よくある話の少女の、よくあるその後
よくある話を、なんの変哲もなく書いてみたくなっただけなんですすみません。
「婚約破棄、いいよね?」
綺麗な笑顔。
甘く囁くその声。
全部ぜんぶ、そんなところも好きだった。
わたくしを愛してると囁いたその声で、別の女を語るあなた。
わたくしを可愛いと囁いたその声で、別の女を褒めるあなた。
わたくしに向けてくれた輝く笑顔も、今は別の女のもの。
今日は一緒にディナー食べてくれるでしょ? そう聞いたわたくしに首を傾げるあなた。
あの娘と遊ぶからダメ、だなんて、ねぇ、もう疲れたわ。
そう呟いたわたくしに、彼は思い出したように振り返って答えた。
グシャグシャになったあなたへの贈り物。
今日は誕生日だって言ったから、わたくしね、頑張って編み物編んだのよ。
寒がりなあなたのために、お手製のマフラー。
でもそれよりなによりも、あなたはあの娘に夢中。
可笑しいな、瞼の裏が熱いよ。
「アリエス、今日はいったいどうし、て、あ、ああああ貴女、一体何やってるの!?」
「おかあさん」
「あなたっ、あなた早く来てぇ! アリエスが、アリエスが!」
「一体どうした、って、アリエス!? おまえ、その髪はどうした!」
悲鳴を上げる両親を横目に、わたくしは大きな鏡を引き寄せた。
するりと、鏡にかかっていた布を引き落とした。ピカピカに磨き上げられた鏡に、わたくしの姿が映る。
ジャリ、と床に落ちていた黒い塊を踏んだ。
喚く両親を無視して、私はくるりと振り返った。
「わたくし、神殿騎士の侍女になります」
肩より上まで切った髪を撫でる。
鏡に映った自分は、わらっていた。
◆◆◆◆◆◆
わたくしの名前は、アリエス・リラ・ロッドベル。
いえ、今となってはただのアリエス。
リルベイア大陸のど真ん中、ジュロック帝国の東側に位置する大神殿、ヴェネリオ神殿に勤める、いえ、仕えるわたくしは、今はただの侍女です。
我がジュロック帝国の約98%以上の国民が信ずる宗教、ヴェネリオは多神教。愛の女神に戦の男神、多くの神々がおり、それぞれの加護を人々に与えるとされています。
剣士を志す者には剣神・オーヴァが。美を求めるものには美の女神・ニーナが。神々が認めた者のみが加護を受け、生涯繁栄のための力を貸してくれるのです。
認めたもののみが、とはありますが、ジュロックの国民は必ず加護を受けています。それはヴェネリオ神話で最上の神とされている、王神・ジュロックの加護です。
我が帝国は、今から遙か昔のことではありますが、帝国ができるきっかけとなった初代皇帝の英雄伝から、初代皇帝が王神の加護を多く受けていたこと、また当時最高峰の英雄であったことから、王神ジュロックの名をいただいて、ジュロック帝国と名乗っているのです。
リルベイア大陸のど真ん中を占める我が帝国は、今でも多くの国々から王神の加護を多く受けた国として名高く、各国の貴族や才能あるものが留学に訪れるほどの名国であります。
そんな我が帝国の東の果て、そこに大きく存在するヴェネリオ教の本殿に勤め早1年。そして失恋して婚約破棄してから、1年と1か月以上が過ぎました。
わたくしアリエスは、本日も勤めをまっとうしております。
「……アリエス、茶を」
「かしこまりました。ただいまお持ちします」
ヴェネリオ大神殿の奥、神殿を守る神殿騎士が過ごす場所、騎士御所の一室、優雅に椅子に腰かけたその方はわたくしの主。
我がヴェネリオ教に仕える神殿騎士には、必ずひとり侍女、もしくは侍従がつくことが決まっています。神殿を守る騎士はストレスや疲れがたまりやすく、会話というものがほとんどありません。
その日まったく口を開かないなんてざらで、ですが人間は喋る生き物です。ほんの少しでも会話をしないと、自分が思ってなくてもストレスがたまるもの。
いつも神殿を守ってもらっているのに騎士たちはいつも疲れているだなんて、と嘆かれた時の聖女さまの願いによって、神殿騎士には原則1名以上の侍女または侍従がつくことは絶対です。
わたくしの今の主、神殿騎士であらせられるヴェルド・ジオ・クロスベイガー様は、神殿騎士となって3年以上。ですがヴェルド様の侍女はわたくし唯一人。
3年以上も神殿騎士として剣をふるってきたというのに、どうしてヴェルド様には他の侍女や侍従がいらっしゃらないのだろう。わたくしは幾度か質問しようか考えましたが、主の私的なことを探るのは侍女としてどうかと思い悩み、結局質問できずにいる今日です。
「お待たせいたしました。本日はフィス茶でございます」
「フィス茶、か。確か、隣国の特産品だったな?」
「はい。大司祭様から頂きまして、ぜひヴェルド様にと思いまして。……お気に召しませんでしたか?」
お茶を運び、ヴェルド様の前に差し出しました。熱いのが好みであるヴェルド様は、お茶もアツアツの者がお好み。
湯気がたっているお茶はソーサーのおかげで熱くはないけど、淹れたわたくしとしては、火傷をしないか心配です。
わたくしが淹れたお茶を、それはもう優雅としか言いようがない仕草で持ち上げたヴェルド様は、その香りを堪能してから、ゆっくりと口へと運んでいきました。
音も立てられることなく飲まれるヴェルド様は、わたくしが説明したそのお茶の品名に驚き半ば、後は別の感情半ばでしたので、もしかしたら気に入らなかったのでは、と不安になります。
カップから唇を離したヴェルド様は、一息つくと、わたくしに視線をうつしました。
「いや、美味い。いつもありがとう、アリエス。お前の淹れてくれる茶が何よりも癒される」
そう言って、少しだけ表情を緩ませるヴェルド様は、それはもう男前といいますかなんと言いますか。とにかく美しかったとしか言いようがないでしょう。
本日が休日だからか、いつもよりも砕けた服装のヴェルド様は、カップをソーサーへと戻すと、これまた優雅な仕草で窓の外に視線を移されました。
わたくしは顔を両手で覆って、どうにかして熱を冷まそうと必死だというのに、さすがヴェルド様。この熱の意味を分かっていて、余裕ですわ。
少しだけ空気が揺れて、ヴェルド様が笑っていることが感じられました。ヴェルド様が窓を開けたのでしょう、柔らかな風が室内を包みます。
神殿は優雅な絵画と、シャンデリア、さまざまな色彩が施され、騎士御所の内装も美しく整えられていますが、実はちょっと前までは窓には鉄格子がつき、神殿に仕える人々は気軽に神殿の外へは行けませんでした。
ですがこれも、時の聖女さまの働きかけにより、ちょっとした制限はもちろんありますが、望めば神殿の外へと行くことができ、自分が暮らす部屋にも自由に物を置いてもよくなりました。
事実、ヴェルド様の部屋には数多くの武器が置かれています。これは、ヴェルド様の実にも関わることではありますが、ヴェルド様は神殿騎士の中でもかなりの武闘派で、小さく分けられた班の長でもあります。
ですので、緊急時にすぐ動けるように、と数多くの武器があるわけでして。わたくしの後ろにある壁にも、煌びやかではありませんが、きちんと手入れがされている剣が3本、飾られています。
これは見かけは飾り用ですが、ちゃんと実践にも使える優れものだそうです。前にヴェルド様がこの剣をふるっていたな、と思い返すと、いろいろと懐かしくなります。
感傷に浸りそうになってしまうので、ならないように頭を振りました。だって、今更感傷に浸っても何にもならないでしょう?
わたくしがヴェルド様の方を振り返った瞬間、ヴェルド様も窓から視線を外したのでしょう。ぱちり、と視線が合いました。
何故か逸らしてはいけない、と何かが訴えます。正直なところ逸らしたいのですが、今逸らしたらあとで痛い目に合う気がするんです。
ヴェルド様は眼光がやけに鋭くて、だけどとても優雅な方だからあまり気にしてはいなかったのですが、こうして視線が合わさると、気になって仕方がないんです。
他の侍女や侍従仲間からは、我が主は猛獣のよう、といわれますが、わたくしは今まではそうは思っていませんでした。だってヴェルド様、本当はとってもお優しいんですもの。
さっきだって、わたくしの淹れたお茶が何よりも癒されるなんて、本当はあまりおいしくないでしょうに優しい言葉をくださる。
一度だって誰からも褒められたことのない、わたくしの、私の不器用なお茶を、おいしそうに飲んでくださる。それだけでとても、幸せなのですわ。
こうした一瞬の視線の交わりでさえも、わたくしのささやかな幸せなのです。ヴェルド様が気づいていないところで、こうして幸せを感じる。なんだか、いたずらに成功した気分だわ。
いまだに視線が逸らされることのないわたくしたちの間には、小さな優しさと幸せが行きかっているようにも見えるのです。
ヴェルド様の眼光は鋭くて、時々ひやりとしてしまうけれど、だってほら、目の前で微笑んでるヴェルド様は、何よりも美しく、やさしさに満ち溢れているんだもの。
そんなヴェルド様の視線を受けていると、なんていうのかしら、不思議な気分になるわ。どんな気分って、そうね、とっても、優しい気分。
「……休日、お前は家には帰りたくないのか、アリエス」
蕩けるような陽射しのなか、窓から降り注ぐ光の粒がキラキラと輝く昼のころ。ヴェルド様がそのお言葉を仰ったのは、ちょうどそんなときでした。
まるで何でもないような、世間話にも似たるこの会話ですが、実は聞いたら聞いたでとんでもない会話なのです。
だってわたくしたち侍女は、神殿騎士に仕え使われることに存在意義があり、暇を出されることとはつまり、役に立たないと判断されたからです。
わたくし、もしかしなくても今とっても大変、なのでは……? わたくしが淹れたフィス茶を、微笑み半分で飲み干すヴェルド様の姿を目に焼き付けながら、頭のなかでは悶々と考え続けます。
当たり前ですわ。だってわたくし、ヴェルド様に捨てられたら生きていけませんもの。これは重大な問題ですわ、と目の前のヴェルド様になんとお返事しようか迷いながら、内心では冷や汗が止まりません。
「アリエス?」
「っあ、はい。お、お気遣い感謝いたしますわ、ヴェルド様。ですがわたくし、二度と実家には帰らないと決めておりますので……」
「そうか。まあお前がそれでいいならば、俺は特に咎めるつもりもない。……だから、そんな泣きそうな顔をしないでくれ」
「え?」
あら、わたくしったら、何時の間にか泣きそうな顔になってしまっていたようです。
慌てて目元を覆い隠すと、ヴェルド様から隠しようのない柔らかい笑い声をいただきました。
「ヴェルド様?」
「いや、なに、お前の一挙一動を見るのは飽きないな、と思ってな。先ほどまでニコニコ笑っていると思えば、急に捨てられそうな子犬のような目をする」
捨てぬというのに、とクスクスと笑うヴェルド様。
きっと私の顔は真っ赤なのでしょう。だって、こんなに格好良い笑い方をするヴェルド様を、真正面から見てるんですもの。
真っ赤にならないなんて、できずにはいられませんわ。ああもう、どうしましょう。
指の隙間から除いていたわたくしは、ぎゅっと隙間なく指を閉じました。だって、少しでも隙間があったら見てしまいそうで、恥ずかしいじゃないですか。
ヴェルド様の柔らかな笑い声はいまだ続きます。もう、笑わないでくださいまし、と小さな声でヴェルド様に申しあげれば、少しだけ笑うのを止めて ―――
「実家に二度と帰らぬなら、そのまま俺のモノになるか、アリエス」
食べられてしまうかと、ヴェルド様の瞳を、唇を、その笑みを見て、一瞬でも思ってしまいました。
食べられてしまうなんて、そんなことあるわけないのにですよ? でも、そう思えて仕方なかったのです。
何時の間にか詰められていた距離に、まっすぐと私を射抜くヴェルド様とわたくしの間にはほんの数センチしか間がありません。
ヴェルド様の口元から微かに覗く白い八重歯が、きらりと光るのが見えました。
わたくしの頬に手を伸ばしたヴェルド様は、まるで壊れ物を扱うかのように、ゆっくりと撫で上げます。
「俺が怖いか?」
そう静かに聞くヴェルド様の視線は、わたくしから離れることはありません。
想像していた以上に大きな手に驚いて後退ってしまったから、それに対して聞いているんだろうな、なんて的外れなことを脳内で考えます。
本当はそんなこと、考えている場合ではないんですけれどね。だけどそう考えないと、心臓が壊れそうだったのです。
ヴェルド様の問いに、小さく首を振ることで返しました。わたくしより頭一つ分大きなヴェルド様。
頭上から聞こえてくる小さな笑い声に、ヴェルド様の纏う不思議な気が和らいだようにも感じました。
それで幾分か落ち着いたわたくしは、少しだけ視線を上へと上げると、動けなくなってしまいました。
なんでかって、そんなの、目の前のヴェルド様の所為ですわ。
だって、だって、不意打ちじゃあありませんか。
「なぁ、返事が欲しい。しないなら ―――」
しないなら?
いったいどうすると言うの、とヴェルド様の口元を見たその瞬間。
わたくしの頬に、耳に、熱い吐息がかかりました。
「無言は肯定だ。アリエス、逃げるのは今だ。ここで逃げないのなら、お前は俺のモノだ」
あまりにも熱っぽくって、あまりにも真剣に囁くものだから。
顔に熱が集まるのが解りました。今なら顔でお茶が湧かせますわ。
空いた手で服の裾を掴みました。何か掴んでないと、腰を抜かしてしまいそうだったんですもの。
「アリエス、お前も可哀想にな。俺なんかに惚れられて、縛られて、もう逃げられない。ごめんな、でも、手放せないんだ」
全身を包む熱の正体を、わたくしは考える余裕なんてありませんでした。
だってだって、こんな熱、初めてですの。男の人に口説かれるのも、優しくされるのも、手放せないなんて強く言われたのも、何もかもが初めてですわ。
いつもわたくしが想ってばかりで、本気で想われたことなんて一回もなくて、それでもいいって、かまわないって思ってきたのに。
どうしましょう。今のわたくし、きっと酷い顔をしてますわ。
あら、いやだ、目が熱くって、目の前が霞んでくる。
どうしましょう、どうしましょう。
「今は眠れ。起きたらきっと、凄いことになっているだろうがな」
クスリ、と笑ったヴェルド様の口元が見えて、それを最後に瞼の重さに耐えきれず、目を閉じてしまいました。
何やら唇に柔らかくて暖かいものが当たった気がしましたが、眠れと囁くヴェルド様の声に導かれ、そのままゆっくりと眠りへと落ちてゆきました。
「本当に、可哀想にな、アリエス。あの男の不義も、婚約破棄も、お前を手に入れるために俺が仕組んだことだと言ったら、どんな顔をするんだろうな。怒るか、罵るか、軽蔑するか? ――― それでも、お前を手放すことは永久にできない」
柔らかな光が踊る室内のなかで、だけど男の形相は恐ろしいほど暗く、狂気に満ちていた。