江はその時計を割れないように袱紗(ふくさ)に包み、中から零れ落ちないように厳重に縛って渡した。

「落としたら壊れちゃうから気をつけるのよ!」

 一番上の姉の佳代も口をはさんだ。

「そんなの、わかってるよ。じゃ、行ってきます」

 中学校二年生だった茂は、急いでアパートを出ると彼女を追いかけた。上海の路地裏には人さらいが出ると言われ、路地に入ることは親から禁じられていたことだろう。路地裏は、薄汚れて食べ物や汚物などの匂いも漂う得体の知れない空間だった。なかでも市場はあらゆる食品や人間たちの博覧会のようで、みたこともない香辛料や食べ物や品物があふれた雑多な場所だった。もしかしたら、茂も男の子だから、日頃、そんな場所を親の目を盗んで探検していたかもしれない。

 彼女はやはり北四川路のバス停でバスを待っていた。

 だが、茂は彼女に声をかけず、二階建てバスに乗り込むのをみて、茂もそれに乗った。初めは彼女にすぐ渡そうと思ったのかもしれないが、そのうち面白くなって、家までついて行こうと考えたのかもしれない。

 加凛と桧作も急いで、同じバスに滑りこんだ。

 バスは横浜橋(ヘンバンキョウ)を渡り、四川路橋を渡ったが、彼女は降りなかった。

 映画館やバー、ダンスホールなどの建ち並ぶ繁華街をバスは通り抜けていった。

 やがて霞飛(ジョッフル)路へ入った。

 ここはもう、仏蘭西租界だ。

 そこで彼女が立ち上がったので、茂は急いで後を追いかけた。

 バス代はなんとか足りたが、帰りの分はなかった。

 彼女は路地へと入っていき、とあるアパートの中に消えた。

 玄関の側へまわり、彼女が自分の部屋の扉を開けるのを見届けた。

 エレベータに乗ってその階へあがり、玄関に着いたあと、しばらくためらっているようだったが思い切ってベルを押すと、茂と同じ年頃にみえる異国の女の子が出てきた。蒼い目が印象的だった。時計を渡すと、少し首をかしげた後で笑顔を作って、中に入っていった。

 まもなくアンナが出てきて、日本語で「どうも、ありがとう」と礼を言い、感激した顔で茂の手を握り締めた。やはり、その時計は彼女にとって、とても大切なものだったらしい。

 その時、茂はカメラを首から下げていた。それをみて、女の子とアンナは興味をしめした。ひとしきりみせてあげたあとに、写真を撮った。喜ぶ女の子を茂は嬉しそうにみていた。

 この女の子はあの写真の面影がある。これが栖栗がはじめて逢ったアンナの娘のソフィーだったらしい。

 その後、彼は長いこと歩き続けて、家にたどりついたのは夜も更けてからだった。どうやら、帰りのバス代がなかったらしい。

 居間に入ると、茂の父は礼装姿で、ソファーでいらいらと体を揺すりながら待ち構えていた。これから、出かける予定があるらしい。茂の姿をみると、はじかれたように立ち上がり、一瞬、安堵したような顔をしかけた。しかし、また思いなおしたのか厳しい顔になって叱った。

「まったくこんな遅くまで、一体どこをほっつき歩いていたんだ!?」

「まさか、時計を無くしたとか言わないでしょうね!」

 母の幸江も、少しヒステリックに尋ねた。

「ちゃんと渡したけど、帰りのバス賃がなかったんだよ」

「まあ、バスに乗ったの? 追いつかなければ、帰ってくればよかったのに」

 茂はすごすごうなずいた。

「馬鹿者! 何考えているんだ!? みんなががどれだけ心配したと思ってる? それにそのカメラはどうしたんだ!」

 父親に平手打ちされても、泣きもせず口をへの字にして下を向いていた。

『あーあ、怒られちゃって可哀想に。栖栗さんにも、こんなに可愛い少年時代があったのね』

『うん。でも、この頃から、根性あったみたいだね』

 彼の様子をみていた加凛と桧作は、思わず同情してしまった。

 加凛は栖栗のことを心のどこかで、お年寄りで、自分とはまったく違った人だと思っていたのに気づいた。当然のことだけれども、自分達と同じように親に怒られた時代もあったのだ。

「そんなに怒るなよ。それは私が貸したんだ」

 そのとき、手前の応接室から男が出てきて、そう言った。茂の父と同じようにスーツに身をかためていた。

「桧作くん、君のだったか。だが、あまり、茂を甘やかしてもらっては困る」

「いや、悪かった。今度から気をつけるよ。なに、彼がカメラに興味を持ったようだったから、二日間だけという約束で貸したんだ。悪かった。茂君、そのカメラは明日、うちの孝一に渡してくれ。さあ、遅れるよ。もう、外に黄包車が止まっている」

「うちのことで君にもいらぬ心配をかけて、申し訳ない。じゃあ、行くとするか。茂、もう二度とこんなことをしたら許さんからな!」

 そう言うと、茂の父は先頭にたって部屋を出て行った。後に続いた桧作という紳士は、茂の方を振りかえって微笑み、手を振った。ふたりは仲間達との約束の晩餐へ出かけていったらしい。

『ねえ、あの人の名前、桧作さんだって、それに賢司君とそっくりじゃない』

 まさか、ここに今晩、彼が来ているとは桧作は思っていなかった。だが、仕方ない。正直に認めるしかないだろう。

『うん。彼は俺の祖父さんだ』

『なんで、ここに?』

『実は、うちの祖父と栖栗さんとは戦前、親交があったんだ。祖父も上海にいたことがある』

『そうだったの。何でこの前は知らないって言ったの?』

『ごめん』

 桧作はそう言うなり、遠くをみる目をした。加凛は触れてはいけないことだったのかと、少し不安に思った。加凛は、この前の写真はやはり他人の空似ではなかったのだと、納得した。

『でも、この後、栖栗とソフィーは、どうやって結婚までいったのかしらね。それに、あの女の子の幽霊はどうして出てきたのかな』

『それを調べるためにこんな追跡をずっとしてたら、何年もかかるよ。やっぱり、栖栗さんと直接、話して何か手がかりを引き出すしかないかもしれない』

『そうね。それしかないかもね』



 5

 加凛の手がすべり、レリーズが手から離れて、ぶら下がった。一瞬、眩暈を感じて、気が遠くなった。今日はこれで五回目だ。手に冷や汗をかいているのを感じる。作り笑いを浮かべながら謝り、握りなおした。お客様は気にしていないようだったが、栖栗は見逃さなかった。肩から腕にかけて痺れを感じる。昨日、現実界に戻ったときの衝撃のせいだとわかっていたが、そんな理由を並べたてるわけにはいかない。

「この頃、仕事に身が入っていないんじゃないかね?」

 撮影後、栖栗に叱責された。気のゆるみを栖栗氏に気付かれてしまれたことに、加凛は唇を噛んだ。親しみが湧いたせいで、逆に怠惰につながってしまってしまったかもしれない。これでは、また評価が下がるに違いない。

「申し訳ありません。気をつけます」

 加凛は詫びたが、栖栗の怒った顔はなかなか元に戻らなかった。どうして、こんなに気難しいのだろうとやはり思ってしまう。こんな態度をとられると、あの可愛らしい少年の面影はどこかへ消えてしまう。


「黒田さん、話があるから、来てもらいたいんだけど」

 その日、加凛は突然、礼郎に呼びとめられた。

 嫌な予感がした。無視して、逃げ出したい衝動に駆られたが、そんなことをしては、大人気ない。しぶしぶ、返答した。

「話なら、ここでいいじゃないですか」

「じゃあ、ここで話すか。人に聞かれちゃ困ることだから、向こうに行こうと思ったんだけど」

 何の用があるというのだろうか。

「実は、黒田さんが祖父のフィルム倉庫に入っていったのをみたんだ。一体、あそこに何をしにいったわけ?」

 加凛は驚いて、何も言えなかった。

「じいさんに言うことだって出来るんだぜ。けど、正直に話せば、言わないでおいてやるよ」

 どうしたらいいのだろう。彼は本当に約束を守るのだろうか。

「言っても信じてくれないと思うんです」

「何だよ。早く言いなよ」

「その…、私、近頃、ここで居るはずのない子供の足音や声を毎日聞いていて、おかしくなりそうだったんです。それであの日、あの扉の中にその足音が入っていくのを聞いて、扉を開けてみたんです」

「ちょっと、待って。黒田さんは、今、聞いたって言ったね。音しか聞こえなかったのにそこに入っていったって、わかったの?」

「ええ、あの扉だけ、ギーって音がするのを知っていたんです。栖栗さんが入るとき、いつも鳴っていたから」

「ああ、そうか」

「そしたら、白人の女の子の幽霊をみてしまったんです」

「茂じいさんみたいなことを言うんだね。だけど、あそこは、茂じいさんのプライベートな部屋で、沢山フィルムが置いてある。そこに無断で入るのはよくないよ。やっぱり、黒田さんには悪いけど、このことは報告させてもらう」

「約束が違うじゃないですか」

 なんて卑怯な人だろう。


 礼郎はその日のうちに栖栗氏にこのことを報告した。

 加凛は呼び出されて、栖栗の部屋に身の縮む思いで顔を出した。

 いつも通りの叱責があるものと、加凛は覚悟していた。だが、栖栗氏の反応は予想外に冷静なものだった。

「黒田くんも悪いが、私が鍵を掛け忘れていたのも悪かった。仕方ないね。もう、これからは、入らないように気をつけてくれよ」

 栖栗は、パイプからぶかりと煙を吐き出してから言った。

「本当に申し訳ありませんでした。もう、絶対にしませんので、許して下さい」

「ところで、あそこで座敷童子をみたんだね」

「栖栗さんが言う座敷童子って、やはりあの外国人の女の子のことなんですね」

「ああ、あんなに可愛いものを幽霊と呼ぶのはそぐわない。ところで、座敷童子以外には何もみなかったのかい? 写真が沢山置いてあるけど、それはみなかったのかい?」

「少しみてしまいました」

「ほう、それでどうだったかね」

「報道写真も素晴らしいと思ったんですが、小さな女の子たちの写真がとても可愛かったです。節目節目に家族が全員着飾って集い、写真を撮るという、今から考えると大仰な習慣でしょうが、その大仰さがとてもいいと思いました。今の時代にもやるべきなんじゃないかって思いました。家族の絆が希薄になった今、結束を強める儀式になるような気もするんです」

「ほう、君もそんな風に思うかね。私も同感だよ。私はね、若い頃、報道写真に情熱を燃やした。それも大切だと今でも思っている。だが、私はソフィーと結婚してしばらくしてから、家族を犠牲にして世界を飛び回るのはもうやめようと思ったんだ。家族の大切さがわかったんだ。それで、この写真館を開いた」

 栖栗が怒らないので、礼郎は面白くなさそうな顔をしていた。

「そうだ。黒田さん、いいことを教えてあげるよ。これでも俺には王家の血筋が流れているんだよ」

「こら! やめろ」

「どうして隠すんです? 本当のことなんだったら、隠さなきゃいけない理由が俺にはわからないんです」

「それはな、言ったって誰も信じないし、嘘つき呼ばわりされるからさ」

「じゃあ、やっぱり嘘なんじゃないかな」

「これ、よそ様の前でそんなことを言うんじゃない」

 王家とはどこの国のことだろう。ソフィーの方が、そういう血筋なのだろうか。だが、ここで、興味を示しても、栖栗氏には嫌がられることだろう。

「あの、ソフィーさんとは、どうやって知合われたんですか」

 加凛は、別の質問を投げかけてみた。

「話すと長くなるんだが、いいかね。今まで、礼郎にもあまり詳しく話したことはなかったな。まあ、ちょっと年寄りの長話につきあってくれたまえ。

 ――父親が上海で紡績工場をやっていたために、私は上海で生まれた。上海はとても豊かでいい場所だった。子供だった私は、上海事変の前に治安が悪化したときには、いったん、日本の親戚の家に兄弟姉妹と一緒に帰されてしばらく暮らした。だから、その当時、軍部が何をしていたのか何も知らなかった。安全になってから、また上海に戻ったわけだが、第二次大戦中も私が暮らした上海は静かなものだった。空襲警報は鳴ることがあったが、北部小学校の前の通りに一トン爆弾が落ちて不発に終わったというだけだった。私がソフィーに出逢ったのは大戦のはじまる前の年だった。お母さんのアンナがうちの母に料理や編み物を教えていたんだ。ある日、彼女の忘れ物を届けに行った。末娘のソフィーがたまたま出てきて、私の持っていたカメラに興味を示した。それで、写真を撮ってあげた。その写真を渡してあげたときにもう一度会った。でも、上海ではその二回しか会わなかったんだ。

 戦後、私達は工場も住む場所も、すべて中国政府に接収(せっしゅう)され、ああ、接収というのは国家が財産などをとりあげることだ。一人につきトランク一つ分の荷物だけを持って、日本への引き揚げ船に乗って帰ってきた。貴金属や宝石などの所有物も、持ち出し禁止で、隠し持っていたのがばれると全て没収され、帰国が遅れる人もいた。

 帰る間際にこんなこともあった。父の山高帽が中国人のステッキで奪われ、次々と中国人の手で遠くへ渡っていき、「日本人は帰れ!」とののしられた。まったく予想しなかった出来事だった。それまで日本人は欧米人と並ぶほどの名士として暮らしていた。最新式の総合病院や紡績工場、印刷会社などを建て、欧米人と対等に仕事をした。もともと、欧米人だけが入場を許されていた公園に日本人も入れるようになっていた。日本人が開いた総合病院の福民病院は、中国人にも等しく診療を行っていた。工場や病院では優秀な中国人を大勢雇うことで、現地の人々にも働き場所を提供していた。日本人が悪いことをしているなんて、少年だった私は思いもしなかったんだ。

 それで、私は戦後、真実とは何だろうと考えるようになった。日本人からみた真実、中国人からみた真実、欧米人からみた真実。すべて真実といわれながらも、知らないうち自分に都合のいいようにねじまげられたところがあるものだ。

 だが、写真は嘘をつかないのではないだろうか。私はアメリカに渡り、カメラマンの修行をした。それで、カメラ片手にベトナム戦争へも行った。

 アメリカでソフィーと再会したんだ。そこで私達は恋に落ちた。

 なんと、彼女もアメリカで女流カメラマンとして活躍していたんだよ。彼女の祖父というのは、白系ロシア人だった。身分については、想像に任せる。何しろ、ソフィーも母親のアンナもそのことをあまり話したがらなかったものでね」

 そこで、栖栗は溜息をつき、これが彼女について話せるすべてだよと言って、またパイプをふかした。

「なんだ、まったく。それだけですか。もっと、詳しく話してくれるかと思ったら。まったく馬鹿にしてるよ」

 礼郎が言った。

「難しい問題だ。全部、白日のもとにさらすべきか。そうでないか。わしは、あるときから、それは場合によると考えるようになった。そのことはまた今度話そう」

「まったく、これだからなあ」

 礼郎はお手上げだというように部屋を出て行った。

 せっかくの機会だ。加凛はもう一つ聞いてみることにした。

「あの、栖栗さんは桧作さんという方を知りませんか」

 栖栗茂は、驚愕の面持ちで加凛をみた。

「桧作という苗字はそんなに多くないね。もしかして、桧作君とは桧作孝一君のことかね?」

 加凛は、この前の上海での出来事を思い出してみた。桧作孝一とは、あのカメラを貸した桧作氏の息子だった。栖栗は彼と友達だったのだろう。つまり、賢司の父親ということになる。

「はい。そうです」

「どうして、君がそんなことを知っているのかわからない。遠い昔の友人だった。もう、彼は死んでしまった」

 栖栗氏はぼんやりと遠くをみる目で言った。

「あの、私の知り合いに、その桧作孝一さんの息子さんがいるんです。この前、偶然、再会して、私が働いているところの話をしたら、知っているって言っていて」

「そうだったのかね」

 栖栗氏は突然、怒ったような顔をして黙り込んだ。なぜ、彼を怒らせてしまったのかわからなかったが、言ってしまったことを後悔した。

「あの、私、余計なことを言ってしまったでしょうか」

「いや、そんなことはない。それで、その桧作くんの息子さんは元気かね?」

「はい。元気です」

「私のことを何か話していたかな」

「いえ、昔、家同士の交流があったということしか言っていませんでした」

「うん。これは運命なのだろう。今度、彼をここに連れてきてくれないかな。私は彼と話してみたい」

 加凛は喜んで、彼に聞いてみると答えた。


 その日は、撮り集めた写真をアルバムに収めながら、加凛はコンテストに出す写真のことを考えていた。斬新さはないかもしれないが、どれをみてもこころが和む。もう、コンテストの締め切りまで時間がない。だめでもともと。よく撮れているものを選んで、コンテストに出してみようと思った。

 写真集のタイトルは「明るい箱の幻想」にしてみようかと思った。明るい日差しに溢れたカメラという箱に映し出された幻影たち。町並みで、偶然みつけたひとびとの暮らし、路地裏でひなたぼっこをする猫、そんなこころ和まされるものたちが詰まっている。とにかく、今、出せるものをぶつけてみることにした。

 桧作と再会を果たし、そのお蔭で栖栗のことを少し知ることが出来た。でも、あの女の子の幽霊は何が言いたかったのか、依然わからなかった。そして、栖栗とソフィーの経緯(いきさつ)は栖栗自身の話でほとんどわかったが、今度はソフィーの母のことも気になってきた。

 だが、こんなことを詮索するのはただの野次馬かもしれない。

 そして、こころの底では、以前にも増して桧作のことをもっと知りたいという欲求が強くなっていた。彼はあの物憂げな瞳で何をみて、そのこころの奥底にはどんな想い出が横たわっているのだろうか。でも、今はまだ早いかもしれない。


 加凛はまた、桧作の事務所を訪ねた。

「ねえ、実は余計なことだったかもしれないんだけど、栖栗さんに桧作君のことを話しちゃったの。そしたら、会ってみたいって言うのよ」

 桧作はしまったという顔をした。

「申し訳ないけど、俺は会いたくないんだ」

「えー、どうして? 栖栗さんが会いたいって言ってくれたんだから、会ってみたらいいのに。きっと、桧作君のお父さんのことを話してくれるんじゃないかな」

「考えておくよ」

 桧作は厳しい顔になって、そう答えた。

 桧作も栖栗も何か態度がおかしい。

 加凛は不審に思いながらも、話題を変えることにして、栖栗から聞いた話をはじめた。

「ねえ、ところでアンナたちは英語をしゃべっているから英国人だと思っていたけど、白系ロシア人だったらしいの」

「白系ロシア人は元々ロシア貴族だった人々で、普段、英語やフランス語を使っていた者も多いからね。上海の仏蘭西租界のあたりにはロシア革命のあと、白系ロシア人が大勢やってきて、しゃれたブティックやバー、ダンスホールなんかを開いていたらしい。だけど、もともと貴族の出で慣れない事業に失敗し、金に困る人達も多かった。そんな一家は、言葉や料理、刺繍などを外国人相手に教えて生計をたてていたらしいよ」

「へー、やっぱり、桧作くんは上海のこと詳しいわね」

「そうでもないよ」

「そういえば、びっくりしたけど、礼郎さんには、王家の血が流れているって本人が言ってたのよ。ということはソフィーがロシア皇室の血筋だったってことかな」

「そうか。ねえ、ソフィーのお母さんは、アンナという名前だったね」

「そう言ってたわ」

「アンナ・アンダーソンという人を知ってる?」

 加凛は知らないと答えた。

「彼女は、ロマノフ王朝の皇女アナスタシアだと名乗り出た人物なんだ」

「アナスタシア?」

「うん。ロシアの最後の皇帝ニコラス二世は、革命軍によって皇位を剥奪され、その後、家族とともに幽閉された。そして、最後には家族全員が処刑されたと言われている。だが、アンナ・アンダーソンは一人、銃殺をまぬがれ、兵士に救出されたと言った人物だった。でも、その真贋は、裁判で争われたけど、最後まで証明はされなかった」

「じゃあ、その人が本当のアナスタシアかどうかはわからないのね」

「ソフィーの母親もアンナと言うんだったよね」

「ふーん、彼女がアナスタシアだったという可能性があるのね」

「まあ、彼が言うことが本当ならだけど。そんなことを言っても、誰も信じないだろうね。だけど、この前、あの上海でアンナさんが忘れていった懐中時計の文様を覚えている?」

「ええ、二つ頭のある鳥の模様だったよね」

「あれは多分、ロシア皇室の紋章の双頭の鷲だ。まあ、だれかの手に渡っていたものを彼女が手に入れた可能性もあるだろうけど。革命軍は、はじめ皇帝のみを処刑し、家族は安全な場所に保護していると発表した。後にそれを撤回して、全員を処刑し、ある場所に遺体を埋めたが、アナスタシアとアレクセイの遺体は灰になるまで焼いたと発表したんだよ。なぜ、二人だけを灰になるまで焼いたと言ったのか不思議じゃないか」

「そうね。まるで、生きているのを隠すような発表ね」

 ロマノフ王朝の最期のことを、桧作と加凛は調べはじめた。

 ロシアの正式発表では、一九一八年七月十六日にニコラス二世の家族はすべて、ウラル山脈近郊のエカテリンブルグのイパチェフ館で処刑されたことになっていた。これは、皇帝一家を救出するという反革命陰謀が浮上したためだったという。

 だが、娘のうち数人は生き残ったなど諸説あって、アンナ・アンダーソンというアナスタシアを名乗る人物も現れた。近年、皇帝一家の遺体が発見され、DNA鑑定の結果、一度は、一家九人のうちの七人の遺体が確認されたと発表されたが、その結果が間違いでないかという反論もなされ、いまだに真相は闇の中だった。

 妃のアレクサンドラは、やっとのことで授かった息子が医者に見離されるような難病であったため、神秘思想に走り、怪僧ラスプーチンを妄信した。ラスプーチンのご宣託はニコライ二世の采配にも影響し、ロシアの行軍を妨げ、その結果、敵国ドイツに有利になった。ニコライが退位させられたのは、これらのことが大きいと考えられている。その上、民衆の窮乏には目をつぶり、ロシア社交界にもなじめなかったアレクサンドラ妃の影響で、家族は全員、ペテルスブルグの冬宮にひきこもり、家族水入らずの和やかな生活を楽しんでいた。このことも、反感を買う一つの要因になった。ニコラス皇帝はまったく良いマイホームパパで、家族の写真を撮ることを趣味にしていた。それに影響されて、末娘のアナスタシアは常にカメラを持ち歩いていた。アレクサンドラ妃はドイツ生まれだったが、小さい頃に祖母であるイギリスのヴィクトリア女王のもとに養女に出されたため、子供達を英国式の教育で育て、家庭内での会話には英語を使っていた。

 彼らが一般市民だったら、ただの微笑ましい家族で済んだだろう。だが、世間への無関心は、皇帝一家に悲劇を招いた。

「ねえ、桧作くん、お願い。もう一度だけ連れて行ってくれない? 一九一八年七月十六日のイパチェフ館に」

 桧作は、あと一回だけだよと断った上で、加凛を連れて行ってくれると言った。


 6

 七月十六日の晩、真夜中一時頃に、アナスタシアは二階の寝室で、胸に抱いていた犬のジェミーが吠え始めたために目を覚ました。

 彼女はエカテリンブルグのイパチェフ館に家族とともに幽閉されていた。父のニコラス二世が革命により帝位を剥奪されたのち豪壮な宮殿から追い出され、この小さな山荘に警備兵の監視のもと住まわされていたのだ。

 家族全員、外の警備兵の動向に常にびくびくしていた。以前なら警備兵は自分達を守ってくれる存在だった。だが、今では自分達が逃げないように監視している。だから、今では衛兵達が動くちょっとした気配でさえ、家族にとっては大きなストレスをもたらすようになっていた。

 アナスタシアはベッドから這い出し、カーテンの隙間から、そっと外を覗いてみた。末娘で十七歳のアナスタシアは小柄で、姉たちに比べてとくに美貌でまさっていたわけでなかったが、ニコラス二世ゆずりの蒼い目が印象的な上に、悪戯好きでおどけたところが皆をひきつけた。

 遠くからトラックが沢山の兵隊を荷台に乗せて近づいてくるのがみえた。彼女は急いで両親や姉達に知らせた。父の元皇帝ニコラス二世は事態をにわかに悟ったようで、子供達のうちの末のふたりのアレクセイとアナスタシアを呼びよせた。

「お前達は身が軽い。こっちの窓から出て、ジャックの家まで行き、助けを求めるように言って来てくれ」

 ジャックは、近くの民家に潜伏している白軍の兵士だった。

「アレクセイには無理よ!」

 アレクサンドラ妃がそれを遮った。

「いや、行かねばならない。男の子だ。できるはずだ」

「あなた、本気なの!?」

 彼女は夫に問いかけた。

「もうすぐそばまで援軍は来ているんだよ」

「前にも二度移動したでしょ。また、きっとどこかに連れていかれるだけよ」

 アレクサンドラ元妃は言った。

「いや、移動してしまったら、またチャンスを逃す。それに、今回は何かが違う。あんなに大勢、武装した兵士が来たことは、最初に連行された時だけだったじゃないか」

 アレクサンドラは夫の言葉に顔色を失い、がたがたと震えはじめた。

 勇敢なアナスタシアは寝間着を脱ぎ、いつもの白いレースのワンピースを着はじめた。

「ねえ、アナ、ピエロの格好が動きやすいんじゃない?」

 賢く気丈な、長女のオリガが機転を利かせて言ったが、その顔も悲しげだった。

「そうね」

 それで、アナスタシアはワンピースの上から仮装パーティーで使ったピエロの衣装を大急ぎで着た。姉妹全員のワンピースの内側には、母が何かのときのためにと、真珠のネックレスと、ロシア皇帝の紋章である双頭の鷲の紋章の入った懐中時計などの宝飾品をこっそり縫い付けていた。アレクセイも普段着を着込んだ。アレクセイの服の裏にも同じように宝石などを縫い付けてあった。

「ねえ、アナ、私に何かあったら、これをマウントバッテン卿に渡して」

 すぐ上の姉のマリアが彼女の大事にしていたロケットペンダントを手渡してきた。姉妹の中で一番、愛嬌があって器量良しのマリアは、イギリスのマウントバッテン卿と密かに結婚を誓った仲だった。探るようにマリアの顔を覗いてから、アナスタシアはそれを受け取った。

「わかったわ。でも、私達、きっと助けを呼んでくるから」

 アナスタシアとマリアは抱き合った。お互いの頬を涙が伝うのを感じた。彼女は年が近いこともあり、姉妹の中で一番の仲良しだった。

「この薬を持っていくのよ」

 アレクサンドラ元妃は、ふるえる手でアレクセイのポケットに薬を入れてボタンを留めた。

「あー、アレクセイ、どうか無事で。神のご加護がありますように」

「アナスタシア、無事を祈っているわ。どうか、アレクセイに気をつけてあげて」

 アレクサンドラ妃は、まずアレクセイ、次にアナスタシアの順に抱きしめて、涙ながらに言葉をかけた。

 窓から覗くと、衛兵は近づいてくるトラックの方に気をとられて、そちらに向かって行った。

 ふたりは母や父、姉たち、犬のジェミーにそれぞれ別れを告げ、衛兵の隙をついて窓を開け、一階の張り出した場所の屋根のひさしに出た。その窓だけは、前から密かに釘を抜いて開くようにしておいたのだ。

 アレクサンドラ元妃は泣き出し、ニコライの胸に顔をうずめた。

「待って、アナ!」

 すばやく屋根を伝っていく姉に、追いすがるようにアレクセイが声をかけた。

「しー、気付かれる。落ちついて、アレク。やれば出来るよ」

 近づいてくるトラックの轟音にまぎれて、アナスタシアが先に地面に飛び降りた。

 だが、それに続いた病弱なアレクセイは転んでしまった。血友病のアレクセイはちょっとした切り傷が命取りになりかねない。だが、彼はいつも弱音は吐かなかった。懸命に痛みをこらえる弟をアナスタシアは助け起こし、音をたてぬように走り始めた。


 ふたりが出て行ったあと、しばらくして狙撃銃を持った兵士たちが行進するように、大きな足音を響かせ入ってきた。

「身支度に三十分やるから、全員、支度してから地下室に来るんだ!」

 ユロフスキーは背後に兵隊を従え扉を開けるなり、厳しい口調で言い放った。どうみても、取り入る隙はなかった。

「逆らうものはどうなるかわかっているんだろうな!」

 場所を移動するのなら、地下室に行かせられるのは少しおかしな命令だった。

 支度が済んでから、ニコラス元皇帝、ボトキン医師、アレキサンドラ元妃、元皇女のオリガ、タチアナ、マリアが続き、打ち合わせ通り、小間使いのアンナ・デミドワはあらかじめパジャマを着せておいたアレクセイの大きな枕を大事そうに抱えて、肩から掛けた大判ストールで隠すようにして従った。アレクセイは十四歳だったが、病気のために痩せていて、体格のいいアンナは抱き上げることができるほどだった。

「アレクセイは、具合が悪いのか?」

「はい。昨日から熱を出して、寝込んでいます」

 アレクサンドラ王妃がすぐに答え、アンナは震える手で、ショールをきつく握りしめた。

 室内は薄暗く、ほとんど判別できなかった。娘が一人足りないのにも、幸運なことにユロフスキー達は気付かなかった。

 泥のついたチョーカーを履いてずかずか入ってきた兵士の中には、人目を盗んで宝石のついたシガレットケースをポケットに入れる者もいた。


 ふたりは手をとりあって、森の中を無我夢中で走り始めた。

 どこかで得体の知れない鳥が鳴き、ふいにばさばさと羽音をたてて飛び立つ。

 風ではない何かが、ざわざわと梢を揺らしている。

 大きな木のうろが、蒼白い月光に照らしだされ、不気味な怪物の顔にもみえた。

 だが、そんなことを気にしている暇はない。

 足元には木の根が縦横に走り、前夜に降った雨でぬかるんでとても滑った。

 うっかりしていては転んでしまう。

 やっとの思いで、ふたりはジャックのいる農家の灯りがみえるところまで辿りついた。息をきらせたアレクセイを気づかって、アナスタシアは立ちどまった。

「大丈夫? アレク」

「うん…」

 だが、彼の足をみると、さっき転んだところが赤く腫れあがって、血が流れ続けている。アナスタシアはあわてて持ってきた薬を塗り包帯を巻きつけてやった。頬が真っ赤だ。額に手をあててみた。

「まあ、アレク、可哀想に。熱が出てきたんだわ。でも、もうちょっとだから、頑張ろう」

「うん。ありがとう…」

 アレクセイは痛々しい笑顔を作って、再び、足を引きずりながら歩きはじめた。

 その直後、パンパンパンという銃の連射音がイパチェフ館の方から響いてきた。

 彼らは震えながら、屋敷の方を振りかえった。

「どうしよう、アナ。間に合わなかった!」

 アナスタシアは、自分もパニックになりそうなのを無理に落ちつかせ、弟を力づけようとした。

「お父様はわかっていたのかもしれない。きっと、私達だけ逃がしてくれたのよ。だから、ちゃんと逃げなきゃいけないわ」

 アレクセイは涙をこぼした。

「泣いちゃだめよ」

 アナスタシアはアレクセイの涙を拭ってやったが、彼女の顔も濡れて光っていた。そして、ふたりは、再び、ジャックの家の灯りめがけて力を振りしぼって歩きはじめた。

『頑張って!』

 誰に悟られることもなく様子をみていた加凛がつぶやいた。

『やっぱり、礼郎さんのおばあさんはアナスタシアだったようだね。ソフィーは彼女によく似てる。多分、運良く白軍に保護されて、シベリアを経て上海に辿りついたんだろう。でも、弟のアレクセイは長く生きていたかはわからないね。血友病で満足な治療も受けられなければ、死んでしまう』

『他の皇帝一家は、ここで殺されたの?』

『色んな説があって、確かなことはわからないんだけど、恐らくそうだ。ユロフスキーの報告書によると、トラックの荷台には、死体を入れて上から覆うために二枚のビニールシートが敷かれていたそうだ。半地下の狭い部屋に連れて行かれたニコラス元皇帝一家は小間使いの女まですべて壁に並べられて銃殺されたらしい。処刑後に、血まみれの死体はシーツに乗せてトラックまで運ばれ、とある金採掘の廃坑まで運ばれ埋められた。そのとき、服の中に縫いつけれれていた宝飾品などはすべて略奪され、モスクワに送り返された』


 そのとき、イパチェフ館では兵士達が死体を(あらた)めていた。

「隊長! これはアレクセイではなく、枕です」

「それから、皇女が一人足りません」

「なんだと! クソガキめ。しかし、反逆者達がここに来るまでに死体を処分しなければならない。とりあえず、トラックに詰め込んで、ここを出るんだ。残った者達は、屋敷の中や付近を捜索しろ。逃げた子供を捜すんだ。(かくま)っている者達は銃殺にすると脅すんだ!」

 トラックは遺体を載せると、急いでそこを後にした。


 アナスタシアは人知れず生きていく道を選んだのだろう。その結果、アンナ・アンダーソンのように偽者か本物かの裁判を、何十年もやらずに済んだのだから、その方が賢明だったかもしれない。

 桧作は森が途切れて原野になっている場所まで来ると、彼らを追いかけるのをやめ、オカリナを吹きはじめた。不思議な音色が荒野にこだまし、風のうなり声と混ざり合う。一瞬、アナスタシアとアレクセイがこちらを振り返ったようにみえた。彼らにも聞こえているのだろうか。桧作はいつまでもいつまでも()かれたようにメロディーを奏でつづけ、加凛も放心したように聴いていた。人の運命を眺めるだけで、何もしてあげられないのが歯がゆかった。

 加凛は五年前のある日のことを思い出していた。加凛は桧作に打ち明け話をした。

「うちは事業に失敗して借金を返せなくなって、父は行方知れずになってしまったの。私達家族を捨てて、今頃、どこで何をしているのかなと思うんだけど。もしかしたら、新宿あたりでホームレスになっているかもね」

「そうなの。そりゃ、大変だったね」

「うん。でも、私も就職していたし、ちゃんとした銀行から借りていたし、父名義の借金だったから、私達は借金取りに追われることはなかったけど」

「今でも、お父さんがどうしているか知りたい?」

「えっ、それは、わかるものなら知りたいけど、なかなか行方がつかめなくて」

「知りたいなら、知る方法はあるよ」

「どういうこと?」

 彼女は狐につままれたような顔をした。でも、こんなことはいつものことなので、桧作は慣れっこになっていた。

「じゃあ、俺の秘密を話そうかな」

 桧作は自分はタイムトラベラーだと加凛に告げた。半信半疑の彼女に、在りし日の父親の写真をみせてもらい、桧作は彼女と手をつないだ。

 二人が降り立ったのは、富士山麓の風穴という名のバス停の近くだった。

 人気がないように思ったが、遠くに一人の男が、遊歩道をはずれて森の中へと入っていくのが見えた。

『あっ、お父さん、やめて!』

 加凛の父親だと思われた。ほとんど何も持たない軽装だった。そこは富士樹海への入口だった。

 彼女が後ろから大声で呼びかけようとした。でも、声は届かなかった。

 彼は黙々と歩き続け、やがて樹海の中へ消えていった。

 彼女は泣きながら、叫び続けた。でも、その声は届かない。これはもう何年も前に起きたことなのだ。その後、突然、桧作は加凛の前から姿を消したのだ。


 しばらくして、桧作は吹くのをやめた。

『雷かな?』

『うん、そうかも』

 遠くからごろごろという音が聞こえてくる。

 荒野の向こう端で、遠雷がおもちゃのように小さく光った。

 にわかに横なぶりの風が草を激しく揺らしはじめ、ピューという風の音が聞こえてきた。

 暗雲がめまぐるしい速さで流れ、妖しく輝く満月を隠し去っては、現出させる。

 もうすぐ、嵐が来るらしい。

『私達には、何もしてあげられないのね』

『うん。みているだけさ。だから、昔の出来事を覗きみして、一体、どんな意味があるんだろうって、時々、思うんだ』

『そうなの。そうでしょうね』

 彼のことを理解してあげられるのは自分しかいないのではないか。彼の寂しそうな顔をみて、ふとそんな気持ちになった。

『桧作くん。でも、私、五年前のあのとき、ショックは受けたけど、心のとげが消えた気がしたの。私はこころのどこかで父を恨んでた。私達を捨てたと思っていた。でも、ひとりで寂しく樹海に入っていく父の後姿をみたら、そんな気持ちは吹き飛んじゃった。父は何もみえなくなっていたのよ。きっと、自分の重荷に耐えられなくなってしまったの。私達がそれに気付いてあげられなくて、ただ、頼るばかりだったのを後悔してる。本当はお父さんを助けてあげられたらよかったんだけど』

『本当に?』

『ねえ、写真館で私がみた少女の幽霊が、なんて言ったか覚えてる?』

『Forget me not. だっけ』

『うん。きっと、それが意味なんじゃないかな。昔、起きたことを誰かが想いだしてあげるだけで、死者は救われるのかもしれない』

『そうかな。そうだといいんだけど』

『きっと、そうよ。ねえ、私達の人生なんて、平凡でつまらないなんて思ってきたけど、実際、その方が幸せなことも多いんでしょうね』

『うん。俺たちはきっと幸せな方さ』

 桧作は加凛のことをじっとみつめた。加凛は夢の世界なのに、桧作の手の温もりを感じた気がした。

『ねえ、桧作くん、現実に戻っても、一緒にいちゃだめ?』

『えっ?』

『やっぱり、だめか』

『いや、先を越されたと思って。俺も言おうと思っていたんだ』

 桧作は加凛をじっとみつめた。

 雨と風がふたりに容赦なく降り注ぎはじめた。

 もしもこれをみることが出来る者が存在したらなら、ふたりのシルエットが重なりあうのが、雨で煙る中でぼんやりと浮かんでみえたことだろう。


 7

「どうだい、最近はどんな写真を撮っているのか、たまには見せてくれないかね」

 ある日、栖栗は礼郎と久々に顔をあわせ、こう話しかけた。

「わかりました。いいですよ。あなたの評価を受けてみようじゃないですか」

 珍しく、礼郎も明るく自信ありげな表情で答えた。

「なかなか良く撮れてるじゃないか。でも、ネガが少ないようだが。これだけかい?」

「近頃、フィルム写真では限界を感じているんです。それで、新しい試みをはじめたんですよ。ちょっと、これをみてください」

 礼郎はノートパソコンを開いて、中に保存されている写真データを栖栗氏にみせた。

「誰が、この写真館でデジタルカメラを使っていいと許可したかね!」

 栖栗氏は、怒ってそう言った。

「なんでデジタルカメラがいけないのか俺にはわからないんです。だから、あなたが許可しなくても、やっていいと判断して見切り発車したんですよ。ホントに、なんで、あなたはそんなに石頭なんですか!」

「その言い草はなんだ!」

 加凛ははらはらしながら、様子をみていた。下手に口出ししては、こちらにまでとばっちりが来るかもしれない。

「バッカみたい。そんなことで喧嘩して。技術っていうのは、どんどん進歩していくもんでしょ。今は電気があるのに、ロウソクだけで暮らしている人なんかいないじゃん」

 万由子が、そんな言葉を投げかけた。

 彼女の無神経とも思える言葉に、栖栗茂の罵声が飛ぶかと、身構えた。だが、みるみる顔色を変え、下を向いてしまった。加凛達は少し拍子抜けした。

「そうかもしれない。フィルムは、これから先、もう失われていく技術なのかもしれないね」

 彼は、肩を落として寂しそうにそう言った。

 だが、それでも礼郎にデジカメを許そうとはしなかった。こころなしか、栖栗はとても老け込んだように感じられた。


「私、ここを辞めようと思って」

 ある日、万由子が加凛に言った。

「急にどうしたの。何か嫌なことでもあったの?」

「いえ、そうじゃないんです」

「じゃあ、なぜ?」

「もっと、役立つ技術を持ってなきゃだめだと思ったんです。私、加凛さんみたいなカメラマンになりたい」

「そう、嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 加凛は万由子の言葉に驚いた。

「栖栗さんは、私の話を楽しそうに聞いてくれるけど、技術は自分で身に付けるものだって言って、教えてくれるわけじゃないんですね」

「そうね、栖栗さんはそういうタイプの人ね」

「それに、この前はあんなこと言っちゃって、反省しているんです。なんだか、栖栗さん、元気がなくなっちゃって、可哀想な気がして」

「そう。楠山さんも責任感じていたのね。でも、あれは本当のことだから、あなたが言わなくても、いつかは栖栗さんも気付いたんじゃないかな。そんなに気にすることないわよ。こんなことで、ずっと老け込んじゃう栖栗さんじゃないと思う」

「そうですかね」

「で、辞めてどうするの?」

「専門学校に行くことにしようと思って」

 万由子は顔を輝かせて言った。

「へえ、頑張って! カメラマンは女性にも向く職業だと思うわ。あなたは子供に受けがいいから、そういうところも有利だわ。応援してるから!」

「ありがとうございます」

 加凛は、同じ女性として万由子のことを応援したいと素直に思っていることに安堵した。これから先、デジカメが主流になっていったとしても、基礎を知っているのは自信にもつながるはずだ。


 毎日が、あわただしく過ぎて行く。

 楠山万由子が辞めてから、また、もとのようにとても忙しくなって、何も考える暇のない日が続いた。

 だが、ときどき、あの可愛い女の子の幽霊のことを思い出す。でも、あれ以来、もう彼女の足音も姿もみていない。

「まあ、素敵な写真ですね」

 今日、撮影に来た熟年の女性が目を細めて、入口にあった写真を褒めた。

 ええ、とても古いものなんです。加凛は曖昧に答えた。

 そこには、あの四人の幼い姉妹達の写真が置いてあった。

 王族一家は、誰にみとられることもなく消えていった。あの子、小さなソフィーの忘れないでほしいという気持ちもはかなく消えていくのだろうか。せめて、あの写真はいつまでも、残ってほしいと思った。加凛は栖栗に頼んで、写真館の入口にあの姉妹のセピア写真を、小さなフォトスタンドに入れて飾ることにしたのだ。


 そんな矢先だった。栖栗が風邪をこじらせ、肺炎になって入院した。年を取ってからの肺炎は命取りにもなりかねない。なかなか抗生物質が効かずに、栖栗も危ない状態が続いた。

「栖栗さん、桧作くんを連れてきましたよ」

 少し、病状がもちなおしてきたのを見計らって、ある日、加凛は約束を果たすために、桧作を説得して病室に連れて行った。

 栖栗は酸素マスクをして眠り続けていた。

 目を覚ますのをしばらく病室で待った。ふいに栖栗が薄く目を開けた。はじめはぼんやりとしていたが、桧作の顔をみて彼の顔色が変わった。

「おお、なんと。孝一くんじゃないか。久しぶりだね」

 加凛がマスクをはずしてあげると、栖栗は驚き顔でそう言った。

 熱に浮かされたせいか、栖栗は賢司を祖父の孝一と取り違えているようだった。加凛が否定しようとした矢先、栖栗は何かを思い出したような顔をした。

「君はあそこで死んだのではなかったかね。ああ、そうか。迎えにきてくれたのだね」

「栖栗さん! この人は…」

 そう言おうとした加凛を桧作が手で制した。言わせておけばいいと小声で耳打ちした。

「あの時は済まなかった。わしを恨んでいるだろうな。ああ、私はなんであんなことをしてしまったんだろうな。許してはくれないだろう。だが、ずっと君に詫びたかったんだ。君を見捨てて、申し訳なかった」

 加凛は彼の言葉に呆然となった。桧作はただ黙って彼をみつめていた。

「そうだったんですか。私は桧作孝一の孫の桧作賢司です」

「そうだったか」

 栖栗は、観念したように栖栗に話しはじめた。

 ――実はソフィーは、私がアメリカで再会したとき、桧作孝一君の友人だったんだよ。知っていたかね。

 桧作賢司はうなずき、栖栗はそうだったかと言って話を続けた。

 ――私はニューヨークに写真の修行に出て、そこで桧作君と、偶然、再会した。そして、夕食に誘われたときに、彼のガールフレンドを紹介されたんだ。驚いたことに、それは、あの上海で出会った白系ロシア人の少女、ソフィーだったんだよ。彼女は見違えるほど、美しく成長していた。だが、彼はまだソフィーと正式につきあっていた訳じゃなかったんだ。本当に幼馴染みとして彼女を可愛がっているという感じだった。彼女は我々より二歳下だったからね。私はちょくちょく彼らと夕食をともにした。それで、次第に彼女が好きになっていった。

 君はソフィーと交際(こうさい)しているのかって、私は桧作君に尋ねたんだ。でも、彼は否定した。しかし、彼はソフィーのことを好きなことは知っていた。そんなのは何も言わなくても、態度からすぐわかった。でも、当時の日本人はとても奥ゆかしかったんだね。結婚の意志が固まらないうちに、女性にむやみに手を出すような男はあまりいなかったよ。

 それで、私は彼女を直接、デートに誘ってみたんだ。

 私は知っていた。ソフィーも本当は桧作君に心惹かれてひることをね。だが、桧作君がなかなか言い出せないでいるのに、業を煮やしていることも見抜いていた。彼女からすれば彼へのさやあてのつもりもあったかもしれない。案外、簡単に了解してくれたんだ。桧作君の方では、ソフィーの気まぐれだと高をくくっていたかもしれない。でも、やがて私達はよく逢うようになって、次第に惹かれあうようになった。そして、とうとう婚約にまでこぎつけた。

 桧作君は、明らかに落ち込んだ。やはり、彼女が好きだったんだね。私は、彼に悪かったと今でも思っているんだ。しばらくして、彼は日本に帰国して、日本の女性とお見合い結婚をしたと聞いた。

 その当時は、アメリカはベトナム戦争のさなかだった。日本は高度経済成長で、みんな希望にあふれていた。

 私は新婚だったが、戦場の現場を報道するために、ソフィーと生まれたばかりの子供を残し、ベトナムへ向かった。

 サイゴンで、私は桧作君にまた再会したんだよ。

 私達はくさり縁かなと少し思った。でも、彼はソフィーのことはもう忘れて、日本で円満な家庭を築いたと嬉しげに語った。私はこころから彼を祝福したよ。

 やがて、われわれは比較的治安のいいサイゴンから離れ、密林で戦う米軍のキャンプに従軍取材することにした。米軍に従軍するうち、日に日に精神的にも肉体的にも参っていった。そこはアメリカや日本の平和で安穏な世界とは、まったくの別天地だった。本当の戦争というものを、私はそれまで知らなかった。殺すか殺されるかの世界だ。自分が実際に相手を殺すわけではないが、その様子をみるのは辛かった。同じ人間同士が、殺しあうのだ。相手に家族がいるなんてことは、一切、考えてはいけない。考えていては自分がやられてしまう。みんなアメリカの正義のために戦う若い兵士たちだった。だが、現地の貧しいベトナム人が死力を尽くして戦い、無表情に死んでいく姿を目の当たりにして、その正義は次第に根拠のない浅はかなものに変り果てていった。ベトコン達を責めることはできない。彼らは働き者なのに、貧困にあえいでいた。いくら働いても豊かにならないという絶望的な世界。彼らは、傀儡政府に不信感を抱いたのも当然だろう。自分達のしていることは本当に正しいのだろうか。米軍兵達は、みんな信念を見失い、無力感と疲労に苛まれていった。だが、うかうかしていては自分達も殺されてしまうんだ。夜、昼となく銃撃戦が繰り広げられた。ベトコンはどこへでもトンネルを掘ってきて真下から顔を出すことだってあった。神出鬼没だ。トンネルから爆弾を放り込まれることだってあった。前線がどこかわからない。日々刻々と戦いの最前線は移動する。まったく攻撃して来ないことが続いたり、突然、包囲されてしまうことだってあった。米軍兵達も南ベトナムの兵士たちも、接してみるとみんなとてもいい人間ばかりだった。個人としてはいい人なのに、なぜ人間は戦うのだろう。その疑問と理不尽さは膨らむばかりだった。

 でも、あのとき、桧作君という同じ日本人が一緒にいてくれることで、私はどこかで安心していたんだよ。だから、あんなことに耐えられたのかもしれない。

 それは、ある日、起こった。起こるべくして、起こったのかもしれない。戦う意味がわからぬまま、無理に戦い続ける者達に勝てる見込みはないのかもしれない。我々はハイウェイパトロールに出たとき、敵に包囲されてしまった。敵の銃撃に対して、米軍兵と南ベトナム軍の兵士達は応戦した。武器もなにも持たない私は、這いつくばって逃げた。でも、桧作君は這いつくばりながらも、カメラを向け続けた。私は物陰に隠れた。あっという声を聞いて、私は隙間から一瞬、様子をみた。そこには桧作君が打たれて血を流していた。彼を助けなくてはと思ったが、腰が抜けてしまって体が動かなかった。私はそのまま、物陰にかくれて銃撃が終わるまで待っていたんだ。私はまったく不甲斐ない男だ。日本でベトナムの写真を発表したりしたけれど、実は私はまったく意気地のない男なんだよ。

 そう言うと、栖栗は泣きはじめた。

「私は、本当のことを言うと、ずっとあなたのことをこころのどこかで責めていたのかもしれません。あなたが助かったのに、なんで父は死んだんだろうって。でも、そんなのは逆恨みだって思おうとしていました。今日話をきいて、やはり納得しました」

 栖栗は桧作を畏怖するような目になって、本当に済まなかったと涙を流した。

「いえ、勘違いしないで下さい。あなたの話を聞いたら、やはり、自分でもそうしただろうと思ったんです。あなたのせいじゃない。戦争のせいでしょ。どんなにいい人も戦場では鬼にならなきゃいけない。きっと父も、あなたを憎んではいませんよ。父はやりたいことをやって死んでいったんです。それにソフィーさんのことだって、多分、そのときにはほとんど忘れていたと僕は信じたい。父は私の母を愛していたと思います。そうでなくては、母が可哀想です。もう忘れましょう。あなたの話が聞けて、よかったです」 

 その後も栖栗は涙を流し続けた。加凛達は挨拶して病室をあとにした。

 そして、栖栗は奇跡的に快復して、また写真館へ戻ってきた。


 プランターのトマトも持ち直し、また、実を沢山つけだした。だから、球根を植えるのは先延ばしにして、しばらく様子をみることにした。

 そうなると、買ってしまったフリチラリアの球根を植える場所がない。

 何かが上手く行くと、何かがはみだすのが世の常だろうか。

 いや、すべて上手くいくことだって、あるはずだ。また、鉢を買い足せばいい。

 少ない時間をみて加凛は、鉢の植木の枝を切ったり、これから何を植えるかなどを考えていた。だが、あまり、ゆっくりしている暇はない。今日は、午後から桧作と出かけることになっていた。

 その夜も、ぼんたんみたいに大きな満月が出ていた。

 加凛は出かけた帰り道、その月をみながら桧作とともに夜道を歩いていた。

 途中、街灯のまわりを大きな蛾が飛びまわっているのをみかけた。

「クスサンだな」

 桧作が言った。

「何それ?」

「ヤママユガの仲間で、羽の大きな模様がフクロウの目みたいにみえるやつ」

「あー、それ、この前、みたかも」

 クスサンは白っぽい大きな羽をばたつかせ、月と見違えているかのように、街灯の周りを飛び回っていた。

「クスサンて、どういう字を書くの?」

「多分、楠の木の楠に、(かいこ)っていう字じゃないかな」

「蚕か、山じゃないのね」

 楠山万由子がヤママユガの化身だったなんて話は面白いなと思ったが、そんなの自分でも信じられないと加凛も思う。でも、桧作のような人がいるのだから、世の中、何があるかわからない。

「言おう、言おうと思っていたんだけど、実は、写真コンテストに落選しちゃった」

「そっか。残念だったね。「明るい箱の幻想」ってタイトル、あの写真集にとてもあってると思ったんだけどな。審査員はみる目がないんじゃないかな? でも、また次があるさ」

「ううん。もう出すのやめた」

「なんで? 諦めるわけ?」

「うん。だって、このコンテストに優勝した作品、凄いのかもしれないけど、私の心には何も響いてこなかった。私が撮りたいのはあんな写真じゃないの。街の人々の幸せな笑顔が撮りたいんだ。だから、私は写真館で働き続ければそれでいいんだと思ったの」

「そっか、それもいいかもね」

「うん。でも、もしも栖栗さんが亡くなったりしたら、また、写真館を探さなきゃいけないんだろうけど。いつかは、独立して自分の写真館を開きたいな。それにああいう写真も片手間に撮り続けるつもり。機会があったら、写真集として出版もしてみたい」

 加凛は思いついたように、急に真面目な顔で向き直って桧作に言った。

「ねえ、私の前から急に消えたりしないって、約束してね」

「何、急にどうしたんだよ」

「なんとなく不安になるの」

「わかった。約束するよ。俺もこれからは、普通の探偵になるよ。もう、無茶はしない」

「本当に?」

「うん。本当はあの能力を使うと疲れるし、危険なんだ」

「そう、じゃあ約束ね」

 加凛は桧作と組んだ腕に頭をもたせて、また大きな月を見上げた。桧作は今度母にも会いにいきたいと言ってくれた。

 ほろ酔いで夜風に吹かれると心地よかった。ずっと、こんな風にしていられたらいいなと思った。


 (完)


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