5
波の音が胸に染み渡る。寄せては返し、返しては寄せる。
既に闇色に染まっている海は空と同化して境目を見つけることはできない。
がむしゃらに走った私はいつの間にか誰もいない砂浜にたどり着いていた。その真ん中で一人泣いた。
頼れるものがいないことも、帰る術がわからないことも、自分の情けなさや無力ささえもが涙となって頬を伝っていった。
一人で声をあげて泣けばすっきりするだろう。しかし、その思いに反して私に残ったのはやりきれない悔いと鈍い頭痛だった。
何故?
もう何度この問いを繰り返したことか。
答えはどこにもない。目の前にはただ闇が広がるばかり。独りだという事実が、私を苦しめる。それは冷静になればなるほど強く感じられた。
それと同時に、情けないという思いが満ちていた。どうしてもっと頑張れなかったのだろうか。もっと頑張っていたら認めてもらえたかもしれないのに。
きっともう航海には連れていってもらえない。それどころかここから追い出されてしまうだろう。
しかし追い出されるその前に私は彼に謝らなくてはならない。
私は彼を狡いと言った。しかし本当に狡いのは、私だ。
不幸な自分に涙し、自分を可哀想だと思い、周囲に甘えた。挙げ句の果てがあの結果である。未熟な私は自分のことに精一杯で周りのことなど見ていなかった。後悔という名の思いが徐々に大きくなる。
それは私の胸を強く圧迫した。
しかしどんなに苦しくとも、先ほど枯らした涙は流れることはない。
私は仰向けに寝転んだ。
広がる空にはこぼれんばかりの星の光。満天の星空とはこういうことをいうのだろう。
それはとても美しかった。今まで見てきたどんなものよりも、今目の前にあるものが最も美しい。
星空は綺麗なものだとわかっていたが、このとき初めて星空が美しいものなのだと知った。
「こんなところにいたのか」
少し離れた場所から聞こえた声。振り向かなくてもその声の主はわかった。何せ、先程まで私は彼のことをずっと考えていたのだから。
私は動かなかった。いや、動けなかった。
「ここの星空は美しいだろう?」
私の隣に腰を下ろして彼は言った。さっきのことを怒ってはいないのだろうか。
僅かに視線を横にずらすと彼の赤いコートが目に入った。
「ここは俺が今まで見てきた中で、最も星空が美しい場所なんだ」
私の視界には彼の赤いコートしか見えない。今彼はどんな表情をしているのだろうか。
「……昔の俺は馬鹿で傲慢で、望めば全てが手に入ると思っていた。自分が世界の中心だと思っていたんだ。例え世界を敵に回しても、大切なものを守り通せると信じていた。
だが、現実は違った。俺の選択が大切な人を傷付け、そして苦しめた。守るどころか、逆に俺がその人を追い詰めることになったんだ。皮肉だよな。……そうして最も守りたいものを守れなかった俺は全てを失った」
感情のこもらない声。いや、感情を表に出さないように無理矢理抑えた声。
その奥にあるものはなんだろうか。悲しみか、憤りなのか。今の私にはそれを感じ取ることはできなかった。
「どれだけ後悔しても失ったものは戻ってこない。現実は非情だ。だからこそ、強くならなければならない」
顔を上げれば彼の決意に満ちた表情が目に入る。
昨日、黒髪のあの女の人が言っていた意味が少しだけわかったような気がした。
「……ごめんなさい」
消え入るような小さな声で呟いた。しかし、彼にはちゃんと届いていたようで小さくああ、と頷いてくれた。
きっとこの人は私の想像もつかないような悲しみや苦しみを知っているのだろう。私は何も知らないけれど、それだけはわかった。
その悲しさも、辛さも、苦しさも、全てを乗り越えてこの人はここにいる。それはきっとすごく大変なことで、ここまでくるのに随分努力したのだろう。
私がそうしてきた以上に。
ほんの少しだけ、大嫌いだった彼のことを好きになれた気がした。
私は視線を真っ黒な海へと戻した。少しの間そのまま海と空との境界線を見つめたあと身体を起こして立ち上がる。
「もう戻ります。泣くだけ泣いたら気が済んだし。……一つだけ聞かせてください。私を、探しに来てくれたんですか?」
部屋を飛び出して随分と経っている。もしかしたら、なんて期待するのは間違っているのだろうか。
「……さあな」
曖昧な返答だけど、否定はしない。しかし今の私にはそれで十分だった。
彼はよいしょ、と言って立ち上がる。まだまだ若いのに、じじくさいなぁなんてちょっとだけ思った。
「行くか」
私は小さく頷いて彼の後に続いた。
彼が今まで何を成し遂げ、何を手に入れたのかはわからない。しかし、レナの言葉を信じるのであればこの人は『大海賊』と呼ばれるほどの人なのだ。
この背中にいったいどれだけのものを背負ってきたのか。
未熟な私にはやっぱり想像もできないことだ。
部屋に戻ると、レナにこっぴどく叱られた。部屋を飛び出してからおよそ四時間。
そんなに長い間私はあの場所にいたのか。我ながら驚きをかくせない。
それ以上に、いなくなった私を心配してくれていたレナに驚いた。そしてとても嬉しかった。
こんな世界にいきなり来た私は不幸な女の子だけれども、こうして私のことを思ってくれている人達に出会えたことは幸せなことだと思う。
私は笑った。
なんだか今まで悩んでいたことがなんでもないように思えて。
ここにきて三日、漸く私は笑うことができたのだ。
「洗濯と皿洗いと風呂掃除だ。そうだな……五時までに終わらせておけ」
約八時間。
洗濯物とお皿の量にもよるが、余裕でクリアできそうだ。いや、どんなに大量にあったとしても為さなければならない。
私は大きく頷いて部屋を後にした。
その後、見事ノルマを達成した私は漸く船長に認められ、航海へ付いてくることを許された。
明日はいよいよ出立の日。
何の用意もしていないが、もともと私物はグシャグシャになった制服くらいなので何も問題はない。
不安と期待が入り交じる。
この先何が待っているのかなんてさっぱりわからない。もしかしたら凄く辛いことや悲しいことがあるのかもしれない。しかし、何事も始めなければ結果は得られない。
日常に帰りたいのならば、行動にうつさなければならない。悲しみも辛さも全て耐え抜いて、その先にあるものを掴みとるために。
だから私は発つのだ。この大きく広がる海原へと。
小さく息を吐いて私は手の中にある小さな蒼い石のペンダントを見つめた。
いつも持ち歩いている母がくれた最後のプレゼント。同じものを二つ買ってお揃いだねと笑ったあの時を私は今でも鮮明に覚えている。
学校にいるときは校則に反するため、制服の内ポケットにいれていた。ここに来たときになくしていなかったのは本当に運がよかったのだと思う。
本当に大切な、母と私を繋ぐ宝物。
私はそのペンダントを首にかけ、服の中に大事にしまった。
間もなく夜が明ける。とうとう旅立ちの朝がやってくるのだ。