プロローグ
男は執務室で頭を抱えていた。
いつもはきれいに整えてある赤髪も今はスラムにいる物乞いと見紛うほどに乱れている。最高級の絹でつくられた漆黒の法衣はしわくちゃで埃だらけだ。
それすらも意に介さぬ程に彼は狼狽していた。
「おお、神よ、我らをお救いください……」
もう何度この言葉を繰り返したのだろう。しかしこの執務室に吉報を持ち込むものなど一向に現れはしない。
あと三日しかないのだ。
そう思うともう震えは止まらない。
深緑の目は定まらず、助けを求めるかのようにあちらこちらを彷徨っている。
幾多の壁を乗り越え、背負いきれないほどの重圧を押しのけて漸く掴んだこの司祭長という座。三十代という異例の若さでこの高みにまで上り詰めたという事実は彼に多くの敵を作った。
それを受け入れてなお、望んだこの地位を彼は今恨んでいる。
ぼさぼさの赤髪と怯えきった碧緑の瞳からは司祭長の威厳など微塵も感じられない。
つい三ヶ月ほど前までは若さに満ち溢れ精力的に責務を全うしていたというのに、今では四十代にも五十代にも見えてしまう。
不意に扉の外からこの重い空気を切り裂くように一つの足音が聞こえた。
建物の最奥にあるこの部屋。その足音の主はここに向かっているのだと容易に知ることができる。
男は顔を上げた。そして希望に縋り付くように、じっとその分厚い扉を見つめた。
やがて室内に三つの音が響き渡る。
「……入れ」
重々しく発せられた言葉を待ちかねたように、その重いはずの扉は勢いよく開かれた。
「司祭長様、アトゥムの鏡が反応しました!!」
その言葉を聞いた途端、男の目は輝きを取り戻した。
どれほどこのときを待ち望んだことか。
喜びよりも安堵の気持ちの方が大きい。深緑の瞳を和ませながら、肺の中の空気を全て出し切るように息を吐き出した。
「漸く、『剣の巫女』が現れたか……」
その呟きは大気に紛れ、やがて跡形もなく消えていった。