少女との約束
夕暮れ時にも関わらず夏の暑い日ざしが降り注ぎ、木々に茂る青い葉を照らしている。吹く風は涼しく、暑さを和らげていた。一面見渡す限り広がる田畑、視線を上げれば囲むようにそびえ立つ山々。小さな店はあるものの田舎の風景がそこに広がっていた。
所々見られるビニールハウスでは老年の夫婦が作業しているのが見える。田植えを終えた田んぼには青々とした稲がまっすぐ伸びていた。台風が来なければこのまま黄色くなっていくだろう。
そんなことを考えながら少年――横川進は自転車をこいで歩道を進んでいた。今年で中学一年である。そんな彼にとって中学の制服はまだぎこちなさが残っていた。
家にたどり着くと自転車を軒下に停め、鞄を引っ提げて進は玄関のドアを開ける。頭上でちりんちりんと人の来訪を報せるためのベルが軽やかな音をたてた。
「ただいま~」
「お帰り~」
進の声に返事をするようにリビングの方から母親の声が聞こえた。調理の途中なのだろう、スパイスの匂いがリビングの方から漂ってきている。
自分の部屋に行く前にと進はリビングの扉を開ける。そこには予想した通り、台所でにんじんやら野菜を切っている母親の姿があった。
「今日の夕飯、何?」
「カレーよ、進。そういえば、学校から何か報せはある?」
「無いよ、あるとしたらもう少し先かなぁ。夏休みに入る前ぐらいじゃない?」
「そう? 何かあったら言ってよ」
「分かってる、それじゃあ部屋に行くね」
そう言葉をかけて進は二階の自身の部屋へと向かう。二階の進の部屋の机の上には教科書や参考書等が置かれ、対照的に本棚には小説はもちろん漫画やゲームのソフトが置かれていた。
鞄を机の傍に置き、椅子に腰掛ける。夜まであと二、三時間だろう、父親が帰ってくれば夕飯である。さてそれまで何をするか。
「宿題、するかぁ……」
そうぼやいた進は鞄から宿題を取り出すと、筆記用具と共に机の上に置いていく。ちらりと横目で見た窓の向こうは、夕暮れの赤色に宵闇色が混ざろうとしていた。
夕食を終え、部屋へと戻ってきた進の前には机の上に開かれた残りの宿題がある。宿題の途中で夕飯に呼ばれたのだ。といっても残っている量は少ない、後一時間もあれば終えることが出来るだろう。
終わったなら漫画でも読もうか、それとも下で父親と一緒にテレビでも見ようか、そんなことを考えながら椅子に座ろうとした進の視界の端を何かがよぎった。それと共に小さくカツンと音がする。
「ん?」
何だろうかと動きを止めて視線を向けた窓の向こうは既に暗い。既に夜である、こんな時間帯に田舎では出歩く者は少ないし、何よりここは二階だ。
「動物か?猿……はここらでは見ないしなぁ。狸だったり?」
そう呟きながら窓に近寄るも、そこには月明かりに照らされた夜の田舎の見慣れた風景が広がっている。
野生の動物だったのかもしれない、そんなことを考えた進の目にきらりと何かが光るのが見えた。その光はまるで飛び跳ねるような軌道を描いて山へと向かっていく。
暫く見えていたその光はやがて消えていった。森へと入ったか、それとも本当に消えたのか。どちらにせよ進にとって何とも奇妙なものである。
「ライトじゃないし……変なもの見てしまった」
どこか不気味さを感じた進はカーテンを閉める。もう窓の外の光景は見えない。
先程の風景を忘れるように首を小さく振ると、進は席について残りの宿題を始めた。簡単なものである、少しすれば終えてしまう。
一時間も経たないうちに宿題を終えた進は小さく伸びをした。そして思わず窓のほうへとちらりと視線が向かってしまう。脳裏によぎるのは先程の不可思議な光景だ。気にしないように、と思うほど気になってしまうのである。
もしかしたら野生動物かもしれない、きっとそうだ。その確証が欲しくて進は終えた宿題を片付け、一階のリビングへと向かった。
リビングのソファーには父親が座り、テレビを見ていた。声をかけると、父親は進のほうへと顔を向ける。
「父さん」
「ん、何だ?」
「さっき飛び跳ねるような光を見たんだけれど……何かなぁ?」
「ん~……きっと猿とか狸とかだろう。もしかしたら別の動物かもしれんなぁ」
「でも光っていたよ?」
「月明かりに照らされて目が光ったんだろうよ。どうした、怖いのか?」
「そうじゃないけどさぁ……」
父親のからかいの言葉に進はすぐさま否定する。その様子を見た父親は進の不安を吹き飛ばすように笑顔を浮かべて笑い声を上げた。
「ははは、心配しなくていいさ、どうせ動物だ。夜だからはっきりと姿が見えなかっただけだろうよ」
「……それもそうか」
そう言うと父親はテレビへと視線を戻す。進は父親の言葉に納得するように呟いた。本当に納得したわけではない、けれど最も可能性が高くきっとそうなのだろうと考えているだけである。
おやすみ、と言って進は自身の部屋へと戻る。言葉とは裏腹にどこか納得しきれないものを抱えながら。
□ □
翌日、休日の朝。朝食を終えた進の脳裏には昨夜の出来事がちらちらとよぎっていた。
父親はあのように言っていたが、やはりどこか納得できない。奇妙なものを見たことへの恐怖はある、しかしそれと同じぐらい一体何だったのだろうかという好奇心があるのも否定は出来ない。
幸い宿題は既に終えているし、昨夜光が消えた場所も大体の見当がつく。今日一日暇ではあるし、ちょっと光が消えた場所へと行ってみようかという冒険心が灯った。外が明るいために恐怖心が薄れていたのもあるだろう。
思い立ったが吉日とばかりに進は自分の部屋を出て一階へと降りる。さすがに何も言わずに出るのは憚られるので、リビングにいた母親へと声をかけた。
「母さん、ちょっと出てくる!」
「何? 遊びにでも行くの?」
「いや……散歩、散歩だよ。すぐに戻るから」
「そう? あんまり遠くに行ったりしたら駄目よ、ご飯前には戻ってきてね」
「分かった!」
そう声をかけた進は靴を履いて外へと出る。出た瞬間、頭上から夏の日差しが降り注いできた。進はその眩しさに思わず目を眇めてしまう。
(確か光が消えていったのはあっちだったよなぁ……)
進は昨夜の記憶を掘り起こして光が消えたほうへと目を向ける。そこにはただ山がそびえたつだけである。進は軒下に停めておいた自転車にまたがると、光が消えたほうへと向かっていく。
緑の多い風景は後ろへと流れ、進の顔に風がぶつかっていった。その風は暑さを和らげてくれるも、進の高揚感は和らげない。
少年特有の好奇心と冒険心、それらがふつふつと心の奥底で沸き立つのを進は感じていた。
光が消えた場所へと着いた進は自転車を邪魔にならないよう木陰となっている歩道の脇へと停めた。近くには田畑があり、老人が農作業をしているといういつもの光景が広がっている。
進は自転車から降りると光が消えたであろう方向へと視線を向けた。遠目には分からなかったが、そこには山の上へと続く小さな道が伸びている。草が生え、むき出しの地面の道であり、あまり整理されていないことが分かる道だ。その道の先を進のいる場所から見ても、ただただ草木しか見えない。さながら獣道である。
行かなければ分からない、そう考えた進の唾を飲み込んだ。周りでは蝉がうるさく鳴いているにも関わらず、唾を飲み込む音がどこか大きく響いたような気がした。
明るいということもあり恐怖心は薄れ、一方で好奇心が更に沸き立つ。近場だというのに冒険をしているような気分だ。
進は一歩、道へと踏み入れた。葉が生い茂っているため、頭上からの日差しはわずかしか届かず木陰となって涼しい。
一歩、また一歩と確かな足取りで進は道を歩いていく。時折地面からむき出しになった木の根っこや石につまずきそうになった。時々、道に飛び出すようにして生えている草が体に当たる。顔の辺りまで伸びている枝もあり、その時は頭を下げたりして避けていった。
暫く進んでいくと、道が徐々に細くなっていく。細く作られたのではない、道の端まで草が生い茂り細くなっているように見えるのだ。それでも一人分の道がきちんと出来ている辺り、この道を通っている人が少ないわけではなさそうだ。
そんな道を進んでいき、最後には人一人分ほどの幅になっていた道は突如終わりを告げる。進の目の前には開けた場所が広がり、奥には小さな木造の建物が建っていた。
後ろを振り向けば少し開けた木々の向こうに田んぼが広がっているのが確認できる。結構山の上まで上ってきたらしい。そして視線を前へと戻した進は開けた場所へと出た。
音も無く、草花が風にそよぐその場所はどこか心を落ち着かせる。一方で古びて壊れかけた建物がその安らかな雰囲気に寂しさを付け加えていた。
建物には良く見れば看板が立てかけているのが分かる。文字は所々かすれていたが、目を凝らして見れば集会所と書かれているのが分かった。
頭に浮かぶのは新しく建てかえられた集会所である。以前はこの建物を使っていたのだろうか、と進は考えた。それにしても古すぎるように感じるが。
しかしながら、と進は辺りを見回した。
「それにしても、光の正体が無いなぁ」
小さくため息をついて呟く進。彼の言う通り、進の視界に光の原因となるものは見当たらなかった。あるのは古びた集会所に長閑な場所である。
きょろきょろと辺りを見回していた進、その背後にふっと誰かが立ったのを彼は気づかなかった。
「ねぇ」
「へっ?」
突然後ろからかけられた声に驚いて進は素っ頓狂な声を上げて振り向く。そこにはセーラー服を着た少女が薄っすらと笑みを浮かべて立っていた。
腰ほどまである黒髪は、風に吹かれて揺れている。黒を基調としたセーラー服に包まれた肢体は大人になりきれていない少女らしさがあった。けれど少し金茶の吊り目、整った顔からは歳相応の幼さは感じられない、むしろ進よりも誰よりも大人であるように思える。
不思議な雰囲気を纏った少女、進の第一印象はそれであった。
「あの、あなたは誰ですか?」
「ふふ、敬語じゃなくて良いわ。私だってこの町に住んでいるモノですもの」
「え、でも……」
しどろもどろになりながらも問うた進に少女は小さく笑みをこぼしながら言う。しかし進は少女の言葉に疑問を持った。
この町に住んでいる者、と言っていたが進は彼女の姿を見たことが無い。小さな祭りがあるときでもこの町の子供達は楽しげに参加するが、そのときにも彼女はいなかったはずだ。
進の疑問を読み取ったのだろう、少女は再び小さく笑うと言葉を紡いだ。
「疑問に思っていそうな顔ね、まぁ分からないでもないわ。私とあなたは会っていないもの。会う機会が無かったものね」
「は、はぁ……」
どこか煙に巻くような彼女の台詞に進はあいまいな返事しか出来ない。もしかしたら同じ町にいるだけで、彼女の言う通り会う機会が無かったのだろうと進は勝手に思い込んでしまった。
「あぁ、そういえば」
「ん?何かしら?」
何かを思い出したような進の言葉に少女は不思議そうな顔をしながら尋ねる。そんな少女に進はおずおずと言葉を発した。
「名前、君の名前を知らないから……なんて呼べばいいのか……」
「それもそうね……名前ねぇ」
進の言葉に少女は思案するように軽く上を見た。ほっそりとした指を顎に当て何やら考えこんでいる様子の少女だったが、小さく「そうね」と呟くと視線を進へと戻す。
その動作は何でもないのに、妙に様になっている。まるで人間では無いようだ、進は見惚れると共にどこか薄っすらとした寒さを感じた。
そんな進の心情を知ってか、少女は更に深く笑みを顔に刻む。陽の光を受けて彼女の金茶の瞳がきらりと輝いた気がした。
「こういうときは自分から名乗りを上げるものだと思っていたのだけれど」
「あ、うん、それもそうだね。僕の名前は――」
「いいえ、いいわ。名前を教えなくても構わない。どうせこの一度きりの出会いになるもの、今までそうだったわ」
「どういうこと?」
要領を得ない少女の言葉、煙に巻くようなそれに少しばかりの苛立ちを進は覚えた。教えてくれたっていいじゃないか、減るものではない。自分から言ってきたことだろう。
なのに、そう言った彼女の瞳には顔に浮かべた笑みとは対照的な悲しみが滲んでいた。そしてそこに混じる諦念も。
踏み込めない、踏み込んでしまったら彼女は傷ついてしまうのではないか。躊躇を覚えた進は先程の苛立ちを少女にぶつけることはできない。
もどかしく感じている進に少女は再び笑いかけた。その瞳からは悲しみと諦念は消えている、もしかしたら隠したのかもしれないが。
「ごめんなさいね、教えることが出来なくて。でも名前を知るということは、私にとって意味合いが大きいものなの」
「意味合いが大きい?」
「そう、とってもね。それにしてももうそろそろ昼になるわ、親御さんが心配しているのではないかしら」
「あ、そういえば!」
進は慌てて腕時計を確認する。確かに少女の言う通り、時刻は正午近くになっている。親は昼ごはんの用意をすると言っていたし、帰らなければ心配するだろう。
けれど気になる、目の前の少女が。顔が整っているからなのか、それとも先程の悲しそうな雰囲気を読み取ってしまったからなのか。それは進にも分からない。もしかしたらどうにかしてあげたい、という小さな正義感からかもしれない。
少女は進の前を離れて古びた集会所の方へと向かっていく。進はその背に慌てて声をかけた。
「君も帰ろうよ。きっとお母さんとかご飯を用意して待ってくれているよ」
「……いいえ、私はここにいるわ。あなたが帰りなさい」
「でも……」
「気にしなくていいわ。久々に話すことが出来たし、とても楽しい時間だった、ありがとう」
「お礼なんて……」
振り向いてそう礼を言ってくる少女に進は戸惑うように俯いてしまう。礼を言われるようなことはしていない、少しばかり言葉を交わしただけだ。けれど彼女はその時間を楽しかったというのである。
俯いたままの進に少女は苦笑を浮かべると、無言で背を向けその場を去ろうとする。しかしその歩みは進のかけた言葉でさえぎられた。
「次、次は無いかな?」
「え?」
「楽しかったのなら、次も話そう! 同じ歳の子、この町に少ないし……だから話相手になってくれると、俺も嬉しい、し……」
言葉の最後は尻すぼみとなり、ちらりと進は少女の様子を窺った。視界に映った少女は先程の言葉に驚いたような表情をしている。そしてふっと、泣きそうな顔になるもすぐにそれを押し隠して笑みを浮かべた。
駄目だろうか、急すぎただろうか。そんな疑問が進の頭の中に渦巻く。一方の少女はそんな進に小さく笑みを浮かべて、歩み寄ってきた。
「話し相手、なってくれるの?」
「う、うん」
「そう、そうなの……」
進の言葉に少女は動揺する。先程の余裕のある笑顔を浮かべようとはしているが、口の端が引き攣り目はどこか潤み始めていた。嬉しいのか、悲しいのかはっきりとしない泣きそうな顔である。
唇をかみ締めることでどうにか堪えた少女は先程よりは弱々しい笑みを進へと向けた。
「本当に、なってくれるのかしら……?」
「うん、なるよ」
「そう……こうなるとは想像してなかったわ……」
最後の言葉は小さく呟かれ、進の耳には届かない。進はばくばくと高鳴る心臓を何とか押さえつけて少女の顔を見つめていた。
「そう、よろしくお願いね。それならば……三葉」
「え?」
「私の名前よ。三つの葉っぱと書いて三葉。あなたは?」
「えっと、進、横川進。進むの進だ」
「そう、進ね、進」
少女――三葉は口の中で転がすように進の名前を呟く。自身の名前が呟かれるたびに、進はどこかくすぐったいような気分になる。
その言葉に馴染むように呟いていた三葉は、押し黙るとにっこりと進に笑みを向ける。その笑みに思わず進は息を呑んだ。
「話し相手、よろしくね、進」
「う、うん……」
風が吹き、三葉の黒髪を揺らす。進の脳裏に焼きつくほど、目の前の光景はとても綺麗で、それでいて儚く印象深い。
嬉しさの中にかげりがある、何かを諦めたような恐れるような表情。そんな表情の三葉を進はただただ見つめていた。
□ □
中学の三年間、休日の空いた日に進は三葉の元へと赴いた。
一年経つ度に伸びていく身長と共に幼さが消えていく進だが、一方の三葉は身長も顔立ちも変わることなく子供のようで大人びた矛盾した不思議な雰囲気を纏い続けている。
ずっと続くはずだった。この三年、三葉と過ごす時間は進にとっても楽しい。けれど、その日常もすぐそこまで終わりが来ていた。
中学三年、冬の寂しい山の中、進と三葉は集会所の前にいた。
三葉にとっては久々なのだが、進の表情が妙に強張っている。一体どうしたのだろうかと、とうに超えられた身長のために三葉は進を見上げるようにして見つめていた。
真剣な面持ちの進は暫く黙っていたが、ポツリと小さいながらも言葉をこぼし始める。
「俺、高校が決まったんだ」
「そう、良かったじゃない」
「その……市内の高校じゃなくてさ。多分、この町を離れて寮に入ると思う……」
「……そう」
ぽつり、ぽつりと呟く進の言葉に三葉の面持ちも沈痛なものへと変わっていく。葉の一つも無い寒々とした風景も相まって、二人の間に流れる空気はどこか冷たく重いものとなっていた。
進の言葉通りならば、三葉とこうして話すことが出来るのは三月ぐらいまでだろう。寮に入る準備やらを考えたら、もしかしたらそれよりも短くなるかもしれない。
二年近く過ごした時間は、二人にとって短いようにも思える。あの夏の日、出会ってから今まで過ごした時間。秋は紅葉狩り、冬は雪だるまや雪合戦、そして春は花見としたりもした。
当たり前になりかけていたそれが終わりを告げる、はっきりと言葉にはせずとも二人の胸中にはそのことへの悲しさと惜しさが浮かんでいる。
「向こうの高校でも、元気にしてね」
「うん」
「休みにはこっちに戻るの?」
「分からない」
「それもそっか」
「うん、戻れるとしても今までどおりには行かないかも」
「そう」
視線を合わせることなくどちらも地面に視線を向けて紡がれる短い言葉。そして再び二人の間に重たい空気が流れた。
その空気を破るように三葉は目を地面に向けたまま、言葉を発する。
「丁度良い、機会かもしれないわ」
「機会?」
ようやく進は三葉へと顔を向けるも、目の前の彼女は顔を進へと向けない。未だに地面のほうへと向けられたままだ。
「多分だけれど、これからは話し相手なんて出来なくなるわ。もしかしたらこれが最後のお話かもしれない、だからこそ進に伝えておきたいことがあるの」
「伝えておきたいこと?」
「そうよ。……それに、これ以上期待するのも辛いわ」
「期待? 辛い?」
「こちらの話よ、気にしないで」
そう言うと三葉は進へとゆっくり顔を向けた。不思議そうな顔をしていた進は真正面から三葉の顔を見て硬直する。今まで見ていた彼女とは違う、率直にそう思った。
金茶だったはずの瞳は月と同じほどに黄金色に光り、額からは柔らかな髪を割るようにして一本の白い角が生えている。
頭に浮かぶ言葉はただ一つ、鬼、ただそれだけだった。目の前には鬼となった三葉がこちらをいつものような余裕のある笑みを浮かべて見ていた。
「それ、何……?」
「見ての通り、鬼よ」
「お、に……」
「……ふふ、あなたも同じ反応するのね」
三葉は抑えたように小さく笑うも、その顔には悲しみしか宿っていない。最後の言葉を紡ぐ時、三葉は体を強張らせた。
何とか笑顔を浮かべてはいるが、内心では嫌われてしまうのではないかと震えている。今まで親しくしてきた進、けれどこれを機に離れていくだろう。隠し事ばかりをしているわけにはいかないのだ、いずれそれはばれてしまう。自分が一体何なのか分かった上で彼はそれでも親しくしてくれるだろうか。
そんな期待と共に、どうせ無理だという諦めがあることも否定はできないが。
「……そういえば、中学一年の頃にどうしてここに来たのか言ってなかったよね」
「ん? そういえばそうね」
「その前の日の夜、飛び跳ねる光を見たんだ。翌日になってそれを追ってきたら、ここにたどり着いたんだよ」
「そうだったの……きっとそれは私ね」
「あぁ」
進の視線の先にあるのは三葉の額で白く輝く一本角だ。これがきっと月の光を受けて光っていたのだろう。
じっと角を見つめられている三葉は頬を薄っすらと赤く染めていた。恐怖の感情で角を見られることはあってもこうも目を輝かせて見ることは無かった。
気恥ずかしさを感じている三葉は恐る恐る進を見上げると、小さくか弱い声で問いかける。
「あの……怖がらないのかしら?」
「え?」
「いや、ほら、私人間じゃないし……進よりもかなり歳とっているわよ」
「あぁ、もし出会って初めての時だったら怖かったかもしれないなぁ。でも、ほら、今は三葉のことをよく知ってる。それに見た目そうは見えないし」
「歳についての否定は何だかあんまり嬉しくないわね。でも、鬼よ? 食べられるんじゃないか、とか……」
「三葉は俺を食べる気なの?」
「違うわよ!」
進の言葉を強く否定する三葉。その気迫に驚いた進は一瞬呆けたような顔をしたが、すぐにその表情は仕方が無いというように苦笑へと変わった。
三葉はその苦笑の意味が分からずぽかんと進を見つめている。
「ほらね、たった二年近くだろうけどそれでも二年だ。三葉がどんな人物なのか分かるぐらいには親しいつもりだったんだがなぁ」
「そ、そう……」
拍子抜けである、とでもいうような表情で三葉はそう言葉を吐き出すしかなかった。蓋を開けて見れば怖がられない、むしろその不安を笑い飛ばされているのである。今までの心配は何だったのだろうかと、逆にむなしさのようなものを感じた。
一方、苦笑を浮かべていた進だが眉間に皺を寄せて真剣な顔つきへと戻る。そして先程の明るい雰囲気とは逆に、言いづらそうに三葉へと話しかけた。
「三葉、高校の間なんだけど。俺、戻れないけど時間があったら……」
「無理はしなくて良いのよ。高校の友人と遊んだりしたほうがいいわ」
「いや、でも……」
「高校の友人も大切にした方が良いわよ」
「けれどさ」
三葉が何を言っても食い下がる進。はてさて、どうすれば納得するだろうかと三葉は考えた。
強く言ってはこないものの、その目を見れば意志の強さは見て取れる。三葉にとって自身との約束を守ってくれるのは嬉しいのだが、それでも同年代の子と親しくして欲しいのも本心だ。加えてもう一つ、三葉にとって最も大事なことが進の言葉に頷くことを妨げている。
どうすればよいだろうか、そう三葉が考えている間にも進は別のことを考えていた。高校の生活において三葉の話し相手になる時間がどれほど取ることができるだろうか、というものである。
三葉の言うように高校で友人を作り遊ぶのもいいだろう。しかし中学一年からずっと話し相手としていた三葉は進にとって気の置けない人物なのだ。気づけばこうする時間をとることが当たり前にもなっている。
暫く考えていた三葉だが、「うん、これがいい」と小さく呟きながら納得するように一つ頷いた。何を決めたのだろうと、進は不思議そうな目を三葉へと向ける。
「進、高校の間は高校の友人を大切にしてあげて」
「でも……」
「進はこれから大人になる。そのことを考えてもこの方が良いわ」
「それならそれで構わない、でも三葉のところにはなるべく行くから」
「いいえ、暫く期間を置きましょう。おそらく高校生活は中学以上に忙しくなるわ。私に割く時間は無くなる。だから、ね、約束しましょう」
「約束?」
進はオウム返しに三葉へと問うた。三葉は「そうよ」と言いながら頷くと、言葉を再び紡ぎ始める。
「そうね……進が高校を卒業するまで、大学生になるまでは会わないようにしましょう」
「会わないって……」
「私の時間はたくさんある。けれど進は少ないわ。その時間を他の人にも割いて欲しいの、普通だったらそうなったはずなのよ。でもあなたは納得しないでしょう?」
「そりゃあね」
「だから進が大学生になるまで、っていう期限をつけたの。それまで進は私を気にせず、高校生として青春を謳歌してほしい」
「それだけじゃあ――」
「それだけじゃないわ」
進の言葉を少し語調を強めることで遮る三葉。一歩、彼女は古びた集会所のほうへと歩を進める。進からは彼女の表情は見えず、ただそよぐ風に黒髪が揺れる後ろ姿が視界に映った。
進から見えない三葉の表情は不安に押しつぶされそうな、泣きそうな顔である。三葉にとって最も大切なこと、けれどそれは失敗すると同時に三葉は再び一人になる。またそうなるのか、その不安が三葉の胸に湧き上がりかけていた。
それを何とか抑えて三葉は言葉の続きを吐き出す。
「私ね、鬼だから他の人よりも寿命は長いの。だから数年なんてほんのわずかにしか思えない。でも進にとっては三年は大きいでしょう」
「まぁ、そうだね。それがどうしたの」
「人にとって大きい三年、人が人を忘れるのに十分な時間。今まで友達になった子も、数年もすればこの地を去って私を忘れた。進もそうならないとは言えないでしょう?」
「……俺が三葉のことを忘れると?」
「そうよ」
静かな進の言葉に三葉は答える。こう言えば進は怒るだろうか、けれど三葉にとってこれは大切なことなのだ。
また忘れられるのではないか、それなら早く忘れてもらったほうがその事実を受け入れるのに傷は浅い。今までの決して良いとは言えない経験が、三葉の思考をそちらへと傾ける。
しかし進は険しい顔だが声を荒げることなく、三葉を見つめ続けていた。
「……いいよ、約束しようか」
進の強張った声に三葉は思わず振り向く。そこには迷いの無い、決心した少年の真剣な面持ちがあった。
じっと見つめる三葉の視線を受けながら、進は言葉を三葉へと放つ。
「約束だ、三年後に俺はここに来る。三葉を忘れることは無い」
「約束、するね」
「あぁ、約束しよう」
三葉の言葉に頷く進。その様子を見つめた三葉は儚げな微笑を浮かべると、進へと笑いかけた。
「約束だよ、進。それじゃあ、高校生活を楽しんで」
「分かったよ、三葉。それじゃあ、またね」
そう言って進は茂みへと姿を消した。今頃雪でぬかるんだ山道を四苦八苦しながら降りているだろう。その姿を想像するとどこかおかしく、三葉は思わず笑いをこぼしてしまった。
そして思い出すのは先程の進の「またね」という言葉である。何度も聞いて、何度も期待して、そして何度も裏切られた言葉だ。
彼も同じか、それとも違うか。この二年を過ごしても分からない、そればっかりは。そうではないと信じても、これはどう転ぶか分からない。
冬の寂しい風に吹かれる黒髪を押さえ、三葉は進の去った山道を悲しそうで、不安そうな視線で見つめていた。
□ □
山に風を遮るものは無く、青年の体に直接三月の寒さを伴った風がぶつかってくる。もっと厚着でもすれば良かっただろうか、そんなことを考えながら青年はジャケットの襟に顔を埋めるように首をすくめた。
青年自身、三年経って随分と見違えた。身長もあれから伸び、運動系の部活に入っていたために筋肉もそこそこついたと思う。男としてはついていて欲しい、というのが本音だ。
親にも雰囲気が大人に近くなった、と言っていたのにこの山は一向に変わっていない。この山道も相変わらずあまり手入れされていない様子だ。
紺のジャケット、黒のジーンズにスニーカー、どれもが中学三年の頃よりも大きいものである。こう見れば随分と体は成長したものだと青年――横川進は感慨深くなっていた。十八でそんなことを感じるのは、もしかしたらこの山にいる彼女の影響が強いのかも知れないが。
茂みを掻き分け道を突き進んでいくと、視界が開ける。夏のときのように青々とした草は茂らず、代わりに一面白銀の地面が広がっていた。そしてその奥には屋根や壊れた壁の隙間から雪が残っているのが見える、古びた集会所がひっそりと建っている。
そしてその集会所の前、雪の白の中で黒のセーラー服を着た少女がそこに立っていた。
進はその少女へと笑みを浮かべながら歩み寄る。近づいた進の目には彼女の嬉しさで泣きそうな表情が映った。
「約束だ、三年後にこうやって来たよ。俺は三葉を忘れなかった」
「そうだね、約束を進は守ってくれた」
進の言葉に少女――三葉は泣くのを堪えながらそう答える。何とか唇を噛んで堪えようとはしているが彼女の唇はわななき、声が震えていた。
そんな三葉に進は思わず苦笑を浮かべる。彼女にとって今のこの時がどれほど大切なのか、それは彼女の表情を見ているだけで手に取るように分かった。
「進、ありがとう、守ってくれて……」
絹のように細い黒髪が風になびく中、三葉は泣き笑いを浮かべて小さくささやく。
葉もついていない木々、雪の白さもありどこか寂しさを感じさせていた森の中。けれど二人を囲むその風景はその寂しさを薄れさせ、再開を祝うように風が優しく二人の間に吹き、雪は陽の光を受けて三葉の角のように白く輝いていた。




